勉強のコツ

1、「最初は何でも言われた通りにやってみる」が自習力のカギ
①専門家を信じる
②授業は90%以上参加する
③予習すべきは英語と数学
④とにかくメモ魔になりましょう

2、「問題意識」を持つことが自学力のカギ
①「自習」ができるかどうかが大きな分かれ目
②知識量が増えれば自然におもしろくなる
③「自分の問題」としてとらえると学力が急激に増す
④疑問を持つと理解が深まる
⑤学力の本質は「論理的思考力(logical thinking)」にある
⑥「目で考える」(visual thinking)と論理力がアップする
⑦同時並行読書(parallel reading)は情報処理能力を高める
⑧比較読書(comparative reading)は分析能力を高める
⑨見出し読み(headline reading)は速読・多読を可能にする

3、「教えながら教わる」のが自教力のカギ
①他人の頭で考えると時間が圧倒的に短縮される
②まずは友達同士で問題を出し合うことから
③人に分かりやすく教えようと思うと「本当に分かる」
④「伝える」ことを前提に本を読むと、ポイントが早くつかめる
⑤時には他人に分かるように書いて知識をまとめてみる


1、「最初は何でも言われた通りにやってみる」が自習力のカギ

「自習力」とは「自ら習う力」です。物事を吸収して自分のモノにするにもコツがあるということです。

①専門家を信じる
 司法試験や公認会計士試験に大学3~4年生で合格する人達がよく話題になりますが、彼らの中で独学でこれを達成した人はほとんどいません。まず間違いなくと言っていいほど専門予備校に通い、「予備校に言われた通り、一生懸命やっただけです」という体験談がほとんどです。これはきわめて道理にかなったことで、まだ司法試験や公認会計士試験に合格したことのない人がいくらあれこれ考えてみても、ノウハウや情報が蓄積された専門予備校以上の勉強法を最初から実行できわけがありません。最初は右も左も分からないので、ただ何でも言われた通りにやってみるのが最も賢明だということになります。
 同じように大学受験でも各種試験でも、受験経験や合格体験が無い段階で、「いや、自分にはこの勉強法が合っている」「自分はこうした方がいいと思う」と言ってみても、それは「自分なりの考え」であって、「合格に向けて最も有効な勉強法」であるという裏付けがないのです。基本的に最短距離を行きたければ(何年かかってもいいんだという場合は別ですが)専門予備校や専門塾、プロ家庭教師などの専門家を利用し、最初は「授業に出ましょう」「英語・数学以外は授業中心主義で大丈夫です」「英語・数学が苦手であれば、中学校レベルから学ぶ補講にも出ましょう」「とにかくノートを取って、分からないことがあれば質問しましょう」「最初の1~2ヶ月はちんぷんかんぷんでも体を慣らすことが目的なので、とにかく授業に出続ければいいんです」といったアドバイスを受けると思いますので、とにかくそれを信じてその通りやってみることです。基本的に「できそうもないこと」がアドバイスされるはずはないので、「言われた通り」できないのであれば、「それ以上のこと」をやることはまず不可能と言ってもいいでしょう。

②授業は90%以上参加する
 専門予備校や専門塾、プロ家庭教師などの専門家を利用する上で最も重要なものは「授業」と「情報提供」になります。特に学力をつける上では授業は皆勤を目指すべきで、最低でも90%以上出るように頑張るべきです。また、1~2度休んでしまうと来づらくなってしまいがちですが、「分からないからこそ授業に出るんだ」と割り切って、仮に長期欠席していたとしても、いつからでもどこからでも授業に出るべきです。ただ先生がしゃべり、板書する内容をノートするだけでもそれが3ヶ月、半年、1年と続いてくると相当量が蓄積されてきます。受身の姿勢でもこうなってくるので、授業は参加しないとソンだと思い切りましょう。また、先生に対して「こうして欲しい、ああして欲しい」といった要望などがあれば、直接言いづらい場合は事務局に言えばいいのです。
 また、授業に遅刻するのはもったいない限りです。大体、どんな授業でも最初に1番大切なことを言うものです。「最初」を逃すことは限りなくもったいないことなのです。授業開始時間に間に合わないということを日常的に重ねていると、本番の試験時間に間に合わないことすら起きてきます。勉強の進み具合といったことに「完全主義」は禁物ですが、「授業に90%以上参加する」「授業に極力遅刻しない」といったことはむしろ「こだわるべきこと」なのです。

③予習すべきは英語と数学
 暗記科目であれば、基本的に「授業中心主義」で問題ありません。何度も何度も基本から応用までリピートしていくという授業に出続ければ、1~2回出席できなかったとしても致命的になることはなく、本当に重要な内容は繰り返し出てくるので、反復の回数によって定着度は増してくるからです。ところが、英語だけは授業に出て初めてその単語を目にするという状態だと、吸収率はぐっと下がってしまいます。元々覚える内容が膨大なので、いくらポイントをしぼるとしても、やはり事前に予習をして、知らない単語は一通り辞書で調べておく、分からない文法事項は文法書で調べておくぐらいのことはしておくべきです。同様に数学も「予習中心主義」を基本的スタンスにすべきでしょう。同じ授業に出ても、定着度、吸収率、勉強効果が格段に変わってくるのは、この授業に出る前の準備によるということになります。「仕事は段取りで決まる」と言いますが、英語と数学に関してはまさにこれが当てはまります。
 実際、英語と数学に関しては事前に質問が出てもいいぐらいです。「予習したけれどもここが分からなかった」「どうしてもここの意味が通らない」といったことが事前に詰められていれば、授業はそれを中心に確認する「復習」の場となりますし、待ち切れなければ授業の前に聞けばいいのです。

④とにかくメモ魔になりましょう
 授業でノートをあまり取らない人もいますが、これはいけません。その場では「フン、フン」と納得したことであっても、3日後、1週間後、半年後にどれだけ覚えているかと言えば、ほとんど残っていないのが現実です。「未来の自分を当てにしない」という基本姿勢で、大事だと思ったことは片っ端からノートに書いていくべきです。こうした「とにかくメモを取る」という姿勢は、授業のノートに限らず、有益情報をこぼさないための最低条件なのです。
 しかし、人によっては書くのがゆっくりで、全部書ききれないという人もいるでしょう。実は「書くスピードが遅い」ということは「情報処理のスピードが遅い」ということに他なりません。したがって、書くスピードが遅い人は読むスピードも遅いものです。訓練して書くスピードを上げましょう。それがそのまま情報処理能力を高めることにつながってきます(読書や英文解釈なども一種の情報処理に他なりません)。

2、「問題意識」を持つことが自学力のカギ

自学力とは「自ら学ぶ力」です。「問題意識」を持つということは自分と物事との関係において、自分の目的意識、自分にとっての意義を明確にするということです。また、勉強においては「疑問を持ちつつ学ぶ」という姿勢が理解を深めます。

①「自習」ができるかどうかが大きな分かれ目
 一般的に「1人で学ぶこと」を「自習」と言いますが、実はこの「自習」ができるかどうかは決定的な分かれ目になると言ってもよいでしょう。同じ「勉強ができない」というレベルでも、「自習もできない」人はレベル0、「自習は一応できる」人はレベル1ということになります。この2人の差はわずか1しかありませんが、レベル0の人はどこまで行っても0のままであるのに対して、レベル1の人は時間さえかければレベル50にもレベル80にも進化・発展していくことができるのです。レベル50の人とレベル1の人の学力差は49もありますが、この差よりもレベル0とレベル1の「1の差」の方が大きいのです。つまり、「自習ができるようになれば、学力向上はほぼ約束されたようなもの」なのです。
 環境的な問題で言えば、「生活空間」としての家と「勉強空間」としての予備校・塾をはっきり区別して、予備校・塾へは「勉強しに行くんだ」というケジメをきちんとつけることが肝心です。はっきり言って家でも変わりなく相当集中して勉強ができる人というのは、学力上の不安は全く無いと言ってもよいでしょう。ほとんどの人はそうではありません。また、予備校・塾に通っていない人はわざわざこの「勉強空間」を確保するために、朝8:30くらいから図書館に並んで、必死に場所取りをしているのです。予備校・塾へ通っている人は最大限そのメリットを行使すべきです。自習室で勉強し、分からなければ質問に行き、疑問があれば相談し、必要があれば情報提供を受ければいいのですから、これを目いっぱい活用しない手はありません。特に英語や数学であれば、授業の前に予備校・塾へ行ってその日の「予習」をし、授業が終わっても少し残って次の日の「予習」をしたり、あるいはプラス・アルファの「自習」をするとよいでしょう。

②知識量が増えれば自然におもしろくなる
 勉強はたいてい無味乾燥なものですが、それをおもしろくできるかどうかは、その分野に興味・関心を持つこと、理解できることが増えることにかかっています。つまり、知識がほとんどないのに興味津々ということはなく(もしもあるとすれば、ただの「あこがれ」でしょう)、逆にどんなに無関心だった分野でも、知っていることが増えてくれば、自然に「おもしろさ」が感じられてくるものだということです。
 例えば、「It’s Greek to me.」(それは私にとってはギリシア語みたいなもんだ、私にはチンプンカンプンだ)というシェークスピアが作った有名な言葉があるように、ギリシア語が好きでしようがないという人は実に限られているでしょうが、「複雑系の出発点となったカオス理論はギリシア神話に出てくるカオス(混沌)から取ったんだって」「地球を1個の有機体と見るガイア仮説もギリシア神話のガイア(大地)から取ったそうだ」「日産の車のタイタンもティターン(巨人)に由来している」「フロイトが唱えたエロース(生の本能)とタナトス(死の本能)もギリシアの神々に着想を得ているんだよ」などといった知識が増えてくると、ギリシア神話が西洋文明にもたらしているインパクト、ギリシア語の影響力といったものに自ずと関心が芽生えてくることでしょう。
 あるいは英語の代名詞を学ぶ際に出てくる「格(ケース)」(主格・所有格・目的格の3つがあります)といったものがありますが、これがおもしろくてたまらないと言う人はまずいないでしょう(そんなマニアックな人には近づきたくないと思いませんか)。ところが、ドイツ語(その直系先祖であるゲルマン祖語は英語の先祖でもあります)には格が4つあり、さらにラテン語(かつて東アジア世界では漢文が世界共通語であったようにヨーロッパではラテン語が世界共通語でした。ここから各国語が出てきたわけです)には格が5(6)つ、ロシア語(ヨーロッパは大きく分けて、ラテン語<ロマンス語~フランス語・スペイン語・ポルトガル語・イタリア語など>・ラテン民族・ローマンカトリック、ゲルマン語<ドイツ語・英語・オランダ語・スウェーデン語など>・ゲルマン民族・プロテスタント、スラブ語<ロシア語・ウクライナ語・ブルガリア語・ポーランド語など>・スラブ民族・ギリシア正教という3つの主要な言語・民族・宗教のグループがあります)では格が6つ、サンスクリット語(インド・ヨーロッパ語族と呼ばれるようにヨーロッパ人もインド人も元々同一の言語を話していたとされます。この幻の言語を「印欧祖語」と言い、その探求はヨーロッパ系言語学者にとっては究極のロマンとなっています)では何と格は8つもあったそうです。つまり、中央アジアから西進していくうちに「格」はどんどん単純化していったということです。これは「言語は単純化する」という原則を表わしてもいますし、あれほど苦手に感じていた英語は実はヨーロッパ言語の中では単純な部類に入ること(だから世界共通語としてもふさわしいとも言えます)、そしてこれからもっと単純化が進行する可能性があること(黒人英語、クレオール英語などもそういう傾向を示しています)も分かってくるでしょう。ここまで知識が増えてくると、あれほど無味乾燥だった「格」が実に興味深い存在になってくるわけです。
 「勉強を面白くするためのもう一つの方法は、知識を増やすことである。
私は、国内線の飛行機で外を見るのを、いつも楽しいと思っている。しかし、窓際に座っていながら、景色に全く無関心の人もいる。生まれつき好奇心が弱い人もいるだろう。しかし、それだけではない。窓の外の景色に興味がないのは、その土地を知らないためか、上空から地理を識別できないためであることが多い。よく知っている土地なら、だれでもそれを上から眺めてみたいと思うだろう。一般に、ある程度知っていることについて新しい情報が得られると、興味を抱く。
 つまり、知識が増えると、興味もます。そして、より深く学びたくなる。例えば、旅行で訪れた土地の歴史や地理について知識を持っていれば、他人が見過ごすものも見える。そうなると、さらに深く歴史や地理を学びたいと思うだろう。また、あることに興味を持つと、それに関連したことにも興味を抱くようになる。
このように、興味と知識は、連鎖的に広がる。勉強において、このような連鎖を広げてゆくことが重要だ。」(『「超」勉強法』野口悠紀雄、講談社)

③「自分の問題」としてとらえると学力が急激に増す
 では、まだ興味・関心が強く生じるほどには知識の蓄積が至ってない場合はどうすればいいのでしょうか。ここで重要なことは、どの段階でも将来性・必要性を考えて意義を確認することがやはり必要だということです。例えば、英語の勉強自体はつまらないとしても、「大学受験を考えればやっぱり英語をやっておかなければ」「将来のことを考えると英語ができるようになりたい」といった意義を確認すれば、耐えることができるでしょう。そして、ある程度、知識と理解が深まってくれば、興味・関心も生まれ、それ自体をおもしろく感じることも出てくるのです。つまり、つまらない勉強ほど「自分にとっての意義と価値」を確認する必要があるということです。
 人間にとって最も苛酷な刑は「無意味なことを繰り返しやらせること」だと言います。例えば、朝から晩まで穴を掘らせ、掘ったらまたそれを埋め直させる。これを繰り返させていくと、どんな人でもネを上げるというのです。逆にどんなにつらくてもそれに「意義」を見出せれば、人間は耐えていけるとされます。つまり、「問題意識」の出発点は「(自分にとっての)意義と価値(の確認)」にあると言ってもよいでしょう。行動科学的管理論を唱えたアメリカ人学者マクレガーは「人が献身的に目標達成に尽くすかどうかは、それを達成して得る報酬次第である」と述べています。
 わずか1年半の教育で国家的人材を驚異的に輩出した松下村塾の吉田松陰は、村塾にやって来る青年に対して、「あなたは何のために学問をしようと思うのですか」と尋ねるのが常であったと言います。実際、外国語学習や留学の準備などでも、「何のためにこれをやっているか」という目的意識が明確であればあるほど、その達成は早いとされます。さらに、松下村塾の教育における最大の特徴は、「自分に引きつけて読む」ということでした。「自分だったらどうするか」という「問題意識」で学ぶ時、きわめて短期間に力が付いてきたというわけです。
これは独創的な業績を生み出してきた京都学派の学風にも通じるところがあります。京都学派には「フィールドワーク」の伝統がありますが、その本質は「自分の足で歩き、自分の目で見、自分の頭で考える」ということです。つまり、どんなに偉い思想家だろうが、大学者だろうがクソ食らえというわけで、「マルクスはこう言ってます、フロムによりますと・・・」などと権威を頼ろうとすると、「アホか、そのオッサンが何やと言うんや!お前はどう思うんや!」で終わりです。それに対して、若手の研究者が「アフリカに行って、原住民の集落でしばらく暮らしてきましたが、彼らはこんなもん食ってました」などと言うと、拍手喝采、「そりゃすごい!」というわけです。外なる権威に合わせるのではなく、内なる価値観、問題意識にこそ重きを置くべきで、「学問の本質」はまさにここにあるのです。ちなみに代表的フィールドワーカーであった今西錦司(ダーウィンの進化論に真っ向から挑戦し、独自の「棲み分け理論」に基づく今西進化論を展開しました)に対する、同じ京都学派の重鎮達の評価を見てみましょう。
 「彼はアンチ“文化主義者”で、カント曰く、マルクス曰くといった引用をするインテリにはフンと横を向く。」(桑原武夫~共同研究システムによって「ルソー研究」などで業績を上げ、「俳句第二芸術論」で物議をかもし、人文科学研究所を独創的な研究な場に仕立て上げた人物です)
「つねに自分の目でたしかめた事実と、みずからの独創的な見解が尊重された。だれがどういっているなどという他人からの借りものの言説はもっとも軽蔑された。」(梅棹忠夫~民族学の第一人者で、情報経済学の提唱者でもあります)

④疑問を持つと理解が深まる
 さらに勉強の理解を深めるためには、「学んでいる内容に対して疑問を持つように心がける」、あるいは「心の中に湧いてくる疑問を大切にする」ということが欠かせません。丸暗記も当然必要ですが、同時に疑問を感じる感性が物事の理解を深化させてくれるわけです。
 例えば、「2本の平行な直線はどこまで行っても交わらない」ということはユークリッドの定義以来、当たり前のことだとして誰も疑問に感じませんでした。「そもそもどこまで行っても交わらないから平行と言うんじゃん、こりゃ定義だぜ」と思ってきたわけです。ところが、「交わることもある」と考えた人がいたのです。実際、地球のような球面上では2本の平行な直線は両極で交わってしまいます。ここから非ユークリッド幾何学が生まれ、これが無かったらアインシュタインの相対性理論も生まれなかったのです。
 あるいは投資の世界でヘッジファンドが世界中で暴れまくっていた時、「株価が上がっても下がっても大儲けする」手法が注目されました。株価が上がれば儲かるというのは分かりますが、下がっても儲かるなんて不思議だとは思いませんか?これは別にヘッジファンドに限らず、伝統的な「空売り」をして、値が下がった所で安く買い戻せば差額分だけ利益が生まれる技術に他なりません。ただ、ヘッジファンドはデリバティブ(金融派生商品)取引を駆使して、レバレッジ(少ない投資資金で大きなリターンを実現する「てこの原理」のこと)を効かせるために利幅が大きくなるだけのことです。いずれにしてもこうした疑問を持つことが好奇心を刺激して、関心を高め、理解への意欲をかきたててくれることがよく分かることと思います。
 これは「自問力」とでも言うべきものであり、この自問力が強烈に強い人が独創的な業績を生むわけです。若きエジソンは「なぜ?なぜ?」と疑問だらけで、どうしても自分で確かめてみずにはいられなかったと言います(結局、エジソンは学校生活に合わず、ドロップアウトします)。また、数学におけるノーベル賞であるフィールズ賞(その難度はノーベル賞以上でしょう。大体、ノーベル賞受賞業績の意義なら、ジャーナリズムで何度も紹介されるうちにおぼろげながら理解できてきますが、フィールズ賞はさっぱり分かりません。一般のジャーナリストでも紹介のしようがなく、サイエンス・ライターでもこれを扱える人は限られます)を取った広中平祐博士などは、「問題と共に寝る」ところまで行ったと言われます。四六時中、その問題について考えをめぐらしているので、文字通り「寝ても覚めても」という状態だったというのです(アルキメデスが風呂のお湯がこぼれるのを見て「浮力の原理」を発見したり、ニュートンがリンゴが落ちるのを見て「万有引力の法則」に気付いたのも、潜在意識の力によるものであり、問題を寝かせておいたことが発見につながったとされます)。大体、「集中力」といったものは「集中、集中」と言ってできるものではなく、「何でだろう?」と疑問を感じ、あれこれ調べ、それでも分からず、いろいろと考えていく中で結果として生じるものであり、そうやって手間ひまかかった分、その知識はきわめて深く身につくのです。
 「専門書の読み方には、二通りあるように思います。その第一は、大体は「イエス、イエス」で読み、しかしどうしても納得できない箇所だけは「ノー」と言う読み方です。第二は、大体は「ノー、ノー」で読み、しかしどうしても納得せざるを得ない所だけは(やむなく)「イエス」と言う読み方です。そして私は、ケインズの著書であれ、ヒックスの書物であれ、みな、この後者の読み方で読んでおります。」(高田保馬~日本人でノーベル経済学賞候補たる力量を認められた人物として、高田保馬、安井琢磨、森嶋通夫の3人がまず挙げられます)

⑤学力の本質は「論理的思考力(logical thinking)」にある
 「英語の勉強は単語の暗記から」「最終的に英語力はボキャブラリー(語彙=使いこなせる単語・熟語の量)で決まる」とはよく言われることですが、ここには隠れた大前提があります。それは「個々の知識を体系化する力」、すなわち「論理的思考力」が必要とされているということです。いろいろな糸(素材)をたくさん集めれば、きれいな服をたくさん作ることができますが、ただ集めただけではダメで、それらを編まないと服にはならないわけです。この編み棒(あるいは織機)に相当するのが「論理的思考力」なのです。英語でもある文章を読む時に最も困難が生じるのは、個々の単語・熟語の意味が分からないケースではなく(辞書で調べればおしまいです)、文法事項が分からないケースでもなく(文法書で確認すればおしまいです)、「個々の単語・熟語も文法も分からない所はない、でも全体の意味が分からない」というケースなのです。
 例えば、「I is ninth.」という短い3単語からなる文章を見た時に、どう理解するでしょうか?「I 」は「私」、「is」は「です」、「ninth」は「9番目の」ですから、中学生でも知っている単語です。ですから、「私は9番目です」という意味かなあと思って、「9人兄弟で9番目なのかな」「順番に並んでいて9番目に立っているのかな」などといったイメージが湧くことでしょう。ところが、文法を知っている人であれば、「でも、それならI am ninth.になるはずだ」とすぐに疑問に感じます。この文法の知識も「3単現(3人称単数形現在)のs」に該当するもので、やはり中学校1年の英語の学び始めに覚えます。「何か変だなあ~」と感じるところですが、ではこの文章が文法的に間違っていないとしたらどうでしょうか?まさしく、「個々の単語・熟語も文法も分からない所はない、でも全体の意味が分からない」というケースですね。
 論理的に考え詰めると、結論はどう考えても「このIは私ではない」ということになります。すなわち、「Iは9番目です」ということです。では、これは何を意味するのでしょうか?「誰がどう見ても納得するただ1つの答え」とは「IはアルファベットでA, B, C, D, E, F, G, H, Iと9番目に来る」ということです。ここまで読んできてピンと来る人は、「論理的思考力」の本質をつかんだ人です。
 実は、この「誰がどう見ても納得するただ1つの答え」こそが英語でも数学でも国語でも試験で問われていること(客観的問題)なのです。「人の数だけ答えが存在する」ような問題(主観的問題)は学力試験では問うことができません(それをするとしたら「人間性」を見る小論文か面接ということになります)。学力試験は「能力の差」によって「落とす人を決める」ために行なうのですから(「定員割れ」していれば、全員入れるしかありません。「試験の本質」は「落とすこと」にあるのです)、客観的に1つの答えに決まる難しい問題を出して、どれだけ解答に迫れるかを「能力(論理的思考力)の差」として評価するわけです。つまり、このことに気付けば、英語も数学も国語も全て伸びるということになります。英語ではある英文を読ませて(英語の主戦場は英文解釈です)、「あるテーマに関して筆者はどういう論拠を元にどこまで論理展開をして、どういう結論に至ったか」を問題という形式で問いますし、数学ではある問題に対して1つの答えにどれだけ迫れるか、国語では評論(国語の主戦場はここです)などを読ませて、「あるテーマに関して筆者はどういう論拠を元にどこまで論理展開をして、どういう結論に至ったか」をどれだけ把握できたかを見るのです。したがって、基礎的な知識を吸収している段階(素材をそろえる)を過ぎれば、どの科目も「論理的思考力」(個々の知識を体系化する能力)が問題になるのであって、英語・数学・国語といった主要科目でどれかが極端に苦手ということは本来あり得ないということが分かるでしょう(「学力の本質」が「論理的思考力」にあることに気付かなければ、科目ごとに個々の知識の寄せ集めがあるに過ぎません)。

⑥「目で考える」(visual thinking)と論理力がアップする
 論理の力をアップさせるキーワードは「一言で言えばどういうことか」「端的に言えばどういうことか」ということですが、これは「概念」(短い言葉の中にたくさんの内容が圧縮されたもの)を駆使することに他なりません。だから、「漢字力は国語力を左右する」(例えば、漢字をあまり知らない人が高度な内容を考えることは難しいのです)とよく言われるわけです。
 では、そのためにはどうしたらいいかというと、それは「目で見て考えるようにする」ということがコツとなります。ちょっとした問題でも頭の中で整理して考えを進めていける人は、なかなかいるものではありません。何でもかんでも書いてみて、図示して整理するクセをつけると、驚くほど論理力がアップしてきます。
実際、抽象論理の代表である数学でも、方程式をグラフで表わすと、視覚的になってイメージしやすく、理解がグッと深まることは誰でもよく経験することです。そして、こういう「視覚化」(visualization)に慣れてくると、それを頭の中でできるようになり、こうなってくると議論や面接、問題整理などに強くなってくるのです。

⑦同時並行読書(parallel reading)は情報処理能力を高める
 読書は勉強上欠かせないことですが、同時並行で数冊読むことが情報処理能力を知らないうちに高めてくれます(知識が増えてくれば、「速読」も自然にできるようになります)。昔から「三上(さんじょう)」といって、馬上・枕上(ちんじょう)・厠上(しじょう)の3つの場所は、考えをまとめたり、文章を練ったりするのに最適な場所とされてきました。現在なら、「馬上」は「車上」(通勤・通学途上の車中)になるでしょう。実際、資格試験や事業の成功者の体験談を読むと、必ずと言っていいほど「ハンパ時間の活用」を挙げていることに気が付きます。「勉強したいけれどなかなか時間が取れない」というのではなくて、「時間を作り出すもの」、それこそ「5分、10分といったハンパ時間なら1日のうちに無数に転がっている」という考え方をしているわけです。
 例えば、カバンに必ず1~2冊の本を常に入れて、移動時間中に読むわけです。ある調査によれば、サラリーマンが最も読書に集中できる時間が、何と「通勤時間」だということです。けっこう騒音も話し声もあるのに、周りを気にして神経質になることはまずありませんから、集中しやすいのでしょう。これがために、わざわざ帰りに山手線を1周して読書している人もいるほどです。できれば飽きた時の気分転換のために、別ジャンルのものを2冊以上持ち歩くとよいでしょう(少なくとも1冊は文庫か新書にしておけば、カバンに入れずともポケットに入れて持ち歩けます)。ちなみに「読むスピード」は「座っている」時より「立っている」時の方が早く、さらに「歩いている」時の方がもっと早くなることが知られています。
 また、トイレの中に簡易本棚をセットすれば、1日数回、ハンパ時間を読書に当てることができるでしょう。1冊を読み切るのに2週間かかったとしても、1年間で26冊読破してしまうことになることにお気付きでしょうか?簡単な本でパラパラ読めるものなら、50冊くらいいけるかもしれません。大体、どんな分野でも10冊くらい読めば、その分野の輪郭が大体つかめてくるものです。20冊くらい読めば、もう新情報をチェックするだけでいいことでしょう。
同様に「寝る前はこの本を読んで、眠くなったら寝よう」というマイ・ルールを決めておけば、1日数ページでも1年を通してみればけっこうな量になっているものです。一昔前の学園ドラマ・受験ドラマで、部屋の壁という壁、トイレの壁にいたるまで英単語を貼りまくるという場面がよく出てきましたが、こんなウンザリする生活はありません。それよりは通学・通勤電車はこのジャンルの本を読む時間と空間、トイレはこのジャンルの本を読む時間と空間、ベッドはこのジャンルの本を読む時間と空間と分けておくと、1日わずか5分の差が1年では5分×365日=1825分≒30時間という巨大な差となってはねかえってくるのです(もしも5分のハンパ時間を1日10回活用している人なら、1年で300時間活用することになるのですぞ!)。
 また、「英語がとにかく苦手なんです」「英文が早く読めないんです」と嘆く人は実に多いのですが、英語の勉強に当てている時間の絶対量が少なすぎるケースがほとんどです。こういったハンパ時間も活用して、英語の知識を増やすための時間をとにかく増やすべきでしょう。主婦でもビジネスマンでも、テキパキと物事を進めていく人は、間違いなく「同時並行処理」を行なって、「時間の密度」を高める工夫をしています(洗濯が完了するまで洗濯機の前でずっとそれを見ている主婦はいませんし、炊飯器でご飯が炊ける間におかず作りを進めるでしょう)。勉強も「単線型」で行なうのではなく、「複線型」で行なうのがコツなのです。

⑧比較読書(comparative reading)は分析能力を高める
 ところで、読書は量の確保も必要ですが、その効果も考えて、質を高めることが重要です。ここで有効なのが複数の情報源を持つことでしょう。例えば、新聞を1紙だけでなく、論調の異なる2紙を取ると、1つの事件に対しても2つの見方があることを知ります(1紙だけだとまずその意見をうのみにしてしまいがちです)。具体的には読売新聞と朝日新聞、読売新聞と日本経済新聞、朝日新聞と日本経済新聞などといった組み合わせが考えられるでしょう。さらに読売新聞とデイリー・ヨミウリ、朝日新聞とヘラルド朝日といった組み合わせですと、日本語表現と英語表現の対応や記事の扱い方の違いについても知ることができるでしょう。
 同様に英字週刊誌でも、タイムとニューズウィークを同時に購読すると、物事に対する見方や知識が多様になってきます(タイムはけっこう企画にこだわっており、ニューズウィークは相当タイムを意識しているので、対抗企画をよく打ちます。パクリもありますね)。また、タイムとエコノミストを同時購読すれば、タイムは写真誌・ビジュアル誌としか思えなくなりますし(けっこう読者にこびています)、エコノミストは反対に文字ばかりですが、イギリス英語の持つ「センス」に嫌でも気づかされていくでしょう(タイムを悪く言う人はいても、エコノミストを悪く言う人は滅多にいません)。あるいはニューズウィークの日本語版と英語版を同時購読すると、日本語版スタッフの言語能力の高さを知ることができるでしょう。
 つまり、情報源が少ないと判断材料が少ないので、その情報をそのまま「そういうものか」と受け止めるしかありませんが、情報源が複数になってくると、別に比較するつもりがなくとも、ただ読み流していくだけで多角的な見方が可能になってくるのです。したがって、通常の読書でも、1つのテーマに関して複数の本を読んでいくことが望ましいわけです。これが「比較読書」と呼ばれる手法です。

⑨見出し読み(headline reading)は速読・多読を可能にする
 ところで勉強を飛躍させるためには、速読・多読の技術が必要となってきます。これは「情報処理=ポイントをピックアップし、不要なものを捨てる技術」に他なりません。「ポイントのピックアップ」に照準を当てればスキミング(ざっと読み)・スキャニング(探し読み)ということになりますし、「不要なものを捨てること」に照準を当てれば「捨てる技術」となります。大体、情報処理が不可欠であるような人の仕事術は、「自分が書いたり、話したりするのに、直接必要な限りにおいて、拾い読みをする」というのが当たり前になっていると言えるでしょう。
 そのために具体的に何をしたらいいかというと、それが「見出し読み」です。特に英字新聞・英字雑誌の場合、まずその英語量に圧倒されてしまいがちですが、個々の記事を一言で言い表わしているのが「見出し」に他なりません。そして、それに補足説明を加えたのが「リード文」です。さらに英字新聞は特に顕著ですが、知識が全く無い人にその内容を伝えることを念頭に置いているので(だから記事が長くなるのです)、最初のパラグラフになるべく全体説明が来るようにしています。したがって、「見出し→リード文→第一パラグラフ」の順に読んでいけばその記事が何を言わんとしているかがつかめるのであり、この段階で興味が湧かないものは関心が無い記事として読むのを打ち切り、理解できないものは今の自分のレベルを超えている記事として切り捨てればいいのです。例えば、タイムを隅から隅まできちんと読もうとすれば1日あっても無理でしょうが、見出しだけざっと読むだけなら30分でも可能です。そして、その中で興味を引くものがあれば、リード文や第一パラグラフを読み、そこで面白いと思えたら、全文を読めばいいのです(大体、タイム1冊の中に面白い記事(内容・フレーズ)が1個あればいい方です。この1個のためにこの1冊の意味があったと考え、コピーしてさっさと捨てましょう)。
 本でも同様です。いわゆる「読書家」と呼ばれる人達は、1ページずつ前から順番にきっちり読むようなことはしていません。表紙・裏表紙・オビを読み、前書き・目次・解説を読んで、まずその本の全体像をつかんでいるはずです。こうして全体像をつかんだ上で、ざーっと読み始め、おもしろそうな所はじっくりと考えながら読むのです。つまり、速読・多読はこの「ギア・チェンジ」(読書スピードを必要に応じて自由自在に変えること)ができるかどうかにかかっているのであり、そのための第一歩が「見出し読み」にあるということです。

3、「教えながら教わる」のが自教力のカギ

「自教力」とは「自ら教え、教わる力」のことです。インプットだけでなく、アウトプットを心がけることが勉強の成果を飛躍させます。

①他人の頭で考えると時間が圧倒的に短縮される
 実は「他人の頭で考える」「他人の頭で勉強する」ことはきわめて有効な勉強方法です。ある流行本を読むのに3日もかかるとしたら、それをもう読んだ人に「どうだった?どこがおもしろかった?」と聞けば、10分ぐらいでポイントを教えてくれるでしょう。分からない科目は先生でも友達でもとにかく分かっている人に聞くのが一番早い方法です。
逆に自分の頭を他人のために使ってあげることも、相手の時間を短縮してあげるばかりでなく、自分にとってプラスになります。インプットばかりしていると、だんだん吸収力が落ちてきますが、アウトプットを時々するように心がけると、吸収する器そのものが大きくなっていくのです。自分が知っていることでも、人に説明しようとするとあれこれ考えざるを得ません。これによって自分の考えも整理されることになります。実は「教えること」はそのまま「教わること」に他ならないのです。吉田松陰もある入塾者が「謹んで教えを乞います」と師弟の挨拶をしたところ、「私は教えるということはできません。しかし、諸君とともに講究しようではありませんか」と応じたと言います。

②まずは友達同士で問題を出し合うことから
 ところで、「人に教えつつ教わる」といっても大それたことではありません。その一番素朴な形は友達同士で問題を出し合うことでしょう。クイズのように楽しくやっていけば、つまらない勉強も意外におもしろくすることができます(例えば、「英単語のしりとりゲーム」などがあります)。「人に問題を出す」「人に対して分かりやすく説明をする」ということは、簡単なことのようですが、意外に難しく、自分自身の勉強になるものです。場合によっては、「これはどういうことなんですか?」と先生に質問に行って、教えてもらった内容を、「それはこういうことなんだよ」と友達に教えてあげることも効果的でしょう。普通の友達関係の中でいきなりこれをやるのは変ですが、予備校でなら皆勉強しに来ているわけですから、いくらでも可能なはずです。
 「教えることによって学ぶということもある。家庭教師をやった人には、すぐにわかるだろう。教えるためには、内容をよく理解していなければならない。また、ミエも働く。教える立場になれば、あとに引けない。だから、クラスメイトに教える立場に自分をおくことは、大変よいことだ。
文章を添削しあうのもよい。自分の間違いを指摘してもらうだけでなく、他人がどのような間違いに陥りやすいかもわかる。」(『「超」勉強法』野口悠紀雄、講談社)

③人に分かりやすく教えようと思うと「本当に分かる」
 例えば、20人の英語のクラスで1年間学んだ場合、最も実力アップするのは一体誰でしょうか?自習もできる成績のいい上位層でしょうか、それとも授業の照準を当てられやすい中位層でしょうか、はたまた救済措置がしばしば取られる基礎学力に不安を抱えた下位層でしょうか。いやいや実は最も実力アップするのは「先生自身」なのです。このことに気付いた人は、何とかして「教える機会」を持とうとするものです。これはどの科目にも当てはまることで、分かりやすく教えようとすると、理解が根本的に深まるのです。そもそも本当に分かっていないと、誰にでも分かるように教えることは不可能です。特に「デキる人」を教えるのは簡単なことですが、「デキない人」を「デキる」ように教えることは、最高の「自教力」を生むのです。
 もちろん、簡単に説明するには難しいものもありますが(例えば、「フェルマーの最終定理」を簡単に説明してと言われても困るでしょう)、一般的には「素人・門外漢に分かりやすく説明できないことは、本当には分かっていない」「相手が分かりやすいようにかみ砕いて説明できるほどには分かっていない」ということですね。長野県の田中知事が「おばちゃんでも分かる言葉で説明してくださいよ」と県庁の役人にしきりに要求していましたが、この観点は実に大切なことなのです。

④「伝える」ことを前提に本を読むと、ポイントが早くつかめる
 本を読んでいて、「これはスゴイ!」などと思ったりすると、「早速、誰かに教えてあげよう」と思ったりします。実はこういう意識で本を読むと、重要なポイントを的確にとらえていくことができるようになるのです。「この本のこことここは面白い。これは衝撃的な事実だ。これをこんな風に言えば、きっとびっくりするぞ」と考えながら読むということは、それを聞く側の人の反応を想像しながら、読み進めていくことに他なりません。つまり、どこがおもしろく、どこに意義があって、それをどうまとめて、どう伝えれば、一番インパクトが増すか、と考えているうちに、知らず知らず、分析・判断・加工・表現といった訓練が行われているわけです。したがって、サービス精神旺盛な人ほど自己成長も豊かになされていくのです。

⑤時には他人に分かるように書いて知識をまとめてみる
 アウトプットはインプットの器を拡大する上で不可欠ですが、直接人にしゃべったり、教えたりする以外に文章を書くという方法があります。実は、「書く力」は「言語能力の集大成」(「聞く」「話す」「読む」の最後に来る)とも言えるもので、例えば英語がペラペラのアメリカ人でも優れた書き手であるとは限らないように(同様に日本語がペラペラの日本人でも優れた日本語文章の書き手であるとは限りません)、訓練しないととても他人が読んで理解・評価に耐えるものとはなりません。したがって、こうした訓練を重ねていくと、逆に書き手の論理展開もはるかに理解しやすくなり、問題文の理解や読書のスピードアップにもつながっていくのです。
例えば、現代文の評論の読解では筆者の意見を論理的に理解していく必要がありますが、小論文はこれと逆の作業を行なうので、小論文の練習をしていくと現代文の読解力も増してきます。また、英語の勉強は本格的に開始しても最低半年は芽が出ない(いわゆる「出来る気がしない」期間です。この不毛な期間の存在をあらかじめ知っていないと挫折する確率は高くなります。英語の勉強に挫折するのは、ほとんどがこの「半年の落とし穴」の時期に当たります)ものですが、これを3~4ヶ月に短縮しようと思えば「英作文」の練習をする以外にないのです(もっと早めたければ英語圏で英語のみ生活に浸ることしかありません)。
 「かつて明治の文豪・高山樗牛(たかやまちょぎゅう)は「文は人なり」と喝破したが、これは千古の真理であるといってよい。頭のよい人の書いたものはすっきりしているし、キザな人の書いたものは派手だが深みに乏しい。誠実な心の持主の文章はやはり重厚さがにじんでいるし、偏狭な心の持主の文章は、どことなくがつがつした感じを受ける。 他人にわからないような文章を書く人は、実は当人にも、書いた内容がほんとうにわかっていないのだ。ある特定のグループにしか通用しないような字句を使って得々としている人は、その字句に自分だけが酔っているにすぎない。 身ぶり手ぶりの話し言葉では人をだますことはできても、書かれた言葉で人をだますことはできない。その意味で、文章はまさに人なのである。」(『サラリーマンのライフワーク』吉野俊彦~日本銀行調査局で鍛え抜かれたエコノミストで、100冊以上の著書があり、森鴎外研究を始めとする文芸評論においても卓抜した業績を挙げています)