ダンテ『神曲』を読んでボキャブラ・アップ


ダンテ 『神曲』地獄篇 第1歌

~「比較文学」を通じて「英語力」をアップし、「ヨーロッパの伝統と教養」を学ぶ~

(1)
【C.H.Sisson英訳】
Half way along the road we have to go,
I found myself obscured in a great forest,
Bewildered, and I knew I had lost the way.

【Mark Musa英訳】
Midway along the journey of our life
I woke to find myself in a dark wood,
for I had wandered off from the straight path.

【野上素一和訳】
私たちの人生行路のなかば頃
正しい道をふみはずした私は
一つの暗闇の森のなかにいた。

【平川祐弘和訳】
人生の道半ばで
 正道を踏みはずした私が
 目をさました時は暗い森の中にいた。

【語句】
obscure=~を覆い隠す、暗くする、曇らせる。(人の)光輝を奪う、(人を)顔色なからしめる。
 vague=(言葉・観念・感情など)漠然とした、あいまいな、はっきりしない(⇔distinct)
 ambiguous=不適切な表現のために2つ以上の解釈が成り立ち、あいまいである。
 obscure=表現が不的確で、またはあるものが隠されていて不明瞭な。
bewilder=当惑させる、うろたえさせる。通例受身で用い、「当惑する」「まごつく」の意になります。
 be embarrassed=恥ずかしさ・不安な気持ちで当惑する。
 be baffled=まごついたために適切な行動が取れない。
wander=迷う、迷い込む。本道からそれる、横道にそれる、邪道に踏み迷う。あてもなく歩き回る、さまよう、放浪・流浪する、ふらつく。
 wander=目的・道順なしにぶらぶら歩く。
 ramble=一定のコース・目的などを定めずに歩き回る。
 roam=自由気ままに、またしばしば広い地域を歩き回る。
人生行路のなかば頃=35歳。『旧約聖書』詩篇第90章10節に「我らが年を経るは70歳に過ぎず」とあり、プラトンの『饗宴』第4章23~24節にも、人間の最盛期は35歳と出て来ます。したがって、ダンテ(1265年生)が彼岸旅行に出発した年は、1300年の復活祭の聖金曜日(3月25日か4月5日)と推定されます。
暗闇の森=「暗闇の森」が恐ろしいのはそこに「地獄の入り口」があるからです。

【解説】
「開巻第一の長詩の一聯、『われ正路を失ひ、人生の覊旅(きりょ)半ばにありて、とある暗き林のなかにありき』云云は、ファウスト開巻の独白と同様に、続いて起る物語の意味の深さを予想させて、先づ私の心を緊張させた。」(正宗白鳥「ダンテについて」)
 この最初の句は、神戸事件を引き起こした酒鬼薔薇聖斗(少年A)が書いた「懲役十三年」と題した作文でも、「人の世の旅路の半ば、ふと気がつくと、俺は真っ直ぐな道を見失い、暗い森に迷い込んでいた。」と引用して最後を結んでおり、その広汎な浸透ぶりが窺えます。


(2)
【C.H.Sisson英訳】
It is hard to say just what the forest was like,
How wild and rough it was, how overpowering;
Even to remember it makes me afraid.

【Mark Musa英訳】
How hard it is to tell what it was like,
this wood of wilderness, savage and stubborn
(the thought of it brings back all my old fears),

【野上素一和訳】
ああ、それを話すのはなんとむずかしいことか
人手が入ったことのないひどく荒れた森のさまは
思い出すだに恐怖が胸に蘇えってくるようだ。

【平川祐弘和訳】
その苛烈で荒涼とした峻厳な森が
 いかなるものであったか、口にするのも辛い、
 思いかえしただけでもぞっとする、

【語句】
rough=(海・空・天候など)荒れた、荒天の。
overpowering=(感情など)圧倒的な、抵抗しがたい、強烈な。
afraid=~を恐れて、恐がって。
 afraid=気の弱さ・臆病を暗示。
 fearful=性質的に臆病で、不安の心が強いことを示します。
savage=(米)(土地・場所など)(自然のままに)荒れた、荒涼とした。
stubborn=(問題など)扱いにくい、手に負えない。(石・木材など)硬い。
 stubborn=頑固な、強情な。強情で自分の考え方を変えない。
 obstinate=人の忠告に耳を貸さず、たとえ間違っていてもかたくなに自分の考え方を変えない。
fear=(差し迫る危険・苦痛などに対する)恐れ、恐怖。
 fear=「恐怖」を表わす最も一般的な語で、懸念や通例勇気の無さを暗示します。
 dread=懸念と嫌悪の感情を示すほかに、「人・事に直面することに対する極度の恐怖」を表わします。
 fright=突然、ぎょっとするような恐怖。
 terror=極度の恐怖。
 horror=嫌悪感や反感などを伴った恐怖。

【解説】 「ダンテの神曲は中世紀千年間の沈黙の声なり。」(カーライル)
「中世が沈黙していたわけではないのは上に見てきた通りだが、それにしてもダンテの声は他のすべての声をぬいて力強く立派だった。中世の文学からただ一篇をえらぶとすれば、彼の『神曲』をおいて他にはない。単に中世を代表するといわず、ヨーロッパ文学全体を見廻しても、この作に肩をならべるものは、ホーマーの叙事詩、ゲーテの『ファウスト』等、寥々たるものだろう。」(山室静『世界文学小史』)
「彫塑の姿を具えたる地獄の巻、丹青の彩を泛べたる浄罪の巻、はたまた楽声の趣を含みたる天堂の巻、合わせて百章、一万四千二百三十三行、文辞の瑰麗にして、声調婉美を極めたるはいうもさらなり、宏大雄渾なる全篇の建築的壮観に至っては、ロマネスコ精舎の幽鬱にゴテイコ大伽藍の高遠を加えたる如く、南欧の大詩人ダンテの『神曲』ばかり後代の驚嘆たるものは稀なり。地獄界に九圏あり、浄罪界に山麓、七台、楽園あり、天堂界には十天あり、ダンテ初の二界を巡ぐる時は、中世の民が人知の頂に達せりと為しし羅馬の詩聖エルギリウスに伴われ、終の天堂を行くに当っては、九歳の春に垣間見し恋人ベアトリチェに導かれて終に幽明の域に亘り、天智のはてを極めたる大知識を得るに至りし路の委曲は、収めてこの珍しき大作の裡に籠れり。」(上田敏「詩聖ダンテ」)


(3)
【C.H.Sisson英訳】
So bitter it is, death itself is hardly more so;
Yet there was good there, and to make it clear
I will speak of other things that I perceived.

【Mark Musa英訳】
a bitter place! Death could scarce be bitterer.
But if I would show the good that came of it
I must talk about things other than good.

【野上素一和訳】
その森の難渋なことはほとんど死にも近い。
だが私は彼地で享けた幸運を述べるため、
そこで見た他のことをも話すことにしよう。

【平川祐弘和訳】
その苦しさにもう死なんばかりであった。
 しかしそこでめぐりあった幸せを語るためには、
 そこで目撃した二、三の事をまず話そうと思う。

【語句】
bitter=つらい、苦痛な。
hardly=ほとんど~ない。余裕が全くないことを表わし、ほとんど否定の意味に近いです。
 scarcely=hardlyと大体同じ意味だが、hardlyの方が普通に用いられます。
 barely=hardly, scarcelyより否定的な意味は弱いです。
good=利益、幸福、福利。
 the greatest good of the greatest number=「最大多数の最大幸福」。
perceive=知覚する、気づく、理解する。
scarce=(古語・文語)scarcely。
come of=~から生じる、起こる。
other than=(名詞の後で)~以外の。
幸福=「理性」の象徴であるヴィルジリオ(ウェルギリウス)に会って、救済の道へ進んだこと。

【解説】
ウェルギリウスは紀元前70年から19年にかけて生きたラテン詩人であり、この時には「人」ではなく「影」、すなわち「魂」でした。ダンテがウェルギリウスを霊界の案内人として登場させたのは、ダンテも強く影響を受けたウェルギリウスの主著『アエネイス』(古典期における最大の百科全書と目されます)に霊界旅行の記述があるためとされ、中世にはウェルギリウスは実際に霊界旅行をした霊通者、霊能者として考えられていたようです。ちなみに地獄篇第4歌によれば、ダンテは自分自身を「世界(ヨーロッパ)文学史における第6位」として位置付けたことが分かりますが、彼に先立つ5人は以下の通りです。
①ホメロス(紀元前8世紀頃)=ギリシア文学の祖にして、『イリアス(イリアッド)』『オデュッセイア』が代表作。アリストテレスによれば、ホメロスの叙事詩はギリシア悲劇の先駆となったと言います。「『イリアス』の1章を読むためにだけ生きたとしても不平を言ってはならぬ。」(シラー)
②ホラティウス(紀元前65~後8年)=西洋諸国では最も愛好されたラテン詩人。
③オウィディウス(紀元前43~後17年頃)=ラテン文学黄金時代の最後を飾る人物で、『変身物語(メタモルフォーセス)』で知られます。ダンテ、ゲーテと共に「哲学的三詩人」と称されることもあります。
④ルカヌス(39~65年)=ラテン文学白銀時代を代表する詩人で、祖父は修辞学者の大セネカ、伯父にストア哲学者の小セネカがいます。
⑤ウェルギリウス(紀元前70~19年)=最大傑作『アエネイス』はローマ国家の偉大さと共にローマ人の人生の悲しさを彫琢されたラテン語で格調高く歌い上げた真の国民的叙事詩として位置付けられ、彼の死後、その刊行を命じたのは初代ローマ皇帝アウグストゥス・オクタウィアヌスでした。


(4)
【C.H.Sisson英訳】
I cannot tell exactly how I got there,
I was so full of sleep at the point of my journey
When, somehow, I left the proper way.

【Mark Musa英訳】
How I entered there I cannot truly say,
I had become so sleepy at the moment
when I first strayed, leaving the path of truth;

【野上素一和訳】
いかにしてそこへ迷いこんだかうまくいえないが、
ただ、正しい道を捨てたその頃の私が
深い眠りにおちいっていたことは確かである。

【平川祐弘和訳】
どうしてそこにはいりこんだかうまくいえない。
 当時私はただもう夢中だったから
 それで正道を捨てたのだ。

【語句】
somehow=どういうわけか、なぜか。
proper=適切な、ふさわしい、ちゃんとした。
stray=(一時的に)正道から踏み出る。
 a stray sheep=迷える羊。
path=(人に踏まれて出来た)小道、(人の歩くべき)道、(文明・思想・行動などの)方向、進路、方針。
 lane=生垣・家などにはさまれた小道。
 footpath=人が歩くための小道。
 alley=建物の間の狭い道。
 the path of civilization=文明の進む道。
 a path to success=成功への道。
深い眠り=「霊魂の眠り」は中世では罪の証拠と考えられていました。道を踏み外したのも魂が眠っていたからということです。

【解説】
「ダンテの思想は二面性を有し、その中にはつねに相対立する思想が共存している。例えば、ダンテには東洋の叡智とギリシアのロゴスとキリスト教の聖愛(カリタス)とローマの政治学(キウイリタス)がある。彼はアリストテレスを尊敬し、聖トマスに師事したが、アラビア人やユダヤ人の知識を利用することを恐れなかった。彼は旧・新約聖書を糧としたが、回教的伝統さえも採用することを恥じなかった。
 彼はその神学的構造の系列から見れば聖トマスの学徒だが、同時にアウグスティヌス、聖ベルナルド(ベルナール)、聖ボナヴェントゥラ、神秘主義者聖ヴィクトール、黙示主義者ジョアキーノ・ダ・フィオレ、の影響を強く受けている。ダンテは心情的にはアウグスティヌス主義者であり、頭脳的にはアリストテレス、聖トマス主義者である。そして、彼の詩は時には一方に、また時には他方に傾いている。彼は合理主義者と呼ばれるには、余りにも救世主義や神秘主義を持ちすぎており、純粋の瞑想主義者と呼ぶには、余りにも主知主義と公民意識が強すぎる。・・・
 この偉大な『影』が、自己の作品を如何に審判するにしても、『死に至る道』に過ぎない生命を今辿りつつある我々は、それがなお我々に対して有する意味を知っている。それはヤコブの夜の幻を再び新たにしようとする、大胆で巧みな企画の一つである。『神曲』は人間の業(わざ)であるが、野獣の棲む原と焔の花咲く園との間に懸る梯子である。我々キリスト者は、そして我々詩人は、ダンテを想って心中感謝の愛に満たされざるを得ない。」(ジョヴァンニ・パピーニ)


(5)
【C.H.Sisson英訳】
But when I had arrived at the foot of a hill
Which formed the far end of that menacing valley
Where fear had already entered into my heart,

【Mark Musa英訳】
but when I found myself at the foot of a hill,
at the edge of the wood’s beginning, down in the valley,
where I first felt my heart plunged deep in fear,

【野上素一和訳】
そのうちに私はとある一つの丘のふもとへついた。
その丘は私の心を恐怖でくるしめた
あの渓谷の終点をなしていたのである。

【平川祐弘和訳】
森の中で私の心は怖れおののいていたが、
 しかしその谷が尽きたところで
 私はとある丘の麓にたどりついた。

【語句】
menacing=脅かすような、威嚇的な。
 menace=(~で・・・を)威嚇する、脅す。脅す人の加害の可能性を強調します。
 threaten=「脅す」の意の最も意味の広い語。
 intimidate=脅すことによって、相手の言動を束縛する。
plunge=(人・物・事)を(ある状態に)陥れる、追い込む(into, in)
 be plunged=(ある状態に)なる(into, in)
 She was plunged into the depths of despair.(彼女は失望のどん底に追いやられた。)
丘=この「丘」は「地獄」たる「谷」の終点に位置していたのですが、同時に「煉獄(浄罪)山」のふもとでもありました。「煉獄」はこの上にあり、さらにその上には「天国」が存在するのです。

【解説】
 ダンテは『神曲』を書くに当って、「テルツァ・リーマ」(三行韻詩)という詩型を編み出しています。これは一連が三行から成り、各行は11音節から成っていて、三行連句の脚韻が ABA、BCB、CDCなどと次々に韻を踏んでいって鎖状に連なるという押韻形式です。したがって、これを翻訳するのは不可能と言わざるを得ませんが、「三行一連」という形式だけは壊すべきではないと考えられます。ダンテは「三数」を重視したため(「三位一体説」から来たものと思われます)、こうした詩型が生れたと考えられますが、『神曲』の全体構成が地獄篇・煉獄篇・天国篇の3篇から成り、各篇が33歌から成っているのも、ここに起因するようです。また、地獄篇第1歌は全体の序歌となっているので、『神曲』は全百歌(1+33+33+33)から成りますが、これは「十数」を「完全数」と考えていたためでしょう。
「優れた詩は、代替不能の言葉の群から成り立っている、と私は考える。そしてそれらの言葉は、それぞれの意味を表わすと同時に、詩全体が表わそうとする方向を指し示している。なぜなら詩は、本来、言い表し得ぬものを表わそうとするために言葉を組み立てるから。あるいは、詩は向日葵(ひまわり)の群落であると言ってもよい。向日葵の花弁や葉は一つ一つが詩語であり、一茎の向日葵は詩の一連だ。そしてそれらの群落は等しく光源を振り向いている。詩語における隠喩の問題、詩における類推の問題などは、後に断るように、いまは論議する場でない。だが、『神曲』が寓意の文学であることだけは、ここで思い出しておかねばならないだろう。」(河島英昭東京外国語大学名誉教授〔イタリア文学〕~寿学文章訳のダンテ『神曲』が集英社から出版された時の書評)


(6)
【C.H.Sisson英訳】
I looked up, and saw the edges of its outline
Already glowing with the rays of the planet
Which shows us the right way on any road.

【Mark Musa英訳】
I raised my head and saw the hilltop shawled
in morning rays of light sent from the planet
that leads men straight ahead on every road.

【野上素一和訳】
私は目をあげて丘の肩をながめたが、
そこはすでに他の人の道案内をする
太陽の光をうけて輝いていた。

【平川祐弘和訳】
目をあげると、丘の稜線が
 もう暁光に明るく包まれているのが見えた、
 あらゆる道を通して萬人(もろびと)を正しく導く太陽の光であった。

【語句】
glow with=(場所が、色彩で)燃えるようである、照り輝く。
ray=光線。
raise=(物を、高く)持ち上げる。特に一方の端を持ち、直立または高い位置に上げる。
 lift=物を持ち上げる。
 hoist=重い物を、特に機械などの力を借りて持ち上げる。
shawl=~にショールを掛ける、~をショールに包む。
太陽の光=原文では「Pianeta」(遊星)という言葉が使われています。当時はまだコペルニクスの「地動説」が提唱される前であったので、太陽も他の惑星同様に捉えられていたことに注意しなければなりません(「天動説」)。当時の占星学では、太陽も月も他の惑星同様に重要因子として扱われており、太陽系における恒星・惑星・衛星を区別する考えはありませんでした。

【解説】
 ダンテは天国篇で次のような天界の構造を説いています。諸天の性格は占星学における各星のシンボリズムとよく対応していると言えるでしょう。
①第1天(月天)=生前、神への誓願を全うしなかった魂が住みます。
②第2天(水星天)=徳功を積んだものの、現世的な野心や名声の執着を断ち切れなかった魂が住みます。
③第3天(金星天)=激しい愛の情熱に駆られた魂が住みます。
④第4天(太陽天)=知識人の魂が住みます。トマス・アクィナスやボナヴェントゥラもここにいます。
⑤第5天(火星天)=信仰のために戦った者の魂が住みます。ダンテの曽祖父カッチャグイダなど。
⑥第6天(木星天)=地上にあって大いなる名声を得た、正義ある統治者の魂が住みます。ダビデなど。
⑦第7天(土星天)=信仰一筋に生きた清廉な魂が住みます。
⑧第8天(恒星天)=7つの遊星の天球を内包し、12宮が置かれている天。聖ペテロら諸聖人が列します。
⑨第9天(原動天)=諸天の一切を動かす根源となる天。
⑩至高天(天堂界)=神と天使達と聖徒達が住んでいます。
 ちなみにリストは『神曲』の構想を元に『ダンテ交響曲』を作曲していますが、「天国を描写するのは不可能ではないか」というワーグナーの意見に従い、煉獄を描いた第2楽章の終結部で天国を象徴する「讃歌」を置くに留めています。ピアノ曲としては、地獄篇における凄まじい情景を描写した「ソナタ幻想曲『ダンテを読んで』」を作曲しています。


(7)
【C.H.Sisson英訳】
Then my fear was a little put at rest,
Although it had lain in the pool of my heart throughout
The night which I had passed in that pitiful state.

【Mark Musa英訳】
And then only did terror start subsiding
in my heart’s lake, which rose to heights of fear
that night I spent in deepest desperation.

【野上素一和訳】
そのとき私の恐怖はややすこししずまった。
それは夜の間じゅう心の洞にとどまって
私をたいそう苦しめていたものだった。

【平川祐弘和訳】
するとあわれなさまで過ごした夜を通し
 私の心の奥にわだかまっていた不安も
 少しはしずまってきた。

【語句】
at rest=安らいで、安静となって、安心して。
 set a person’s mind (fear) at rest=人の心(不安)を静める。
lie=(自動詞)横たわる、ある。lay(過去形)、lain(過去分詞)。
 lay=(他動詞)横たえる、置く。laid(過去形、過去分詞)。
pool=(意識、静けさなどの)深み、たまり。
pitiful=かわいそうな、哀れな。
 pity=哀れみ、同情。自分より劣っていたり、弱い立場にある人に対する哀れみの気持ちを表わすことが多いです。
 sympathy=相手の悲しみ・苦しみを理解し、共に悲しんだり、苦しんだりする気持ちを表わします。
 compassion=通例、積極的に相手を助けようとする気持ちを含みます。
pass=(時間などを)過ごす、つぶす。
state=状態、有様、様子。「状態」を表わす最も一般的な語で、人・事物とそれを取り巻く状況とのあるがままの状態。
 condition=ある状態や事情を作り出した原因や環境とその人・事物との関連を強調します。
 situation=人・事物とそれを取り巻く状況との相互関係を重視します。
terror=身がすくむような、しばしば長時間に及ぶ、激しい恐怖。
subside=(建物が)平常の位置より下がる、(地面が)陥没する、(船が)沈没する。
rise to=そびえ立つ、(水面に)浮かび上がる。
fear=危険・苦痛・脅迫などによる「恐れ・不安」を表わす、最も一般的な語。
desperation=自暴自棄、やけ、いらいらしている状態。
spend=(時・休暇などを)過ごす。
心の洞=中世医学では、心臓の中に洞があって、そこに血が蓄えられていると考えられていました。

【解説】  ダンテは『神曲』を当時の国際公用語たるラテン語で書かず、女性や子供にも分かるようにとトスカナ方言で書きましたが、これが近代イタリア語の基礎となりました。この点、ルターのドイツ語訳聖書が近代ドイツ語の基礎となったことに通じると言えます。イギリスでも欽定訳聖書が近代英語の原点です。


(8)
【C.H.Sisson英訳】
And, as a man who, practically winded,
Staggers out of the sea and up the beach,
Turns back to the dangerous water, and looks at it,

【Mark Musa英訳】
Just as a swimmer, still with panting breath,
now safe upon the shore, out of the deep,
might turn for one last look at the dangerous waters,

【野上素一和訳】
だが息もたえだえに大海をのがれて
岸にたどりついた人が危険な水をふり返り
じっと眺めるときのように、

【平川祐弘和訳】
そして、辛うじて難破から逃れて浜辺に辿りついた男が
 苦しそうに肩で息をつきながら
 振り向いて荒海を見やるように、

【語句】
practically=ほとんど(almost)、~も同然、やや誇張して言うと。
winded=息切れのした。
stagger=よろめく、よろよろする、よろよろ歩く。
pant=あえぐ、息切れする。
breath=息、呼吸。
 lose one’s breath=息を切らす、息切れする。
 out of breath=息を切らして。
shore=海上・水上から見た岸で、海・湖・川の岸を言う。
 coast=海岸についてだけ用いられ、普通、陸の方から見た海岸を指す。
 beach=海・湖・川の波に洗われる砂、または小石に覆われた浜辺・波打ち際。
the deep=(詩語)わだつみ、海原。

【解説】
イタリアではダンテは「国民的詩人」とされ、義務教育では『神曲』の学科が設けられています。また、イタリアの2ユーロ硬貨の片面(各国ごとの独自デザインの部分)にはラファエロ原画のダンテの肖像が採用されています。あるいは、フィレンツェの博物館にはジョットが描いたダンテの肖像画の壁画がありますが、そこではダンテは紅色の衣服を着ています。これは当時の医者の制服で、ボローニャ大学で医学を修めたダンテは普段でも紅衣を着て、その上に暗色のマントをはおっていたのです。人々は彼のことを「マエストロ」(先生)という敬称で呼んでいたようです。ちなみにボローニャ大学は神聖ローマ帝国皇帝がすでに整理されていた教会法体系に対抗するため、ローマ法を基礎とする皇帝法体系を作ろうとして設立した大学で、法学部が中心であったため、哲学の授業と医学の授業は抱き合わせになっていたと言います。ダンテは元々哲学と修辞学を学ぶつもりでしたのが、結果として医学も研究することとなったのです。
「一八二八年十月二十日、ゲーテはエッカーマンに向かって言った。『ダンテは私達には偉大に見える。しかし、彼は数世紀の文化をその背後に持っていた』と。また、カーライルはダンテの中に『沈黙せる十の世紀の声』を聞いた。ゲーテとカーライルが見たものを我々は正確に言い表わすことが出来る。それはラテン中世と中世紀に見られた古代と教養の世界である。」(クルツィウス『ヨーロッパ文学とラテン中世』)


(9)
【C.H.Sisson英訳】
So my mind, which still felt as if it was in flight,
Turned back to take another look at the defile
No living person had ever passed before.

【Mark Musa英訳】
So I, although my mind was turned to flee,
turned round to gaze once more upon the pass
that never let a living soul escape.

【野上素一和訳】
まだ逃走を願っている私の心は
生きたままでは何人をも通さない
あの森のほうをふり返ってみていた。

【平川祐弘和訳】
私の魂も、まだまだ逃げのびようとしていたが、
 後ろを振り向いて過ぎこし方を見つめた、
 そこからかつて生きて出られたためしのない森を見つめた。

【語句】
mind=身体と区別して、思考・意志などの働きをする心。
 heart=感情・情緒を意味する心。
 feeling=(喜怒哀楽などの様々な)感情、気持ち。主観的な感覚や感情を表わす最も一般的な語。
 emotion=怒り・愛・憎しみなどを強く表わす感情。(理性・意志に対しての)感情。
 sentiment=理性的な思考に基づく感情。religious sentiment「宗教心」、patriotic sentiment「愛国心」
 passion=理性的判断を圧倒してしまうような強烈な感情。熱情、激情、欲情。
 fervor=熱い、燃えるような(永続的な)感情。熱烈、熱情。
 enthusiasm=ある主義・行動・提案などに対する情熱。熱中、熱狂。
 will=意志。
 spirit=(肉体・物質に対して人間の霊的な)心。
 soul=霊魂、魂、死者の霊、精神、心、(知性と区別して)情、感情。
flight=flee(逃げる、逃走する)の名詞形。逃走、敗走、脱出。
defile=(山間[やまあい]などの)隘路(あいろ)。
turn=(人を~に)専念(専心)させる。
turn round=振り向く。
gaze=(熱心にじっと)見つめる、熟視する(at, into, on, upon)。驚き・称賛などの気持ちを込めて、じっと見続ける。
 look=ものを注意して見るという自発的行為を表わしますが、静止しているものについて用いるのが普通です。
 watch=ものを注意して見るという自発的行為を表わしますが、静止していない、動いているものについて用いるのが普通です。
 see=単にものが見えるということ。
 stare=驚き・称賛・恐怖などの気持ちで、特に目を大きく見開いて熱心に見る。
 glance=ものをちらりと見る。
 glimpse=ちらりと見えること。
pass=狭い通路、(特に)山道、峠。
let=相手の意志通りにすることを許す。

【解説】
ダンテの生きていた中世ヨーロッパにおいて、「森」には恐怖のイメージがつきまとっていましたが、「12世紀のルネッサンス」やキリスト教的使命感に基づく12~13世紀の大開墾時代以降、イメージの転換が起こりつつあったことは注目されます。ダンテは13~14世紀の人間なので、この転換点の只中にいたと考えられます 「すでに古代ギリシア・ローマ神話において、鬱蒼たる森は死者の国への入口であると考えられていた。」(ウラジミール・プロップ『魔法昔話の起原』)
「森はしたがって、見える国境というより、緑の海であった。ひとつづきの村や畑、未耕地、そして町は、森の海に囲まれた島であり、島国であった。…
「海」は深く、果てしなく、怖しいところであった。村人たちは「沿岸」で薪とりや豚の放牧をしていたにすぎない。深みにはまると、飢え死にや狼に食われる大きな危険と恐怖が待ちうけていたからであった。」(木村尚三郎、堀越孝一、渡辺昌美『生活の世界歴史〈6〉中世の森の中で』)
「つまり修道士にとっては、土地の開拓=浄化は、悪魔から土地をとり返すことを意味していたのだ。西欧修道制の祖ヌルシアのベネディクトゥス(480頃~547頃)の時代より、森を切り開き耕地に変える、という行為は、異教に染まった住民の偶像崇拝をやめさせ、彼らの神殿を破壊することで偽りの神々を打倒し、その力を弱めることも目途としていたのである。」(池上俊一『森と川-歴史を潤す自然の恵み-』)


(10)
【C.H.Sisson英訳】
When I had rested my weary body a little,
I took up my journey again on that stretch of desert,
Walking so that my firm foot was always the lower.

【Mark Musa英訳】
I rested my tired body there awhile
and then began to climb the barren slope
(I dragged my stronger foot and limped along).

【野上素一和訳】
疲れたからだをしばらく休めたあとで
私は人気のない丘の斜面を歩きだしたが、
確かな足は常に低いほうの足であった。

【平川祐弘和訳】
疲れた体を少し休めた後、
 私は人気のない浜辺を歩きだした、
 前へ踏みだす足取りは確かではなかったが。

【語句】
rest=休養させる、休ませる、安らかにさせる。
weary=疲れた、疲労した。
take up=(仕事・趣味などを)始める、従事する。
stretch=(距離・時間の)長さ、一続き。(陸地・海などの)広がり。
desert=砂漠(wasteと違って、水が無く、不毛であることを強調)。(何か好ましい性質が)欠けた(不在の)場所(主題・時代など)。
firm=ぐらつかない、しっかりした。
awhile=しばらく。
barren=(土地が)不毛の、作物の出来ない。
slope=坂、斜面。
drag=(重いものを)引く、引っ張る。(足・尾などを)引きずる。
 pull=上下・前後の方向に引く、引っ張るの一般語。
 draw=軽く、なめらかに引く。
 tug=力を込めて急に引く。
limp=(歩行が不自由で)片足を引きずる。(故障などで、船・飛行機などが)のろのろ進む(along)。

【解説】
 1290年にベアトリーチェが没した時、ダンテは精神的に大きな打撃を受け、その悲哀に打ち勝とうとしてボエティウスの『哲学の慰め』、キケロの『友情論』といった哲学書を耽読しました。その結果、ダンテは哲学に対する興味がかき立てられ、その影響は『神曲』に次ぐ作品とも言うべき『饗宴』にはっきりと現われていますが、さらに古典作品の読書に浸り、ウェルギリウスの『アエネイス』、ホラティウスの『詩論』、オウィディウスの『変身譜』をはじめとして、キケロ、プリニウス、セネカなどの道徳哲学などをことごとく読破しています。やがて、ダンテは『新生』を著しますが、その最後の章にベアトリーチェを1つの主題として持つ『神曲』を書くことを予告したような言葉が出てくることは注目されます。
「このソネットが書いた後で、ある一つの不思議な幻影が私に現われ、その中で私が見たことによって、かの淑女、すなわちベアトリーチェのことをもっと適切な方法で述べることが出来るまで、これ以上、かの恩寵に満ちた淑女のことを歌った詩は書くまいと決心した。」(『新生』第42章)


(11)
【C.H.Sisson英訳】
And, almost at the point where the slope began,
I saw a leopard, extremely light and active,
The skin of which was mottled.

【Mark Musa英訳】
Beyond the point the slope begins to rise
sprang up a leopard, trim and very swift!
It was covered by a pelt of many spots.

【野上素一和訳】
だが、ようやく急坂にさしかかったとき
一匹の軽快で、すばらしく敏捷な豹が
斑紋のある毛皮でおおわれて

【平川祐弘和訳】
すると、山の斜面にさしかかるやいなや、そこに
 軽快で敏捷な豹が一頭あらわれた、
 皮に斑目(まだらめ)のある豹だった。

【語句】
leopard=ヒョウ。
 A leopard never changes (cannot change) its spots.(性格は直らない。聖書「エレミヤ書」より)
 panther=ヒョウ(特に黒ヒョウ)、ピューマ(米語)。
light=(足取りなど)軽快な。
mottled=ぶちの、まだらの。
spring=(ばねのようにすばやく)跳ぶ、はねる。(座っていたり、寝ている状態から)ぱっと起き上がる。
sprang(過去形)、sprung(過去分詞)。
trim=(服装・格好など)きちんとした、手入れのよい。すらっとした、ほっそりした。
swift=速い、迅速な。運動が滑らかな・軽い。fast, rapidより形式ばった語。
 quick=急速な、迅速な、敏捷な。行動が素早い、時間が短い。
 fast=動作・行動などが速いの意であるが、動いている人・物を重視する。
 rapid=動作・行動などが速いの意であるが、動きそのものを重視する。
 speedy=速度が速い、行動が素早い。
pelt=(動物の)生皮・毛皮。
豹=人間の「肉欲」の象徴と考えられてきましたが、むしろ「物欲・食欲」として捉えた方がふさわしいと思われます。

【解説】
 「豹」は後で出て来る「獅子」と共に、聖書でも何度か出てくるシンボリックな動物です。
①ダニエル書~ダニエルが見た夢に出てきた4頭の獣の中の「第3の獣」。
  第1の獣=「獅子」のようで、「人間の心」が与えられていました。
  第2の獣=「熊」に似ていて、「起き上がって、多くの肉を食らえ」という声がかかりました。
  第3の獣=「豹」のようで、「主権」を与えられました。
  第4の獣=前の3つの獣とは異なり、非常に強くて10本の角を持っていました。
②ヨハネの黙示録~海から出て来た1匹の「獣」。
  10本の角と7つの頭があり、その角には10の冠があって、その頭には神を汚す名がありました。その獣は豹に似ていて、足は熊の足のようで、口は獅子の口のようでした。竜(サタン)はこの獣に自分の力と位と大きな権威とを与えたのです。


(12)
【C.H.Sisson英訳】
And somehow it managed to stay in front of me
In such a manner that it blocked my way so much
That I was often forced to turn back the road I had come.

【Mark Musa英訳】
And, everywhere I looked, the beast was there
blocking my way, so time and time again
I was about to turn and go back down.

【野上素一和訳】
私の面前に現われ、立ち去ろうとせず
立ちふさがって私の前進をひどくじゃました。
そこで私は引き返そうとして幾度もふり向いた。

【平川祐弘和訳】
面と向かいあったが立ち去りもせず、
 逆に行手をさえぎろうとするから、
 引き返そうかと私は幾度も後ろを振り返った。

【語句】
somehow=どういうわけか、なぜか。
manage to do=どうにかして~する、うまく~する。
force=(人に)強いて~させる。(人に~させることを)余儀なくさせる。compelより意味が強く、人の意志に反して、または抵抗を排除して、人に無理にあることをさせる。
 compel=権威とから抵抗しがたい力によって、あることを無理にさせる。
 impel=強い欲望・動機・感情などによって、ある行動に駆り立てる。
 oblige=止むを得ず、人にあることをさせる。(人に~する)義務を負わせる。
beast=動物、(特に大きな)四足獣。この意味ではanimalの方が一般的だが、寓話ではよく用いられます。
time and (time) again=time after time、再三再四。
be about to do=今にも~しかけていて。be going to doよりもbe on the point of doingよりも「今にも~しようとしている」の意を明確に表わします。したがって、tomorrowなどの副詞句は用いません。

【解説】
 ダンテは『神曲』の詩が出来ると、ヴェロナのカングランデ(カン・フランチェスコ)の宮廷へ行き、多くの人の前で読んだようですが、そのため、『神曲』の詩を世間の人がすっかり憶えてしまい、それを町中で口ずさむこともあったそうです。ダンテがある時、1軒の鍛冶屋の前を通りかかると、中から彼の詩の1節を間違った調子で吟じるのが聞こえました。そこで、怒ったダンテは店の中に飛び込んで、そこにあった道具を叩き壊すと、鍛冶屋は怒って「おい、私の物を壊すな」と叫ぶのですが、それに対して、ダンテは「お前は私の物を壊したじゃないか」と答えたそうです。あるいは、ダンテが北イタリアのアディジェ川の土手を歩いていると、一人の女性に出会いましたが、彼女が他の女性に向かって、「ごらんなさい、あの人は時々地獄界に降って、そこのニュースを持ってくるのよ」と言うと、もう一人の女性は答えました。「ああ、それだからあの人の鬚は黒いのね。地獄界の煙が黒くするのね」。
 さらにダンテが没してから数日後に息子達と友人が遺稿の整理を行なっていますが、彼らは「天国篇」の原稿がすでにカングランデに送り届けられていることは知っていたものの、最後の13の歌がどうしても見つかりませんでした。しかし、それから8ヶ月してヤコポの夢の中に光り輝く白衣のダンテが現われ、ヤコポの手を取ってダンテの寝室へ連れて行き、羽目板を指し示して消えました。果たして、そこで探していた13の歌が発見されたのです。


(13)
【C.H.Sisson英訳】
The time was the beginning of the morning;
And the sun was climbing in company with those stars
Which were with him when the divine love

【Mark Musa英訳】
The hour was early in the morning then,
the sun was climbing up with those same stars
that had accompanied it on the world’s first day,

【野上素一和訳】
時刻はまだ早朝だったので
太陽はあの聖なる愛がはじめて

【平川祐弘和訳】
時は折しも朝明けの時刻で
 太陽は星々をしたがえて昇ってきた、
 神の愛がはじめて天地の美しい事物を動かした時にも

【語句】
in company (with a person)=(人と)一緒に。
divine=神の、神性の。
 The Divine Comedy=「神曲」。
 human=人の、人間の。ちなみにダンテの同時代人にして、ダンテに深く傾倒し、最初の崇拝者となったボッカッチョは『デカメロン』(十日物語)を書きましたが、これは『神曲』に対して、『人曲』と呼ばれています。
accompany=(人が別の人に)同行する、ついていく。(事物が~に、同時に)伴う。
太陽=天地創造の時、太陽は白羊宮と共に春に創られたと考えられていました。
美しい事物=被造物。ここでは天体を指します。

【解説】
 ボッカッチョによれば、ダンテは最初『神曲』をラテン語で書くつもりであり、その冒頭の言葉は「ウルティマ・レグナ・カナム・フルイド・コンテルミナ・ムンド」(この浮世に隣する遠い国のことを私は歌おう)となるはずでした。ダンテが交際していたラテン文学者ジョヴァンニは、『神曲』の最初の2歌を読んで絶賛しましたが、それが「俗語」(イタリア語を指す)ではなく、ラテン語で書かれていたならば完全であろう」と言い、「第3歌以下は是非ともラテン語で書いてほしい」という意味を盛り込んだ6行詩をラテン語で書いて、ダンテに捧げています。彼によれば、「イタリア語で『神曲』を書くことは、ダンテの天才という宝石を、それを理解出来ない、無知の大衆の前に投げ出すのに等しい」というのです。もしもダンテが『神曲』をラテン語で書いていたら、ボローニャ大学は少し前にチーノ・ダ・ビストイアに贈ったのと同じ「名誉博士」の称号をダンテに贈ったのではないかと見られています。ちなみに『神曲』地獄篇と同時期(1304~1308年)にダンテが書いた『俗語論』(これはイタリアの言語と文学に関する最初の科学的論文です)によれば、ラテン語が優位を占めていた当時、すでにそれがやがて「俗語」に取って代わられるだろうと予言しています。その理由として、「俗語」は民衆によって語られている生きた言語であることを挙げていますが、ここで言う「俗語」(ヴォルガーレ)とは特別の意味を持っており、それはラテン語から派生した「イタリア語」、「北部フランス語」、「南部フランス語」または「プロヴァンス語」を指しています。ダンテの関心はその中でもイタリア語に集中していて、各地で語られている14のイタリア語を1つ1つ観察して、批判を下しているのです。


(14)
【C.H.Sisson英訳】
First set those lovely things in motion; and this,
With the hour it was, and the delightful season,
Gave me reason to entertain good hope

【Mark Musa英訳】
the day Divine Love set their beauty turning;
so the hour and sweet season of creation
encouraged me to think I could get past

【野上素一和訳】
その美しいものを動かしはじめた時すでに
いっしょだった星を伴って昇っていた。
だが時刻もよく季節もよかったので

【平川祐弘和訳】
太陽とともにあったあの星々であった。
 この朝という時刻もこのさわやかな季節も、
 毛並鮮やかなこの豹を

【語句】
lovely=(目も心も惹きつけるような)美しい、可愛らしい、快い。愛情を誘うような「愛らしい」。
 beautiful=「美しい」を意味する、最も一般的な語。
 handsome=通例、「顔立ちのよい」男性に用い、女性に用いた場合には「立派な体つきでりりしい」。
 pretty=(子供・女性・小さなものなどの)見た目などの「かわいい」、可憐な。「美しい」というより、見たり、聞いたりして魅力的なものに言います。
 good-looking=男女共に用いられ、handsome, prettyとほぼ同義。
set~in motion=(機械などを)始動させる、(物事を)始める。
delightful=(人に大きな喜びを与える意味で)楽しい、愉快な、快適な。
 delighted=自分自身が大きな喜びを感じている。pleasedより意味が強いです。
reason=ある行動をしたり、信念などをもつようになった理由、動機。
 cause=(結果を生み出す)原因。ある結果・行動を引き起こす、直接の原因となるもの。cause and effect「原因と結果」(因果)、first cause「第一原因、原動力」。
entertain=(感情・意見・希望などを)抱く。
sweet=気持ちよい、楽しい、快い。
encourage A to do=A(人)を~するように元気付ける、励ます。
past=(場所・人など)を通り過ぎて。
さわやかな季節=さわやかな春という季節。

【解説】
 ダンテが生まれたのは1265年、太陽が双子宮を伴って昇り、没した頃(5月18日~6月17日)であり(その他の証拠も考慮に入れて、ダンテ誕生は5月末と見られています)、当時の占星学によると、双子宮の星の下に生まれた人は、文筆や科学や哲学などの分野で叡智を授けられると信じられていました。ダンテはこの星の下に生まれたことを誇りとしていたようで、地獄界第7圏に恩師の碩学ブルネット・ラティーニを登場させ、「君は君の星に従って進むなら、現世で見立てた私の眼に狂いがなければ、間違いなく栄光の港へ着けるはずだ」(地獄篇第15歌)と語らせており、また、天国界の双子宮に達した時、自ら「おお栄光の星よ、大いなる力に満ち満ちた光よ、私の才はそれが何であろうとも、全て汝から出たものであることを認めよう」(天国篇第22歌)と語っているのです。あるいは地獄篇、煉獄篇、天国篇のいずれも最終歌の末節は「stella」(星)という言葉で結ばれており、占星学的な知識が背景にあることが見て取れるでしょう。


(15)
【C.H.Sisson英訳】
Of that wild animal with the brilliant skin;
But not so that I found myself without fear
When a lion appeared before me, as it did.

【Mark Musa英訳】
that gaudy beast, wild in its spotted pelt,
but then good hope gave way and fear returned
when the figure of a lion loomed up before me,

【野上素一和訳】
目もあやな毛皮をまとった獣が現われたとて
希望をすてなかったのは自然なことだった、
だが恐怖を感じなかったのも一匹の獅子が
出現するまでのことであった。

【平川祐弘和訳】
恐れる道理はないといっているかに思われた。
 だが、ほっとしたのも束の間、今度は一頭の獅子が
 目の前に現われた。

【語句】
brilliant=(宝石・日光など)光り輝く、さんさんと輝く、目もあやな。
gaudy=(服装・装飾など)下品なほどけばけばしい、派手で俗っぽい。
give way=崩れる、折れる、破れる、落ちる。
figure=形、姿。内部構造と外形との両方を表わします。
 outline=線や輪郭によって表わされた外形。
 form=中身や色と区別した物の外形・形。
 shape=figureと同様に外形を表わすが、内部がつまっているという意味合いを強く表わします。
loom=ぼんやりと現われる、ぼうっと見える。(危険・心配などが)気味悪く迫る。
獅子=「傲慢」の象徴と考えられてきました。「権勢欲・名誉欲」などもこれに入れてよいでしょう。

【解説】
 1匹目の「豹」に続いて、2匹目の「獅子」が登場する場面です。さらに後には3匹目の「牝狼」が出て来て、これが1番手強いと見られているのですが、Sission訳では「豹」をit(中性名詞)、「獅子」をhe(男性名詞)、「牝狼」をshe(女性名詞)として受けている所がおもしろいですね。この3匹の獣は「人間の三大欲望」(物欲・食欲、権勢欲・名誉欲、肉欲・情欲)を象徴していると思われ、これらを克服・コントロールしない限り、地獄へと引っ張られていくということなのでしょう。
 ちなみに中国の「四大奇書」の1つに数えられる『西遊記』も、道教においては聖典の1つに挙げられるのですが、三蔵法師が「西天取経」の旅に出る時、孫悟空・猪八戒(観音菩薩は猪悟能と名づけています)・沙悟浄の3人の弟子を連れていたことが想起されます。なぜなら、それぞれ名前が「悟空」「悟能」「悟浄」となっていて、「空を悟る」「能を悟る」「浄を悟る」ことを意味しており(知・意・情に対応していると思われます)、これらを経ずには「西天取経」は果たせないということなのでしょう。
 ところで、キリスト教神学には「7つの大罪」(罪源)という概念があり、4世紀のエジプトの修道士エヴァグリオス・ポンティコスの著作に初めて8つの「枢要罪」(暴食、色欲、強欲、憂鬱、憤怒、怠惰、虚飾、高慢)が現われたのが起源です。6世紀後半にはグレゴリウス1世により8つから現在の7つに改正され、「虚飾」は「傲慢」に含まれ、「怠惰」と「憂鬱」は1つの大罪となり、「嫉妬」が追加されました。13世紀のトマス・アクィナスも著作の中で、キリスト教徒の7つの「枢要徳」と対比する形で7つの「枢要罪」を挙げています。煉獄篇第9歌でも、天使が「7つの大罪」を意味する7つのPの字をダンテの額に刻み、これらが清められてから天国界へ上ることとなっています。


(16)
【C.H.Sisson英訳】
When he came, he made his way towards me
With head high, and seemed ravenously hungry,
So that the air itself was frightened of him:

【Mark Musa英訳】
and he was coming straight toward me, it seemed,
with head raised high, and furious with hunger―
the air around him seemed to fear his presence.

【野上素一和訳】
獅子は私に向かってくるように見えた。
そして頭を高くあげ、猛々しい飢餓のため
大気まで恐れさせているように見えた。

【平川祐弘和訳】
獅子は私をさして進んでくるらしい。
 頭をもたげ餓えに怒りたけるから
 大気まで恐れにおののいている。

【語句】
make one’s way=進む、行く。
ravenously=がつがつしたように、貪欲に。
frightened=~におびえた、ぎょっとした、怖がった(at, of)。
 afraid=~を怖れて、怖がって。気の弱さ・臆病を暗示し、一般に行動・発言などが出来なくなることを示します。
 fearful=性質的に臆病で、不安の心が強いことを示します。
furious=怒り狂った。
presence=存在。

【解説】
 「獅子」は例えば、旧約時代の4大預言者(イザヤ、エレミヤ、エゼキエル、ダニエル。『旧約聖書』にはさらに12小預言者の書が含まれています)の1人によるエレミヤ書では、次のように出て来ます。
「獅子はその茂みから上って来(き)、国々を滅ぼす者は彼らの国から進み出た。あなたの国を荒れ果てさせるために。あなたの町々は滅び、住む者もいなくなろう。」(エレミヤ書第4章7節)
「それ故、森の獅子が彼らを殺し、荒れた地の狼が彼らを荒らす。豹が彼らの町々を窺う。町から出る者を皆引き裂こう。彼らが多くの罪を犯し、その背信が甚だしかったからだ。」(エレミヤ書第5章6節)
「イスラエルは雄獅子に散らされた羊。先にはアッシリアの王がこれを食らったが、今度はついにバビロンの王ネブカデレザルがその骨まで食らった。」(エレミヤ書第50章17節)
 さらに権勢欲・傲慢としては、「創世記」の「バベルの塔」説話や、ミルトンの『失楽園』(「プロテスタントの『神曲』」と呼ばれます)に堕天使の情念として凄まじく描かれていることが想起されますね。
「そのうちに彼らは言うようになった。『さあ、我々は町を建て、頂が天に届く塔を建て、名を挙げよう。我々が全地に散らされるといけないから。』」(創世記第10章11節)
「そうだ、あの蛇、まさしくあの地獄の蛇であった。嫉妬と復讐の念に燃え、狡猾な陰謀をもって人類の母をたぶらかしたのは!彼はこれより先、傲慢に禍されて、叛逆の天使の軍勢と共に天を追われていた。これらの天使の援助を得て、仲間を尻目に自らを栄光の地位に置き、あわよくば、一戦を交えて至高者と対等たらんことを窺った彼であった。そして、野心満々、神の御座と御威光に向かって、不敬かつ傲慢不遜な戦いを、場所もあろうに天において挑んだのだ。全能の力を持ち給う神は、大胆不敵にも、あえて全能者に向かって武器を取って刃向かってきたこの者を、いと高く浄き空から真っ逆様に落とし給うたのであった。」(ミルトン『失楽園』第1巻)


(17)
【C.H.Sisson英訳】
And a she-wolf, who seemed, in her thinness,
To have nothing but excessive appetites,
And she has already made many miserable.

【Mark Musa英訳】
And now a she-wolf came, that in her leanness
seemed racked with every kind of greediness
(how many people she has brought to grief!)

【野上素一和訳】
すると一匹の牝狼が現われたが、
それは貪欲を痩せこけたからだにこめ
多くの人の暮しを苦しめているようだった。

【平川祐弘和訳】
しかも続いて牝狼が現われた、
 痩せ細り血に飢えた狼は
 前にも大勢の人を悲嘆の淵に沈めたが、

【語句】
a she-wolf=牝狼。
 a wolf in sheep’s clothing=偽善者(温順を装った危険人物、聖書「マタイ伝」より)。
thin=「やせた」の意も最も一般的な語だが、不健康にやせたということを表わす場合もあります。thinness(thinの名詞形)。
 slim=良い意味でやせている。(見た目に優美で)ほっそりした、きゃしゃな。
 slender=良い意味でやせている。ほっそりした、すらっとした。
 lean=脂肪がついていなくて、引き締まった。leanness(leanの名詞形)。
 slight=やせて弱々しい。細い、やせ型の、ほっそりした。
nothing but=ただ~のみ。
excessive=過度の、過大な、極端な。
appetite=食欲、欲望、欲求。
 A good appetite is the best sauce.(空腹にまずものなし。)
miserable=(人が貧困・不幸・病弱などのために)惨めな、不幸な、哀れな、悲惨な。
rack=(体を引き裂くほどに人を)苦しめる、悩ます(by, with)。
greedy=貪欲な、欲張りの。greediness(greedyの名詞形)。
grief=(死別・後悔・絶望などによる)深い悲しみ、悲痛。ある特定の不幸による非常に強い悲しみ。
 sorrow=親しい人を亡くしたり、不幸なことに対する悲しみを表わす、一般的な語。
 sadness=何かの原因によるか、または何ということもなく沈んだ悲しい気持ち。
牝狼=「貪欲」の象徴と考えられてきましたが、「肉欲・情欲」の方がふさわしいと思われます。

【解説】
 豹・獅子・狼は聖書的モチーフであると言えますが、単なる「狼」ではなく、「牝狼」となるとイタリア人にとってイメージが大きく変わってきます。なぜならローマ建国神話において、ローマの遠祖たるロムルスとレムスの双子の兄弟を助けたのが他ならぬ一匹の「牝狼」だからです。「牝狼」は軍神マルスの使いとされ、全ローマ人の「乳母」として位置づけられていて、「偉大なるローマ」を主題に歌った詩人プロペルティウスの『エレギアエ』、プロペルティウスより7歳若い同時代人オウィディウスの『祭暦』、叙事詩人ウェルギリウスの『アエネイス』などにもこの話が出て来ます。したがって、普遍的な「人間」というより、政争渦巻くイタリア人としての「業」がダンテの意識に強くあったのではないかとも思われます。ちなみに、『神曲』に登場する同時代のイタリア人が180名であるのに対し、外国人は90名です。


(18)
【C.H.Sisson英訳】
She weighed down so heavily upon me
With that fear, which issued from her image,
That I lost hope of reaching the top of the hill.

【Mark Musa英訳】
This last beast brought my spirit down so low
with fear that seized me at the sight of her,
I lost all hope of going up the hill.

【野上素一和訳】
その獣が見る者に与える恐怖のために
私ははなはだ思い悩んだあげく
ついに丘の頂上をきわめる望みを捨てた。

【平川祐弘和訳】
それを見た時恐怖のあまり
 度を失い、
 私は丘にのぼる望みを捨てた。

【語句】
weigh=(人・心の上に)重荷となってかかる、圧迫する。
issue=(血・煙などを)出す、発する。
seize=(~を突然ぎゅっと)つかむ、握る、捕まえる。いきなり力づくでつかむ。
 seize the day=carpe diem(カルペ・ディエム、この日をつかめ。)
 take=「ものを取る」の最も一般的な語。
 grasp=しっかりと握る。
at the sight of=~を見て。

【解説】
 ダンテに先立つ「霊界物語」として、ギリシア文学にはホメロスの『オデュッセイア』第11歌にギリシアの英雄オデュッセウスが自分の未来の運命を知ろうとして、妖女キルケーの勧めで冥府に下る話があり、プラトンの対話編『ゴルギアス』524aにも地獄へ下降する男の物語があります。ラテン文学としては、ウェルギリウスの『アエネイス』第6巻に主人公アエネイスが父親に会うために冥府に下降する物語があります。中世に入ると、初期キリスト教文学に次のような彼岸の世界旅行の物語が続々生れています。
「世界が出来てから千年経った時、神の火が邪悪なものを焼き払い、悪への誘惑者である悪魔は火と硫黄の池に投げ入れられた。神は純白の玉座に座り、天のエルサレムは宝石や水晶のように不滅の光を放って輝いていた。この聖都には十二の城門があり、十二人の天使によって守られていたが、城壁は四重に築かれ、その材料は宝石であり、高さは一万二千スタディウム(1スタディウム=606フィート)、その厚さは百四十四キュビト(1キュビト=18インチ)であった。」(『聖ジョヴァンニの黙示録』)
「蜜、乳、油、ぶどう酒なる四種類の川に取り巻かれた四つの都があり、そこに四つの異なる階級の人が住んでいた。・・・都の中央に玉座があり、側に冠と衣が置いてあったが、ここに座るのを許されるのは生前謙遜な生活を営んだ人に限られていた。これは天国界の有様であるが、地獄界では火の河が流れ、生前不信仰な生活を営んだ人が、罪の重さに応じて、あるいは膝まで、あるいは首まで浸けられていたが、浸けられる回数も不信仰な行為を犯した回数に比例していた。それを眺めた聖パウロは涙を流し、天使に戒められた。・・・その外の血の井戸の中には姦通者、色欲者が入れられ、火の柱には白衣を着せられた嬰児殺しの女や黒衣を着せられた不品行の女が縛り付けられていた。地獄界の一番奥には竪井戸の底にタルタロという場所があり、井戸には七つの封印が貼ってあって、中にはヒューマニストと奇跡否定者が閉じ込められていたが、隙間から猛烈な悪臭が洩れていた。」(『聖パウロの黙示録』)


(19)
【C.H.Sisson英訳】
And, like a man whose mind is on his winnings,
When the time comes for him to lose,
And all his thoughts turn into sorrow and tears;

【Mark Musa英訳】
As a man who, rejoicing in his gains,
suddenly seeing his gain turn into loss,
will grieve as he compares his then and now,

【野上素一和訳】
望んでいたものを手に入れた貪欲者が
得たものを失う時になると、思いのすべてを
こめて悲しむものだが、

【平川祐弘和訳】
望みの品を手に入れた者が
 時が経ちその品を手放さざるを得なくなると
 愛惜の念に胸が裂け涙して悲しむが、

【語句】
winning=獲得物。
thought=(理性に訴えて心に浮かんだ)考え、思いつき。
 idea=(心に描く)考え。
 notion=ideaと同じ意味に使われることも多いが、漠然とした、または不明確な意図・考えを意味することもあります。
tears=涙。
rejoice=~を喜ぶ、うれしがる、祝賀する。
gains=収益(金)、利益、報酬、得点。
 No gains without pains.(骨折りなければ利益なし。)
turn into=~に変じる、転化する。
grieve=深く悲しむ。be sorryやbe sadよりも文語的で、意味が強いです。
compare=(類似・相似を示し、相対的価値を知るために)2つを比較する。
 contrast=2者の違いを明確にするために対比・対照する。

【解説】
 12世紀になると、世界各地の説話の中に「彼岸の世界旅行」という幻想文学が現れますが、主要なものとして『聖パトリツィオの井戸』『トゥンダロの幻想録』『聖ブランダーノ』といったアイルランド系の作品(当時、イタリアの港に寄港したアイルランドの船員からもたらされたものと見られます)から、『バビロニアの地獄』や『天のエルサレム』(ジャコモ・ダ・ヴェローナ)といった作品が挙げられ、ダンテはこれらを全て読んでいたとは限りませんが、キリスト教的な説話は教会を通して民間に伝わっていたので、内容は熟知していたのではないかと見られています。また、アラビア文学の中の彼岸の世界旅行記もダンテに影響を与えたとされ、例えば、ムハンマドの昇天、ペルシアのアルダ・ヴィアラフの昇天物語、イブン・アラビの『フトゥハト』(ここに出て来る地獄界や天国界の建物の描写は『神曲』のそれらに酷似していることで知られています)などが挙げられています。
 ちなみに、『神曲』の中でダンテ自らが彼岸の世界旅行を行なったのは1300年4月4日から14日、または3月25日から31日までの6日間であり、『神曲』を書くきっかけとなったのもダンテの夢にベアトリーチェが出てきたことで、ダンテは奇しき幻影から我に返った時、今まで如何なる男も見たことないような、この素晴らしい淑女を主題とする大きな文学作品を書くことを決心したとされ、それを人にも告げているのです。


(20)
【C.H.Sisson英訳】
So I was transformed by that restless animal
Who came against me, and gradually drove me down,
Back to the region where the sun is silent.

【Mark Musa英訳】
so she made me do, that relentless beast;
coming toward me, slowly, step by step,
she forced me back to where the sun is mute.

【野上素一和訳】
安息を人に与えない
この獣に会った時の私の気持ちも同様であった。
牝狼はだんだん私に迫ってきて
私を太陽の沈黙するところのほうへおし戻した。

【平川祐弘和訳】
仮借ない獣が私の望みを断ったさまもそれと似ていた。
 獣は私をさして歩一歩と迫ってくる、
 私はじりじりと退いた、太陽の黙する方へと退いた。

【語句】
transform=(外見・様子)を一変させる、変形(変容、変態)させる。(性質・機能・用途などを)すっかり変える。外形と同時にしばしば性格や機能もすっかり変える。
 change=一部分、または全体を本質的に変える。
 vary=同じものからの離脱を意味し、徐々に、または断続的に変化させる。
 alter=部分的・外面的に変化を加える。
 modify=修正のための変更をする。
restless=落ち着かない、そわそわした、せかせかした。
gradually=徐々に、次第に。
relentless=冷酷な、残忍な、情け容赦のない。
relent=(怒り・興奮などが少しやわらいで)穏やかな気持ちになる、ふびんに思うようになる。
step by step=一歩一歩、着実に。
mute=無言の、沈黙した。
太陽の沈黙するところ=「暗闇の森」のこと。

【解説】
 ダンテの「光」や「太陽」に対するイメージに関して、ダンテが影響を受けた中世の哲学者バルトロメオ・ダ・ボローニャの代表的著作『光に関する論考』の中には、「神すなわち光」「神は精神的太陽」といった新プラトン主義的な言葉がたくさん出てきています。この影響の下に書かれた『饗宴』には次のような文章が出て来ます。
「キリストの教理は光であり、道であり、真理であることを私は確認した。それは妨げられることなく、幸福に達する光である。また、それによるなら誤ることがないから、道である。また、それは世俗的無知と言われる暗闇の中にいる我々を照らすから、真理である。この教理は他の全ての条理に優るが、それはまた我々の不滅性を眺めつつ評価する。」(ダンテ『饗宴』)
ちなみに、この『饗宴』は単なる「宴会」を歌ったものではなく、知識の食物を味わったことのない人に対して、ダンテが提供する知識の食物を賞味するという「特別の精神的宴会」を歌ったもので、プラトンの『饗宴』(シンポジオン)を意識していると思われます。したがって、政治、倫理、文学、神学、天文学など広い領域にわたる古今東西の知識が盛り込まれていて、百科全書的な内容となっています。


(21)
【C.H.Sisson英訳】
While I rushed headlong to the lower slopes,
Before my eyes a man offered himself,
One who, for long silence, seemed to be hoarse.

【Mark Musa英訳】
While I was rushing down to that low place,
my eyes made out a figure coming toward me
of one grown faint, perhaps from too much silence.

【野上素一和訳】
私がまさに低い場所へ落ちこもうとしたとき、
長い沈黙のために声が細くなっていると
思われる者が、目の前に姿を現わした。

【平川祐弘和訳】
私が谷底に逃げる途中、
 目の前に一人の人が現われた、
 長いこと口を利いたことがないらしく声がかすれている。

【語句】
headlong=まっさかさまに。
offer oneself=(チャンスなどが)現われる、生じる、起こる。
hoarse=声がかすれた、かれた(風邪などでのどの表面がざらざらするためにしゃがれ声になる)。
 gruff=(しばしば不機嫌で)声がしわがれた、どら声の。
make out=~をようやく見分ける(判読する、聞き分ける)。
figure=姿、容姿、風采、外観。
grown=自動詞の過去分詞が名詞の後に置かれて修飾しています。この場合、a fallen leave(落ち葉)のように「完了的な意味」を表わします。これに対して、他動詞の過去分詞は「受動的な意味」を表わします。
faint=活気(勇気)の無い、気の弱い。
 Faint heart never won fair lady.(弱気が美人を得たためしが無い。)
低い場所=「暗闇の森」のこと。「倫理的に低い所」という意味も持っています。
長い沈黙=ダンテは、ヴィルジリオ(ウェルギリウス)が「辺獄」(リンボ)で長い間、沈黙して暮らしていたと想像しました。「辺獄」とは「地獄」の第1圏で、洗礼を受けなかった者が、呵責こそ無いものの、希望も無いまま永遠の時を過ごす場所として描かれています。

【解説】
 ウェルギリウスはキリスト以前に生まれたため、キリスト教の恩寵を受けることがなく、ホメロスら古代の大詩人と共に、未洗礼者が置かれる「辺獄」にいたのですが、「地獄」に迷い込んだダンテの身を案じたベアトリ-チェの頼みにより、ダンテの先導者としての役目を引き受けて「辺獄」を出たのです。
 ちなみにダンテが『神曲』を執筆していて、最も気がかりなことが2つあり、1つはイスラーム教徒でありながら、優れたアリストテレス学者であったアヴェロエスやアヴィケンナを「辺獄」に住まわせていいかどうかということと、聖トマスの論敵でパリ大学の教授ブラバンテを「天国」の第4天(太陽天)に聖トマスの霊魂と共に住まわせていいかどうかということでした。前者についてはそれほど心配ではなかったとされますが、後者の悩みは深刻で、これに対してはラヴェンナの大司教が、これらの人々をそれぞれ「辺獄」や「天国」に置いても大丈夫だと太鼓判を教えてくれたので、安心して先を書き続けたようです。ラヴェンナの大司教の権威は非常に重く、その決定に対してはヴァチカンも口をはさむことを控えるほどでした。ダンテは問題になりそうな点をいちいちこの大司教に相談していたのです


(22)
【C.H.Sisson英訳】
When I saw that fellow in the great desert,
I cried out to him: ‘Have pity on me,
Whatever you are, shadow or definite man.’

【Mark Musa英訳】
And when I saw him standing in this wasteland,
“Have pity on my soul,” I cried to him,
“Whichever you are, shade or living man!”

【野上素一和訳】
私がその者をひろい人気のない場所にみつけると
大声で叫んだ、「私に憐れみをかけてください
あなたは影か真実の人間かどちらですか」
【平川祐弘和訳】
この人気のない場所でこの人を見かけた私は
 大声で叫んだ、「お助けください、
 人であれ影であれ、この私をお助けください」

【語句】
fellow=(漠然と)人。
 A fellow must eat.(人は食わねばならない。)
pity=哀れみ、同情(on, for)。自分より劣っていたり、弱い立場にある人に対する哀れみの気持ちを表わすことが多いです。
 have pity on=~を気の毒がる。
 Pity is akin to love.(かわいそうだと思う心は愛情に近い。)
 sympathy=相手の悲しみ・苦しみを理解し、共に悲しんだり、苦しんだりする気持ちを表わします。
 compassion=通例、積極的に相手を助けようとする気持ちを含みます。
shadow=光がさえぎられて出来る輪郭のはっきりした影、亡霊。
 shade=光・日光が物体にさえぎられて出来る、暗い陰、日陰。亡霊(文語)。
definite=明確な、確定的な。
wasteland=荒地、不毛の地。
soul=(肉体に対し)魂、霊魂、霊。spiritよりも宗教的意味合いが強く、不死・良心・美徳・理性などの象徴(⇔body, flesh)。魂が宿る心(知性・理性の宿る心はmind、喜怒哀楽などの感情が宿る心はheart)。

【解説】
 ウェルギリウスがいる「辺獄」には、ギリシア・ローマ・アラビアの偉人が多数いるとされます。例えば、トロイアの建設者ダルダノスの母エレクトラ、トロイア王の長子ヘクトル、ローマの将軍ユリウス・カエサル、アマゾン王パンタシレア、アエネイスの妻ラヴィーナ、イスラームの王サラディン、ギリシアの哲学者ソクラテス、プラトン、アリストテレス、原子論を説いたデモクリトス、ディオゲネス、アナクサゴラス、タレス、エンペドクレス、ヘラクレイトス、ストア哲学の祖ゼノン、薬草の研究で有名なディオスクリデス、詩人兼音楽師のオルフェウス、ローマの雄弁家キケロ、詩人兼音楽師リノス、ローマの哲学者セネカ、幾何学者ユークリッド、アレクサンドリアの天文学者プトレマイオス、ギリシアの名医ヒポクラテス、ガノレスなど、そうそうたる顔ぶれが揃っています。  ちなみにプラトンは「イデア」の世界を本質とし、現実世界はその「影」のようなものだとしましたが、アリストテレスは感覚的世界を真の実在とし、「形相」(エイドス。イデアに相当)を感覚的世界に内在する不変の構成原理としました。これに対して、『神曲』では「霊界」(本質世界)にいる「魂」を生きて肉体を持っている人間と比較して、「影」のようなものだとしているのです。


(23)
【C.H.Sisson英訳】
And he replied: ‘Not a man, though I was one,
And my parents were people of Lombardy,
Mantuans, both of them, they were born and bred there.

【Mark Musa英訳】
“No longer living man, though once I was,”
he said, “and my parents were from Lombardy,
both of them were Mantuans by birth.
【野上素一和訳】
彼は答えた、「人間ではない人間だったものだ。
両親はロンバルディアの者だったし、ふたりとも生れはマントヴァだった。
【平川祐弘和訳】
彼が答えた、「いまは人ではないがかつては人だった、
 両親はロンバルディーアの者で
 国は二人ともマントヴァだ。

【語句】
reply=質問・要求などに対して考慮を払った上で答える、返事をする、応答する。
 answer=質問・命令・呼びかけ・要求などに応じる答えを意味する、最も一般的な語です。
 respond=問いかけ・訴えなどに対する反応として即座に応答する。
breed=(人を)養育する。bred(過去形・過去分詞)。
 What is bred in the bone will not (go) out of the flesh.(生来の性分は骨肉に徹している、隠しおおせない。)
no longer=not~any longer、もはや~しない(でない)。
by birth=生まれは、生まれながらの、生粋の。
ロンバルディア=現在のロンバルディアはミラノを中心とする北イタリアの行政地区ですが、ダンテの時代には北イタリア全部の総称でした。
マントヴァ=イタリア北部のヴェロナとボローニャの中間にある古都。

【解説】
 ウェルギリウスは「ローマ帝国のホメロス」になろうとした詩人で、ヨーロッパ文学史上、ラテン文学において最も重視される詩人です。『牧歌』、『農耕詩』、『アエネイス』という3つの叙情詩及び叙事詩を残しました。これらは一行が6つ(hexa)の韻脚からなる「ヘクサメトロス」という韻律で書かれた詩で、牧歌の創始者として知られる古代ギリシアの詩人テオクリトスと同一又は類似の韻律を踏襲しています。特に遺稿として残された『アエネイス』(「アイネイアスの物語」の意)はウェルギリウスの最大の作品であり、ラテン文学の最高傑作とされます。『アエネイス』以後に書かれたラテン文学で、『アエネイス』を意識していない作品は皆無です。 ウェルギリウスに由来するフレーズとしては、例えば「愛は全てに勝つ」(アモル・ウィンキット・オムニア、Love conquers all. チョーサーの『カンタベリー物語』の序歌で、尼僧院長の金のブローチにこの句が刻まれていたとあり、有名になりました)や「時は飛び去る」(テンプス・フーギト、Time flies.)といったものがあります。


(24)
【C.H.Sisson英訳】
I was born sub Julio, although it was late
And I lived in Rome under the good Augustus
In the time of the gods who were false and told lies.

【Mark Musa英訳】
I was born, though somewhere late, sub Julio,
and lived in Rome when good Augustus reigned,
when still the false and lying gods were worshipped.

【野上素一和訳】
私はユリオの晩年に生まれて
善良なアウグストの御代に
虚偽と虚言者の時代にローマに住まった。

【平川祐弘和訳】
生まれたのはユリウス・カエサルの時代、それも後期だ、
 そして良きアウグストゥス帝の御代にローマで暮した、
 嘘偽りの異教の神々の時代だった。

【語句】
false=間違った、誤った、虚偽の(⇔true)。
lie=(故意に人をだまそうとしてつく)うそ、偽り、虚偽(⇔truth)。強い非難の感情が含まれた語です。
 fib=実害のない軽いうそ。ささいな(罪のない)うそ。
 falsehood=わざと言ううそだが、止むを得ない場合のうそ。
lie=うそをつく。lied(過去形・過去分詞)、lying(現在分詞)。
somewhere=(数量・時刻・年齢など)おおよそ、大体。
reign=主権を握る、君臨する。帝王としての位置を占める。これは君主の位置にあることを意味し、必ずしも支配・統治することは含まれません。
 govern=権力のある者が政治を行なって支配する。
 rule=国王・政府などが権力を行使して、国・国民などを直接的に完全支配する。
 The British sovereign reigns but does not govern.(英国の君主は君臨するが、統治はしない。)
worship=(神などを)礼拝する、拝む、崇拝する。絶対的な尊敬・敬愛の念を抱く。
 revere=大きな尊敬・感情の気持ちを抱く。
 adore=心からの敬意と愛情を抱く。
ユリオの晩年=原文ではsub Julio(subは「~の間に、~の時に、~の下に、~の支配下に」)とありますが、ヴィルジリオ(ウェルギリウス)はジュリオ・チェーザレ(ユリウス・カエサル、紀元前100~44年)に遅れること29年、その晩年に生まれたことを示しています。カエサルはローマ最大の政治家であり、『神曲』では彼の暗殺者は地獄界の一番底に置かれています。
善良なアウグスト=ローマ皇帝アウグストゥス・オクタウィアヌス(紀元前63~後14年)を指します。

【解説】
 カエサルは古代ローマ最大の軍人、政治家にして文筆家としても知られ、ドイツのローマ法学者モムゼンは「ローマが生んだ唯一の創造的天才」と賞賛しています。カエサル暗殺後、「アウグストゥス時代」が到来しますが、それはラテン文学の「黄金時代」とも呼ばれ、直前の散文全盛期とは対照的に詩歌の全盛時代となり、その代表者がウェルギリウスでした。


(25)
【C.H.Sisson英訳】
I was a poet, and I sang of the just
Son of Anchises, the man who came from Troy,
After the proud Ilion had been burnt down.

【Mark Musa英訳】
I was a poet and sang of that just man,
son of Anchises, who sailed off from Troy
after the burning of proud Ilium.

【野上素一和訳】
私は詩人だったが、驕る城イリオンの
落城の後でトロイアからやってきたアンキーセの
嫡子のことをうたったこともある。

【平川祐弘和訳】
私は詩人だった、だからトロイアから来たアンキセスの
 正義感の強い息子(アエネアス)のことを歌った、
 誇り高いトロイアの城は焼け落ちてしまったからだ。

【語句】
poet=詩人。
sing of=~を詩(歌)に作る。
proud=高慢な、尊大な、うぬぼれた、思い上がった(⇔humble, polite)。
 haughty=傲慢な、高慢な、横柄な(very proud)。
burn down=全焼する、焼け落ちる。
Ilion=イリオン、トロイアのギリシア語名。
Ilium=イリウム、トロイアのラテン語名。
sail=船で行く、出帆する、出港する。
トロイア=小アジアの海岸にあった都市で、トロイア戦争で知られています。トロイア戦争とは、トロイア王プリアモスの子パリスがスパルタ王メネラオスの下に客人として滞在中、王妃ヘレネに恋をして、彼女を奪って帰国したために、それを奪還せんとして攻めて来たギリシア軍との間に10年にわたって起こった戦争です。 アンキーセ(アンキセス)=カピュスとダルダノス王の娘テミステの子。トロイア落城の時、アイネイアスに背負われて脱出しました。
アンキーセの嫡子=アンキーセ(アンキセス)と女神アプロディテとの間に生まれた英雄アエネアスのこと。彼はトロイア戦争時にはトロイア方の名将でしたが、落城後は各地を漂白し、イタリアに着いてからはトゥルヌスを殺して、ローマ建国の基礎を作りました。彼の子アスカニオ(アスカニウス)はアルバ・ロンガを建設、その子孫のロムルスはローマを建設しました。

【解説】
 ウェルギリウスの『アエネイス』第2歌に「我々はトロイア人であった。イリウム(トロイアのこと)があった。」という言葉が出て来ますが、これは「輝ける祖国トロイアも今は無く、我々はもはやトロイア人ではなくなった」という意味です。あるいは第1歌にも、カルタゴ女王ディドが女神ユノに捧げた神殿に描かれていたトロイア戦争の絵を見て、アエネイスが部下の兵士達に言う言葉に「ここにも人の世に注ぐ涙があり、人間の苦しみは人の心を打つ」という表現が出て来ており、人口に膾炙(かいしゃ)していました。


(26)
【C.H.Sisson英訳】
But you, why do you come back to such disturbance?
Why do you not climb the delightful mountain
Which is the beginning and reason of all joy?’
【Mark Musa英訳】
But why retreat to so much misery?
Why not climb up this blissful mountain here,
the beginning and the source of all man’s joy?”

【野上素一和訳】
だが、きみはなぜふたたび苦悩の場所へ戻るのだ。
どうしてすべての喜悦の源である
歓楽山へ登ろうとはしないのだ」

【平川祐弘和訳】
だがおまえ、なぜこの苦悩の谷へ引き返すのか?
 なぜ喜びの山に登らないのか、
 あらゆる歓喜の始めであり、本(もと)である、あの喜びの山に?」

【語句】
disturbance=騒ぎ、妨害、騒動、傷害。動揺、不安、心配。
reason=理由、根拠。
joy=有頂天になるような大きな喜び・幸福感。
 pleasure=楽しい気持ち・満足感・幸福感を含む、喜びを表わす、最も一般的な語です。
 delight=pleasureよりも強い喜びを表わし、身振り・言葉などによってはっきりと外面的に表わされます。
 enjoyment=一時的な満足からかなりの期間にわたる深い幸福感まで表わし、満足感を静かに味わうことを示します。
retreat=余儀なく退く、後退する、退却する(from~to…)。
 retire=(軍隊が)(~から…まで)後退する、撤収する。計画的な場合、または婉曲的に表現する時に用います。
miser=惨めさ、悲惨、苦痛、苦悩。
blissful=至福の、この上な幸せな。
source=源泉、元、源、原因。
歓楽山=「煉獄(浄罪)山」とも呼ばれ、「煉獄(浄罪界)」はこの上にあります。ダンテが登りかけた「丘」は、この麓だったのです。

【解説】
「地獄」は救いの無い場所、「天国」は罪の一切無い場所と定義されますが、「煉獄」はキリスト者として罪の贖いを受けて救いが約束されていながら、小罪及び罰の償いが残っているため、浄化を必要とする者のためにある場所と考えられています。聖書には具体的な記述はありませんが、『マタイによる福音書』第12章32節において、後の世で赦される可能性が述べられていること、および旧約聖書外典『マカバイ記』Ⅱの第12章43節において、罪を犯した死者のために執り成しの祈りを認めていることを根拠にしています。カトリック教会ではこのような「煉獄」の死者のための祈りなどを行う伝統がありましたが、「教皇の免償の権威が死者にも及ぶのか」という問いをマルティン・ルターが投げかけたことが宗教改革の発端となったという歴史的経緯から、プロテスタントの諸教派は「煉獄」の概念を否定しました。また、第二ヴァチカン公会議以降の「教会の現代化」の流れにより、現代のカトリック教会で煉獄について言及されることはほとんどありません。一方、東方正教会には、「パニヒダ」(永眠者の為の祈り)というものがあります。


(27)
【C.H.Sisson英訳】
‘Are you indeed that Virgil, are you the spring
Which spreads abroad that wide water of speech?’
When I had spoken, I bowed my head for shame.

【Mark Musa英訳】
“Are you then Virgil, are you then that fount
from which pours forth so rich a stream of words?”
I said to him, bowing my head modestly.

【野上素一和訳】
「それでは、あなたは末は豊かな言葉の河を
ひろげている水源ともいうべきヴィルジリオですか」
と私は面はゆい気持で答えた。

【平川祐弘和訳】
「ではあなたがあのウェルギリウス、
 あの言葉の大河の源流となられた方ですか?」
 と私ははずかしさに面(おもて)を赤らめて答えた。

【語句】
indeed=(強調に用いて)実に、実際に、全く。
spring=泉。
abroad=広く。
speech=話し言葉、話すこと。
 Speech is silver, silence is golden.(雄弁は銀、沈黙は金。)
bow=(頭・首を)下げる、垂れる。(ひざ・腰を)かがめる。
shame=恥ずかしい思い、恥ずかしさ。
fount=(詩語)泉、源泉。
pour=(液体などが)流れ出る。(言葉などが)早口に出る、どっと口をついて出る。
forth=前へ、外へ。
stream=流れ、奔流、小川。
 river=海や湖に直接流れ込む、比較的大きな川。
 brook=水源からriverに至る小川で、文語的。
modestly=謙遜して、謙虚に、控えめに。
 modest=自己主張を余りせず、控えめでつつましやかな。
 shy=性格的にまたは人との交際に慣れていないために人と接したがらない、人前ではにかみの強い。
 timid=自信が無く、おずおずして内気な。
 humble=柔和で、高慢や独断的な所が無く、へりくだった。卑屈の意で使われることもあります。

【解説】
「ダンテの『神曲』から、その基本材料となっている聖書やアリストテレスの哲学者やトマス・アクィナスの神学を取除いたとしても、そこに残るものがある。確実に残るものがある。それは何か。ギリシャ神話やウェルギリウスの詩篇などによって養われたダンテの詩的映像(イメージ)である。ダンテの『神曲』ことに「地獄篇」を不朽のものにしているのは、この詩的映像の造型性と感覚の新鮮さにある。それに、その理想精神の高さと現実の醜悪・悲惨えぐり出しの烈しさにある。」(北川冬彦)


(28)
【C.H.Sisson英訳】
‘You are the honour and light of other poets;
My long study and great love give me strength
Now, as they made me pore over your book.

【Mark Musa英訳】
“O light and honor of the other poets,
may my long years of study, and that deep love
that made me search your verses, help me now!

【野上素一和訳】
「おお、あなたは他の詩人たちの名誉と
栄光なのです。ご著述をながらく研究し
深い尊敬を払っている私を助けてください。

【平川祐弘和訳】
「おお、あらゆる詩人の名誉であり光であるあなた、
 長い間ひたすら深い愛情をかたむけて
 あなたの詩集をひもといた私に情けをおかけ下さい、

【語句】
hono(u)r=名誉。
pore over=(本などを)熟読する、じっくり研究する。
may=(祈願・願望・呪いを表わして)願わくは~ならんことを、~させたまえ。mayは必ず主語の前に置きます。
verse=詩句。
search=探す。調べる。
 research=研究する、調査する。新しい事実・科学的法則などを発見する目的で、特に高度な知識をもって綿密周到な調査を行なう。
 examine=厳密に観察し、試験して、調査・吟味する。
 investigate=組織的調査によって事実を見出す。

【解説】
 ダンテは言語としての完全な機能を有する理想的な言葉の典型として、「輝ける俗語」(ヴォルガーレ・イルストレ)という概念を考え出しました。それは「枢軸的」(扉が枢軸を中心に四方に回転するように「どこでも通用する」という意味)、「宮廷的」(宮廷は全王国の共通の家であるので、「どこでも共通の」という意味)、「法定的」(「公平無私な」という意味)でなければならないとしています。さらに音楽性があること、音声が警戒なこと、典雅な構造を持つこと、話し方に表現性があることなどをその条件として挙げているのです。これをふまえて、彼はヨーロッパの民族をギリシア人、ゲルマン人、ラテン人の3つに分類し、その中でラテン人の言語を3分して、「オイルの言語」(肯定的な返事を「オイル」と表現する言語。フランス語)、「オクの言語」(プロヴァンス語)、「シの言語」(イタリア語)としました。これらは「ロマンス語」という総合的な名称で呼ばれますが、当時「グラマティカ」と呼ばれたラテン語から派生したと説明しています。イタリア語の方言については、イタリア半島を南北に走るアペニン山脈の分水嶺によって東西に分け、東部に7つの方言を、西部にも7つの方言を認めて、全部で14の方言があるとしていますが、これらを「輝ける俗語」という観点から、詩を書くのに適するかどうかという尺度で価値付けています。例えば、「ローマ方言」は最も醜悪を放つから不適格とし、「トスカナ方言」も魯鈍(おろかでにぶいこと)な言語として不適格にしています。そして、各地の方言を検討した後に、「トスカナ方言」の中の「フィレンツェの言葉」に対して、語彙に素晴らしいものがあると褒めているのです。


(29)
【C.H.Sisson英訳】
You are my master, and indeed my author;
It is from you alone that I have taken
The exact style for which I have been honoured.

【Mark Musa英訳】
You are my teacher, the first of all my authors,
and you alone the one from whom I took
the noble style that was to bring me honor.

【野上素一和訳】
あなたは私の先生で、また私の愛好する作家です。
私の名前を有名にした美しい文体は、
あなただけから学びとったものです。

【平川祐弘和訳】
あなたは私の師です、私の詩人です。
 私がほまれとする美しい文体は
 余人ならぬあなたから学ばせていただきました。

【語句】
master=特殊な技芸の師匠。
author=作家。
style=文体。
exact=的確な、正確な、精密な。事実・真理・規準に完全に合致している。
 correct=規準に合って間違いのない、一般的に認められた慣習に合った。
 accurate=注意・努力を払った結果として正確である。
 precise=細かい点に至るまで正確である。
hono(u)r=名誉・栄光を与える。
noble=高潔な、気高い、崇高な、立派な、堂々とした、壮大な、見事な、素晴らしい。
be to do=予定、義務、可能(to be doneを従える)、運命(通例過去時制で)。

【解説】
 ダンテはウェルギリウスに大いに学びましたが、そのダンテに大いに学んだのがペトラルカ(1304~1374)とボッカッチョ(1313~1375)の2大詩人でした。ペトラルカは優雅哀艶な恋愛抒情詩で名高く、ダンテがベアトリーチェを讃えたように、彼は主として愛人ラウラを歌って、その詩は非常な影響を後の詩人達に及ぼしていす。また、ボッカッチョの短編小説集『デカメロン』(十日物語)は「近代小説の始祖」と呼ばれるものです。ちなみにダンテが死んだ時、ペトラルカは17歳、ボッカッチョは8歳でした。
実はダンテと従弟フランチェスコがアレッツォで暮らしていた時、隣家にはやはり政治的理由でフィレンチェから亡命していたペトラッコなる者がおり、そのペトラッコにはやはりフランチェスコという名前の子供がいて、ダンテはこの子供をたいそう可愛がったといいます。この子供が後に改名してフランチェスコ・ペトラルカを名乗り、後にダンテと共に人文主義運動を推進した有名な詩人となるのです。また、ボッカッチョは『ダンテ伝』(これに刺激されて、その後、多くの「ダンテ伝」が現われています)を書いたことでも有名ですが、幼少の頃から周囲にはダンテの友人や関係者が多くおり、特にボッカッチョの父親ボッカッチョ・ディ・ケリーノが同じ金融業者の仲間でもあるダンテの親類と取引があったことが好都合だったようです。1365年にダンテ生誕百年祭に当たって、フィレンツェ当局がラヴェンナの女子修道院にいるダンテの娘ベアトリーチェに贈り物をするように勧め、その使者役を務めたのもボッカッチョであり、1373年にフィレンツェが主催して『神曲』講読の講座を開いた時も、その講師になったのはボッカッチョでした。


(30)
【C.H.Sisson英訳】
Look at the animal which made me turn back;
Help me to handle her; you are famous for wisdom,
For she makes my veins and pulse shudder.’

【Mark Musa英訳】
You see the beast that forced me to retreat;
save me from her, I beg you, famous sage,
she makes me tremble, the blood throbs in my veins.”

【野上素一和訳】
私が思わず背を向けたあの野獣を見てください。
有名な賢者よ、私をあの獣から救ってください。
あいつは私の血管と脈を震えあがらせますから」

【平川祐弘和訳】
見てください獣を、あれに追われて戻ってきたのです、
 先生、狼から私をお助けください、
 あいつがいると、脈も血管もふるえが止まらないのです」

【語句】
handle=(人・動物などを)扱う、統御する。
wisdom=賢明、知恵、分別、知識、博識。
 wise=賢明な。知識・経験が豊かで、物事を正しく判断し、対処する能力がある。
 clever=賢い、才気のある、如才ない。「頭の回転は早いが(しばしば)深さに欠ける」ことも意味し、「ずる賢い」という意味を伴うこともあります。
 bright=子供などが頭がいい。
vein=静脈(⇔artery)、血管。
pulse=脈拍、鼓動。
shudder=(恐れ・寒さなどで)震える。恐怖やけいれんで突然引きつったように体ががたがた震える。
 shake=(寒さ・怒りなどで)ぶるぶる震える。「震える」という意味の最も普通の語です。
 tremble=恐怖・疲労・寒さなどのために体の一部が無意識にぶるぶる震える。
 shiver=寒さ・恐怖のために瞬間的に体全体がぶるっと震える。
 quake=烈しい興奮や恐怖で体が大きく震える。
 quiver=小刻みにぴりぴりと振動する。
beg=(許し・恩恵などを)頼む、懇願する、請う。
sage=賢人、哲人。
 the Seven Sages (of Greece)=古代ギリシアの7賢人。
throb=(心臓が)鼓動する、(脈が)打つ、激しく動悸がする、どきどきする、震える。
野獣=原文では単数になっていますが、これは豹、獅子、牝狼の3匹の獣のうち、最も恐ろしい牝狼を指したからです。

【解説】  ダンテは自然科学の各分野に関心を示していますが、中でも人間学の一環として医学に興味を持っており、「心臓の奥の秘めた部屋に住む生命の霊がひどく震え始めたので、その戦慄はいとも細い血脈にまで伝わった」(『新生』)や「血管を伝わって四散した血が心臓を目指して流れ去る時、私は蒼白になるのである」(『詩集』)とあるように、ダンテの作品には心臓や血液に関する記述が多く見られます。


(31)
【C.H.Sisson英訳】
‘You will have to go another way than this,’
He answered, when he saw that I was weeping,
‘If you want to get away from this wild place:

【Mark Musa英訳】
“But you must journey down another road,”
he answered, when he saw me lost in tears,
“if ever you hope to leave this wilderness;

【野上素一和訳】
「きみは別の道をとらねばいけないね」
私が涙ぐむのを見て彼は答えた、「もしきみが
この恐ろしい場所からのがれようと思うなら。

【平川祐弘和訳】
「この荒地から脱けだしたいのなら
 別の道を行く方がおまえにはいいらしいな」
 と私の泣き顔を見て先生が答えた。

【語句】
than=(other, otherwise, else, anotherなどの後で)~より他の(に)、~以外に。
weep=涙を流す、泣く。「声をあげずに泣く」で、特に涙を流すと示す文語的な語です。
 cry=声をあげて泣く。
 sob=声をつまらせたり、しゃくりあげたりしてすすり泣く。
get away=~から立ち去る、離れる。
wild=(土地など)荒れ果てた、人の住まない。
lost=道に迷った、当惑した、放心したような。
in tears=涙を浮かべて、泣きぬれて。
if ever=もし~だとしたら、~だとしても。
wilderness=荒れ地、荒れ野。
 a voice (crying) in the wilderness=荒れ野で呼ばわる者の声、世に入れられない改革者の叫び(聖書「マタイ伝」より)。
別の道=「丘」へ直接自力で行くのではなく、地獄を一度見てから、すなわち「別の道」を通って行くことをウェルギリウスが勧め、彼が自らその案内を引き受けるわけです。

【解説】
 「丘」といった場合、キリスト教徒にまず浮かび上がるイメージはやはり「ゴルゴタの丘」(「ゴルゴタ」はしゃれこうべの意、日本語では「ゴルゴダ」で広まっています)でしょう。その丘には3本の十字架が立ち、真ん中にイエス・キリスト、左右には強盗が磔刑に遭った場所です。イエス・キリストは十字架上で敵を愛し、迫害する者のために祈って、息を引き取ります。パウロ以来の「十字架贖罪論」では「全ての人類の罪を背負って十字架についた」ということになります。そして、3日間、地獄へ行って旧約時代以来の聖徒達を解放すると、「復活」して天上に上り、さらに「聖霊」による「ペンテコステ」(聖霊降誕)が起きて「キリスト教」が出発するのです。
 これに対して、ダンテは「暗闇の森」から「丘」を仰ぎ見て希望を感じましたが、「豹」「獅子」「牝狼」の3匹の獣に道を遮られて絶望にかられるも、ローマ第一の詩人ウェルギリウスという導き手、さらには「理想的女性」を象徴するベアトリーチェを得て、地獄から煉獄、天国へと至る旅に誘われるのです。これは「十字架のイエス」に対する「信仰」によって天上へ行く道(ペテロやパウロら使徒達が行った「殉教の道」に他なりません)から、「理性」による助けを得ながら天上へ行く道(中世スコラ神学の最大のテーマは「信仰」と「理性」の調和にありました)への転換を意味していることになるでしょう。


(32)
【C.H.Sisson英訳】
For that beast, which has made you so call out,
Does not allow others to pass her way,
But holds them up, and in the end destroys them;

【Mark Musa英訳】
this beast, the one you cry about in fear,
allows no soul to succeed along her path,
she blocks his way and puts an end to him.

【野上素一和訳】
というのは、君に思わず叫び声をたてさせた
あの獣は他人がその道を通るのを許さず、
それを妨げて殺してしまうからだ。

【平川祐弘和訳】
「おまえが恐がって泣きわめいているあの獣は
 よそ者が自分の道を通るのを放っておきはすまい、
 必ずやこっぴどくいじめて挙句に喰い殺すだろう。

【語句】
call out=大声で叫ぶ、(人に)~を求めて叫ぶ。
hold up=~の進行をさえぎる、遅らす、~を妨げる、~を引き止める。
in the end=ついに、とうとう、結局は。
destroy=破壊する、築き上げたものを破壊してだめにする意の最も一般的な語。(敵などを)滅ぼす、全滅させる。
 ruin=修復が不可能なほどに破壊する。
 wreck=乱暴で手荒い手段によって壊す。
succeed=続く、成功する、うまくいく。
path=人や動物が歩いて出来た小道、細道。
block=道路などをふさぐ、(進路・行動などを)妨げる。
put an end to=make an end of (to, with)、~を終わらせる、除く、廃止する、(動物などを)殺す。

【解説】
 「自己との戦い」「自己省察」という点では、ペトラルカの証言が意義深いでしょう。彼は右手にリヨンの山々、左手にマルセイユの海、眼下にローヌ川の流れが見える景勝の地で宿願の山に登っていますが、にわかにアウグスティヌスの『告白』を読んでみたくなり、そこでまず目を留めた所に「人々は外に出て、山の高い頂、海の巨大な波浪、河川の広大な流れ、広漠たる海原、星辰の運行などに讃嘆し、自己自身のことはなおざりにしている」(『告白』第10巻8章)と書かれていて、愕然としました。さらにふり返って見れば、アウグスティヌスもパウロの「ローマ人への手紙」を読んでいて、「酒宴と酩酊、淫乱と好色、争いと妬みとを捨てよ。主イエス・キリストを着よ。肉欲を満たすことに心を向けるな」(「ローマ人への手紙」第13章)という言葉が目に入り、劇的な回心に導かれたという事実も想起されたようです。彼は登山にいそしんでいた自分が愚かに思え、「体を少しばかり天に近づけるためにすら、これほどの汗と労苦を引き受けることを厭わなかったとすれば、増長せる傲慢の頂を踏みつけ、死すべき人間の運命を見下して、神に近づこうとする魂にとっては、如何なる十字架や牢獄も拷問も恐れるに足ろうか」と考えたのです。さらに「苦難を恐れ、逸楽を望んで、この狭い道から離脱していくことのないような人が一体どれだけいるだろう。もしどこかにいるとすれば、まことに幸福な人だ」として、ウェルギリウスもこうした人のことを念頭に置いて、「幸いなるかな、万象の究極を見極めることを得て/あらゆる恐怖 非常な運命 貪婪な冥府の河の阿鼻叫喚を/己の足下に踏み敷いた人!」(『農事詩集』)と歌ったのだとしています。そして、「おお、我々が懸命に努力すべきは、地上の高所を足下にすることではなく、地上的なものにかきたてられて膨れ上がった欲望をこそ足下に踏みつけることではないのか!」と考え、即座に山を下りるのです。


(33)
【C.H.Sisson英訳】
And is by nature so wayward and perverted
That she never satisfies her willful desires,
But, after a meal, is hungrier than before.

【Mark Musa英訳】
She is by nature so perverse and vicious,
her craving belly is never satisfied,
still hungering for food the more she eats.

【野上素一和訳】
また性質も非常に邪悪で罪深く飽くことのない
貪欲を満足させたことはかつてなく、
ものを食べると前よりいっそう飢餓を感じるのだ。

【平川祐弘和訳】
生まれつき凶悪無残
 血に飢えて飽くことを知らない、
 食った後の方が食う前よりもなおひもじいという奴だ。

【語句】
by nature=生来、本来。
 Nature is the best physician.(自然は最良の医師。)
 Habit is second nature.(習慣は第二の天性。)
wayward=(人・性質・態度など)言うことをきかない、強情な、わがままな。
perverted=邪道に陥った、誤った、歪んだ。
 pervert=(人を)邪道に導く、(判断を)誤らせる。
 perverse=正道を踏み外した、誤っている、邪悪な。
satisfy=欲望・希望・必要などを十分に満足させる、意を満たす。
 content=それ以上は望まない程度に満足させる。
willful=わがままな、強情な、片意地な。
meal=食事(三度の食事は、朝食がbreakfast、昼食がlunch、夕食がdinner)。
vicious=悪意のある、意地の悪い、ひどい、悪性の。
crave=しきりにしたがる、必要とする。
belly=腹、胃、食欲。
(all) the more=(通例、理由や条件の句・節を伴う。~なので、~なら、それだけ)ますます、なおさら。

【解説】
 例えば、アウグスティヌスはマニ教を信じていた9年間を振り返って、次のように言う。
「19から28歳に至る9年間(373~382年)、私達は様々な情欲のままに迷わされながら迷わし、だまされながらだましていました。表立っては自由学芸(文法、修辞学、弁証法、数学、幾何学、天文学、音楽)と称される諸々の学問を通じ、隠れては宗教の虚名の下に、前においては高ぶり、後においては迷信深く、しかし、そのいずれにおいても私達は空しかった。
 一方でははかない世俗の名誉を追い求め、劇場の喝采、詩の競演、乾草の冠を目指す競技、馬鹿げた見世物、だらしのない情欲にうつつを抜かしながら、他方ではこれらの汚れから清められたいと願って、『選ばれた人』とか「聖者」とか呼ばれる人々の下に、食物を運んでいました。彼らはその食物を腹の中で料理して、我々を救済する天使や神々をこしらえてくれるはずでした。実際、私はこういう馬鹿げたことに夢中になり、私によって、私と共にだまされていた友人達と一緒に、そのようなことをしていたのです。」(『告白』第4巻第1章)


(34)
【C.H.Sisson英訳】
Many are the animals she makes herself a wife to,
And there will be more of them, until the Greyhound
Comes, who will make her die a painful death.

【Mark Musa英訳】
She mates with many creatures, and will go on
mating with more until the greyhound comes
and tracks her down to make her die in anguish.

【野上素一和訳】
その獣は多くの獣と交尾して種族をふやし
ついにはヴェルトロが現われてそれを苦しめて
殺してしまうまで繁殖をつづけるだろう。

【平川祐弘和訳】
あいつがつるむ獣の数は多いから、
 将来はもっとふえるだろうが、結局は猟犬(ヴェルトロ)が現われて
 あいつをなぶり殺すだろう、

【語句】
greyhound=グレーハウンド(快足の猟犬)。
die=(同族目的語のdeathが修飾語を伴って)~の死に方をする。
painful=痛い、苦しい、つらい。
mate with=(鳥・動物が)~とつがう、交尾する。
creature=生き物、(特に)動物。
go on doing=~し続ける。
track A down=Aを(痕跡・証拠などをたどって)突き止める、探知する。
make=無理やりさせる。
 let=少々特別にさせてあげる、することを許す、することをゆずる。
 have=当然してもらう。makeとhaveの中間で、「やってもらうのは当然」という事情を示します。
 get~to=少々特別にしてもらう、納得させて何かをしてもらう。
in anguish=苦悶して。
ヴェルトロ=ダンテが使用した謎の言葉の1つです。通常の意味は「猟犬」ですが、注釈者達はそれがキリスト、教皇、皇帝、ルクセンブルク王アリーゴ七世、カングランデなどを暗示すると考えてきました。次に出て来る「金銭(ベルトロ)」「フェルトロ」と掛けているものと思われます。

【解説】
 ミルトンの『失楽園』には、「サタン」が天使の3分の1を率いて神に叛逆した時、その頭から女神たる「罪」が生まれ、「サタン」は自らの子でもある「罪」と交わって、さらに「死」を生んだという凄まじい描写が出て来ます。そして、「死」は自らの母たる「罪」を凌辱し、一群の「地獄の猟犬」と呼ばれる怪物を生んだというのです。「罪」は上半身こそ美しい女体ですが、下半身は醜い蛇の姿であり、「地獄の猟犬」どもはその母の腹部の周りで吠え喚き、何かあれば母の胎内に潜り込んで、そこを臥所とするのです。「罪」と「死」の2人は地獄の門の両脇に座っていますが、「罪」によって地獄の門が開かれ、「サタン」はそこへ入って行きます。いずれにしても「悪」が「罪」を生み、「罪」が「死」を生み、「地獄」の門を開くといったように、次々と「繁殖」していく様がよく分かり、これを断ち切るのが「神の子」「救い主」「キリスト」だというのです。


(35)
【C.H.Sisson英訳】
He will not feed on land nor yet on money,
But upon wisdom, love, and upon courage;
His nation will be between Feltro and Feltro.

【Mark Musa英訳】
He will not feed on either land or money:
his wisdom, love, and virtue shall sustain him;
he will be born between Feltro and Feltro.

【野上素一和訳】
ヴェルトロは土地も金銭(ペルトロ)も食べず
知恵と愛と徳を糧とし、その人民は
フェルトロとフェルトロのあいだに栄えるであろう。

【平川祐弘和訳】
ヴェルトロは大地の産物は食わず金銭は受け取らず、
 智恵と愛と徳とを糧とするだろう、ヴェルトロの国は
 フェルトロとフェルトロの間に位するはずだ、

【語句】
feed on=(動物が)~をえさとする。
courage=(危険・苦難・不幸にあっても恐れず、不安を抑えることが出来る)勇気、度胸(精神を強調)。
 bravery=勇敢(行動を強調)。
virtue=徳、美徳(⇔vice)。
 Virtue is its own reward.(徳はそれ自体が報いである。)
 the seven cardinal (principal) virtues=七元徳、七主徳。「古代哲学の道徳」(cardinal virtues)に「キリスト教の神学徳」(theological virtue)を加えたもので、justice(正義・公正)、prudence(用心深さ・慎重さ・思慮分別・賢明さ)、temperance(節制、自然徳)、fortitude(剛勇・堅忍不抜・不屈の精神、ここまでが「自然徳」)、faith(信仰)、hope(希望)、charity(慈愛・思いやり、ここまでが「キリスト教の三大徳」)の七徳。
フェルトロ=「天と地の間」という説、マルカ・デル・トレヴィジの町フェルトレとロマーニャのフェルトロ山の間という地理的な条件から「カングランデの領地」という説などがありますが、「フェルトロ」の元々の語義は「粗末な布」なので、イエスと聖徒達を意味するのかもしれません。
sustain=(生命・家族などを)維持する、養う、扶養する。

【解説】
 「ヴェルトロ」が「罪からの救い」をもたらす者であるなら、当然、「キリスト」ですが、「国」「人民」を治めるとなると、「地上での救い」をもたらす者であり、さらに「知恵」「愛」「徳」を糧にするというなら「キリストの地上における代理人」たる「教皇」(現実の教皇というより、本来あるべき「理想的教皇」)である可能性が出てきます。ダンテは最初のうちはローマ教皇によって世界平和が回復されると思い、後には神聖ローマ皇帝によってそれが実現すると考えましたが、結局、それも不可能と分かり、自分も政争のために追放されて財産も失い、イタリア各地を放浪する身となってしまいました。ちなみにダンテ在世時の教皇では、アドリアーノ5世(1276年)は煉獄界第5円に、ジョヴァンニ21世(1276~1277年)は天国界第4天(太陽天)に、ニッコロ3世(1277~1280年)は地獄界第8圏に、マルティーノ4世(1281~1285年)は煉獄界第6円に、チェレスティーノ5世(1294年)は地獄界の入口たるアケロンテ河の河原に、ボニファチオ8世(1294~1303)は地獄界第8圏に、クレメンテ5世(1305~1314年)を地獄界第8圏にそれぞれ位置付けられており、ジョヴァンニ21世を除いて、極めて辛口の採点がされていることが分かります。


(36)
【C.H.Sisson英訳】
What he will save is that unassuming Italy
For which the girl Camila died, Euryalus,
Turnus and Nisus, all of whom died wounds;

【Mark Musa英訳】
He comes to save that fallen Italy
for which the maid Camila gave her life
and Turnus, Nisus, Euryalus died of wounds.

【野上素一和訳】
そして、そのため処女カミルラは死に、
エウリアロ、トゥルノ、ニーソが傷ついた
屈辱のイタリアはついに救われるであろう。

【平川祐弘和訳】
イタリアの雪辱はこうして行なわれる、
 エウリュアルス、トゥルヌス、ニススが傷つき、
 処女カミラが命を捨てたイタリアだ。

【語句】
unassuming=でしゃばらない、気取らない、高ぶらない、謙遜な。
 assume=~を事実だとする、当然のことと思う。(権利などを)我が物とする、横領する。
 assumption=(証拠もなく)事実だと考えること、仮定、臆説。(権利・権力などを)我が物にすること。でしゃばり、僭越。
assuming=でしゃばる、僭越な。
die+補語=(~の状態で)死ぬ。dieは「死ぬ」の意の最も一般的な語です。
 die of=病気・飢え・老齢などによる死を示します。
 die from=外傷・不注意に起因する死を示すが、ofを用いることも多いです。
 pass away (またはon)=dieの婉曲語です。
 decease=婉曲語だが、法律用語としても用いられます。
 perish=外部から暴力を加えられたり、飢え・寒さ・火事などの災難に遭って死ぬ。
wound=(刃物・銃砲などによる深い)傷、負傷、けが。
 injury=(事故などによる)傷害、危害、損害、損傷。
fallen=(国・都市など)破壊された、壊滅した、陥落した。
maid=maiden(古語・詩語)の短縮形。少女、乙女、処女。
give=(~のために生命などを)犠牲にする(for)。
カミルラ=ヴォルシの王メタブルの娘。トゥルノを助けてトロイア人と戦って死にます(『アエネイス』7・803)。 トゥルノ=ルトゥリ人の王で、アエネアスと戦って死にます(『アエネイス』12巻)。
エウリアロ、ニーソ=エウリアロ、ニーソはトロイア人で、ヴォルシ人と戦って死にます(『アエネイス』9巻179以下)。

【解説】
ちなみにアエネイスが率いるトロイア軍残党がイタリア半島中部に到達した時、先住民族として現地にいたのはエトルリア人であると思われます。彼らはラテン語系ではないエトルリア語を使用していましたが、徐々に古代ローマ人と同化し、消滅しました。初期のローマ人はエトルリアの高度な文化を模倣したとされ、ローマ建築に特徴的なアーチも元々はエトルリア文化の特徴と言われています。また、初期の王制ローマの王はエトルリア人であったとされ、異民族の王を追放することによってローマは初期の共和制に移行したのです。


(37)
【C.H.Sisson英訳】
He will pursue that wolf in every city
And put her back in Hell where she belongs,
And from which envy first let her out.

【Mark Musa英訳】
And he will hunt for her through every city
until he drives her back to Hell once more,
whence Envy first unleashed her on mankind.

【野上素一和訳】
ヴェルトロはまた狼をあらゆる町から狩りだし
それをふたたび地獄へ追いこむであろう。
嫉妬が初めてそれを誘いだしたその場所へ。

【平川祐弘和訳】
ヴェルトロがあの獣を町々から駆逐して
 ついには元通り奴を地獄へ追いこむだろう、
 羨望が狼を地獄の外へ引き出したのだ。

【語句】
pursue=(獲物・犯人などをつかまえたり、殺したりする目的で)追う、追跡する。
 pursuit=追跡、追求。
hell=地獄(⇔heaven)。
envy=嫉妬、うらやみ。他人の持っているものを自分も持ちたいとうらやむ気持ち。悪魔が人間に嫉妬を教え、それによって地獄から狼が出て来たとしています。
 jealousy=envyより個人的感情で、優越者をねたみ、憎悪する感情。
hunt=狩りをする。~を捜し求める。
unleash=(犬の)革ひもを外す(解く)、~の束縛を解く、~を解放する、~を自由にする。
whence=(非制限的用法で)そして、そこから、その点から。
mankind=(集合的に)人類、人間。

【解説】
 ダンテの『神曲』執筆の意図の1つに、地獄から始まる詳細な霊界の諸相を描きつつ、煉獄から天国へ至る「真の救い」「真の信仰」を知らしめようとしたことがあると思われますが、これと軌を一にするのが、ダンテに先立つこと300年、詳細な地獄の様相を描いて人々を恐怖のどん底に落し入れ、阿弥陀如来のいる西方極楽浄土への往生に至る念仏信仰に導こうとした恵心僧都(えしんそうず)源信の『往生要集』(985年)があります。
 ここでは「六道(りくどう)」=天界・人間界・ 阿修羅(修羅)界・畜生界・餓鬼界・地獄界という世界構造になっており、地獄界は等活(とうかつ)地獄・黒縄(こくじょう)地獄・衆合(しゅごう)地獄・叫喚(きょうかん)地獄・大叫喚(だいきょうかん)地獄・焦熱(しょうねつ)地獄・大焦熱(だいしょうねつ)地獄・阿鼻(あび)地獄の「八大地獄」から構成されています。
等活地獄:殺生の罪を犯した者。お互いに傷つけあい、骨だけになります。あるいは鬼に八つ裂きにされます。
黒縄地獄:殺生、盗みの罪を犯した者。焼けた鉄の斧で切られます。あるいは鉄の釜に落とされ、グツグツ煮込まれます。
衆合地獄:殺生、盗み、不倫の罪を犯した者。焼けた鉄の獣達に喰われます。あるいは、美しい女性が現れますが、近づくと消えてしまいます。
叫喚地獄:殺生、盗み、不倫、飲酒の罪を犯した者。熱い鍋で焼かれて、釜で煮詰められます。あるいはドロドロの銅を口から流し込まれます。
大叫喚地獄:殺生、盗み、不倫、飲酒、嘘つきの罪を犯した者。叫喚地獄と同じですが、苦しみは10倍になります。
焦熱地獄:殺生、盗み、不倫、飲酒、嘘つき、裏切りの罪を犯した者。灼熱の棒で叩かれ、肉団子にされます。あるいは鉄の串に刺されて炎で焼かれます。
大焦熱地獄:殺生、盗み、不倫、飲酒、嘘つき、裏切り、戒律を守る尼僧を蹂躙する罪を犯した者。焦熱地獄と同じですが、苦しみは10倍になります。
阿鼻地獄:殺生、盗み、不倫、飲酒、嘘つき、裏切り、戒律を守る尼僧の蹂躙、強奪、親殺し、大乗仏教をそしるという罪を犯した者。すべての苦しみが集結し、鉄の鬼や大蛇や虫500億匹に攻められます。苦しみは大焦熱地獄の1000倍になります。


(38)
【C.H.Sisson英訳】
The course I think would be the best for you,
Is to follow me, and I will act as your guide,
And show a way out of here, by a place in eternity,

【Mark Musa英訳】
And so, I think it best you follow me
for your own good, and I shall be your guide
and lead you out through an eternal place

【野上素一和訳】
私はきみのために策をねり解決の手段を見つけたから
従(つ)いてき給え、私が案内者になってあげよう。
きみをここから永劫の場所へつれていくことにしよう。
【平川祐弘和訳】
おまえについてはいろいろと考えた、一案がある、
 私について来い、おまえを案内してやる、
 ここからおまえを永劫の場所(地獄)へ連れて行く、

【語句】
course=進路、(行動の)方針・方向、一定の教育課程。
act as=~の役を務める。
by=~を経由して。
eternity=永遠、永久、(死後に始まる)永遠の世界、来世。
I think it best you follow me=itは形式目的語、you以下は真目的語であるthat節です(thatは省略)。
good=利益、ため、幸福、福利。
永劫の場所=地獄界などの霊界を指します。

【解説】
 かくしてダンテは案内者にしたがって地獄から天国までつぶさに見、さらに『神曲』を著したことで、今度は彼自身が案内者となって地上に生きる人間を導くようになるわけです。そして、近世において同じように地上界と霊界を往来し、その様相を『天国と地獄』などの著作で伝えたのが、400年後に出て来たスウェーデンボリ(スウェーデンボルグ、1688~1772)です。30年間にわたり、10万人の霊と会話し、交流したと言われます。同時代人のカントやゲーテをはじめ、後代のバルザック、ヴィクトル・ユーゴー、ドストエフスキー、ヘレン・ケラー、リンカーン、エドガー・アラン・ポー、ストリントベリ、ボルヘスなどがスウェーデンボリの影響を受けたことで知られています。最も有名な『天界と地獄』は40カ国語に翻訳され、日本でも鈴木大拙らが翻訳していますが、生前公開されていない『霊界日記』などにおいては、ダビデ、パウロ、メランヒトンらが地獄に堕ちたと主張するなど、衝撃的内容が多くあります。
「スヴェーデンボリの考え方はこの点において崇高である。霊界は特別な、実在的宇宙を構成しており、この実在的宇宙は感性界から区別されねばならない英知界である。」(カント)
「私にとってスヴェーデンボリの神学教義がない人生など考えられない。もしそれが可能であるとすれば、心臓がなくても生きていられる人間の肉体を想像する事ができよう。」(ヘレン・ケラー)


(39)
【C.H.Sisson英訳】
Where you will hear the shrieks of men without hope,
And will see the ancient spirits in such pain
That every one of them calls out for a second death;

【Mark Musa英訳】
where you will hear desperate cries, and see
tormented shades, some old as Hell itself,
and know what second death is, from their screams.

【野上素一和訳】
そこではきみは絶望の叫びをきくだろうし、
悲歎にくれる昔の霊を見るであろう、
彼らはみな第二の死を歎き悲しんでいるのだ。

【平川祐弘和訳】
そこでおまえは絶望の叫びを聞くだろう、
 呵責に悩む古代の人々の亡霊を見るだろう、
 みな第二の死を叫び求めているのだ。また(煉獄の)

【語句】
shriek=悲鳴、金切り声、かん高い声。
ancient=昔の、往古の、古代の。
 ancient history=古代史(476年の西ローマ帝国滅亡までのヨーロッパ史)。
call out=大声で呼ぶ。
desperate=絶望的な、自暴自棄の。
 Desperate diseases (must) have desperate remedies.(重病には思い切った療法が必要だ。)
cry=叫び声。
torment=(人を肉体的・精神的に)苦しめる。
shade=(文語)亡霊、幽霊。
scream=(恐怖・苦痛の)叫び、(怒り・いらだちの)金切り声。
第二の死=肉体の死のことを「第一の死」と呼び、死後の霊魂の呵責をこのように呼んでいます。死後の裁きによるものなので、「永遠の死」とも呼ばれます。

【解説】
 「第二の死」に関しては有名な「ヨハネの黙示録」に何度も出て来ます。
「耳のある者は御霊(みたま)が諸教会に言われることを聞きなさい。勝利を得る者は決して第二の死によって損なわれることはない。」(「ヨハネの黙示録」第2章11節)
「また私は、イエスの証しと神の言葉との故に首をはねられた人達の魂と、獣やその像を拝まず、その額や手に獣の刻印を押されなかった人達を見た。彼らは生き返って、キリストと共に千年の間、王となった。その他の死者は千年の終わるまでは生き返らなかった。これが第一の復活である。この第一の復活にあずかる者は幸いな者、聖なる者である。この人々に対しては、第二の死は何の力も持っていない。彼らは神とキリストとの祭司となり、キリストと共に千年の間、王となる。」(「ヨハネの黙示録」第20章4~6節)
「しかし、臆病者、不信仰の者、憎むべき者、人を殺す者、不品行の者、魔術を行なう者、偶像を拝む者、全て偽りを言う者どもの受ける分は、火と硫黄との燃える池の中にある。これが第二の死である。」(「ヨハネの黙示録」第21章8節)


(40)
【C.H.Sisson英訳】
And then you will see those who, though in the fire,
Are happy because they hope that they will come,
Whenever it may be, to join the blessed;

【Mark Musa英訳】
And later you will see those who rejoice
while they are burning, for they have hope of coming,
whenever it may be, to join the blessed―

【野上素一和訳】
また火中にあって満足している者も見るであろう。
それはいつのことかわからぬが至福の人の群に
入る希望をもっているからなのだ。

【平川祐弘和訳】
火の中にあって満足している人々も見るだろう、
いつかわからないが、幸(さち)ある人の群に
入れてもらえるという望みをつないでいるのだ。

【語句】
come to do=~するようになる、~するに至る。
whenever=(譲歩節を導いて)いつ~しようとも。
the blessed (ones)=天国の諸聖人。Musaの英訳ではthe blessedの最後のeの所にアクサングラーヴ(フランス語。イタリア語では「アッチェント・グラーヴェ」と言います)が打ってあります。これは各行10音節で統一しているため(原文は11音節)、blessedをそのまま/blesid/と2音節で発音(形容詞)すると11音節になってしまうので、あえて/blest/と1音節で発音(過去形・過去分詞)させるためだと思われます。
later=後で。
rejoice=喜ぶ、うれしがる、祝賀する。
while=~する間。動作や状態が継続している時間・期間を表わす副詞節を作り、節中に進行形が多く用いられます。
火中にあって満足している者=「煉獄」(浄罪界)にいる魂の状態を言っています。

【解説】
 ウェルギリウスはこれからダンテが訪れる「永劫の世界」、すなわち「地獄」「煉獄」「天国」を予め順番に説明しています。ちなみに「煉獄山」の構造は次のようになっています。
煉獄前域:煉獄山の麓。小カトーがここに運ばれる死者を見張っています。
第1の台地:破門者。教会から破門された者は、臨終時に悔い改めても煉獄山の最外部から贖罪の道に就きます。
第2の台地:遅悔者。信仰を怠って生前の悔悟が遅く、臨終時にようやく悔悟に達した者はここから登ります。
ペテロの門:煉獄山の入口。それぞれに色の異なる3段の階段を上り、金と銀の鍵をもって扉を押し開きます。
第1冠:高慢者。生前、高慢の性を持った者が重い石を背負い、腰を折り曲げています。ダンテ自身はここに来ることになるだろうと述べています。
第2冠:嫉妬者。嫉妬に身を焦がした者が瞼を縫い止められ、盲人のごとくなります。
第3冠:憤怒者。憤怒を悔悟した者が朦朦たる煙の中で祈りを発します。
第4冠:怠惰者。怠惰に日々を過ごした者がひたすらこの冠を走り回り、煉獄山を周回します。
第5冠:貪欲者。生前欲深かった者が五体を地に伏して嘆き悲しみ、欲望を消滅させます。
第6冠:貪食者。暴食に明け暮れた者が、決して口に入らぬ果実を前に食欲を節制します。
第7冠:愛欲者。不純な色欲に耽った者が互いに走り来たり、抱擁を交わして罪を悔い改めます。
山頂:常春の楽園。煉獄で最も天国に近い所で、かつて人間が黄金時代に住んでいた場所とされます。


(41)
【C.H.Sisson英訳】
Among whom you may climb, but if you do,
It will be with a spirit more worthy than I am;
With her I will leave you, when I depart:

【Mark Musa英訳】
to whom, if you too wish to make the climb,
a spirit, worthier than I, must take you;
I shall go back, leaving you in her care,

【野上素一和訳】
きみがそこからさらに高い所へ行くことを望み
私よりもいっそう高貴な霊さえ来てくれるなら、
私はその霊にきみを托して立ち去るとしよう。

【平川祐弘和訳】
また幸ある人の住む(天)国にも昇りたいのなら
 それには私よりも立派な方がおられるから
 別れ際におまえをその方にお任せするとしよう。

【語句】
worthy=価値のある、尊敬すべき、立派な。worthier(比較級)、worthiest(最上級)ですが、2音節語の大多数は-er, -est形とmore, mostの両方を取ることが出来ます。両方取る場合、-erの方が形式ばらない形になりますが、判断に迷う場合はmoreを用いる方が無難でしょう。
leave A with~=(物・子供などを人・場所に)預ける、(人に物を)残す、(伝言などを人に)伝えて行く。 depart=(人・列車などが)出発する。leave, startより形式ばった語です。
too=(文尾・文中で)~もまた、その上。alsoが客観的事実を述べるのに適するのに対し、tooはより口語的で感情的色彩を帯び、一層強意的です。
make+動作名詞=~をする、行う、持つ。同じ意味の動詞より、「1回だけの行為」であることが強調されます。 care=世話、保護、管理、監督。
高貴な霊=ダンテにとって「久遠の女性」たるベアトリーチェ。霊界案内はウェルギリウスから途中でベアトリーチェに引き継がれ、さらに聖ベルナールへと代わっていきます。

【解説】
聖ベルナール(1090~1153)は「クレルヴォーのベルナール」とも呼ばれ、12世紀のフランス出身の神学者で、優れた説教家としても有名で、"Hell is full of good intentions or desires."「地獄への道は善意で舗装されている」という言葉を残しています。シトー会修道院長として厳格な禁欲主義的修道士の模範であり、自ら創立したクレルヴォー修道院は多数の分院を持つに至っています。そして、聖公会とカトリック教会の聖人であり、33人の「教会博士」の中の1人としても数えられ、第2回十字軍の勧誘に大きな役割を果たしたことでも知られる人物です。この「教会博士」には、カイサリアのバシレイオス、ナジアンゾスのグレゴリオス、ヨハネス・クリュソストモス、アタナシオスといった「東方の四大教会博士」、アンブロシウス、アウグスティヌス、ヒエロニムス、グレゴリウス一世教皇といった「西方の四大教会博士」からトマス・アクィナス、ボナヴェントゥラ、カンタベリーのアンセルムスなどそうそうたるメンバーが名を連ねています。
また、ベルナールは「アウグスティヌスの神秘主義」(「神-神秘主義」から「キリスト神秘主義」へ、「思惟-神秘主義」から「信仰神秘主義」へ中心を移しながら、後者を経て前者の実現を将来において目指す「希望の神秘主義」とされる)を引き継ぐ、中世初期における神秘主義の代表者であり、中世のみならず、宗教改革者ルターにも大きな影響を与えているのです。


(42)
【C.H.Sisson英訳】
Because the Emperor, who reigns up there,
Since I was one of the rebels against his law,
Does not wish me to enter into his city.

【Mark Musa英訳】
because that Emperor dwelling on high
will not let me lead any to His city,
since I in life rebelled against His Law.

【野上素一和訳】
というのはその国を治めている主権者は
私がその国の法律にそむいたからといって
その国に入るのを許さないからだ。

【平川祐弘和訳】
というのも天上におわします皇帝(かみ)は
 私にその掟に背いた前歴がある以上、
 人が私ごとき者の案内で王国に入るのを御希望にならぬ。

【語句】
Emperor=皇帝、天皇。
reign=主権を握る、君臨する。
up=(終結・完成・充満などを表わす強意語として動詞と結合)全く、すっかり、~し尽くす。
since=(理由)~だから、~の故に。becauseのような直接的因果関係を示さないので、becauseと書き換えが出来ない場合があります。
rebel=反逆者、反抗者。(政府・権力・慣習などに)反対する、反抗する、反逆する(against)。
 rebellion=(政府・権威者に対する)反乱、暴動(against)。不成功に終わった謀反を指す場合が多いです。rebelの名詞形です。
 revolution=革命または思想・社会の変革で成功したものを表わします。
 revolt=権威あるものに対する公然たる反抗(比較的小規模)。
law=宗教上の掟、戒律、律法。
 the laws of God=神の法。
 the old law=(聖書)旧約。
 the new law=(聖書)新約。
 the Law (of Moses)=モーセの律法。
the City of God=神の都、天国。
dwell=(文語)住む、居住する。liveの方が一般的です。
on high=高い所に、天に。

【解説】
こうした「法的概念・イメージ」の背景には「教会法」の存在があります。「教会法」とは、広義においては「国家のような世俗的な権力が定めたキリスト教会に関する法」と「キリスト教会が定めた法」を包括した概念ですが、狭義においては「キリスト教会が定めた法」のことを言い、「世俗法」と対比される概念です。最狭義においては「カトリック教会が定めた法」のことを言い、「カノン法」とも言います。キリスト教会の中でも、国家による法に比するほどの法体系を有するようになったのはカトリック教会だけです。狭義の「教会法」は信仰生活の領域だけでなく、教会行政の規範、聖職者・信者の権利義務を定める「一般法」としての役割を持っており、成文の教会法典を「カノン」と言います。


(43)
【C.H.Sisson英訳】
He commands everywhere, and there he rules,
There is his city, there he has his throne:
Happy are those he chooses for that place!’

【Mark Musa英訳】
Everywhere He reigns, and there He rules;
there is His City, there is His high throne.
Oh, happy the one He makes His citizen!”

【野上素一和訳】
主権者は全地域を統括し、治めており、
そこにはその者の都市と高い座があるのだ。
そこに選ばれて住むものは幸福である」

【平川祐弘和訳】
皇帝(かみ)はあらゆる場所に君臨し統治し給う。
 そこには皇城があり玉座がある。
 皇帝(かみ)に選ばれてその国に行く人はさいわい(さいわい)なるかな」

【語句】
command=命令する。指揮権を持つ。
throne=王座、玉座。
He=宗教に関する文脈ではGodを指します。

【解説】
 「天国」のイメージが「市民権を持つ者が住む場所」Cityで語られ、「選ばれた者」が「市民権を持つ者」citizenで表現されている所が日本人に理解しにくい所でしょう。この「市民権」に相当する部分が「神の法」Lawを守ることに他なりません。
ちなみにダンテは1313年に3巻からなる『帝政論』をラテン語で執筆していますが、第1巻の内容を要約すると次のようになます。
「市民は最高の行政官(執政官、コンソレ)の代理人ではないし、国民も王に奉仕する者ではない。否、執政官こそ市民の代理人であり、皇帝は国民の奉仕者である。しかし、かかる社会的共存共栄を図るためには、まず全人類の統一と平和がなくてはならない。それ故、人類は共通の規範による平和を共有し、平和を希求すべきである。最高の統率者であり、調停者である人は絶対君主でなくてはならない。その人は全て所有し、それ以上何も求めない人であり、あらゆる貪欲を欠き、あらゆる不正を欠く人である。
 世界帝国は人類にとっても、皇帝にとっても必要であり、それは自由と正義における平和を保証する。そして、それは世界の政治的整理において特別大きな権威を代表する。」
 さらにダンテに先行する国家論として、アウグスティヌスの『神の国』をふまえなければならないでしょう。特に『神の国』第5巻24章はセネカなどのストア学者らの「君主の鏡」の伝統を受け継ぎ、キリスト教徒たる皇帝が神を中心に如何に統治すべきかを説いていて、かのカール大帝(「ヨーロッパの原点」とされます)が地上に神の理想を実現する意欲に燃え、『神の国』を熟読したことはよく知られています。また、神聖ローマ帝国を開始したオットー大帝も『神の国』を引用して、この地上に神の理想郷が出来るのだと主張しました。さらにヨーロッパ中世・近世においても、例えば、トマス・モアのユートピア思想などに見られるように、『神の国』は人々に「理想国家実現」の意欲を植え付け、多大な影響を与えたとされます。ちなみにアウグスティヌスによれば、「神の国」は「自己を軽蔑するに至る神への愛」を起源とし、「人々は互いに愛において仕え、統治者は命令を下し、被統治者はそれを守る」が、「地上の国」は「神を軽蔑するに至る自己愛」を起源とし、「その君主達にせよ、それに服従する諸国民にせよ、支配欲によって支配される」のであるとしています。


(44)
【C.H.Sisson英訳】
I said to him: ‘Poet, now by that God,
Who is unknown to you, I ask your assistance:
Help me to escape both this evil, and worse;

【Mark Musa英訳】
And I to him: “Poet, I beg of you,
in the name of God, that God you never knew,
save me from this evil place and worse,

【野上素一和訳】
それで私は彼にいった、「詩人よ、あなたの
ご存じなかった神の御名にかけてお願いします。
この悪い場所とさらにもっと悪い場所とを

【平川祐弘和訳】
そこで私がいった、「詩人よ、お願いでございます、
 あなたが生前御存知でなかった神の御名により、
 どうかこの悪やこれ以上の悪を私が免れますよう

【語句】
Poet=無冠詞なのは「呼びかけ」で用いられているからです。イチローも盗塁でアウトになった時、塁審に対して、’Oh, man!’とやっていました。
assistance=手伝い、助力、援助。
escape=(追跡・危険・災難などを未然に)逃れる、免れる、うまく避ける。自動詞のescape fromが「自分を現実的に捕らえて(追って)いるものから逃れる」という意に用いられるのに対して、他動詞用法ではそういうものから「未然に逃れる」ことの意味が主となります。
 avoid=意識的・積極的に危険・不快などの恐れのあるものから遠ざかる。
 evade=avoidよりさらに積極的に何らかの手段を使って回避する。
 elude=きわどい場面で相手の裏をかいて逃れる。
evil=悪、悪事、不善、邪悪、罪悪(⇔good)。
worse=一層悪いこと(状態・人)。
beg of=(人に)~してほしいと懇願する。
save=人を危険などから救い出す意の最も一般的な語です。
 rescue=敏速な活動によって、差し迫った重大な危険から救い出すことで、しばしば組織的な救援活動を表わします。
 help=救出行動よりも、助けを与えることに重点を置きます。目的達成のために必要な積極的援助をする。  aid=必要とされる援助をすることで、助けられる者が弱く、助ける者が強いことを暗示します。helpより形式ばった語です。
 assist=人の仕事などについて補助的に手伝う。
この悪い場所=今いる「暗闇の森」のそば。

【解説】
 ダンテの「師」がウェルギリウスであるとすれば、「親友」は当時イタリア第一の画家ジョット(1266~1337)でした。ジョットはチマブーエの弟子で、ビザンチン画風を脱して「フィレンツェ派」の基礎を築きました。ジョットの絵画においては、人物は背後の建物や風景との比例を考慮した自然な大きさで表わされていますが、こうした描写方法は当時の絵画界においては革新的なもので、こうした点からジョットは「西洋絵画の父」と言われています。ジョットが代表作であるパドヴァのスクロヴェーニ礼拝堂の壁画を作成した時には、ダンテも熱心に仕事場に通い、ジョットの自宅で夕食を共にしたと言います。


(45)
【C.H.Sisson英訳】
Lead me now, as you have promised to do,
So that I come to see St Peter’s Gate
And those whom you represent as being so sad.’

【Mark Musa英訳】
lead me there to the place you spoke about
that I may see the gate Saint Peter guards
and those whose anguish you have told me of.”

【野上素一和訳】
のがれるためあなたのいう場所へつれていってください。
聖ピエトロの門とあなたの話された場所にいる
まことに悲惨な者たちを見ることができるように」

【平川祐弘和訳】
いまいわれた場所へ私をお連れください、
 どうかサン・ピエトロの門や
 あなたが話されたいとも悲惨な者どもをお見せください」

【語句】
lead=(人を)導く、案内する。先に立って、人を連れて行く。
guide=人に付きっきりで案内する。
direct=道順・方向などを人に教える。
conduct=人をある場所に連れて行く。
so that=(目的の副詞節を導いて)~するために。
come to do=~するようになる、~するに至る。
St. Peter=聖ペテロ。キリストの「第1弟子」にして、「12使徒」の1人です。イエスが大祭司カヤパの中庭で死刑を宣告された時、ペテロは3度イエスを否定してその場を逃れたため、復活したイエスがペテロを訪ねた時、「お前は私を愛するか」と3度尋ねています。また、迫害の激しいローマから逃れていく途上で、霊的イエスと出会い、「Quo vadis, Domine?(クォ・ヴァディス・ドミネ)」(ラテン語。Where do you go, my Lord? 主よ、どこへ行かれるのですか)と聞いた話は有名ですね(新約聖書外典『ペテロ行伝』)。シェンキェヴィチはこのせりふを踏まえて、小説『クォ・ヴァディス:ネロの時代の物語』を書き、映画化されて大変な反響を呼びました。それによれば、イエスは「ペテロよ。私は苦しむためにもう1度ローマに行くのだ。ローマから逃げていくあなたに代わって、あなたの十字架を負うために」と答えたので、それを聞いたペテロはローマへ戻って殉教しました。最後は主イエスと同じ十字架にかかるのは申し訳ないと、逆さはりつけを希望してその如くになったと言います。
represent=~を言葉で表わす、表現する、~だとして描く(as)。
guard=(門・入り口などの)番をする。
anguish=(心身の)激しい苦痛、苦悶、苦悩。
聖ピエトロ(ペテロ)の門=「煉獄(浄罪界)の門」を指します。その門の鍵はキリストがペテロに渡し、またさらにペテロはそれを天使に預けて保管させているとされます(煉獄篇第9歌)。

【解説】
「あなたはペテロです。私はこの岩の上に私の教会を建てます。ハデスの門もそれには打ち勝てません。私はあなたに天の御国の鍵をあげます。何でもあなたが地上でつなぐなら、それは天においてもつながれており、あなたが地上で解くなら、それは天においても解かれています。」(「マタイによる福音書」16章18~19節)


(46)
【C.H.Sisson英訳】
Then he moved forward, and I kept behind him.

【Mark Musa英訳】
Then he moved on, and I moved close behind him.

【野上素一和訳】
そこで彼は歩きはじめ、私はそのあとに従った。

【平川祐弘和訳】
すると彼は歩きだした、そして私は彼の後に従った。

【語句】
move forward=前進する。
move on=どんどん進む。
close=~に接して、すぐそばに、ぴったりと。

【解説】
いよいよ「地獄」から始まる霊界旅行の出発です。ちなみに「地獄」の構造は次のようになっています。
地獄の門:「この門をくぐる者は一切の希望を捨てよ」
地獄前域:無為に生きて善も悪もなさなかった亡者は天国にも地獄にも入ることが許されず、ここで蜂や虻に刺されます。
アケローン川:冥府の渡し守カロンが亡者を櫂で追いやり、舟に乗せて地獄へと連行していきます。
第1圏:「辺獄」(リンボ)。洗礼を受けなかった者が、呵責こそないが希望もないまま、永遠に時を過ごします。
地獄の入口:冥府の裁判官ミーノスが死者の行くべき地獄を割り当てています。
第2圏:愛欲者の地獄。肉欲に溺れた者が荒れ狂う暴風に吹き流されます。
第3圏:貪食者の地獄。大食の罪を犯した者がケルベロスに引き裂かれて、泥濘にのたうち回ります。
第4圏:貪欲者の地獄。吝嗇と浪費の悪徳を積んだ者が重い金貨の袋を転がしつつ、互いに罵ります。
第5圏:憤怒者の地獄。怒りに我を忘れた者が血の色をした「スティージュの沼」で互いに責め苛みます。
ディーテの市:堕落した天使と重罪人が容れられる、永劫の炎に赤熱した城塞。ここより下の地獄圏はこの内部にあります。
第6圏:異端者の地獄。あらゆる宗派の異端の教主と門徒が火焔の墓孔に葬られています。
第7圏:暴力者の地獄。他者に対して暴力をふるった者が暴力の種類に応じて振り分けられます。
第1の環:隣人に対する暴力。隣人の身体・財産を損なった者が、煮えたぎる血の河に漬けられます。
第2の環:自己に対する暴力。自殺者の森。自ら命を絶った者が奇怪な樹木と化し、葉を啄ばまれます。
第3の環:神と自然と技術に対する暴力。神および自然の業を蔑んだ者、男色者に火の雨が降りかかります。
第8圏:悪意者の地獄。悪意を以て罪を犯した者がそれぞれ十の「マーレボルジェ」(悪の嚢)に振り分けられます。
第1の嚢:女衒(ぜげん)。婦女を誘拐して売った者が、角ある悪鬼から鞭打たれます。
第2の嚢:阿諛(あゆ)者。阿諛追従(あゆついしょう)の過ぎた者が糞尿の海に漬けられます。
第3の嚢:沽聖(こせい)者。聖物や聖職を売買し、神聖を金で汚した者が岩孔に入れられて焔に包まれます。
第4の嚢:魔術師。卜占や邪法による呪術を行った者が首を反対向きにねじ曲げられて、背中に涙を流します。
第5の嚢:汚職者。職権を悪用して利益を得た汚吏が煮えたぎる瀝青に漬けられ、鉤手で責められます。
第6の嚢:偽善者。偽善をなした者が外面だけ美しい金張りの鉛の外套に身を包み、ひたすら歩きます。
第7の嚢:盗賊。盗みを働いた者が蛇に噛まれて燃え上がり、灰となるが、再び元の姿に返ります。
第8の嚢:謀略者。権謀術数をもって他者を欺いた者が我が身を火焔に包まれて苦悶します。
第9の嚢:離間者。不和・分裂の種を蒔いた者が体を裂き切られます。
第10の嚢:詐欺師。錬金術など様々な偽造や虚偽を行った者が悪疫にかかって苦しみます。
最下層の地獄:かつて神に歯向かった巨人が鎖で大穴に封じられています。
第9圏:裏切り者の地獄。「コキュートス」(Cocytus、嘆きの川)と呼ばれる氷地獄。同心の4円に区切られ、最も重い罪、裏切りを行った者が永遠に氷漬けとなっています。裏切り者は首まで氷に漬かり、涙も凍る寒さに歯を鳴らします。
第1の円:カイーナ(Caina)。肉親に対する裏切り者。旧約聖書の『創世記』で弟アベルを殺したカインに由来します。
第2の円:アンテノーラ(Antenora)。祖国に対する裏切り者。トロイア戦争でトロイアを裏切ったとされるアンテノールに由来します。
第3の円:トロメーア(Ptolomea)。客人に対する裏切り者。旧約聖書外典『マカバイ記』に登場する裏切り者トロメオに由来するようです。
第4の円:ジュデッカ(Judecca)。主人に対する裏切り者。イエス・キリストを裏切ったイスカリオテのユダに由来します。
地獄の中心ジュデッカのさらに中心:地球の重力が全て向かう所。神に叛逆した堕天使のなれの果てである魔王ルチフェロ(サタン)が氷の中に永遠に幽閉されています。魔王はかつて光輝はなはだしく、最も美しい天使でしたが、今は醜悪な3面の顔を持った姿となり、半身を「コキュートス」の氷の中に埋めていました。魔王はイエス・キリストを裏切ったイスカリオテのユダ、カエサルを裏切ったブルートゥス、カッシウスの3人をそれぞれの口で噛みしめています。2人の詩人は、魔王の体を足台としてそのまま真っ直ぐに反対側の地表に向けて登り、岩穴を抜けて地球の裏側に達するのですが、そこは「煉獄山」の麓でした。


【参考文献】
“THE DIVINE COMEDY”(DANTE, Translated by C. H. SISSON, OXFORD WORLD’S CLASSICS)
“The Divine Comedy Volume 1 : Inferno”(DANTE, Translated by MARK MUSA, PENGUIN CLASSICS)
『世界文学大系6 ダンテ 神曲・新生』(野上素一訳、筑摩書房)
『世界文学全集Ⅲ―3 ダンテ 神曲』(平川祐弘訳、河出書房新社)
『世界文学全集別巻1 世界名詩集』(阿部知二・手塚富雄・大岡信他訳、河出書房)
『ダンテ その華麗なる生涯』(野上素一、新潮選書)
『人と思想 ダンテ』(野上素一、清水書院)
『ダンテ 神曲物語』(野上素一訳著、現代教養文庫)
『世界文学小史』(山室静、現代教養文庫)
『西洋文学入門』(本多顕彰、現代教養文庫)
『知のカタログ ギリシア・ローマ古典』(マイケル・マクローン、創元社)
『ギリシア・ローマ名言集』(柳沼重剛編、岩波文庫)
『ローマ神話の発生 ロムルスとレムスの物語』(松田治、現代教養文庫)
『ラテン文学を学ぶ人のために』(松本仁助・岡道男・中務哲郎編、世界思想社)
『キリスト教思想史入門』(金子晴男、日本基督教団出版局)
『聖書 新改訳』(日本聖書刊行会)
『新約聖書外典』(荒井献編、講談社学芸文庫)
『ペトラルカ ルネサンス書簡集』(近藤恒一編訳、岩波文庫)
『わが秘密』(ペトラルカ、岩波文庫)
『失楽園(上)(下)』(ミルトン、岩波文庫)
『翻訳百年 外国文学と日本の近代』(原卓也・西永良成編集、大修館書店)
『似ている英単語使い分けBOOK』(清水建二著、William Currie監修、ベレ出版)
『続日本人の英語』(マーク・ピーターセン、岩波新書)
『徹底例解ロイヤル英文法 改訂新版』(綿貫陽・宮川幸久・須貝猛敏・高松尚弘著、マーク・ピーターセン英文校閲、旺文社)