教養としての倫理


 現代社会・青年・心理

(1)現代社会

①生命科学・現代医療 ②少子高齢社会・女性の社会進出 ③共生社会 ④環境問題・循環調和型社会

⑤情報社会・管理社会 ⑥グローバル社会・異文化交流

(2)青年期

①人間論 ②青年期の特徴

(3)心理

①性格理論 ②欲求と適応 ③防衛機制

 思想の源流

(1)ギリシア哲学

①ギリシア神話の世界 ②自然哲学とソフィスト ③ソクラテス・プラトン・アリストテレス 

④ヘレニズム思想

(2)ユダヤ教・キリスト教・イスラーム教

①ユダヤ教 ②キリスト教 ③イスラーム教

(3)仏教・インド哲学

①バラモン教・ヒンドゥー教 ②仏教 ③ジャイナ教・自由思想家

(4)中国思想

①儒教 ②道教 ③法家思想・諸子百家

 日本思想

(1)日本神話・文化

(2)日本仏教

①奈良仏教 ②平安仏教 ③鎌倉仏教

(3)日本儒教・近世日本思想

①朱子学 ②陽明学 ③古学 ④国学 ⑤実学 ⑥蘭学・洋学 ⑦武士思想 ⑧町人思想 ⑨農民思想 

(4)近代日本思想

①啓蒙思想・自由民権思想 ②キリスト教思想 ③国家主義・日本主義思想 ④社会主義思想

⑤大正デモクラシー ⑥近代文学 ⑦独創的思想

 近現代思想

(1)ルネサンスと宗教改革

①ルネサンス ②宗教改革とモラリスト ③近代科学

(2)近代思想

①イギリス経験論 ②大陸合理論 ③ドイツ観念論 ④社会契約説とフランス啓蒙思想

⑤功利主義とプラグマティズム ⑥社会学と社会主義 ⑦生の哲学と実存主義 ⑧現象学

(3)現代思想

①無意識の思想 ②社会分析 ③分析哲学・科学哲学 ④構造主義・ポスト構造主義

⑤正義論 ⑥共同体主義 ⑦平和論




1 現代社会・青年・心理

(1)現代社会

生命科学・現代医療

自己決定権 :人は自分の生命や身体の扱いについて、自分で決定することができるという原則。この原則に基づいて、医療の現場では患者の同意を得た上で、治療を行うことが重視されるようになりました。

インフォームド・コンセント :医師が患者に対して、治療の利点だけでなく、予期される合併症や代替方法なども十分説明した上で、治療方針の同意を得ること。

パターナリズム家父長主義 ):本来は、子どもの利益を考えて保護・干渉する父親のような行動様式、家父長的な権威によって他人に干渉すること。医療の現場では、医師などの専門家が患者の自己決定権を侵害することを言います。

代理出産 :日本では日本産科婦人科学会の指針により、代理出産は自主規制されている。代理出産が認められた場合、代理出産をした夫婦と代理母との間で引き渡しや親権をめぐる争いが生じることが、海外の実例から懸念されています。

非配偶者間人工授精 :日本産科婦人科学会の指針では、夫以外の精子を使う非配偶者間人工授精を行う場合、精子提供者は匿名とすることが定められているが、子どもが自分の出自を知る権利を尊重すべきだという意見もあります。

遺伝子診断 :発症可能性を予測し、病気の予防や治療を行うことができるが、遺伝情報は究極のプライバシー と言われ、就職や保険加入や結婚の場面での差別を生み出す危険性があります。

着床前診断出生前診断 :受精卵や胎児の遺伝子を調べることにより、障害や遺伝病の有無などを診断する技術。発症の確率などを事前に予測できるという利点がある反面、胎児の異常を理由とする人工妊娠中絶が広がり、命の選別が行わる可能性や病気や障害を持つ人々への差別を助長しかねないという懸念など、 優生思想につながる危険性が指摘されています。また、男女の判別や産み分けも可能です。

遺伝子組み換え技術 :植物などの遺伝子を操作することにより、除草剤や害虫に強い遺伝子組み換え作物を作り出すという利点がある反面、安全性の問題や生態系のバランスに与える影響が指摘されています。

クローン技術 :クローン技術で生命を誕生させることについては倫理的な問題があり、日本ではクローン技術規制法 (2001年施行)でクローン人間作製は禁止されています。また、クローン人間を作り出しても、完全に同じ性格の個人になるわけではありません。

体細胞クローン :親と全く同じ遺伝子を持っているので、これを用いて臓器を作成すれば、移植の際の拒絶反応が少ないと見られています。

ホスピス :末期患者に対する身体的・精神的サポート。延命治療技術が進歩する中で、人が人生の最期まで人間らしい尊厳を持って生きることを保障するために、ホスピスの充実が求められています。

リヴィング・ウィル生前の意思):。延命装置などの治療や死のあり方について、自分の意思を明らかにしておくこと。

脳死 :全脳が不可逆的に機能を停止した状態。臓器提供をする場合には脳死判定が行われます。

臓器移植法 :2009年改正。患者本人の意思が確認できない場合は、家族の同意によって法的に脳死と判定され、臓器提供が可能になった。改正後の ドナーカード臓器提供意思カード )では、「1、脳死後の臓器提供」「2、心臓死後の臓器提供」「3、臓器提供をしない」(1・2については、提供したくない臓器の選択が可能)の意思表示ができます。

(改正前)臓器を提供する場合に限って脳死を人の死とする。→(改正後)脳死を一律に人の死とする。

(改正前)15歳未満からの臓器摘出は不可。→(改正後)臓器提供者の年齢制限を撤廃。

(改正前)書面での本人の臓器提供意思表示と家族の同意が必要。→(改正後)本人の意思が不明でも家族の同意があれば臓器摘出可能。

ヒトゲノム :2003年に解読完了しましたが、どの遺伝子配列がどのような役割を果たすかという各遺伝子の機能については、まだ解明されていません。


少子高齢社会・女性の社会進出

単独世帯: 核家族化が進んだ高度経済成長期を経て、未婚者数と高齢者数の増加と共に少子高齢社会 を迎えた現在、家族と同居しない単独世帯が増加しています。

パラサイト・シングル :学校卒業後も親と同居し、基本的生活を親に依存している未婚者のこと。親に寄生(パラサイト )しているように見えることから、社会学者の山田昌弘が提唱しました。

バリアフリー :高齢者や障害者が社会参加する際に障壁となるものを取り除くこと。

ノーマライゼーション :身体的・精神的障壁を取り除き、高齢者や障害者など、全ての人が不自由なく(ノーマルに)暮らせる共生社会 を目指す理念のこと。

リプロタクティヴ・ヘルス/ライツ :女性の性と生殖についての健康とそれを守る権利のこと。女性の地位向上を目指して、国際人口・開発会議で宣言されました。

アファーマティブ・アクション積極的差別是正措置 ):これまで差別を解消するために、不利な立場に置かれていた人に、有利な条件をつけて平等が実現するように積極的な措置を取ること。マイノリティや女性などに対して、入学・雇用などで積極的に優遇的措置を取るなど、社会における人種やジェンダー等の構造的差別の解消に向けて実施される、暫定的な措置です。

選択的夫婦別姓制度 :民法第750条では、「夫婦は、婚姻の際に定めるところに従い、夫又は妻の氏を称する」とし、夫婦同氏の原則を定めているので、選択的夫婦別姓制度は現行民法では認められていません。

男女雇用機会均等法 :1986年施行。就業における男女平等の促進が定められました。

育児・介護休業法 :1995年制定。労働者は男女を問わず、法的には育児や介護のための休業を取得できるようになりました。

介護保険制度 :2000年施行。高齢者の介護を社会全体で支えていくため、介護を必要とする人に在宅や施設でのサービスを提供。財源や介護する側の人材不足など課題も多く、さらなる支援体制の整備が必要とされています。


共生社会

ボランティア :意志や好意などを意味するラテン語が語源。自発性(自主性)、社会性(福祉性)、及び対価を求めないことなどが顕著な特徴です。

世界ボランティア宣言 :1990年。ボランティア活動を「個人が自発的に決意・選択し、人間の製剤能力や日常生活の質を向上させ、人間相互の連帯感を高める活動」と定義。

ボランティア元年 :1995年。阪神・淡路大震災を機にボランティア活動が社会的に広がりました。

国連難民高等弁務官事務所UNHCR ):1951年に設立された国連経済社会理事会の特別機関。紛争や飢餓のために他国に逃れ、生命の危険にさらされて苦しんでいる難民の救済・援助活動を行っています。

国境なき医師団MSF ):1971年に結成された非営利団体。世界各地で災害や紛争の被害者に対し、人種・宗教に囚われず、医療・人道援助活動を行っています。

対人地雷禁止条約オタワ条約 ):非人道的兵器である地雷の廃絶を訴える国際世論の高まりを受けて、1997年に結ばれましたが、アメリカ・中国は加盟していません。

フェアトレード公正な貿易 ):発展途上国の産品を生産者から適正価格で輸入し、先進国内で販売する仕組みのこと。継続的に生産者の自立を支援し、市場競争で軽視されがちな生産者の雇用条件や環境への配慮を取り組みの基本方針としています。

製造物責任法PL ):製造物の欠陥により損害が生じた場合、その製造者が損害賠償責任を負うことを定めています。


環境問題・循環調和型社会

アルド・レオポルド土地倫理~個人間で成り立つ倫理の範囲を「土地」にまで拡張しました。

レイチェル・カーソン :アメリカの海洋生物学者、『沈黙の春』。DDTなどの農薬など有害な化学物質の大量使用が、 生物濃縮によって生態系破壊、環境破壊を引き起こすことを警告しました。

ハンス・ヨナス世代間倫理の先駆者。人間は未来世代と自然の存続に責任を持ち、環境破壊を止めなければならないとしました。

世代間倫理 :現在、生きている世代はまだ生まれていない未来の世代の生存に対して責任を持つという考え方。ケネス・ボールディング :アメリカの経済学者。地球が閉鎖的システムであることを指摘し、「宇宙船地球号」と表現しました。

ピーター・シンガー動物解放論~動物の苦痛を考慮しないのは種差別であるとしました。

シーア・コルボーン :アメリカの生物学者。『奪われし未来』(第二の『沈黙の春』)で環境ホルモンの危険性を指摘しました。

環境ホルモン :有機塩素系の農薬DDTや猛毒で発がん性や催奇形性を持つ有機塩素化合物ダイオキシンなど、生体の内分泌系に悪影響を及ぼす物質。

ギャレット・ハーディン共有地の悲劇~個人の利益追求が最終的に全ての破滅をもたらすとしました。

地球サミット :1992年、将来世代の自然環境を保全しつつ、現世代の要求を満たす開発のあり方を示す理念として「持続可能な開発 」(環境保全と経済成長の共存)が提唱され、「リオ宣言」が採択されました。

地球温暖化 :二酸化炭素などの温室効果ガスが原因とされます。

地球温暖化防止京都会議 :1997年、京都議定書が採択され、先進国全体で5.2%の温室効果ガスの排出量削減目標が定められました。発展途上国は経済発展の妨げになるという理由から、排出量削減義務を負うことに含意していません。

パリ協定 :2015年、パリで開催された第21回気候変動枠組条約締約国会議(COP21)にて採択された、気候変動抑制に関する多国間の国際的な協定(合意)。京都議定書以来、18年ぶりとなる国際的枠組みであり、気候変動枠組条約に加盟する全196カ国全てが参加する枠組みとしては史上初でしたが、2019年にアメリカ合衆国が正式に離脱を表明しました。

オゾン層破壊 :化学合成物質の一つであるフロンガス により、有害な紫外線を吸収するオゾン層が破壊されると、皮膚がん発生などの恐れがあります。

モントリオール議定書 :1987年。オゾン層破壊の原因物質として、フロンガスを規制物質に指定しました。

酸性雨 :窒素化合物に由来する窒素酸化物NOx)や 硫黄酸化物SOx)が雨に溶け込んだもの。

アスベスト石綿 ):吸入することで肺がん・悪性中皮腫などを発症することがあるため、2006年にアスベスト健康被害救済法が施行されました。

自然の権利訴訟 :自然環境を保護するために動植物や土地を原告として裁判を起こすこと。アメリカで始まり、日本でも1995年に奄美大島のゴルフ場開発計画に対し、アマミノクロウサギを原告とするアマミノクロウサギ訴訟が起こされたのを皮切りに、全国で自然の権利訴訟が起こされています。

環境アセスメント環境影響評価 ):開発事業を遂行する場合、環境への影響をあらかじめ調査・予測・評価することを通して、その内容を公表し、意見を聴取すること。

アメニティ :心地よさや快適さの度合いのこと。現代社会では、アメニティを重視した地域づくりが進められています。

循環型社会 :使用済み製品を回収して再利用するリサイクルの促進などを通して、限りある資源を活用する、持続可能な循環型社会への転換が求められています。

think globally, act locally :地球規模で考え、足元から行動を。環境問題に取り組む姿勢を表した標語。


情報社会・管理社会

ウェーバー :ドイツの社会学者。合理化が推し進められた西洋近代においては、組織的な分業を旨とした官僚制 による管理・支配が浸透しがちである点に着目し、その下で人々の個性や創造性が抑圧される危険性を明らかにしました。すなわち、合理性を徹底的に追求した近代官僚制を特徴とする現代社会で管理され、豊かな精神と人間性を喪失する危険にさらされていると指摘しました。

官僚制ビューロクラシー ):本来は組織を合理的に運営するために取り入れられた仕組みでしたが、近代資本主義社会の原理となり、人間の感情を排し、人間疎外の状況を生み出していると指摘されました。

マクルーハン :カナダのメディア学者。活版印刷の発明や20世紀のテレビなどの出現に着目し、メディアの形式が人間の感覚に与える影響を指摘しました。

知る権利 :必要な情報を妨げられることなく自由に入手できる権利であり、国や地方自治体に対して情報公開を求める根拠とされています。

説明責任アカウンタビリティー):行政機関は、自らの権限を行使する場合、管轄地域の住民などの 利害関係者ステークホルダー )に対して、その内容に関する十分な情報を提供し、理解を得るように説明する責任があります。

情報リテラシー :受け手が批判能力をもって情報の取捨選択をすること。

デジタル・ディバイド :パソコンやインターネットなどの情報機器を使って情報収集できる能力の格差。低所得者や高齢者、発展途上国の人々が情報弱者となりやすく、その格差から生じる社会的不平等が問題となっています。

バーチャル・リアリティ仮想現実):コンピュータで作られた仮想空間を擬似体験させる技術のこと。

ユビキタス :コンピュータ技術を介して、いつでも、どこでも、誰もが必要な情報にアクセスできる環境を指します。「神があまねく存在する」というラテン語を語源としています。

サブリミナル効果 :意識では認識できないメッセージを送ることにより、潜在意識に影響を与える広告手法のこと。


グローバル社会・異文化交流

オリエンタリズム :パレスチナの文芸評論家サイードが名づけた、西洋中心主義的で浅薄な東洋観のこと。

ステレオタイプ :固定観念に囚われたイメージや態度。偏見や差別を生み出す原因となるので、異文化と接する際にステレオタイプに当てはめて相手を判断しないように心がける必要があります。

カルチャー・ショック :自分が慣れ親しんだ文化とは異なった文化に出会った時に、心に生じる違和感や衝撃。

エスノセントリズム自民族中心主義自文化中心主義 ):自民族や自国の文化を優位とし、他の民族や文化を価値の低いものと見なす態度のこと。

文化相対主義 :自民族や自文化の価値観を絶対視せず、他の民族や文化にも積極的な価値を認め、互いに尊重し合おうとする考え方。

多文化主義マルチ・カルチュラリズム ):様々な人種,民族,階層がそれぞれの独自性を保ちながら,他者のそれも積極的に容認し共存していこうという考え方、立場。「 人種のるつぼ」的な同化主義に対抗する考え方。



(2)青年期

人間論

ホモ・ファーベル工作人):道具を使って自然に働きかけ、ものを作り出す存在。フランスの思想家 ベルクソンが名付けた人間観。人間は他の動物と違い、道具を用いて環境に働きかけることができます。

ホモ・ルーデンス遊戯人):日常から離れて自由に遊び、そこから文化を作り出す存在。オランダの歴史家 ホイジンガが名付けた人間観。

ホモ・サピエンス英知人):知恵を持ち、理性的な思考能力を備えた存在。スウェーデンの植物学者リンネ が名付けた人間観。ラテン語のスキエンティア(英語science)が「(部分的な)知 」であるのに対し、サピエンティア全体的な英知(聡明)」の意。

ホモ・レリギオースス宗教人):自らを超えるものに目を向け、宗教という文化を持つ存在。ルーマニアの宗教学者 エリアーデが名付けた人間観。

アニマル・シンボリクム象徴的動物):言語などの意味を持つシンボル(象徴)によって世界をとらえる存在。ドイツの哲学者 カッシーラーが名付けた人間観。

ゾーン・ポリティコンポリス的動物社会的動物 ):共同社会に住み、言語や理性を用いて他者と話し合い、善と悪や正義と不正義などについて共に考える時、その本質を十分に発揮する存在。ギリシアの哲学者 アリストテレスが名付けた人間観。

フロム :ドイツの社会心理学者、『自由からの逃走』 。自由がもたらす孤独や不安に耐え切れず、権威への服従を自ら求めることを分析し、「父なき社会がヒトラーを産んだ」としています。

ベネディクト :アメリカの文化人類学者、『菊と刀』 。第二次世界大戦下、アメリカの戦時研究の一環で日本を研究し、内面に善悪の基準を持つ西洋の「罪の文化 」に対し、日本は他者からの評価を重視する「恥の文化」であると分析しました。

リースマン :アメリカの社会学者、『孤独な群集』 。現代人に支配的な性格類型、現代の大衆社会に見られる社会的性格を、他人に同調して生きる「他人指向型」と名付けました。

他人指向型 :周囲の意向や社会の評価を感じ取って、それに同調しようとする傾向。他人の行動に照準を合わせて自己の行動を決定する性格。

フランクル :オーストリアの精神医学者、『夜と霧』ロゴセラピー実存分析 、意味中心療法)創始者。ユダヤ人であったため、第二次世界大戦中にアウシュヴィッツ収容所に送られましたが、死への恐怖や飢えにより精神的自由すら奪われてしまう極限状況での体験から、人間らしい生き方とは何かを探究し、生きる意味を見出すことの重要性を説きました。


青年期の特徴

ピアジェ :スイスの心理学者。幼児期における自己中心的思考を指摘し、児童期になって、他者の視点に立って物事を認識できるようになることを「 脱中心化」と呼び、思いやりの発生基盤としました。

第一反抗期 :何でも拒否する態度を示す3~4歳児の頃。

アリエス :フランスの歴史学者。『<子ども>の誕生』で、近代以前のヨーロッパでは「子ども 」という概念が確立されておらず、中世では7歳以降の人間は「小さな大人 見なされていたと指摘し、「子ども」の意義が認められるようになったのは近代以降であるとしました。

青年期 :大人としての自立を準備する段階。社会の産業化・情報化が高度に進むと共に、その期間は拡大する傾向にあります。10歳頃から成人までの移行期を人格的な発達に応じて、プレ青年期・青年期(前期・後期)・プレ成人期に区分する考えがあります。

ルソー :フランスの思想家。未熟な存在としてこの世に生まれ落ちた人間が、青年期に至って自己や性に対する自覚を強めるようになることを「 第二の誕生」と表現し、子どもの自然な素質や成長に応じた教育の必要性を説きました。

ホリングワース :アメリカの心理学者。青年期に入り、親の保護から離れて精神的に自立しようとする過程を「心理的離乳」と呼びました。

第二次性徴 :12~13歳頃から男女の身体的特徴が現れること。第二次性徴が現れて身体が急速に発達する青年期には、女性や男性としての成熟した自己像を形成することが課題となります。

第二反抗期 :思春期の12~13頃に始まり、自我の目覚めと共に自己主張が強くなり、大人や社会秩序に対して反抗的な態度を示すようになる時期のこと。親子間に対立関係をもたらすこともあるが、子どもが精神的に自立するプロセスの一環でもあります。

疾風怒濤シュトルム・ウント・ドラング):元々はゲーテシラー による、理性よりも人間の感情を重視した文学運動を指す言葉でしたが、後に感情起伏の激しい青年期の内面を表す言葉として、「疾風怒涛の時代」が用いられました。

エゴイズム自己中心主義 ):青年期になると自我に目覚め、エゴイズムの傾向が強くなると同時に、心理的な面で親から自立しようとします。

カウンター・カルチャー対抗文化):既成の文化や価値観に対抗する若者文化を表したもの。

ヤマアラシのジレンマ :相手に接近したい気持ちとお互いが傷つくことへの恐れとが葛藤を起こし、適度な距離を見出しにくい状況を指します。ヤマアラシ同士が温め合うために近づこうとするが、近づきすぎると相手を傷つけてしまうというドイツの哲学者 ショーペンハウアーの寓話から名付けられました。青年期の友人関係にもこのような状態が見られることがあります。

レヴィン :ドイツの心理学者。子どもと大人のはざまにいて、どちらの世界に対しても帰属意識を持てずに不安定な状態にある青年を、「 マージナル・マン」(境界人周辺人 )と呼びました。

マージナル・マン境界人周辺人 ):複数の社会集団に属するが、同時にそのいずれの集団にも深く帰属できない人々のこと。子どもと大人のどちらの集団にも属さない、中間の存在としての青年。

カイリー :アメリカの心理学者。年齢的には大人になっても、心理的には子どものままでいようとする青年の有り様を ピーターパン・シンドロームと呼びました。

ピーターパン・シンドローム :大人としての責任を拒否する態度。青年期の課題である自我同一性の確立ができていない状態。

モラトリアム人間 :いつまでも猶予状態にひたり続ける人間。心理学者小此木啓吾(おこのぎけいご)による命名です。 モラトリアムとは本来、決済や預金の払い出しを一時的に停止する支払い猶予 という意味での経済用語でしたが、これを「大人としての義務・責任の遂行を猶予される時期 」という意味に転用して青年期を説明したのがエリクソンでした。

エリクソン : ドイツ出身のデンマーク系ユダヤ人、アメリカの精神分析学者。父親の顔を知らずに育ち、放浪の旅と芸術活動を続けた青年期を経た後、ウィーンで フロイトとその娘アンナ から精神分析を学びました。児童分析家として成長した後、アメリカに渡り、文化人類学者のマーガレット・ミードベネディクトらと交流する中で『幼児期と社会』 を著し、人間には乳児期から青年期までの各段階において発達課題を達成していくというライフサイクル理論 を示しました。社会と自己の関係についてのエリクソンの考えは、友人だったリースマンの著書 『孤独な群衆』にも影響を与えました。

ライフサイクル人生周期 ):エリクソンは人生を8つの発達段階からなるライフサイクルに区分し、各段階に達成すべき課題があるとしました。例えば、乳児期の発達課題は基本的信頼の獲得であり、青年期の課題はアイデンティティ自我同一性 )の確立であるとしました。また、青年期の自己探求において、それまでに経験したことのない様々な役割を実際に行ってみることを 役割実験と呼び、その意義について説きました。

アイデンティティ自我同一性):一貫性単一性に基づく自己認識をしつつ、所属集団から評価されることで充実感が得られ、集団の価値観を受容して 役割期待に応えることで形成されていく自我の安定状態(自我理想)。

アイデンティティの危機自我同一性の拡散 ):自分が自分であるという確信が持てず、自分が何者かが分からなくなる、生きている実感が得られないといった混乱状態のこと。

マーガレット・ミード :アメリカの文化人類学者、『サモアの青春』。『菊と刀』ベネディクト はコロンビア大学の同門です。サモア諸島の調査で、未開社会における思春期の少女達に青年期特有の葛藤の現象が見られないことを発見し、男女の気質・性質が後天的な文化の所産であることを実証し、歴史的・地域的な状況が個性の形成に大きく影響すると考えました。

一般化された他者 :共同体・社会集団を代表する、抽象化された他者。ミードは、「私」がいて、他者との関係が生まれるのではなく、社会的な関係から「私」が産出されるとしました。

主我I):個人という自由な主体。自分から見た自分。主我と客我が相互に作用することで自分がつくられていきます( 自己形成)。

客我me):他者の視点(役割の期待)を取得して形成。他人から見た自分。

不条理 :フランスの小説家・劇作家・哲学者カミュの用語。人生や世界の意味を見出せない状態のこと。

神谷美恵子 :日本の精神科医、『生きがいについて』 。ハンセン氏病療養所での勤務経験を基に、幸福感と生きがい感の違いに着目し、前者に比べて後者は未来に向かう心の姿勢や使命感を強く含むと考えました。

オルポート :アメリカの心理学者。パーソナリティ の研究を行い、成熟した人格(精神的に大人であること)の特徴として次の6つを挙げました。

(1)社会的領域への自己意識・自己感覚の拡大

(2)他者との温かい人間関係の構築

(3)情緒的安定と自己の受容

(4)現実的認知と解決のための技能

(5)自己の客観化・客観視、自己洞察とユーモア

(6)人生を統一する人生観・人生哲学の獲得

通過儀礼イニシエーション):七五三や成人式など、人生の節目に行われる儀礼のこと。

ニートNEET=Not in Employment or Training):就業・就学もせず、職業訓練も受けていない若者のこと。

生涯学習 :学齢期の後も生涯にわたって学習を続けていくこと。

スチューデント・アパシー :学業に対して無気力になる学生の症状。

青い鳥症候群 :一流大学を卒業して一流企業に就職するも、自分の期待と現実とのギャップから転職を重ねる青年を分析したもの。精神科医 清水将之が提唱しました。

パラサイト・シングル :学校を卒業した後も親と同居し、住居や食事などの基礎的生活条件を親に依存する未婚者のこと。社会学者山田昌弘 が提唱しました



(3)心理

性格理論

パーソナリティ人格):能力気質性格の3要素から構成され、遺伝的要素と後天的な要因の両方に影響を受けながら形成されます。

類型論 :性格をいくつかに分けた典型的なタイプ(類型)に当てはめます。

クレッチマー :ドイツの医学者、精神科医。性格と体型の関連を指摘し、分裂気質は細長型、循環気質は肥満型、粘着気質は筋骨型に多いとしました。

ユング :スイスの精神科医・心理学者。ブロイラーに師事して深層心理について研究、フロイト精神分析学も学び、分析心理学を創始しました。また、ユングは全体性相補性の観点から、性格を内向型外向型の2つの態度と「思考」「感情」「 感覚」「直観」の4つの機能に分類し、「タイプ論 」を展開しました。

分析心理学ユングが創始。フロイトが個人の体験による 個人的無意識を重視したのに対し、夢や神話を通して人類の共通の無意識(集合的無意識 )を解明しようとします。ユングは集合的無意識の中にいくつか元型があると分析しましたが、この理論に立つと人間には誰しも 理想的男性像(息子→夫→父)や理想的女性像 (娘→妻→母)を持っていることになり、悲惨な環境の中に育っても必ずしも非行に走るわけではなく、この元型が羅針盤のように作用して、人を正しい方向に導く役目をすることが説明されます。

内向型 :外界よりも、自分の心の内奥に深く沈み込み、思念やイメージを重ねていくようなタイプ。

外向型 :周囲の他人や実際に起こる出来事などに自然と関心が向いていくタイプ。

思考 :与えられた様々な表象内容を、それ固有の法則に従って概念化し、相互に関連付ける心的機能であり、「それが何を意味するのか」を示してくれるもの。

感情 :与えられた様々な表象内容に対して、それを概念化したり関連付けたりせずに、主観的に受け入れるか、拒むかを判断するような心的機能であり、「それにいかなる価値があるか」を確認してくれるもの。ユングは思考と感情は与えられたものに対して価値判断を含んでいるので、 合理的機能と分類しています。

感覚 :物理的な刺激を知覚として脳に伝えてくる身体的な心的機能であり、「そこに何かが存在すること」を示してくれるもの。

直観 :知覚を無意識的な方法によって伝える特別な心的機能であり、概念化や関連付けを経ることなく一挙に出来上がった全体として認識するもの。ユングは感覚と直観は与えられたものをそのまま受け取り、価値判断を含まないので、 非合理的機能と分類しています。

元型アーキタイプ ):集合的無意識の領域にあって、神話・伝説・夢などに、時代や地域を超えて繰り返し類似する像・象徴などを表出する心的構造。祖型。 ペルソナ(社会的役割や性別役割として他者に見せている自己イメージ)、シャドウ (影、否定的・消極的な自己イメージ)、アニマ(男性の内なる女性性)、アニムス (女性における男性性)、太母老賢者トリックスターなど。

シュプランガー :ドイツの哲学者・心理学者。人々の生活を方向づける価値観や関心によって、人間の性格を理論型経済型審美型社会型権力型宗教型の6類型に分類しました。

理論型 :真理や普遍的本質を重視し、物事を客観的に扱います。

経済型 :金や財産に最大の関心を示し、損得勘定で行動します。

審美型 :美を求めて生き、幻想を通して現実を見ます。

社会型 :愛を最高のものとし、他者への共感や思いやりに価値を置き、他人と共に生きようとします。

権力型 :支配と優越への欲求が強く、他人に命令しようとします。

宗教型 :完全に満足できるような最高の価値を求めます。

特性論 :性格を比較的多数の基本単位(特性)に分け、各特性の程度を量的に測ります。

アイゼンク :ドイツの心理学者。向性(外向-内向)、神経症的傾向、精神病的傾向の3つの次元を定義し、これらの量的組合せから性格の差異をとらえようとしました(次元的分析)。

性格の 5 因子ビッグファイブ理論 :性格検査で使われる基準。一般に、(1)外向性、(2)神経症的傾向、(3)開放性、(4)協調性、(5)誠実性、の5因子によって人格を理解します。


欲求と適応

一次的欲求 :生命を維持するために必要な呼吸・睡眠・食欲などの欲求。

二次的欲求 :人格的な成長を促す精神面の欲求。

欲求不満フラストレーション、frustration):欲求充足の行動が阻止されて、緊張が解消されない状態。

葛藤コンフリクト、conflict):両立不可能な欲求が衝突し、緊張が高まること。

愛憎併存アンビヴァレンス、ambivalence):同じ対象に対して、同時に相反する感情を抱くこと。

合理的解決 :欲求不満に対し、努力によって原因となっている問題を解決すること。

近道攻撃反応(short circuit reaction):欲求不満に対し、八つ当たりや暴力など衝動的な行動を取ること。

防衛機制 (defense mechanism):葛藤や不安などから、欲求不満に対して無意識のうちに自我の安定を図ろうとする心の働き。オーストリアの精神分析学の創始者 フロイトが初めて明らかにしました。

失敗反応 :欲求を環境に合わせて満たすことができず、欲求不満の解消に失敗すること(神経症、自殺など)。

フロイト :オーストリアのユダヤ人精神科医。神経病理学者を経て精神科医となり、神経症研究、自由連想法、夢の分析、無意識研究を行いました。精神分析学の創始者として知られています。人間の心をエスイド)、自我超自我 の三層に分けて考え、個人における幼児体験が強力な複合体コンプレックス )として無意識の底に潜み、人間行動を規定すると考えました。フロイトはこの個人的無意識 を民族単位の精神分析にも応用し、歴史法則を決定する無意識はきわめて根深くて、ほとんど不変であり、表面に生起する諸事件とは関わりなく、容易に変化しないものであるとする社会理論を展開しており(『人間モーセとユダヤ教』)、アメリカの代表的社会学者である タルコット・パーソンズは特定の行動様式とそれを背後で支える心的態度である「エートス 」論を中心に宗教社会学を展開したドイツの社会学者ヴェーバー 、慣習など個人の外に存在し、個人に対して強制力を持つ制度を「社会的事実」(フェ・ソシアール)として捉え、そこから「社会的連帯」( ソリダリテ)の喪失による社会的無規範・無秩序状態である「アノミー 」論を展開したフランスの社会学者デュルケーム、ベンサムの「最大多数の最大幸福 」を科学的に捉え直した「パレート最適」で知られるイタリアの社会学者パレートと共に フロイト四大社会学者 の1人に挙げるほどでした。実際、現代思想においてフロイト思想の影響を免れているものは無いと言われるほど、多大な影響を及ぼしています。

精神分析フロイトが創始。自由連想法夢の分析 により、無意識のうちに抑圧された葛藤や欲望など、人間の行動を深層心理から解明し、神経症の治療に活かそうとするものです。

エス :無意識の部分で、性欲動リビドー )を中心とする本能的な欲求の源泉で、常に欲求を満たし、快感を得ようとします。

超自我 :親や社会の教育による良心・社会的規範で、道徳が内面化したものです。エスの欲望を抑制・禁止する機能を持ちます

自我 :相反するエス超自我 のバランスを取りながら、現実の環境に適応しようとします。この3つの調和が取れず、人格の統合性が危機に近づくと、無意識のうちにこの状態から逃れようと 防衛機制を働かせます。

アドラー :オーストリア出身のユダヤ人精神科医、心理学者、社会理論家。「劣等感 」に注目し、ジークムント・フロイトおよびカール・グスタフ・ユングと並んで現代のパーソナリティ理論や心理療法を確立し、個人とは分割できない存在であるとする個人心理学を創始しました。アドラーは劣等感劣等コンプレックスを区別し、劣等感は優越性の追求 につながるエネルギー源であるのに対し、劣等コンプレックスは劣等感を行動で解消することを諦め、歪んだ心になることと指摘したのです。

ソンディ :ハンガリー出身のユダヤ人精神科医。フロイト個人的無意識ユング集合的無意識の間を埋めるものとして家族的無意識に注目し、衝動心理学運命心理学運命分析学を創始しました。無意識の欲求や衝動を明らかにするためのソンディ・テスト でも知られています。ソンディは人間がどのような振る舞いをしても回避することの出来ない決定論的な運命を強制運命 と呼び、人間が決定論に抗う自由意志によって克服することが可能な可変的な運命を自由運命 と呼んでいます。ソンディは自らの体験を元に、ドストエフスキー などの遺伝的家系研究をふまえ、個人の無意識の中に抑圧されている祖先の欲求が、恋愛友情職業疾病、および 死亡における無意識的選択行動 によって運命を決定していることを示していますが、これはまさに「親の因果が子に報い」的な仏教的因果応報論を裏付けるような心理学だと言えるでしょう。

マズロー :アメリカの心理学者。欲求階層説を唱え、人間性心理学を創始しました。

欲求階層説 :人間は5段階の欲求を持ち、より高次の欲求を満たそうとします。

欲求の階層構造生理的欲求身体の安全の欲求所属と愛情の欲求他者による承認と自尊の欲求自己実現の欲求(→自己超越欲求)。例えば、マルクスの人間観は19世紀の唯物論的心理学に基づき、「 生理的欲求」と「安全の欲求 」を中心としているため、人間の幸福の実現には食物と安全が重要だとし、より高次の欲求には否定的でした。フロイト は無意識の研究を行い、性の問題を通じてより上位の欲求である「所属と愛の欲求 」の研究をしたと言えますが、性の観点から全てを理解しようとしたために、人間理解を狭くしてしまいました。これに比べ、フロイトの弟子の1人である アドラーは、性格を対人関係からとらえ、性格は劣等感 を軸とし、その補償としての優越欲と社会的共同感情の相互関係から社会生活の中で形成されると見たので、人からの尊敬・評価を求める「 承認の欲求」を中心に研究したと言えます。そして、「自己実現 」という用語を初めて使用したのは、人間の精神を部分や要素の集合ではなく全体性や構造(ゲシュタルト 。幾何学図形、文字、顔など全体性を持ったまとまりのある構造から全体性が失われてしまい、個々の構成部分にバラバラに切り離して認識し直されてしまう現象をゲシュタルト崩壊と言います)に重点を置いて捉えるゲシュタルト心理学者の ゴルトシュタイン で、「全ての人間の行動を取り仕切る決定的要因」は自己実現だとしたのです。この概念に注目し、具体的に研究を進めたのがマズローだったのです。ちなみにユングは自我と無意識の全体を統合して「心の全体性」を実現する個性化(individuation)を 自己実現(self-realization)であるとしました。

人間性心理学第一の心理学精神分析学フロイト)、第二の心理学行動主義心理学ワトソン)に続く 第三の心理学マズロー )とされます。マズローは、リンカーン、アインシュタイン、シュヴァイツァーなどの偉人の研究をすると共に、健康で豊かな精神生活を送っている多数の人々に会って研究を続けた結果、精神的に健康な人は例外なく自分の職業や義務に打ち込んでおり、その中で創造の喜びや他人に奉仕する喜びを感じていることや、自由で客観的なものの見方をし、他人に対しては寛容でユーモアがある、という共通点発見しました。マズローはこうした画期的な研究を元に健康と成長のための理論を目指したので、精神分析学が異常を正常に戻す(マイナスをゼロにする)心理学であるとしたら、人間性心理学はゼロから限りなく100を目指す心理学であると言えます。マズローはさらに自己実現欲求が満たされた後に生じる自己超越欲求に基づく 第四の心理学トランスパーソナル心理学の端緒ともなりました。


防衛機制

代償 (compensation):欲求不満に対し、代わりのものを欲求の対象に置き換え、それを満たすことで欲求不満の解消を試みること。

合理化 (rationalization):欲求不満に対し、もっともらしい理由や理屈をつけて、欲求が満たされないこと自体を正当化すること。

抑圧 (repression):欲求不満に対し、欲求自体を抑え込み、不快な記憶を残したり、自責の念に駆られたりしないようにすること。

退行 (regression):自らの欲求を満たすことのできない大人が、幼児期の発達段階に逆戻りしたかのような態度を取る現象。

同一化同一視、identification):自分よりも優れているものと自分とを重ね合わせて満足すること。

投影投射、projection):自分の弱みや欠点を相手に転嫁すること。

反動形成 (reaction formation):抑圧された欲求と反対の行動を取ること。

逃避 (escape):苦しい事態から回避すること。その場からの逃避、空想・現実・病気への逃避があります。

昇華 (sublimation):精神的エネルギー(リビドー)が、社会的に価値あるものに置き換えられること。




2 思想の源流

(1)ギリシア哲学

ギリシア神話の世界

ギリシア神話ホメロスヘシオドスらによる古代ギリシア及び周辺地域の伝承の集大成であり、アイスキュロスソポクレスエウリピデスの「 三大悲劇作家」に代表されるギリシア悲劇 の詩人達によって奥行と人間的な深みがもたらされ、ヘレニズム期のアレクサンドリア図書館での整理を経て、1世紀頃に アポロドーロス『ビブリオテーケー』 (ギリシア神話)によって今日のような形となりました。ヨーロッパの教養の源泉にして、今なお造語・造話の源泉として人々にインスピレーションを与え続けています。

ホメロス :叙事詩『イリアス』『オデュッセイア』。「世界文学 」において、古代を代表する詩人です。トロイア戦争を中心に描いた『イリアス』『オデュッセイア』は北欧神話の「エッダ」「サガ」、ペルシア(イラン)神話の叙事詩『シャー・ナーメ王書、インド神話の叙事詩 『マハーバーラタ』『ラーマーヤナ』、日本の『古事記』 などと共に世界を代表する神話ですが、考古学者ハインリヒ・シュリーマン の発掘によって、史実を反映したものであることが実証されました。現代でもギリシアの中高生は日本の古文のごとく、ギリシアの古典文学として『イリアス』『オデュッセイア』を学んでいます。

世界文学 :時代精神を代表し、世界的歴史的に多大な影響を与えた文学を指します。以下の人物・作品以外にも優れた古典はありますが、これらの人物・作品抜きに世界文学を語ることはできないと言えます。

①古代:ホメロス(ギリシア)。これに匹敵するのはギリシア語で書かれた『聖書 』です。ヨーロッパの精神的伝統は人本主義的・思想的なヘレニズムと神本主義的・宗教的な ヘブライズム の二本柱ですが、ギリシア神話とギリシア哲学がヘレニズムの原点であるとすると、『聖書』がヘブライズムの原点でしょう。ローマ最大のラテン詩人 ウェルギリウスのローマ建国を描いた叙事詩『アエネーイス』 もホメロスの『イリアス』を下敷きにしています。『オデュッセイア』の主人公オデュッセウスの英語名はユリシーズで、20世紀のアイルランドを代表する作家ジェイムズ・ジョイスの長編小説 『ユリシーズ』は『オデュッセイア』を下敷きにしています。

②中世:ダンテ(イタリア)。地獄・煉獄・天国を巡る壮大な世界観を展開した『神曲』 は西洋において最大級の賛辞を受けており、「世界文学」を語る際にはほぼ筆頭の位置に置かれ、明治以降の日本の文学者にも多大な影響を及ぼしました。 アウグスティヌス(イタリア)の『告白』 もその後、中世の1000年にわたってキリスト教徒の作家に強い影響を及ぼしたのみならず、近代哲学や人生論にも影響を与え続けました。

③近世:シェークスピア(イギリス)。 『ハムレット』『オセロー』『マクベス』『リア王』四大悲劇 などが有名ですが、イギリスでは「世界最大の詩人」とされるのみならず、近代英語 の半分はシェークスピア が作ったとまで言われます。実際、ロンドンで初めて『ハムレット』を観劇したある老婦人が、「シェークスピアの作品は、私のよく知っている名言・名句ばかりで成り立っているのね」と言ったというエピソードが伝えられるほど、シェークスピアの造語・造句・造文が英語表現の基層の一部となっています。また、ホメロス・ウェルギリウスらの叙事詩の伝統を受け継ぐ「第三の叙事詩人ミルトン(イギリス)の叙事詩 『失楽園』(Paradise Lost)も、『フランケンシュタイン』を始めとする様々な物語の原型となり、今でもよく英語メディアの見出しに使われます。

④近代:ゲーテ(ドイツ)。「世界市民」「世界文学」などの視点を持った近代型万能人で、『ファウスト』『若きウェルテルの悩み』などで近代的理想主義を描き、フランス革命の風雲児ナポレオンもゲーテに会って興奮したとされ、共産主義革命の理想を追求したマルクスレーニン らもゲーテを愛読しています。また、グリムが作成した『ドイツ語辞典』にはゲーテの作品から多くの引用がなされており、 現代ドイツ語の形成にも大きな影響を及ぼしました。また、シラー (ドイツ)はゲーテの友人で、共に疾風怒濤時代シュトルム・ウント・ドラング )を形成し、この言葉は青年期の様相を表す言葉として転用されています。シラーはドイツのみならずイタリアやフランス、ロシアなどでも「自由の詩人」「市民の代表としての反抗者」として熱烈に歓迎され、現代ドイツでも「 ドイツ詩の手本」として教科書に掲載され、生徒らによって暗誦されています。

⑤現代:ドストエフスキー(ロシア)。 『罪と罰』『白痴』『悪霊』『カラマーゾフの兄弟』 。近代人の理性の行き着いた果てにして、現代人の実存的苦悩を描いています。「ドストエフスキーの弟子」を自認したカミュをはじめ、ジイドプルーストヘルマン・ヘッセニーチェフロイトハイデッガーサルトルアインシュタインタルコフスキー など、多くの作家、思想家、芸術家等にインスピレーションを与え続け、日本を代表する現代作家でもドストエフスキーに影響を受けなかった作家は皆無と言われます。 『戦争と平和』『アンナ・カレーニナ』『復活』などを書いたトルストイ (ロシア)も、文学のみならず政治・社会にも大きな影響を与えており、その人道主義・非暴力主義・反戦主義は日本の白樺派与謝野晶子らのロマン主義、さらには社会主義 などにも多大な影響を与えました。

ヘシオドス :古代ギリシアの詩人、『神統記』『仕事と日々』。『神統記』に見られるギリシア神話の系統的記述は、「神々の誕生の物語」(テオゴニア)であると同時に「宇宙誕生の物語」(コスモゴニア)でもあり、これが「宇宙論」(コスモロギア)に発展して、1世紀後に現れる ミレトスの「自然哲学」を準備することになります。

カオス混沌):空隙とも言われ、宇宙の原初状態を指します。道家思想における「 」に相当します。カオスの対義語がコスモス (秩序、宇宙)ですから、儒教の宋学で言えば、「無極」がカオスで、それ以降の「太極両儀陰陽)→四象八卦」がコスモス、宇宙論で言えばビッグバン以前のインフレーション期までの宇宙が カオスで、ビッグバン以降の宇宙がコスモス と言ってもいいかもしれません。カオスに続いて、ガイア(大地)、タルタロス (奈落、冥界よりさらに下の世界)、エロース(原愛)が生じます。タルタロスはプラトン によって地獄とされ、『新約聖書』ペテロ第二の手紙にも出てきます。エロースは プラトンによって実在界のイデア を思慕する精神作用とされますが、ローマ神話で擬人化・幼児化され、軍神アレスと愛と美の女神アプロディテとの間の子「 アモール」「クピードー(英語のキューピッド )」とされます。本来は宇宙の根本的動力のようなエロースでしたが、次第に人間の性的衝動(エロス)に矮小化され、 フロイトの精神分析学ではリビドー欲動 )論となりました。

ガイア大地):あらゆるものの母であり、ガイアからエレボス(暗黒、地下世界)とニュクス(夜)の兄妹が生まれ、この2人が夫婦となってからヘーメラー(昼の光)とアイテール(上天の気)とカロン(冥界に至る川の渡し守)が生まれたとされます。 『旧約聖書』創世記 では、「はじめに神は天と地とを創造された。地は形なく、むなしく、やみが淵のおもてにあり、神の霊が水のおもてをおおっていた。神は「光あれ」と言われた。すると光があった。神はその光を見て、良しとされた。神はその光とやみとを分けられた。神は光を昼と名づけ、やみを夜と名づけられた。夕となり、また朝となった。第一日である」とありますので、ここに相当する部分かもしれません。アイテールは エーテルのことで、アリストテレスエンペドクレス四元素説を拡張して天体を構成する第五元素とし、これが スコラ神学にも受け継がれて、中世のキリスト教的宇宙観において天界 を構成する物質とされました。カロンはダンテ『神曲』 にも登場します。さらにガイアは息子ウラノス (天空)を生んで夫婦となりますが、空と大地を原初的な二柱の神と考えることは全てのインド=ヨーロッパ民族に共通しており、インドの 『リグ・ヴェーダ』でも空と大地は「不滅の夫婦」と呼ばれています。

ウラノス天空):ガイアとの間にクロノスレアティターン12神やキュクロープスヘカトンケイル などの巨人を生みます。ウラノスは天王星ウラノス)の語源であり、ティターン(英語のタイタン)はチタン(元素)、 タイタン(土星の衛星)、タイタニック号 など様々な名称に使われています。イオニア人・アカイア人・ドーリア人ら第3派ギリシア人がペロポネソス半島に南下した時、ミュケナイ、ティリュンス、アルゴスなどに代表される ミケーネ(ミュケナイ)文明 の巨石建造物の数々を巨人キュクロープスの手になるものと考え、「キュクロープスの石造物」と呼びました。これはイギリスのストーンヘンジに代表されるストーンサークルやヨーロッパ各地の メンヒルドルメンといった巨石記念物を巨人の遺物と考えられたことと同様です。

クロノス農耕):「時計」(クロック)の語源となった「 クロノス」(時間 )は別存在ですが、よく混同されます。万物を切り裂くアダマスの鎌でウラノスの性器を切り取って追放した後、レアと夫婦になり、炉の女神ヘスティア、豊穣の女神デメテル、結婚と出産の女神ヘラ、冥界の王ハデス、海の王ポセイドン、神々の王ゼウスらを生みます。ローマ神話では農耕神サートゥルヌス(英語の サターン)となり、土星 (サターン)の語源となりました。また、ヘシオドスの『仕事と日々』によれば、クロノスの治世が「黄金時代」と呼ばれ、「 黄金時代」の語源となります。その後、レアによって密かにクレタ島 にかくまって育てられたゼウス率いるオリュンポスの神々との戦争(ティタノマキア )が起こり、クロノスはティターン神族を率いて10年間戦いますが、ガイアの助言でウラノスがタルタロスに閉じ込めたキュクロープス、ヘカトンケイルを味方につけたオリュンポス神軍に敗れ、逆にティターン神族がタルタロスに閉じ込められます。

ゼウスオリュンポス12 のトップにして人類の守護神・支配神であり、ゼウス信仰はギリシア全域で行われ、ギリシア人達は一神教に近い帰依と敬虔さをゼウスに捧げていました。元来はバルカン半島の北方から来てギリシア語をもたらしたインド・ヨーロッパ語族系征服者の信仰した天空神であったと考えられ、正妻ヘラとの結婚や様々な地母神由来の女神や女性との交わりは、非インド・ヨーロッパ語族系先住民族との和合と融合を象徴するものと考えられます。これは「 天孫降臨 」説話を持つ日本神話や韓国神話でも見られることで、ギリシア神話は日本の神道などの民族宗教に相当するものと言ってもいいかもしれません。ローマ神話では ユーピテルジュピター)と呼ばれ、木星 (ジュピター)の語源となります。ヘシオドスの『仕事と日々』によれば、ゼウスがクロノスに取って代わると、黄金時代は 白銀時代となり、白銀時代の人間はゼウスに滅ぼされると、青銅時代 となります。その後、神話の英雄が活躍する英雄の時代、歴史時代である鉄の時代 と続くにつれ、人間は堕落し、世の中には争いが絶えなくなったとされます。オウイディウス『変身物語』(メタモルポーセース、ドイツ語のメタモルフォーゼ)でも、黄金の時代銀の時代銅の時代鉄の時代という四時代区分がなされています。

ポセイドン :海洋神、オリュンポス12神の1柱。ローマ神話ではネプトゥーヌスネプチューン )と呼ばれ、海王星(ネプチューン)の語源となります。ティタノマキアでキュクロープスからもらった 三叉槍トリアイナ、英語のトライデント )は、インド神話のシヴァ神三叉槍トリシューラ )と似ており、アメリカ海軍の潜水艦発射弾道ミサイルSLBM )の語源ともなっています。

ハデス :冥界神。ローマ神話ではプルートーと呼ばれ、冥王星 (プルートー)の語源となりました。

ヘラ :結婚と母性、貞節を司る女神、オリュンポス12神、ゼウスの正妻。サモス島 で誕生したと考えられており、サモス島は古くからヘラ信仰の中心地となっています。元来はアルゴス、ミュケナイ、スパルタ等のペロポネソス半島一帯に確固たる宗教的基盤を持っており、かつてアカイア人に信仰された地母神であったとされ、北方からの征服者との和合をゼウスとの結婚で象徴させたと考えられています。

デメテル :豊穣、穀物を司る女神、オリュンポス12神。デメテル信仰は非常に古く、紀元前17~15世紀頃からデメテルの祭儀である エレウシスの秘儀が始まっています。ゼウスとの間の娘ペルセポネ はハデスの妻となってしまったため、1年のうち3分の1はペルセポネがハデスの元に行き、残りの期間はデメテルと共に過ごすとして、このペルセポネ不在の期間にはデメテルが実りをもたらさないことから冬となり、季節の起源になったとされます。

ヘスティア: クロノスとレアの長女で、炉を司る処女神、オリュンポス12神。炉は家の中心なので、家庭生活の守護神となり、また、炉は犠牲を捧げる場所でもあるので、祭壇・祭祀の神となりました。さらに国家は家庭の延長上にあるとされていたので、国家統合の守護神とされ、各ポリスのヘスティア神殿の炉は国家の重要な会議の場であり、新植民地建設の際にはこの神殿からヘスティアの聖火をもたらすのが習わしでした。また、全ての孤児達の保護者であるとされます。ちなみに、オリュンポス12神としてヘスティアの代わりに ディオニュソス を数えることもありますが、これは12神に入れないことを嘆いた甥ディオニュソスを哀れんで、ヘスティアがその座を譲ったためとされます。

アプロディテ :愛と美を司る女神、オリュンポス12神。ローマ神話ではウェヌス(英語のヴィーナス )で、金星(ヴィーナス)の語源となっています。ルネサンスを代表する画家の1人、ボッティチェリ『ヴィーナスの誕生』などが有名です。プラトン『饗宴』で、天上的な「 ウラニア・アプロディテ」と世俗的な「パンデモス・アプロディテ 」という2種類があるとしていますが、アプロディテにはクロノスにより切断されたウラノスの性器が海に落ちた時の泡( アプロス )から生まれたという説と、ゼウスとティターン神族の娘ディオネから生まれたという説と2つがあります。元々は、『旧約聖書』に出てくるバアル神と共に信仰されたアシュトレト、メソポタミア神話の豊穣・多産の女神イシュタルなどと起源を同じくする外来の女神で、キュプロス島を聖地としています。アプロディテはトロイア王子アンキセスとの間にアイネイアスを生み、アイネイアスはトロイア戦争でトロイア軍の武将として戦い、アイネイアスを主人公とした叙事詩が ウェルギリウス『アエネーイス』です。木馬作戦 によってトロイアが陥落した後、アイネイアスはデロス島クレタ島カルタゴを経て、新たなトロイアにすべくイタリア半島のラティウムに上陸します。ここが ラテン人ラテン語の故郷であり、ローマ もここに建設され、アイネイアスの後孫からユリウス家が成立し、ユリウス・カエサルが誕生したとされます。

ヘパイストス :炎と鍛冶の神、オリュンポス12神。ゼウスとヘラの子で、ローマ神話ではウゥルカーヌス(英語のヴァルカン)と呼ばれ、美女パンドラ、ゼウスの盾アイギス(英語のイージス)、ゼウスの雷、アポロンとアルテミスの矢、「 アキレウスの盾」を含むアキレウスの武具一式、クレタ島を守る青銅の巨人タロス などを作ったとされます。アイギスはアテナに与えられ、ペルセウスが討ち取ったメドゥーサの首がはめ込まれて、無敵の防具となったため、イージス艦やイージス・アショアなどの イージス・システム の語源となりました。小アジア、レムノス島、シチリア島における火山帯で崇拝された神で、古くは雷と火山の神であったと思われ、インド神話の火の神 アグニに由来するとも言われています。

アレス :軍神、オリュンポス12神。ゼウスとヘラの息子で、ローマ神話ではマルスとされ、火星 (マーズ)の語源となりました。火星の衛星フォボスダイモス もアレスの子の名前から採られおり、黄道上に位置して、火星とよく似た赤い輝きを放つ天体であるさそり座のα星はアンタレス (火星に似たもの)と呼ばれています。戦争における栄誉や計略を表すアテナ に対して、戦場での狂乱と破壊の側面を表すとされます。

アテナ :知恵、芸術、工芸、戦略を司る処女神、オリュンポス12神。ゼウスとティターン神族の娘メティスとの子とされますが、アテナ崇拝の伝統はクレタ島を中心としたミノア文明まで遡り、ギリシアの地に固有の女神であったのが、ヘレーネス(古代ギリシア人)達はギリシアの征服と共に自分達の神に組み込んだとされます。アテナイミュケナイコリントステーバイなどの有力な都市でも、その中心となる小高い丘の上(アテナイであれば アクロポリス)にはアテネ神殿(アテナイであればパルテノン神殿 )が築かれ、多くのポリスで「ポリウーコス都市守護者 )」の称号で呼ばれていました。したがって、アテナの戦いは都市の自治と平和を守るための戦いであるため、ただ血生臭く、暴力が優越する軍神 アレスの戦いとは異なるものです。ローマ神話ではミネルヴァ と呼ばれ、知恵を象徴するフクロウを従えており、ヘーゲル『法哲学』序文に「 ミネルヴァのふくろうは迫り来る黄昏に飛び立つ 」と書いています。それまでの理論や制度が限界を迎えた時、新たな知恵を携えたフクロウがミネルヴァの元を旅立ち、知の革命を引き起こすというわけです。

アポロン :牧畜、予言、音楽、詩歌文芸を司る神、オリュンポス12神。ゼウスとティターン神族の娘レトとの息子で、 デロス島で生まれ、アルテミス とは双生児(もしくは姉と弟)とされます。オリュンポスの神々の中で最もギリシア的と言われ、古典期のギリシアにおいては理想の青年像と考えられましたが、光明神の性格を持つことから太陽神ヘーリオスと混同され、ローマ時代にはすっかり太陽神と化しました。ニーチェ『悲劇の誕生』で、アポロンを理性を司る神として、陶酔的・激情的芸術を象徴する神ディオニュソスと対照的な存在と考え、「アポロン的」「ディオニュソス的」という対概念を生み出しました。「汝自身を知れ」という標語や「ソクラテス以上の知者はいない」という神託で有名な デルフォイ神殿 はアポロンの神託所で、ミケーネ文明以前の時代からの伝統を持ち、ギリシア世界では最大の権威を持つ聖地でした。竪琴に巧みな オルフェウスや医神アスクレピオス もアポロンの子とされ、最もギリシア的な神とされますが、母親レトは元来、小アジアで信仰された大地の女神であり、アポロンも生誕後、北方の民ヒュペルボレオイの国で暮らしていたとされ、北海沿岸の琥珀産地と地中海沿岸を結ぶ交易路「 琥珀の道」とも深い関わりを持つ神だと考えられています。

アルテミス :狩猟・貞潔を司る処女神、オリュンポス12神。小アジアの古代の商業都市エペソス はアルテミス女神崇拝の一大中心地で、この地にあったアルテミス神殿はその壮麗さで古代においては著名でした。『新約聖書』「使徒行伝」はエペソスにおける女神信仰の様を偶像崇拝と記しており、パウロも 「エペソ人への手紙」 でエペソスの人々にキリスト教徒のあり方を語っていますが、このアルテミス女神信仰と正面から戦いを挑んでいたとも考えられます。アルテミス女神の壮麗な神殿は、キリスト教の地中海世界への伝播とともに信仰の場ではなくなり、やがてゴート族の侵攻で灰燼に帰しました。

ヘルメス :神々の伝令使、旅人・商人などの守護神、オリュンポス12神。ゼウスとティターン神族のアトラスの娘マイアの子とされ、ヘルメス崇拝の中心地は牧畜民が多い丘陵地帯で、古代ギリシアの中でも原始的な文化をとどめていたと言われるアルカディアでした。羊飼い達はヘルメスを家畜の守り神として崇めていましたが、ドーリア人の侵入後に アポロン がヘルメスに代わって牧羊神の役割を担うようになり、ヘルメスは神々の使者といった多様な職能をもつ人格神へと発展したとされます。ローマ神話では メルクリウスマーキュリー)とされ、水星 (マーキュリー)の語源となりました。

ディオニュソス :豊穣、ブドウ酒、酩酊の神。バッコスとも言われます。ゼウスとテーバイの王女セメレーの子。本来は集団的狂乱と陶酔を伴う東方の宗教の主神で、特に熱狂的な女性信者を獲得していきました。アテナイを初めとするギリシア都市ではディオニュソスの祭り( ディオニュシア祭)のため悲劇 の競作が行われており、そこに叙情詩の会話形式が加わって、悲劇が大成したと考えられています。

ギリシア悲劇 :ディオニュソスに関する宗教儀式を起源とし、楽観的で合理的に思われるギリシア世界において、過酷な運命に翻弄される人間の悲劇を描き、アテナイのアイスキュロスソポクレスエウリピデス三大悲劇詩人によって完成されました。ヨーロッパにおいては古典古代及びルネサンス以降、詩文芸の範例と見なされました。 ニーチェの第一作が『音楽の精神からのギリシア悲劇の誕生』(再版以降は『悲劇の誕生』 と改題)であるように、ニーチェはここから出発して「永劫回帰」「運命愛」「ルサンチマン(怨恨)」「ニヒリズム(虚無主義)」「 超人」「力への意志 」などの概念を生み出し、現代思想に多大な影響を及ぼすことになります。

アイスキュロスマラトンの戦いサラミスの海戦 に参加しており、『ペルシア人』『プロメテウス』『アガメムノン』などで神々や英雄の威厳あふれる意志と行動を歌い、悲劇の形式を確立しました。

ソポクレス :デロス同盟の財務長官(ヘレノタミアス)を務めたり、ペリクレスの同僚の将軍(ストラテゴス)としてサモスに遠征する一方、オイディプス伝説を元に『アンティゴネー』『オイディプス王』他の三部作で悲劇的人間像を完成します。フロイトはこれにヒントを得て、父親に対する無意識的な劣等意識(憎悪)を「 オイディプス・コンプレックス」と名づけました。

エウリピデス :ソフィストと自然哲学の影響を受け、伝統的悲劇を合理主義精神によって改革して、神話の世界を日常の世界にまで引き降ろし、悲劇を人間情緒の世界としました。前口上(プロロギア)や劇の最終的な山場で神が登場して解決をもたらす「機械仕掛けの神」( デウス・エクス・マキナ)の手法を多用しました。


自然哲学とソフィスト

自然哲学 :紀元前7~6世紀にギリシアの植民地イオニアの中心地ミレトス (現トルコ)で誕生した最初の哲学(フィロソフィア=知「ソフィア」を愛する、「 愛知」)。神話(ミュトス)の世界から、人間の理性ロゴス)に基づき、観照テオリア)によって自然万物ピュシス、physis) の根源アルケー )を探求するようになりました。これは、現代キリスト教神学を格段に発展させたブルトマンの「 非神話化」に通じ、今日の物理学 (physics)ともつながってきます。例えば、漂白の哲学者クセノパネス はホメロスとヘシオドスが神々の残酷な争い、殺戮、盗み、姦淫、騙し合いを歌ったことを非難し、人間でも許されない非道の行為を善美の神々が行うはずがないとし、人間が自分の姿に似せて神を作ることは誤りであるとました。このような道徳的な観点からの神話批判の到達点が プラトン『国家』における「詩人追放論 」です。また、これらのイオニア自然哲学者達を「自然学者 」と呼び、万物の物質的原理を科学的に探求しようとした人々と位置づけたのはアリストテレスでした。論理実証を武器に、神話化された世界に立ち向かった初期ギリシア哲学者達は「 ソクラテス前派(フォルゾクラテイケル)」と総称され、その合理的精神 の背景には自然自体に神を見出す汎神論(はんしんろん)、万物を生命を持った存在と見なす 物活論(ぶっかつろん)があるとされます。

タレス :「哲学の祖」「最初の哲学者」(アリストテレス)。万物の根源は「 」。

アナクシマンドロス :万物の根源は「限定されないもの」(ト・アペイロン)。

ヘラクレイトス :万物の根源は「」。「万物は流転する 。」生成変化そのものが宇宙の実相であると説きました。

ピタゴラス :万物の根源は「」。ピタゴラスの定理三平方の定理)で知られます。ピュタゴラス派(教団)は天体の運行をはじめ、一切の自然現象が織り成す「 調和ハルモニア)」を数学・幾何学のロゴス に求め、音楽理論もこの延長に打ち出しました。さらに「大宇宙マクロコスモス)」と「 小宇宙ミクロコスモス )」としての人間を対比させ、新しい医学を切り開くと共に、死と再生を繰り返すディオニュソス信仰に基づくオルペウス教の「輪廻転生説」を引き継ぐ「霊魂プシュケー」も持っていました。

パルメニデス :南イタリアのエレアを拠点とするエレア学派で、万物の根源は「有るもの」。「 有るものは有る、有らぬものは有らぬ」「有るものはただ一にして一切の存在である 」として、一切の運動変化を否定しました。プラトンの「イデア 」論の原型とされますが、生成流転する自然に関する認識は一切虚妄というパルメニデスの呪縛を克服するためには、レウキッポスとデモクリトスによる原子論の登場を待たなければなりませんでした。弟子のゼノン「アキレウスは亀に追いつくことができない」という逆説( ゼノンのパラドックス)で有名です。

エンペドクレス :自然哲学者。空気四元素で世界が成り立っているとしました。これは中国の五行 と通じる考えで、後に西洋占星術に取り込まれ、牡羊座・獅子座・射手座は火の星座 、牡牛座・乙女座・山羊座は土の星座、双子座・天秤座・水瓶座は風の星座 、蟹座・蠍座・魚座は水の星座といったカテゴリー化がなされたりしています。しかしながら、「 医学の祖ヒッポクラテス は『古い医術について』で、エンペドクレスの哲学は仮説に過ぎず、思弁による図式化と一般化による空論であると批判し、事実の蓄積に基づく確実な知識が人間にとって有用な「 知恵」と「技術テクネー )」を生むのであり、この条件を満たしているのが医術 であるとしました。ヒッポクラテスは詳細な臨床記録である『流行病について』でも、全ての病人を治すことができるのは奇跡であって医術ではないとし、有効性の限界を認識するところに「技術」は成立するとしており、 『誓い』 では己の技術を患者の利益のためにのみ用いることを誓い、安楽死、堕胎などに加担することを拒み、患者の私事を口外しないとして、現在でも大学医学部の卒業式などで朗読されています。

デモクリトス :万物の根源は「原子アトム )」。原子の離合集散の物理的運動として、自然現象の一切を首尾一貫した理論に構成した原子論 により、自然哲学は完成したとされます。

ソフィスト :「知恵ある者」、職業的教師。アテネで古代民主主義が完成期を迎え、自然ピュシス)から人間社会(人為、 ノモス)に関心が移り、市民に政治・法律の知識や演説・討論の技法である弁論術 を指導しました。各自にとっての善があるとする相対主義の立場を取りました。

ゴルギアスソフィスト懐疑論者。人間の認識能力の限界を自覚して、真理の実在を否定するニヒリズムの立場に立ちました。弟子のイソクラテスがアテネで最初の高等教育機関である修辞学校を開いて、修辞(レトリック)を教えており、西欧的教養( パイデイア )の源泉と考えられています。プラトンらが教養の原理に数理諸学や哲学を置いたのに対し、彼は弁論・修辞学を対置して教育を実践したのであり、やがてイソクラテスを源泉とする修辞学的教養はローマ、ルネサンスと受け継がれ、多大な影響を及ぼすことになります。

プロタゴラスゴルギアスと共に代表的ソフィスト。「 人間は万物の尺度である」(人間尺度説)、主観主義 (真理の基準は個々の人間による)。


ソクラテス・プラトン・アリストテレス

アレテー卓越性本質。隠された真理(アレテイア)に由来します。アルケー論弁論術アレテー論と関心が移り、ソクラテスに至って、知徳合一知行合一福徳一致 が説かました。これは人類レベルでの精神発達史として、幼年期→少年期→青年期に対応し、ソクラテスは出るべくして出たとも言えます。

枢軸時代ヤスパースの命名。BC500年の前後300年に、ギリシアではソクラテスプラトンアリストテレスギリシア哲学 を完成し、西アジアではイランにゾロアスター教が興り、パレスチナにユダヤ教 が確立しました。インドでは自由思想家が出現する中で仏教が誕生し、中国では諸子百家が出現する中で孔子孟子などの儒家老子荘子などの 道家が活躍しました。人類の精神的原点とも言うべき宗教・思想が東西にわたって一斉に出現、確立した時期です。

ソクラテス :「善く生きること」を求め、人間が幸福になるには魂への配慮 によって徳を身につけることが必要だとしました。そして、「汝自身を知れ」という格言に従って、 問答法対話法 )を用いて人々に無知を自覚させていったため、死刑判決を受け、それを不当としながらも、脱獄の勧めを拒み、国家の法に従って刑を受けました。ソクラテスは著書を残しておらず、彼の言行・思想は弟子のプラトンが記しました。ちなみにブッダイエス孔子ソクラテスを「四大聖人」と呼ぶことがありますが、「 聖人」は国家を超えた世界宗教の開祖に与えられる称号なので、ソクラテスは「哲人 」であり、むしろイスラーム教の開祖ムハンマドを入れるべきだとされます。

魂への配慮魂の世話:自己の魂が優れたものになるように気遣うこと、魂に徳が備わるようにすること。

汝自身を知れ」(グノーティ・サウトン ):デルフォイのアポロン神殿の玄関の柱に刻まれていた標語。ソクラテスは友人が受けた「ソクラテス以上に知恵のある者はいない」という神託の意味を解き明かすために、この標語を心にとめて、自己の探究に努め、「 無知の知」の自覚に至りました。

無知の知 :ソクラテスは、人間の魂にとって大切な善美のことがらについて無知であることを自覚するからこそ、知を探し求めるようになると考えました。無知の無知臆見、思い込み、ドクサ)→無知の知→知の知(真知エピステーメー)。 孔子も「知るを知るとなし、知らざるを知らずとなす」(『論語』)と述べています。

問答法対話法ディアレクティケー):ソクラテス の真理探究法。知識を他者に教え込むのではなく、他者が自ら真知に向かうのを助けること。ソクラテスは神託を尊重していましたが、真理探究においては人間の能力を頼りにしています。

対話法: 問いを投げかけて相手の考えの矛盾を明らかにし、無知を自覚させることで、そこからより高次の考えへと導いて、相手が真の知恵を生み出す手助けをすること。

産婆術助産術 ):外部から新しい知識を注入するのではなく、内にあるものを引き出すようにすること。ソクラテスの母の仕事にちなみます。

皮肉エイロネイア :知らないふりをすること。ソクラテスは、自分が無知であるかのように振舞うことで、相手に無知を自覚させるという方法を取いました。

悪法といえども法である 。」:ソクラテスは、脱獄は不正であり、いかなる理由があっても不正を行うべきではなく、ポリスの市民として国法に従うべきだと考えました。

プラトン『ソクラテスの弁明』『クリトン』『饗宴』『パイドン』『国家』『ティマイオス』『クリティアス』 。理性によって認識できるイデアこそが真実在であると説き、人間の魂は善美のイデアを求める心( エロース)を原動力としてイデア界を想起し、それによって感覚的世界から解放されると考えました。

『ソクラテスの弁明』: ソクラテスはアテネの法廷で訴えられ、裁判によって処刑されましたが、法廷で裁判を見守っていたプラトンが、ソクラテスによる弁明の一部始終を記録、公表したものです。

『クリトン』 :獄中のソクラテスに友人のクリトンが逃亡を勧める様子を描いています。

『饗宴』シュンポシオン):ソクラテスが仲間達と恋の神エロースを賛美する宴会を舞台とする対話篇。

『パイドン』 :副題は「魂の不死について」。ソクラテス亡き後、弟子のパイドンが哲学者エケクラテスにソクラテスの最期の様子を語るという形式で書かれています。 イデア論霊魂論プシュコロギア )が初めて登場する重要な哲学書です。

『国家』イデア論を中心に、魂の三分説国家の三階級 を連動させ、四元徳 で連結しました。これにより、個人の教育と哲人政治の実現が連結され、後世のユートピア文学や共産主義にも多大な影響を与えました。また、末尾にある「 エルの物語」は、エルが死後12日間に渡って体験した臨死体験という体裁で語られる霊界探訪物語としても知られます。

『ティマイオス』 :政治体制を論じた『国家』の一部の内容[を受ける形で対話が始まり、冒頭でクリティアスがアトランティス伝説について語っています。次いでティマイオスが宇宙の創造、宇宙は無限か否か、 四元素などについて語っています。さらに創造者「デミウルゴス 」について説明され、現実界はデミウルゴスが創造したイデアの似姿エイコーン )であるとし、その壮大な宇宙論は万物を動かす生命原理である「宇宙霊魂世界霊魂 」(ラテン語のアニマ・ムンディ )によって秩序づけられているとしています。『ティマイオス』が後世に与えた影響は大きく、豊かなギリシア哲学の知識をユダヤ教思想の解釈に初めて適用したユダヤ人哲学者である アレクサンドリアのフィロン は、「デミウルゴス」を「神」に置き換え、『旧約聖書』とプラトン哲学が調和的であるとして、モーセがプラトンの思想に影響を与えたと考え、プラトンを「ギリシアのモーセ」と呼びました。新プラトン主義ネオプラトニズム)の影響を受けたアレクサンドリア学派を代表する ギリシア教父オリゲネス も、『ティマイオス』と旧約聖書の「創世記」の世界創造の記述を融合しようとしています。ちなみに、ヴァティカン宮殿の「署名の間」を飾る ラファエロの有名な画「アテネの学堂 」の中央には、右手を差し上げてイデアのある天上を指すプラトンが描かれていますが、その左手に抱えているのが大著『ティマイオス』です。

『クリティアス』『ティマイオス』 の続きで、アトランティス伝説が出てきますが、中断、未完となっています。さらに『クリティアス』の続編として、 『ヘルモクラテス』という対話篇が予定されており、三部作となるはずでした。

イデア :永遠不滅の真の実在。三角形のイデア のように、唯一完全で変化しない実在はイデア界にのみ存在するとし、現実界の個物にはイデアが分有 されているとしました。また、プラトンはタガトンのイデアを最高のイデア(イデアの中のイデア)と位置づけました。ここから プラトニック・ラブ(精神的愛)という言葉が生まれました。

エロース :イデアへの思慕。

魂の想起説 :花が美しいのは色や形によるものではなく、美のイデアを分有しているからであり、花を見て美しいと思うのは、イデア界で経験した美なるもの・善なるものを、花を見て想起アナムネーシス)するからであるとします。これを「 生得の知識」とも言います。

洞窟の比喩 :プラトンは、事物の存在する感覚的世界(現象界)を暗い洞窟に、イデア界 を太陽が輝く世界にたとえ、壁面に映る を真実在と錯覚しているようなものであるとました。感覚を用いて影を見るのではなく、太陽の光の下で心眼(理性的直観 )によって真実のイデアを見ることが真理認識なのです。

魂の三分説 :魂を三部分に分け、理性気概(意志)と欲望 を統御する時に全体が調和し、正義が実現すると考えました。

ギリシアの四元徳知恵勇気節制正義

哲人政治プラトンは、最高の真実在としての善のイデアを認識できる哲学者統治者となるか、もしくは統治者哲学を学んで、防衛者(軍人)階級、生産者 階級を統治することを理想の政治のあり方としました。国家を構成する統治者階級、防衛者 (軍人)階級、生産者階級がそれぞれ知恵の徳、勇気 の徳、節制の徳を発揮する時、正義 が成立し、調和の取れた理想国家が実現するとしました。プラトンはシュラクサイ(シラクサ)の王ディオニュシオス2世を指導し、哲人政治の実現を目指すも失敗しました。中国のプラトン的存在である孟子も梁の恵王に 王道政治を説きますが、その実現には失敗しました。

アカデメイア :アテネ近郊に開設されたプラトンの学園。入口に「幾何学を学ばざる者、この門より入るべからず 」と掲げられてましいた。アカデメイアでの教育内容は後に、言語ロゴス)に関する文法学修辞学弁証法論理学)の三学、および論理ロゴス)に関する算術幾何学天文学音楽四科にまとめられ、これらは自由七科として中世の大学に引き継がれ、近代の大学でリベラル・アーツ教養科目)の伝統となっていきます。

西洋哲学の歴史とはプラトンへの膨大な注釈である。」(ホワイトヘッド

アリストテレス :「万学の祖」、『自然学』『形而上学』『ニコマコス倫理学』『政治学』 。個々の事物を離れて存在するイデアを真の知の対象としたプラトン を批判して、本質はイデア界にあるのではなく、個々の事物に内在するので、個々の具体的な事物こそ探究の対象とすべきだと主張しました(プラトンの理想主義VSアリストレスの現実主義)。アリストテレスの存在論では、個物は質料ヒュレー)と形相エイドス)からなり、形相は個物に内在します。また、徳を知性的徳倫理的徳習性的徳)とに分類し、正義を全体的正義部分的正義に分け、さらに部分的正義を 配分的正義調整的正義 に分類しました。また、アリストテレスの弟子が西方ギリシア世界と東方オリエント世界を統合したアレクサンドロス大王 であり、プラトンの哲人政治の理想は弟子のアリストテレスによって実現したと言えます。

『自然学』 :物理学、天文学、生物学、気象学などの自然学研究の基礎となる自然哲学の書。

『形而上学』 :アリストテレスの「第一哲学 」に関する著作群を、後世の人間が編纂しまとめた書物。後世において形而上学の基礎となりました。西洋哲学の多くの基本概念を生み出し、千数百年にわたって西洋の世界観に決定的な影響を与えてきました。

『ニコマコス倫理学』 :アリストテレスの倫理学に関する著作群を、息子のニコマコスらが編纂しまとめた書物。

『政治学』 :プラトン的理想主義を排し、現実の国家組織の分析から実現可能な政体を論じています。一人の支配である王制は逸脱すれば僭主制、少数者の支配である貴族制は逸脱すれば寡頭制、多数者の支配である共和制は逸脱すれば 民主制(その極端形が衆愚制 )となりますが、公共の福利のために政治を行う政治が正しい国制であるとしています。

テオリア観想 ):理性によって真理を探究する働き。アリストテレスは理性を人間に固有の最も優れた能力であるとし、実用的な知から離れて理性の純粋な活動を楽しむ観想テオリア的生活こそ、最高の幸福( 最高善)であると考えました。

質料ヒュレー):物質的素材(material)、形相を実現するための基体。感覚によってとらえられます。

形相エイドス ):質料を規定する形式(form)、質料がそれに向かって変化する目的・原因。理性によってとらえられます。アリストテレスは「 純粋形相」を と見なしたため、イスラーム教やキリスト教に取り入れられる要因となりました。

四原因論 :アリストテレスは、「可能態」(デュミナス)が「 現実態」(エネルゲイア)へ変化するという「運動 」(キネシス)には、「質料因」「形相因」「始動因」「目的因」という4つの原因があるとします。石像製作を例にすると、「 質料因」が石、「形相因」が像、「始動因 」が彫刻家、「目的因」が石像を制作する意図にそれぞれ該当します。さらに「運動 」の原因をさかのぼっていくと、その果てには「他を動かしても自らは決して動かないたった1つのもの」がいることになり、アリストテレスはこの存在を「 不動の動者」「第一動者」と呼び、と見なしました

可能態デュナミス):質料の中に形相が可能性として潜んでいる状態、潜勢

現実態エネルゲイア):可能性が実現した状態、顕勢 。可能態が十全に実現されるに至り、目的のうちにあるような有様が「完全現実態」(エンテレケイア)と呼ばれます。アリストテレス哲学によってスコラ哲学(神学)を完成した トマス・アクィナスは、「自存する存在そのもの」としての を、いかなる可能態も含まない「純粋現実態」として規定しました。

目的論的自然観 :自然界の事象は一定の目的によって規定されているという見方。全ての運動は形相の実現を目的としているという アリストテレスの自然観が代表的。

知性的徳 :真理を認識する知恵、行動の適切さ(中庸)を判断する 思慮などがあります。善や正義を洞察する能力も思慮です。

倫理的徳習性的徳エートス):勇気正義友愛 などの性格の良さ。欲望を理性に従わせるためには、理性がそう命じるだけでは不十分であり、実際に欲望を抑制できるような性格の形成が必要であって、時と場合に応じた最も適切な状態である 中庸を習慣づけることによって、習性的徳が形成されるとしました。

中庸メソテース ):過度と不足の両極端を避けた、最も適切な状態。例えば、欲望が過多であれば放埒、過少であれば鈍感となり、程よく欲望を抑えた節制の状態が中庸とされます。 孔子も「過ぎたるは及ばざるがごとし」という中庸 の思想があり、仏教にも苦行でも快楽でもない中道の精神があります。

人間は本性上、ポリス(社会)的動物である 。」:アリストテレスは、ポリスを形成するように生まれついた存在であるので、人間本来の善さを実現するためには、共同体の一員として生きる必要があり、ポリスを離れては人間の幸福や徳は実現しないと考えました。ポリス成立の原理として、 正義友愛フィリア)を最も重んじました。

全体的正義 :ポリスの法に従うこと。

部分的正義 :特定の関係において成り立つ正義。配分的正義調整的正義があります。

配分的正義 :能力に応じて報酬などを配分すること。

調整的正義矯正的正義):悪を犯した人には罰を与えるように、裁判・取引で人々の利害得失を均等にすること。

最高善 :究極目的としての善のこと。アリストテレスは「幸福」と捉え、新プラトン派やキリスト教では「 」と考えました。

フィリア友愛):互いに善であることを願う愛。相手への好意を伴います。ポリス結合の原理。

リュケイオン :アテネに開設されたアリストテレスの学校。ペリパトス と呼ばれる散歩道を歩きながら講義したことから、アリストテレス学派をペリパトス学派とも言います。


ヘレニズム思想

ヘレニズム :ギリシア以来の思想的伝統で、ユダヤ教・キリスト教を中核とする宗教的伝統であるヘブライズムと共に、西洋思想の二大潮流となりました。人間性を肯定し、 合理的知識を追求する精神で、後に中世一千年の伝統主義を打破するルネッサンス の指導精神となりました。

ストア派ゼノンキケロセネカエピクテトスマルクス・アウレリウス・アントニヌス禁欲主義宇宙の理法ロゴス )が万物全てを貫き、自然は人間にも理性として宿っているとします。宇宙は万物の根源が自らの理法に従って自己展開したものであるから、宇宙の一部である人間も、理性に従うことで理法と一致した生き方をすべきであると主張しました。ゼノンがアテネのストア・ポイキレ(彩画柱廊)に学校を開いたことに由来し、「 ストイック」(stoic、禁欲的)の語源。

アパテイア不動心):欲望や快楽などの情念パトス )に動かされない心の状態。

自然に従って生きよ。」:感情や欲望を抑え、人間の本性である理性に従うことによって、 宇宙の理法ロゴス)と一致し、自然と調和する生き方を目指しました。

世界市民コスモポリテース):樽を住まいとしていたディオゲネス は、あなたはどこの国の人かと尋ねられると、「世界市民コスモポリテース )だ」と答えたと言います。ポリスという国家社会に依存しない生き方を理想とする、ヘレニズム時代のコスモポリタニズムの先駆者で、ストア派にも影響を与えました。アレクサンドロス大王が樽のディオゲネスの前に立って「何か所望のものはないか」と尋ねた時、「日が遮られるから、そこをどいてほしい」と答え、アレクサンドロスは「 私がもしアレクサンドロスでなかったら、ディオゲネスになりたい」と答えたと言います。

世界市民主義コスモポリタニズム):宇宙を貫く理法ロゴス )を人間も共有しており、全ての人間は等しく理性を持つ点において平等であるというストア派の考え方。この考え方は後に、 ローマの万民法近代自然法思想に大きな影響を与えることになりました。

エピクテトス :奴隷出身、後期ストア派の学者。

マルクス・アウレリウス・アントニヌス :後期ストア派で、ローマの五賢帝の最後、哲人皇帝。理性や宇宙のロゴスについて考察しました。 『自省録』

エピクロス派エピクロス快楽主義。現実の煩わしさから解放された精神的快楽を理想の境地( アタラクシア)としました。「エピキュリアン 」(epicurean、快楽主義者・享楽主義者)の語源。

アタラクシア魂の平安):社会の喧騒や政治活動から離れ、質素な生活をすることによって得られる魂の平安の境地。

隠れて忘れられて生きよ。」: エピクロス は、空腹を満たすことなどへの自然で必要な欲望だけを持ち、贅沢や権力などへの空しい欲望は捨てるべきであるとしました。

エピクロスの園 :アテネ郊外に開設されたエピクロスの学園。

プトレマイオス :2世紀の天文学者。天動説をまとめました。

新プラトン主義プロティノスに始まります。万物は根源的究極的原因である一者ト・ヘン)から流出したと考え(流出説 )、一者が全ての善の原因で、これと一致した生に真の幸福があるとして、一者に合一することを目指しました。アウグスティヌスなどキリスト教に多大な影響を与え、ルネサンス期にはフィレンツェ・メディチ家が作った プラトン・アカデミーで復活しました。



(2)ユダヤ教・キリスト教・イスラーム教

ユダヤ教

裁きの神 :厳しい裁きを行う神。

選民思想イスラエル人は自らを神から選ばれた民族であると信じ、唯一絶対の人格神ヤハウェ から与えられた律法に従うことで、神から祝福が与えられ、救済される(契約思想 )という信仰を持ちます。

アブラハム洪水審判を経た義人ノア の10代後の子孫で、神の命令を受けて、メソポタミア地方のウルからカナン(現在のパレスチナ)へ移住し、イスラエル人の祖となりました。正妻サラとの子がイサク、イサクの子がヤコブで、ヤコブが「 イスラエル」(勝利した者)の称号を得て、その子孫がイスラエル人 となり、アブラハムとつかえめハガルとの子がイシマエルで、その子孫がアラブ人 となりました。ユダヤ教・キリスト教・イスラーム教において「信仰の祖」と呼ばれます。

十戒 :律法の中心。神の絶対性に関わる宗教的義務と人間のあり方に関わる道徳的義務からなり、イスラエル人がエジプトから脱出( 出エジプト)した際、シナイ山預言者モーセ を通じて神から与えられたとされます。

①あなたは、私の他に、なにものをも神としてはならない。

②あなたは自分のために刻んだ像も造ってはならない。

③あなたはあなたの神、主の名をみだりに唱えてはならない。

④安息日を覚えて、これを聖とせよ。

⑤あなたの父と母を敬え。

⑥あなたは殺してはならない。:仏教・ジャイナ教の五戒にも不殺生戒(ふせっしょうかい)があります。

⑦あなたは姦淫をしてはならない。:仏教・ジャイナ教の五戒にも不邪婬戒(ふじゃいんかい)があります。

⑧あなたは盗んではならない。:仏教の五戒にも不偸盗戒(ふちゅうとうかい)があります。

⑨あなたの隣人について偽証してはならない。:仏教・ジャイナ教の五戒にも不妄語戒(ふもうごかい)があります。

⑩あなたの隣人の家を貪ってはならない。:仏教の五戒ではここは不飲酒戒(ふおんじゅかい)、ジャイナ教の五戒では 無所有戒となっています。

モーセ :ユダヤ教の中心。エジプトで奴隷生活を送っていたイスラエル人を率いて出エジプトし、紅海を渡り、シナイ山で神ヤハウェから2枚の石版に刻まれた 十戒を授かります。モーセが目指した地が、聖書に「乳と蜜の流れる土地 」と表現されているカナン(現在のパレスチナ)でした。モーセはキリスト教でも旧約最大の預言者とされ、旧約聖書の最初の部分(創世記出エジプト記レビ記民数記申命記)はモーセ五書と呼ばれます。

律法トーラー):キリスト教の『旧約聖書』に相当する部分で、ユダヤ教の聖典。 神との契約選民思想バビロン捕囚 などの苦難の歴史が記されています。ユダヤ教キリスト教イスラーム教はいずれも律法の書啓典として持 つ啓典宗教です。

律法の書 +『タルムード』(律法の注釈書)=ユダヤ教

『旧約聖書』律法=旧い契約)+『新約聖書』イエスの福音 =新しい契約)=キリスト教

律法の書 +『クルアーン』(新たな神の啓示)=イスラーム教

エルサレム :イスラエルの首都で、3教の聖地があることで有名です。すなわち、ソロモン王時代の神殿城壁との伝説に基づくユダヤ教 の聖地「嘆きの壁」、イエスの処刑地に建立されたキリスト教の聖地「聖墳墓教会」、ムハンマドが昇天してアッラーに会ったとされるイスラーム教の聖地「 岩のドーム」です。

安息日 :一切労働をしてはならないと定められた日。ユダヤ教で重視されました。ちなみにユダヤ教の安息日は土曜日キリスト教の安息日は日曜日イスラーム教の安息日は金曜日です。

ラビ :ユダヤ教社会における精神的指導者。ユダヤ教には聖職者はおらず、シナゴーグ (ユダヤ教の会堂・礼拝所)で説教や解説を担当しています。

コーシェルコーシャ):ユダヤ教の厳格な食事規定「カシュルート」に沿った、食べてよい食べ物。

ユダヤ教史観 :「神との契約が更改されることで歴史が全く変わる 」と考える歴史観です。中国歴史観が「歴史法則は古今東西を通じて一貫している」と考え、良い政治をするためには歴史に学べばよく、 歴史に名を残すことを個人の救済として、中国的殉教 (歴史の範例となるために死ぬ)すら生んだのと対照的な考え方です。ヘーゲルは中国を「 持続の帝国 」と呼んだように、2000年経っても何回易姓革命を繰り返しても、社会構造も社会組織も規範も変化せず、統治機構も階層構成もほとんど変わらず、法律も本質的には変化せず、制度革命ですらないため、「歴史を見れば中国(中国人の基本的行動様式エートスが分かる 」と言われますが、ユダヤ教史観によれば、神との契約(命令)が変われば社会法則が全く変わることになります。後にユダヤ人のマルクス唯物史観を確立しますが、マルクス史観ユダヤ教史観にそっくりの進歩史観線型進化論 で、原始共産制→奴隷制→封建制→資本制→社会主義→共産主義へと直線的に変化し、前段階から後段階への進化は「革命 」によりますが、これはユダヤ教史観における「契約更改」に該当します。


キリスト教

父なる神 :人間に無償の愛をもたらす、赦す神

イエス=キリストキリスト(救い主)はメシヤ (油を注がれた者、王、ヘブライ語)のギリシア語表記。イエス自身は自らを「(神の)子」「人の子」と呼びまし。

律法主義批判パリサイ派サドカイ派などのユダヤ教の律法学者 達は律法の遵守を説きましたが、このことは律法を守れない人々に対する差別を生むことになりました。イエスはこうした形式的な律法主義を批判し、安息日にも病人を癒して、形式化した律法を守ることよりも、神の愛を実践することが神の御心にかなうとしました。 パウロ も律法を守ることで人間が本当に救われるわけではないとし、人間は律法によって悪をなす他ない自らの罪を知るだけであり、律法ではなく キリストへの信仰によって救いに至ると考えました。

律法の内面化 :イエスはモーセの十戒の「殺してはならない」という戒めについて、実際に殺さなくても、他者に対して腹を立てれば、それは人を殺したのと同じになると述べ、律法を真に内面化することが本来の信仰のあり方だとしました。「姦淫をしてはならない」という戒めについても、行為をしなければ罪にならないのではなく、内面が問題だとしました。これが「外的規範の内的規範化」であり、キリスト教が世界化する一因となりました。日本文化においても、仏教の戒律(外的規範)をどんどん骨抜きにして肉食妻帯したり、本来先祖崇拝の宗教であった儒教を学問・教育として受容したりしていますが、食物タブーなどの強固な外的規範を持つユダヤ教イスラーム教が入りにくいのに対して、内的規範が主の キリスト教は受容しやすかった面もあります。

神の愛アガペー ):無差別・無償の愛であり、全ての者に分け隔てなく降り注ぐもの。イエスは、当時の社会で差別されていた者達と食卓を共にし、神の愛がそうした人々にも差別なく与えられるものであることを示しました。また、イエスは徴税人や罪人達などと共に食事をしたことをパリサイ派から非難されました。

神への愛と隣人愛 :イエスは神の愛に立ち返って律法の根本精神を示し、律法の中でも神への愛隣人愛 が重要であるとしました。そして、愛の掟を実践することによって、人間は神の永遠の命の中に生きることができるとしました。

人はパンだけで生きるものではない。」(『マタイによる福音書』)

敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい。」(『マタイによる福音書』)

自分を愛するように、あなたの隣人を愛しなさい。」(『マルコによる福音書』): 神の愛アガペー)の実践が隣人愛 。隣人とは誰かについては、律法の遵守を説く祭司やレビ人が強盗に襲われた人を見捨て、律法学者が差別し、軽蔑しているサマリア人が親切に介抱し、助けたという「 よきサマリア人のたとえ」(『ルカによる福音書』)が有名です。

心の貧しい人は幸いである天の国はその人たちのものである 。」(『マタイによる福音書』):山上の垂訓の冒頭です。「心の貧しい人がなぜ幸いなのか」とよく指摘される所ですが、「心の貧しい人」とは「自分の心の貧しさを知っている人」とされます。

イエスの黄金律 (the golden rules):「人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい 」(『マタイによる福音書』)。山上の垂訓で説かれた教え。孔子は逆に「己の欲せざるところを人に施すなかれ」(『論語』)と述べています。山上の垂訓では他にも「敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい」「 誰かがあなたの右の頬を打つなら、左の頬も向けなさい」という有名な教えが出てきます。

放蕩息子の話 (『ルカによる福音書』):父親(神)は、放蕩のかぎりを尽くして財産を無駄にして帰ってきた弟(罪人)に一番良い服を着せ、足に履物を履かせ、盛大な祝宴を開きました。一方、父親に仕えて、その言いつけを守ってきた兄(パリサイ派)は怒り、父親に不満をぶつけたので、父親は兄をたしなめ、「子よ、お前はいつも私と一緒にいる。私の物は全部お前のものだ。だが、お前のあの弟は死んでいたのに生き返った。いなくなっていたのに見つかったのだ。祝宴を開いて楽しみ喜ぶのは当たり前ではないか。」と答えるのです。これは羊飼いが99匹の羊を差し置いてでも「1匹の迷える子羊」を探しにいくとしたたとえと共に、悪人こそ救われるとした 親鸞の「悪人正機説」とも通じるところがあります。

十二弟子使徒とも言われ、「使徒行伝 」はイエスの12弟子を中心とした、イエスの復活後の後日譚です。また、12使徒の他に選抜されて2人1組として伝道に遣わされた、イエスの70人もしくは72人の弟子達を 七十門徒といいます。

ペテロ :元漁師で、イエスを洗礼した洗礼ヨハネの弟子だったのが、弟アンデレと共にイエスに「人を取る漁師にしてあげよう 」と声をかけられ、イエスの第一弟子 となります。イエスは「あなたはペテロ(石)である。そして、私はこの岩の上に私の教会を建てよう。…私は、あなたに天国の鍵を授けよう」と述べており、天国の鍵を授けられた人物として、後に初代ローマ教皇と仰がれます。ゲッセマネの園での祈りでは、同じ 三弟子であるヤコブヨハネ と共にイエスに同行しますが、眠りに落ちてしまい、イエスが捕まった時には、イエスが最後の晩餐 で「鶏が鳴く前に三度、私を知らないと言うであろう」と予言したごとく、イエスを三度否認して、その場を逃れます。イエスの十字架後、故郷のガリラヤ湖に戻って再び漁師になりますが、復活したイエスが湖面を歩いて来るのを見て、悔い改め、イエスのもとに馳せ参じます。後に皇帝ネロによりローマでの迫害が厳しくなった時、ローマから逃れてきたペテロが霊的イエスと出会い、「 ドミネ・クォ・ヴァディス ?」(主よ、いずこへ?)と問いかけますが、イエスが迫害のローマを逃れようとするペテロに代わってローマに行き、再び十字架にかかろうとするのを聞いて、ローマにそのまま戻り、殉教します。イエスと同じ十字架にかかっては申し訳ないからと、逆さはりつけになりました。これは1896年、ポーランドのノーベル賞作家ヘンリック・シェンキエヴィチが小説『クオ・ヴァディス』に描き、ハリウッドでも映画化されました。遺体はローマのサン・ピエトロ大聖堂に埋葬されています。人名にもピーター(英)、ピエール(仏)、ピョートル(露)、ピエトロ(伊)としてよく使われます。

ヤコブ :弟ヨハネと共に三弟子の1人で、「雷の子」と呼ばれるほど性格が激しく、大ヤコブ と呼ばれています。イエスの復活後、6年間、スペインで布教活動を行ってエルサレムに戻りますが、使徒の中で最初の殉教者となりました。遺体はスペインのコンポステラに埋葬され、レコンキスタの最中の9世紀にヤコブの遺体が発見されると、イスラーム勢力と闘うキリスト教徒を守護するシンボルとして崇められ、法皇レオン3世がサン・ティアゴ・デ・コンポステラを聖地に指定すると、10世紀にはローマ、エルサレムと並ぶ大巡礼地になりました。ヤコブはスペインの守護聖人でもあります。人名にもジェームス(英)、ジャック(仏)、ヤーコブ(独)、サンティアゴ(西)として使われています。

ヨハネ : 大ヤコブの弟、ガリラヤの漁師の子。洗礼者ヨハネの弟子であったとされますが、イエスの三弟子 の1人となります。常にイエスと行動を共にしており、気性が荒いことでヤコブと共にイエスから「雷の子」というあだ名を付けられています。 「 最後の晩餐 」でもイエスのすぐ隣に描かれ、イエスから母マリアの世話を頼まれ、エフェソに移り住みます。使徒の中で唯一殉教せず、エーゲ海のパトモス島で晩年を過ごし、「ヨハネによる福音書」「ヨハネの手紙」「 ヨハネの黙示録 」などの作者とも考えられています。人名にもジョン(英)、ジャン(仏)、ジョヴァンニ(伊)、ファン(西)、ヨハン、ハンス(独)、イワン(露)、ヨハンナ、ジョアンナ、ジョアナ、ジョアンヌ、ジャンヌ、ジャネット(女性形)としてよく使われています。

アンデレ :アンデレはペテロの弟で、元は洗礼者ヨハネの弟子でした。洗礼ヨハネがイエスを見て、「見よ、神の子羊」と証するのを聞いて、イエスのもとに行き、また、ペテロを紹介します。アンデレは黒海沿岸で伝道を行い、ギリシアのパトラでX字型の十字架で処刑されたため、X字型の十字架は「 アンデレの十字架(セント・アンドリュー・クロス、St. Andrew's Cross)」と呼ばれ、スコットランドの国旗(青地に白)やロシア海軍の軍艦旗(白地に青)になっています。漁師の保護者、スコットランドの保護者にして、東方教会(ギリシア正教)の初代総主教とされています。人名にもアンドルー(英)、アンドレ(仏)、アンドレアス(独)として使われています。

フィリポ :フィリポは、イエスが「私についてきなさい」とはっきり命じた最初の弟子です。フィリポはエチオピアの女王に仕える宦官に福音を伝え、その宦官がエチオピアに戻って教会を設立したため、エチオピアや北アフリカにはかなり早い時期にキリスト教が普及しています。人名にはフィリップ(英)、フェリペ(西)として使われています。

バルトロマイ :別名ナタナエル。フィリポの勧めでイエスと出会い、弟子となりました。イエスの復活後、インドからアルメニアで伝道活動をしていましたが、捕らえられて生きながら皮を剥がれて殺されました。生きながら皮を剥がれたバルトロマイは、片手にナイフ(メス)を、もう片方の手には剥がされた皮膚を持っている姿で描かれ、次第に解剖学の象徴となり、多くの医学院で見られるようになりました。1572年のバルトロマイの祝日に、パリで新教徒が虐殺される 聖バルテルミーの虐殺が起こっています。人名ではバーソロミュー、バート(英)として使われています。

トマス :「疑り深いトマス」「疑心のトマス 」と呼ばれます。復活したイエスはトマス以外の弟子が集まった所に現れますが、その場にいなかったトマスはイエスの復活を信じようとせず、「あの方の手の釘の跡にこの指を入れてみなければ、また、この手をわき腹に入れてみなければ、私は決して信じない」と言い張ったため、8日後にイエスはトマスの前に現れ、「あなたの指を私の手とわき腹に入れてみなさい」と言い、トマスは復活を信じたとされます。トマスはイランからインド方面に伝道し、南インドにはトマスが設立した教会がありますが、殉教してチェンナイ(旧マドラス)に葬られました。人名ではトーマス、トム、トミー(英)、トマ(仏)として使われます。

マタイ :ローマ帝国から徴税業務を請け負った町の徴税人で、ユダヤ人社会からのけ者にされていました。イエスは収税所にいるマタイに「弟子になるように」と声をかけ、彼は仕事を捨てて従いました。キリストの復活後、エルサレムの教団内に留まり、「 マタイの福音書 」を著し、その後、エチオピアあるいはトルコで殉教したとされます。人名ではマシュー(英)、マテュー(仏)として使われます。

シモン :ローマの支配に抵抗する熱心党 のメンバーで、ローマ人を屈服させられる指導者を探しており、その姿をイエスに重ね合わせていたのかもしれません。ちなみに紀元70年にエルサレムが焼かれ、神殿は破壊されますが、生き残った熱心党のメンバーは マサダで集団自決 します。シモンはイエスの復活後、エジプトに伝道し、その後、ユダ(タダイ)と共にペルシアやアルメニアで活動し、そこで殉教したと言われます。人名ではサイモン(英)として使われます。

ヤコブ :イエスの近親者(兄弟または従兄)で、アルファイの子ヤコブあるいは小ヤコブ と言われます。聖霊降臨後に復活したイエスに出会い、エルサレム教会に加わり、初代エルサレム司教になりました。行為義認の根拠となる「 行いの伴わない信仰は死んだものである 」という言葉で有名な「ヤコブの手紙」の著者とも言われ、エルサレムの神殿の屋根から突き落とされ、こん棒で叩かれて殉教したとされます。

ユダタダイ):小ヤコブの兄弟あるいはイエスの親族だったと言われ、イスカリオテのユダと区別するため、「 ヤコブの子ユダ」または、「イスカリオテでないユダ 」と呼ばれています。バルトロマイと共にエデッサ(トルコ南東部のウルファ)やアルメニアに宣教したとされ、301年にアルメニア王国は世界で初めてキリスト教を国教と定めていますが、そのアルメニア教会の総本山エチミアジン大聖堂は世界最古の教会です。

イスカリオテのユダ :イエスはユダを愛し、信頼してお金を任せています(財務担当)。イエスは、イエスを銀貨 30 で売り渡したユダの裏切り行為を知って、「私を裏切る人は生まれなければよかった」と厳しく戒めていますが、最後にゲッセマネで「友よ、しようとしていることをするがよい」とユダに告げています。イエスは彼を友と語りかけて赦している。ユダはイエスに死刑判決が下ったことを知って後悔し、「私は罪のない人を売り渡し、罪を犯しました」と言って銀貨を返そうとしましたが、ユダヤ教の祭司達は拒絶したため、ユダは銀貨を神殿に投げ込んで自殺しました。英語名はジュードで、 ビートルズの「ヘイ・ジュード」では「Hey Jude, don't make it bad! 」(ユダ、そんなに落ち込むなよ)という歌詞で出てきます。

マティア :イスカリオテのユダの後任として、くじ引きで12使徒に選ばれました。トルコやカスピ海地方、さらにはエチオピアまで布教したとされます。

パウロ :元々律法を厳格に守ることを求めるパリサイ派に属していましたが、分かっていながら欲望のために悪を行ってしまう人間のあり方に悩み、復活したイエスの声を聞いて回心(conversion)して、そこからの救済は 福音(喜ばしい知らせ)への信仰 によるしかないと考えました。さらにユダヤ教の枠を超えて宣教して、キリスト教が世界宗教に発展する基礎を築きました。ただし、パウロは生前のイエスと生活を共にしておらず、「神の国」の到来を告げる前期イエスの福音ではなく、十字架贖罪論に基づき、後期イエスの十字架に対する信仰を説いたので、今日の キリスト教イエス教ではなく、パウロ教 であるという批判があります。

私は自分の望む善は行わず、望まない悪を行っている。 」(『ローマ人への手紙』):かつて熱心なユダヤ教徒であったパウロは、人間の罪深さに悩み、この苦しみからの救済は律法の行いではなく、ただ 信仰によると考えました。

十字架贖罪 (しょくざい)論:イエスの十字架上での死が人間の罪を贖う(贖罪 )ためのものであるとすること。このように、イエスが人々の罪を贖うために十字架刑に処せられたと解釈したのはパウロ です。もしイエスの十字架が必然であるなら、なぜ、最初から「私は全人類の罪を背負って十字架につくためにやって来た。悔い改めて十字架の福音を信ぜよ」と言わなかったのか、そもそも全知全能の神ならばメシヤをたくさん、毎年のように地上に送って、十字架につければよいではないか、という疑問、極論まで生じてきました。

原罪 :キリスト教において、全ての人間が生まれつき背負うとされる根源的な罪。

信仰義認説イエスの十字架の贖罪 で示された神の愛を信じることで人は義とされ、救われること。その時、人は罪を超えた自己中心的な人間から愛を実践する人間へと生まれ変わるとされました。

キリスト教の三元徳信仰希望 。このうち、愛が最も重要であるとされました。ギリシア哲学の愛の思想であるエロース(イデアへの思慕)とフィリア(友愛)は、キリスト教のアガペー(神の愛)と 神への愛隣人愛により補完され、完成したとも言えます。

三位一体説父なる神子なるイエス聖霊 は一体であるという考え。アタナシウス派が唱え、325年のニカイア公会議 で正統な教義と認められました。これに疑義を唱えたアリウス派は異端とされ、ローマ帝国周辺の ゲルマン民族 に布教していきました。三位一体説には、イエス自身がゲッセマネの祈りで神に痛切祈祷を捧げているように、「神が自分自身に祈るのか」といった問題や、神が十字架につくという「 天父受苦説 」といった問題がありますが、これは「罪人を救えるのは全知全能である神のみ」という贖罪論的要請から生まれたもので、イエス自身の言説にあるものではありません。ニカイア公会議で採択され、 コンスタンティノポリス公会議で修正されたものをニカイア・コンスタンティノポリス信条 と言います。これによってイエス=神 という図式が確立され、さらにイエスにおいて神性と人性はどのように統合されているのかというキリスト論の問題が起こり、 カルケドン公会議において、イエスにおいて神性と人性は一体不可分というカルケドン信条 が採択されました。ちなみに、エフェソス公会議でもキリスト論が問題となり、イエスにおける神性と人性を分離し、マリアを「神の母」ではなく、「人の母」としたネストリウス派が異端とされたので、ネストリウス派はシリアから東方に伝わり、唐代中国に至って景教秦教)と呼ばれるようになり、大秦景教流行中国碑(大秦=ローマ)に記録されているように、祆教(けんきょう、ゾロアスター教拝火教)、摩尼教マニ教明教)と共に西方伝来の三夷教 として栄えます。かくして、このニカイア・コンスタンティノポリス信条とカルケドン信条を受け入れるものが正統 、疑義をさしはさむのが異端 とされてきました。キリスト教における正統か異端かは、実はイエスの言説に合致するかどうかではなく、宗教会議で神学的に決定されてきたのです。

ローマ・カトリック :「ペテロの後継者ローマ教皇を中心とするキリスト教の最大教派。「 カトリック」は「普遍」という意味。聖母マリア信仰 を持ちますが、これは旧約の「裁きの神」の系譜と「天の父」「 神のひとり子イエス」といった男性原理父性原理 に対して、女性原理母性原理 でこれを補おうとしたものと考えられています。後にヨーロッパでプロテスタント運動が起こり、人口の3分の1を失ったため、ローマ・カトリックは失地回復の新天地としてアジアや中南米に盛んに宣教を行い、特に明・清代の中国ではカトリック系修道会である イエズス会がイタリアの大学で近代科学を学んで、まず西学 としてこれを伝え、その天文暦学・地理学・医薬学・兵器などの威力を知らしめた上で、自らを西方の儒者である西儒 として、西学の背景としてのキリスト教を西教天主教=カトリック。プロテスタントは基督教と表記します)として教えたため、爆発的に広がりました。清朝黄金時代を現出した 康熙帝 に至っては、自らユークリッド幾何学を学んで、皇子達に講義するほどで、キリスト教に対する理解もあり、そのまま行けば、人口1億人のキリスト教国家が誕生する可能性がありました。日本にキリスト教を伝えたフランシスコ・ザビエルヴァリニャーニらもイエズス会で、セミナリオ(小神学校)、ノビシャド(修練院)、 コレジオ (大神学校)などを設置して、ラテン語、日本語、哲学・神学、自然科学、音楽、美術、演劇、体育と日本の古典を必修科目として学習させており、当時の日本の人口約1,000万人のうち、40万~60万人がキリスト教徒となったとされます。やがて、ザビエルは日本人の深層心理にある中国崇拝に気がつき、中国でキリスト教が広まれば日本伝道は容易になると考えて、中国伝道に出発しますが、その途上で没します。ところで、イエズス会が中国の祭天の儀や孔子礼拝、祖先崇拝の儀式(典礼)を尊重したのに対し、同じくカトリック系修道会であるドミニコ会フランシスコ会が「これは偶像崇拝である」とローマ教皇に訴えたため、中国の伝統文化を真っ向から否定することとなり、「典礼問題」が発生しました。かくして、康熙帝はイエズス会以外の布教を禁止し、続く雍正帝のキリスト教の全面禁止となり、中国のキリスト教化は挫折します。キリスト教中国となる次のチャンスは、清朝末期の 洪秀全による太平天国運動 ですが、これも清朝の利権につられた英米軍によってつぶされ、やがて、太平天国運動に革命運動を学んだ毛沢東 によって、中国は唯物無神論的共産主義の国となります。

東方正教会ギリシア正教とも言います。ロシア正教 、ウクライナ正教のように伝わった国の名前が付きますが、日本ではハリストス正教会と言います。「 正教(オーソドックス)」は「正統 」の意味。ニカイア、コンスタンティノポリス、カルケドンなど、主要な公会議は全て東方で行われているように、元々ギリシア以来の豊かな精神的伝統を持つ東方教会の方が、現実的で実際的な西方教会よりも権威がありました。この東方教会の伝統は ローマ第二のローマであるコンスタンティノープル (コンスタンティノポリス、ビザンチウム、現在のイスタンブル)に次ぐ第三のローマとしてモスクワを位置づけ、東ローマ帝国を継承した モスクワ大公国により、ロシア正教 に受け継がれています。ロシア正教にはローマ・カトリックの制度的信仰ともプロテスタントの倫理性とも違う、素朴で情緒的な信仰があり、 トルストイの童話やドストエフスキー の内面をえぐるような作品にもロシア正教の世界が伺えます。日本ではなじみが薄いようですが、明治維新以後、プロテスタントと共にロシア正教が浸透し、ローマ・カトリック、プロテスタントに次ぐ第三教派を形成しました。ローマ・カトリックが典礼問題を起こして、その排他的独善性が問題になったのに対し、ロシア正教は鐘が無ければ寺の梵鐘を使い、乳香が無ければ線香を使うなどして、キリスト教の定着という点で画期的な成果を収めました。また、トルストイやドストエフスキーの小説を通して、文学から知識人に浸透したという特徴もあります。 与謝野晶子が日露戦争で戦地に向かった弟に対する思いを歌った詩「君死に給ふことなかれ 」も、もトルストイが英紙「タイムズ」に発表した日露戦争批判の長大な論文への「返歌 」だとされます。しかしながら、世界初の共産主義革命であるロシア革命 により、ロシアからの人的供給が絶え、日本におけるロシア正教の勢力は激減します。

イコン :主に東方正教会の礼拝で用いられる、キリストや聖母、聖人の聖画像のこと。

アウグスティヌス『告白』『神の国』。若い頃は肉体の欲望に苦悶し、マニ教 (ゾロアスター教、ユダヤ教、キリスト教、仏教、グノーシス主義などの混交宗教)や新プラトン主義などの思想遍歴の後、母 モニカ の涙の祈りを背景にしてキリスト教に回心しました。キリスト教が教義や教会の権威を確立していく上で大きな役割を果たした 古代キリスト教会最大の教父で、ローマ・カトリックからもプロテスタントからも尊敬されています。

『告白』 :アウグスティヌスの自伝。10代から15年間、女性と同棲し、私生児を生み、「私は肉欲に支配され、荒れ狂い、全くその欲望のままになっていた」と回想しています。いろいろな思想遍歴を経て、ミラノの司教アンブロジウスおよび母モニカの影響によって、「 取りて読め 」という子どもの声をきっかけに、「主イエス・キリストを身にまとえ、肉欲を満たすことに心を向けてはならない」という聖書のローマ人への手紙(パウロ書簡)の一節を読んで 回心 したとされます。このアウグスティヌスの赤裸々な告白は、やはり肉欲に苦しみ、肉食妻帯に踏み切った親鸞の『歎異抄』と同様、日本人には大変人気があります。ただ、アウグスティヌスにとって、聖書の言葉を解釈することは神を理解する試みであり、罪深き自己を告白することは罪からの救いを可能とする 神の恩寵を語ることでした。

『神の国』 :ゴート族によるローマ陥落を機に噴出した異教徒によるキリスト教への非難に対し、天地創造以来の「神の国 」(イエスが唱えた愛の共同体)と「地の国 」(世俗世界)の2つの国の歴史による普遍史(救済史)を述べたもの。これを愛読して、ローマ帝国、キリスト教、ゲルマン文化の融合を実現し、「 ヨーロッパの父」とも呼ばれたのがカール大帝でした。

教父 :ローマ帝国の迫害やユダヤ教・ギリシア哲学などからの批判に対して、キリスト教の正当性を論証した護教家弁証家。東方ギリシア教父としては、ユスティノスエイレナイオスアレクサンドリアのクレメンスオリゲネスらがおり、西方ラテン教父としてはテルトゥリアヌスヒエロニムスアンブロシウスアウグスティヌス らがおります。

律法主義 :律法(特に割礼)も共に守るべきだとする考え。これはパウロ が「律法によらず、キリストを信ずる信仰により救われる」という信仰義認説を打ち出して反対します。

エビオン派 :律法主義の一種。70年頃に現われ、イエスは初めからメシヤではなく、律法を守ることによってメシヤとなったと考えました。

グノーシス派 :50年頃から起こったもので、「グノーシス 」は古代ギリシア語で「認識・知識」を意味し、善悪二元論=霊肉二元論に立ち、霊は善で、物質は悪であるとする立場から、極めて禁欲的な傾向を持ちます

仮現論ドケティズム ):イエスは肉体を持たずに来たのであり、肉体を持っているように見えただけとするグノーシス派の考え方。地上のキリストは仮の身体をとって十字架についたが、そこで身体を捨てたのであるから、神の子キリストが死んだのではなく、人間イエスが死んだにすぎないとしたため、教会は信仰をより一層明確にする必要に迫られました。

モンタヌス運動 :130年頃から起こった、聖霊と再臨を強調する終末観を中心とする霊的運動。モンタヌスは、キリストの天国はまもなくフルギアのペプサに建設されると主張しました。

ヘレニズムとヘブライズムヘレニズムにおいては、霊肉二元論がそのまま善悪二元論になるように平面的・世界的で、「言」=ロゴス(話、計算、考え)=理性であり、静態的性格、真理観照が特徴ですが、これに対してヘブライズムにおいては、罪人がキリストに出会う時、死から生へと新生するというように時間的、歴史的であり、「言」= ダーバール (後にあって前に追いやる、背後にあるものを前へ駆り立てる)=行為であり、動態的性格があって、真理を歴史の中に啓示する出来事として捉えようとします。こうしたヘレニズムとヘブライズムの違いがそのままギリシア教父とラテン教父にも反映していると言っても良いでしょう。

ユスティノス:「護教教父」、パレスチナ。アレクサンドリアのフィロンはユダヤ教徒としてユダヤ教思想に「ロゴス」を取り入れ、「 神はロゴスを通して自らを表す」と唱えましたが、ユスティノスは「ロゴス 」をキリスト教思想に取り入れ、イエス・キリストこそが完全なロゴス であると考え、キリスト教徒として初めてギリシア思想とキリスト教思想を融合しようとしました。

キリスト教=真の哲学、安全・有益な哲学:プラトン哲学によってキリスト教を哲学的に基礎づけ、キリスト教をヘレニズム化 する試み。

キリスト=神のロゴスの人間化、完全な表現:メシヤ概念ロゴス概念、ロゴスの受肉。

種子的ロゴス説 (ストア派):人間の内にロゴスが種子として宿っているという考え。

エイレナイオス :小アジア。パレスチナ派グノーシス説を批判し、三位一体論の代表者としてカトリック教会の伝統的教義の基礎を固めます。

無からの創造:神の唯一性、救済史における神の発展的自己開示

歴史:創造、堕落、救済、完成を通して神の目的を完成すると考えます。

古典的贖罪論:再復説要約説 →オリゲネス、アタナシウス、アウグスティヌス、グレゴリウスⅠ世らに影響

キリスト=第二アダム

生涯=全人類の歴史を要約的に再演するもの

使命=神が最初にアダムにおいて計画していたことを完成

贖罪=アダムが本来なすべきことをキリストが根本的にやり直すことによって成されるとします。

アレクサンドリアのクレメンス:ギリシア哲学と文学がキリスト教へ人々を導くために存在したと考え、特に ロゴス=キリストであるとした「ロゴス・キリスト論 」は、ギリシア思想とキリスト教神学を結びつけ、以降のキリスト教神学の発展に大きな貢献をするものとなりました。クレメンスはオリゲネスと共にアレクサンドリア学派を代表するギリシア教父であり、 エウセビオス『教会史』によれば「オリゲネスもクレメンスに学んだ」としています。

キリスト教と哲学の総合:キリスト教を理解するためにギリシア哲学が必要であるとしました。

キリスト教の予備教育:律法→ヘブライ人、哲学→ギリシア人

オリゲネス :アレクサンドリア、『諸原理について(原理論)』。キリスト教グノーシスを神学体系にまで発展させ、キリスト教の教義学を初めて確立して、その後の西欧思想史に大きな影響を与えたとされます。新プラトン主義ネオプラトニズム)の影響を強く受け、プラトン『ティマイオス』『旧約聖書』「創世記」の世界創造の記述を融合しようとし、聖書の記述を字義通りでなく、比喩として解釈する 比喩的聖書解釈の手法を導入しました。

創造論 :理性的被造物(霊、精神)の創造→堕落→物質世界創造。⇔プロティノス:流出説

物質世界:堕落した精神の修練の場

賠償説 :身代金(賠償金=イエス)→サタンに支払われたとします。

従属説 :神の唯一性を強調して、位格間の区別を明確化し、子は父と本質において同質であるとして三位格を統一しつつ、人となったのは父そのものだから、父が十字架に付けられたこになるという天父受苦説にならないため、子は父に従属するとして、救済史的三位一体論から 神性の内在的三位一体論に発展させました。

テルトゥリアヌスキリスト論三位一体論 を系統的に論じた最初の人物。「不条理不合理なるが故に我信ず」という文言で知られます。唯一神論の立場に立つモナルキア主義キリスト仮現説ドケティズム)の立場に立つグノーシス主義を批判しました。モナルキア主義には、「子」を派生的に見る 動態論的モナルキア主義と「子」において「父」の現われを見る様態論的モナルキア主義 があり、動態論的モナルキア主義は「神の力がイエスの中に働き、キリストは神の子として養子にされた」という養子説 に立つため、キリストの神性とみ言の受肉が否定されます。様態論的モナルキア主義には、天父受苦説 や神のみが唯一の位格で、「父」「子」「聖霊」は3つの現象様態の名にすぎないとするサベリウス主義があります。

ヒエロニムス四大ラテン教父 の1人。ギリシア語、ヘブライ語をはじめ諸言語に通じ、豊かな古典知識を備えたヒエロニムスは、ラテン語訳聖書の決定版であるウルガータ訳聖書(「ウルガータ」は「 公布されたもの 」の意)を実現し、神学の水準向上と聖書研究の歴史に大きな足跡をしるしました。このウルガータ訳聖書が中世から20世紀の 2ヴァティカン公会議 にいたるまでカトリックのスタンダードであり続けました。

アンブロシウス四大ラテン教父の1人。ギリシア語に精通していたアンブロジウスは、 バシレイオスナジアンゾスのグレゴリオス など東方の教父達の思想を学んで西方に伝え、西方教会の神学の水準を高めました。また、アレクサンドリアのフィロンオリゲネスに学んで、その聖書解釈の方法を西方教会のスタンダードとしました。若き日の アウグスティヌスもミラノでアンブロジウスに出会って大きな影響を受け、回心を遂げています。

三位一体論 :アレクサンドリアの司祭アリウス はオリゲネスの従属説を徹底させ、キリストの人間性を重視して神と同一視することを否定し、神の唯一性・超越を強調します。4世紀にアリウス主義が隆盛になると、三位一体論が最も激しい対立を生み出し、325年の ニカイア会議において、キリストは神ではなく、「神に類似 」とするアリウスが異端とされ、キリストは「神と同質」とするアタナシウス が正統とされて、三位一体論の教理が確立しました。ニカイア信条の三位一体論はカッパドキアの三教父 と呼ばれるバシリオス、ニッサのグレゴリオス、ナジアンゾスのグレゴリオスによって完成され、東方教会にも受け入れられますが、さらに381年のコンスタンティノポリス会議で、子は「生まれ」、聖霊は「出る」とするカッパドキアの教父の説が取り入れられて ニカイア・コンスタンティノポリス信条 が決議されました。かくして、キリストの完全な神性についての教義確立によって三位一体論争は終息し、次にキリストにおける神性と人間性との関係という キリスト論の問題に移行します。

キリスト論アリウスは、子は神以下の被造物であるから人間性との統合は容易であるとし、アタナシウスは、キリストは神にして同時に人間であり、両者の結合から一人格をなすと主張していました。これは アレクサンドリア学派とシリアのアンテオケ学派 との間で論争となり、アレクサンドリア学派のアポリナリオスはキリストの肉体は人間の肉体であったが、 ヌース)は神の霊(ロゴス )であったとしましたが、これだと神性は完全に保たれても人性は部分的となり、完全な人間性を備えていないので人間を救済できないとして、コンスタンティノポリス会議で異端とされました。一方、キリストの神性と人性を明確に区別するアンテオケ学派の ネストリウス は、キリストは道徳的服従の完成した模範としてキリストの神性に対する信仰を弱め、神と人とが機械的に連結しているとすると共に、マリアに対する「 神の母」という伝統的な呼称を退けたため、431年のエフェソス公会議 で排斥されます。最終的に451年のカルケドン公会議 で、人間の霊を持たないキリストは真に人間とは言えず、また機械的に連結しているキリストは結局神ではなく、神を背負った人間でしかないとして、アポリナリオスもネストリウスも異端とされ、キリストが「一つのペルソナ(位格)の中に二つの性質」を持つものとして両極端を排斥したカルケドン信条を決議し、キリスト論論争に一応の決着をつけます。この ニカイア・コンスタンティノポリス信条カルケドン信条 によって古代におけるキリスト教の教義が確立し、カトリック教会統一となります。

キリスト教思想史宗教史学のうち、宗教社会学に対応する教会史 に対して、宗教哲学に対応するものです。パウロアウグスティヌスルターキェルケゴール の4人がターニング・ポイントとされます。

パウロイエス教パウロ教キリスト教

アウグスティヌスキリスト教神学の確立

ルタープロテスタンティズム

キェルケゴール実存主義

恩寵 (おんちょう):原罪を背負った人間が救われるのは神の恩寵 (無償の恵み)によってのみである、という考え。強靭な意志を持ち、人間の自由意志を肯定するブリタニア(イギリス)の修道士ペラギウスとの論争(ペラギウス論争)を通じて、アウグスティヌスは、人間は自由意志ゆえに罪や悪を犯してしまうのであり、そうした人間が救われるのは神の一方的な 恩寵によるしかないと考えました(『自由意志論』 )。ちなみに、意志強固なペラギウスよりも罪に苦しむアウグスティヌス、志操堅固な道元よりも自分の弱さをさらけ出す親鸞の方が、日本人は親近感を感じやすいようです。

予定説 :救済は神の意志によって予定されているとする考え方。イエスの思想には見られず、キリスト教の教義が確立する中で、 アウグスティヌスカルヴァンによって唱えられました。

スコラ哲学 (神学):哲学を「神学の侍女」と位置づけました。

トマス・アクィナス :ドミニコ会修道士、パリ大学教授、スコラ哲学(神学)最大の神学者、『神学大全』 。アリストテレス哲学を取り入れて教義を体系化し、信仰と理性の調和を図ろうとしました。

マルティン・ルター :サン・ピエトロ大聖堂建設献金のために「贖宥状を購入して、コインが箱にチャリンと音を立てて入ると、霊魂が天国へ飛び上がる」と宣伝され、天国に入れないでいる煉獄の霊魂救済のための贖宥状販売に対して、その聖書的根拠に疑問を感じ、 95か条の論題』 をヴィッテンベルクの教会に掲出したことを発端に、その賛同者がローマ・カトリック教会から分離し、プロテスタント が誕生した宗教改革の中心人物。ルターは「雷雨の体験 」を経て聖アウグスチノ修道会に入り、後にヴィッテンベルク大学教授として神学・哲学を担当している時にローマ人への手紙(パウロ書簡)を徹底的に研究し、「塔の体験」と呼ばれる第二の転機となる、信仰義認の思想に至ります。これがプロテスタンティズムの三原理の1つとなるわけですが、原点回帰と言われる宗教改革においても、ルターは イエスの原点に帰ったのではなく、パウロの原点 に帰ったわけです。ちなみに、ルターの100年前にも、イギリスのウィクリフやベーメン(チェコ)の フスが同じような教会批判、改革を主張しましたが、コンスタンツ公会議 で両者は異端とされ、既に無くなっていたウィクリフの墓は暴かれ、フスは火刑に処せられました。ところが、ルターまでの間に グーテンベルク活版印刷術 を実用化して、ヨーロッパ中に普及していたため、ルターの思想はまたたく間に広がり、ローマ教皇や神聖ローマ皇帝と対立する国王・諸侯がルターを保護して、100年前と明暗が分かれました。ルターはこの保護期間にそれまでラテン語で書かれていた聖書をドイツ語に翻訳し、これが近代ドイツ語の元となるわけですが、聖書の各国語訳信仰の民主化に大きく貢献します。イギリスでも欽定訳聖書(ジェームズ王による英訳聖書)とシェークスピア近代英語の元だとされています。近代国家近代国民 を必要とし、近代国民のアイデンティティとなる国民意識の形成には、共通の近代国語 が欠かせなかったので、ルターの果たした歴史的役割は非常に大きかったと言えます。

我、ここに立つ」:神聖ローマ皇帝カール5 はルターをヴォルムス帝国議会 に召集し、自説撤回を求めますが、ルターは「聖書に書かれていないことを認めるわけにはいかない。私はここに立っている。それ以上のことはできない。神よ、助けたまえ」と述べたとされます。

プロテスタント贖宥状(免罪符)批判をきっかけとしたルターの宗教改革に始まる新教諸派。それまでのローマ=カトリックを旧教と言います。聖書中心主義信仰義認説万人祭司説天職思想職業召命観)などを特色とし、近代民主主義近代資本主義の思想的原点となりました。 ルターツヴィングリカルヴァン が初期の指導者となり、ここから同じ神、イエス・キリスト、聖書を信じながら、400派以上に分かれていくことになります。

プロテスタンティズムの三原理 :宗教改革の基本原理となった三原則。

聖書中心主義:ローマ=カトリックの聖書+伝承 主義を否定した形式原理。

信仰義認説:ローマ=カトリックの信仰義認+行為義認贖宥状もこれに含まれる)を否定した内容原理。「 義認」とは神によって人が義と認められることで、救済を意味します。

万人祭司説:ローマ=カトリックの教会中心主義を批判。「 神の前の平等」が近代民主主義の原点となりました。

天職思想職業召命観):聖職のみ尊いと考えるカトリックに対して、世俗的職業を「天職 」(Beruf、べルーフ)と考え、神からの「召命 」(calling)として、神の栄光を表す場と見なすこと。ルターに始まりますが、カルヴァンに至って予定説 とドッキングし、自らの救いを確信する場となったため、禁欲的プロテスタンティズムの倫理近代資本主義の精神となりました( マックス・ヴェーバー『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』)。

聖書批評学 :聖書の一言一句を神の言としてとらえる伝統的な「逐語霊感説」に対して、「原典研究 」「文献批評テキスト・クリティーク )」などによって聖書を文献として合理的に分析する学問。近代学問の源泉の一つとなり、その手法は哲学(アリストテレス研究におけるイェーガー革命など)、仏教学(サンスクリット語・パーリ語の原典研究による法華至上主義批判、大乗仏教非仏説など)、歴史学(漢委奴国王批判、邪馬台国批判など)など様々な分野に波及しました。また、同時代的に清朝で 考証学、日本で荻生徂徠古文辞学 が起こっており、いずれも学問の基礎づけとして重要視されます。聖書批評学には下層批評(写本の検討)と高層批評(本文内容の検討)の2つの方法があり、特に「史的イエス」と「 宣教のイエス」を分けた高層批評が伝統的信仰を揺るがすほどの影響を与えました。

モーセ五書の成立『旧約聖書』の根幹とも言えるモーセ五書創世記出エジプト記レビ記民数記申命記)は従来、モーセ一人の作とされてきましたが、創世記だけでも神をヤハウェ と呼んだり(J資料。素朴で写実的な文体。人間と同じく園を歩かれる神が描かれる)、 エロヒームと呼んだり(E資料 。技巧的で荘重な文体。神の姿は見えず、威厳のある声だけが聞こえている)するなど、少なくとも4つの資料の合成体(あとの2つは申命記の原資料となったD資料と祭司資料であるP 資料 )であることが明らかになりました。今日、一般的に支持されているグラーフ・ヴェルハウゼン学説によれば、その成立・編集・意図がかなりの部分まで明らかになっています。

①BC922年にイスラエル王国が北朝イスラエルと南朝ユダに分裂した後、BC850年頃、南朝ユダの伝承を編集してJ 資料が成立。

②BC750年頃、北朝イスラエルの伝承を編集してE資料が成立。

③BC721年に北朝イスラエルがアッシリアに滅ぼされ、BC650年頃、南朝ユダでJ 資料E資料が1つの資料に編集さました。

④BC622年に神殿から1つの律法の書(D資料 )が発見され、これが南朝ユダのヨシヤ王の宗教改革(申命記改革)の理念となりました。

⑤BC587年に南朝ユダもバビロニアに滅ぼされ、バビロン捕囚 となりますが、その際にこれらの資料も捕囚の地に持ち込まれました。

⑥バビロン捕囚末期に捕囚の地で新しい宗教運動が起こり、この時に祭儀に関する細かい規定などが書かれたP 資料がまとめられました。P資料 は神の権威と支配を訴える一方、排他的選民主義に貫かれており、このP資料 を編集したグループがJ資料E 資料D資料 に手を加えて、総合的に編集し、BC450年頃にモーセ五書を成立させました。

四福音書の成立『新約聖書』の根幹とも言える四福音書マタイによる福音書マルコによる福音書ルカによる福音書ヨハネによる福音書 )には少なくとも4つの原資料があったことが明らかになっています。ストリーター説によれば、おおむね次のような経緯となります。

①50年頃、マタイが編集したイエスの教訓集「ロギア」(Q資料)が成立。

②60年代、マルコ福音書、ルカ福音書特有の資料(L 資料)、マタイ福音書特有の資料(M資料)が成立。

③80年代、これら4つの資料を使ってマタイ福音書ルカ福音書が成立。

④100年頃、マルコ福音書マタイ福音書ルカ福音書(これらは内容が類似しているので共観福音書 と言います)を参考にし、独自の資料も加えてヨハネ福音書が成立。

様式史研究 :福音書に記された伝承は、「史的イエス」を正確に伝えるためのものではなく、「宣教のイエス」(神の子イエス、病気の癒し、十字架による贖罪、復活、聖霊降誕など)を伝えるための「 生活の座」で語られたものであることを明らかにしました。

編集史研究 :福音書記者は単なる伝承の編集者ではなく、「宣教のイエス」を伝えるという編集の「意図」を持っていたことを明らかにしました。これによれば、十字架贖罪論信仰義認説 も聖書に出てくるイエスの記述から必然的に導き出されるものではなく、逆にそのような意図を持って語られた伝承をそのような意図を持った編集者がまとめたものが聖書だということになります。したがって、こうした意図的な「 宣教のイエス」像にそぐわない記述こそが、実際の「史的イエス 」を浮かび上がらせることになります。さらにこれを仏教学に応用すれば、「史的釈迦」と「 宣教の釈迦」を分離する観点が出てくるでしょう。

エキュメニカル運動 :400派以上に分かれたキリスト教の教派を超えた結束を目指す教会一致運動、超教派運動 。さらにはより幅広くキリスト教を含む諸宗教間の対話と協力を目指す運動のことを指す場合もあります。理念的にはエキュメニズム世界教会主義)と言いますが、共産主義神学とも言える 解放神学(「魂の救いはキリスト教で、社会の救いはマルクス主義で 」)の出現に見られるように、唯物無神論の体系である共産主義 を克服できず、挫折しました。



イスラーム教

唯一神 :ユダヤ教・キリスト教・イスラームの神は同一神であり、一切を超越した唯一絶対・全知全能の神であり、この世界を創造した 創造神で、人格神 という共通点があります。したがって、この三教は兄弟宗教とされます。また、ユダヤ教・イスラーム教では偶像崇拝 が禁止されており、イエスに関してもユダヤ教ではラビ教師)とされ、イスラーム教では 預言者として尊重されていますが、キリスト教が三位一体説 でイエス=神にしたため、決定的対立となりました。

ムハンマド :唯一絶対神アッラーから完全な教え(『クルアーン』)を授けられた 最後の預言者とされ、ムハンマド以降の預言者はいないと解釈されています。

クルアーンコーラン):アッラーが預言者ムハンマドを通して下した啓示を記した聖典。

イスラーム :唯一神アッラーへの絶対的帰依。アッラーは最後の審判を行うとされ、神の像などの偶像崇拝は禁止されています。

最後の審判 :アッラーは最後の審判で、生前の行いによって人々を裁き、人間を天国と地獄に振り分けるとされます。キリスト教の『新約聖書』「ヨハネの黙示録」には、終末前の千年に再臨したキリストが統治する至福の時代( 千年王国)がやってくるという説が描かれています。

カリフ :ムハンマドの後継者で、イスラームの最高指導者のこと。初代カリフ:アブー・バクル、第2代カリフ:ウマル、第3代カリフ:ウスマーン、第4代カリフ:アリーまでを 正統カリフといい、アリーとその子孫のみをイマーム(指導者)と認めるのがシーア派 です。後に政治的実権者として大アミールスルタン が立ち、カリフは宗教的権威となりますが、これは西ヨーロッパにおけるローマ教皇神聖ローマ皇帝、日本における天皇将軍 の関係に似ています。

ムスリム :イスラーム教の信徒。イスラーム教では徹底した平等主義 を取っており、聖職者階級はありません。こうした神の前に国王も乞食も等しく同じという平等主義は、伝統的身分制差別が激しい国(カースト制のあるインドなど)にイスラーム教が浸透する要因ともなりました。

六信アッラー天使聖典預言者来世天命 を信じること。ちなみにユダヤ教徒・キリスト教徒はこの六信 を受け入れるはずで、イスラーム教の観点からすればユダヤ教徒・キリスト教徒は信仰的には全員ムスリム ということになります(五行 という生活実践にまでは至っていない段階)。イスラーム教ではアダム・ノア・アブラハム・モーセ・イエス・ムハンマドが六大預言者として位置づけられ、ムハンマドは先行するユダヤ教・キリスト教を実によく研究していたとされます。

五行 :ムスリムが実践すべき宗教的義務。信仰告白礼拝断食喜捨巡礼

信仰告白シャハーダ):「アッラーの他に神はなし、ムハンマドは神の使徒なり」の聖句を唱えます。

礼拝サラート):1日5回、メッカカーバ神殿 )の方向(キブラ)に向かって祈りを捧げます。金曜日の正午は最寄りのモスク (イスラーム教の礼拝堂)で集団礼拝。礼拝への呼び掛けをアザーン と言い、ユダヤ教のラッパ、キリスト教の鐘と同じような役割をしていますが、肉声で行われることに特徴があり、「 神は偉大なり」という意味の「アッラーフ・アクバル」の4度の繰り返しから始まる。

断食サウム):ヒジュラ暦(イスラーム暦)の9月( ラマダーン)に1か月間、日の出から日没まで、食物はもちろん、水までも飲んではならないとされます。

喜捨ザカート):貧しい人への救貧税。財産の一定の割合を教団に納めます。

巡礼ハッジ ):生涯に一度、ヒジュラ暦の第12月に聖地メッカのカーバ神殿に礼拝に行くこと。ただし、経済的・体力的に余裕のない者は免除されます。

シャリーア『クルアーン』『ハディース』(ムハンマドの言行録)、 スンナ(ムハンマドの慣行)、キヤース (『クルアーン』と『ハディース』から導き出される類推)、イジュマー(イスラーム法学者による合意)などを根拠にした イスラーム法 。豚肉を食べることや酒を飲むことを禁じるなど、食生活に様々な制限を設けています。また、シャリーアは結婚や相続など、ムスリムの生活全般の規則を定めており、シャリーアを守って生きることが神への信仰の体現であるとされます。

ウラマーイスラーム法学者):イスラームにおける知識人のこと。イスラーム教には聖職者がおらず、人間は全て俗人で、 世俗法即宗教法 なので、ウラマーが宗教、法律、神学の問題について最終的な決定権を持ち、イスラーム教徒の社会生活を様々な面から規定する役割を果しました。実際にウラマーを形づくるのは、神学校( マドラサ)の教授、モスクの役職者、カーディー (裁判官)ら実際の法運用に携わる者達、在野の学者達です。

ウンマイスラーム共同体 ):ムハンマドは、血縁関係に基づく従来のアラブの部族社会に対して、信仰によって結ばれたイスラーム共同体(ウンマ)の構築を唱えました。ウンマの中ではイスラーム法に基づいて善悪の区別ができ、部族や民族の違いに関係なく、同じ神への信仰に生きる信徒達は互いに平等な関係で結ばれています。

ハラル :イスラーム教の戒律にしたがって処理された食材。

へジャブヒジャーブヒジャブ):イスラーム教徒の女性が人前で髪を隠すのに用いるスカーフ。

チャドル :イスラーム教徒の女性が着る伝統的な服。黒地の布で作ったベール状のもので、頭からかぶって全身を覆い隠します。顔は隠しません。現在ではイランに多く見られます。

ニカブ :イスラーム教徒の女性が着用するベール。目以外の顔と髪をすっぽりと覆うもの。

ブルカ :イスラーム教徒の女性が頭からかぶって全身をおおうように着る、マントのような衣服。ニカブと異なり、目の部分も網状の布などで隠します。アフガニスタンに多く見られます。

ジハード聖戦 ):ムスリムの義務の一つで、聖典を通して知られる神の意志に基づいて、神の定めた正義を世界に広めるよう奮闘すること。狭義には、異教徒との戦いを指します。

スンナ派 :ムハンマドの慣行(スンナ )に従う人々。ムスリムの9割を占めています。ムハンマドの後継者として、「共同体での合意による選出」を尊重し、アブー・バクル、ウマル、ウスマーン、アリーの4人を 正統カリフとして認める立場。

シーア派 :「シーア 」とは「党派」の意味で、「シーア=アリー(アリーの党派)」が略された呼称。ムハンマドの従弟にして、ムハンマドの娘婿でもあるアリーとその子孫のみを イマーム(指導者)とします。「血族による世襲」を主張する立場で、ムスリムの約1割を占めます。

スーフィズム :神人合一を求めるイスラーム教の神秘主義。ヨーガやヒンドゥー教のバクティ (信愛)運動との接点となりました。インドのイスラーム化が進む中で、カビール はスーフィズムとバクティを融合させ、その思想を受け継いだナーナクシク教 を創設しました。

イスラーム原理主義 :イスラーム世界で近代化・欧米化が進むとともに、ウンマ(イスラーム共同体)の伝統が崩れていくのに反発し、聖典 クルアーンの精神に立ち返って、シャリーア (イスラーム法)に基づく本来のイスラーム社会への復帰を求める思想および運動。イスラーム本源主義、伝統回帰主義、イスラーム復興運動とも呼ばれます。18世紀末にワッハーブ派、19世紀後半にはアフガーニーの改革運動などに始まり、ホメイニ師によるイラン・イスラーム革命、アフガニスタンのタリバン政権、アルカーイダによるアメリカ同時多発テロ、中東で勢力を伸ばした イスラーム国IS)など過激な運動ともなっています。



(3)仏教・インド哲学

バラモン教・ヒンドゥー教

バラモン教『ヴェーダ』を聖典とし、自然神を崇拝する多神教。その祭祀はカースト最上位の バラモンが独占しました。

ヴェーダ :「知識」を意味するバラモン教の一群の聖典。『リグ・ヴェーダ』 『ヤジャル・ヴェーダ』『サーマ・ヴェーダ』『アタルヴァ・ヴェーダ』が代表的で、それぞれ主要部分「本集」の他に付属書として『プラーフマナ(祭儀書)』『アーラニヤカ(森林書)』 『ウパニシャッド奥義書を伴っています。

カースト制度 :アーリア人が皮膚の色(ヴァルナ)の違いによって先住民族を差別したことに由来する ヴァルナ制度と、ジャーティ (出自)と呼ばれる世襲職業集団が組み合わさった身分階級制度。現在のインド憲法ではカーストによる差別を禁止していますが、現実には社会生活は依然としてカーストの掟に縛られています。

ヴァルナ制度バラモン(祭司)、クシャトリヤ(王侯・武士)、ヴァイシャ(庶民・農牧商人)、シュードラ(隷属民・被征服民)からなり、「 マヌ法典」に詳述され、インド社会に広がりました。また、ヴァルナの枠外に不可触選民 が置かれました。

ジャーティ :ヴァルナ制度の下で発展した共通職業集団で、他のジャーティとの婚姻を制限しました。

マヌ法典 :「人類の始祖マヌの伝承」とされ、ヴェーダの祭式学(カルパ・スートラ )に附属した法文献ダルマ・スートラ律法経 )を原型としており、バラモン文化の中で生きる人々の生活規範となりました。バラモンの特権的身分を強調しており、バラモン中心の 四種姓カースト制度)の維持に貢献しました。

四住期 :バラモン教徒(シュードラを除く上位3ヴァルナ)が生涯のうちに経るべき段階として、以下の4段階が設定されています。

学生期: 師の下でヴェーダを学ぶ時期。

家住期:家庭にあって子をもうけ、一家の祭祀を主宰する時期。

林住期:森林に隠棲して修行する時期。

遊行期:一定の住所をもたず乞食遊行する時期。

ウパニシャッド哲学ヴェーダーンタ哲学):バラモン教の祭祀万能主義からその背景にある哲学的意義に関心が高まり、成立した哲学。輪廻の苦しみから解脱するために修行し、宇宙の本質であるブラフマン)と真の自己であるアートマン)が一体化する梵我一如を直観しようとします。後にインド最大の哲学者シャンカラが梵我一如思想を深め、ブラフマンとアートマンは本来同一であるとする 不二一元論を確立します。

輪廻転生 :生死を繰り返すこと。ウパニシャッド哲学、仏教思想、ギリシアのピタゴラス思想などに見られる。

因果応報 :人間の行為(カルマ )によって運命や幸・不幸が決まるという思想。ウパニシャッド哲学に起源があり、原始仏教や中国・日本の仏教にも影響を与えました。

梵我一如 :宇宙の究極的原理である絶対者「ブラフマン)」と個人の本質「 アートマン)」が同一であること。

ヒンドゥー教バラモン教を基盤とし、民間信仰を取り入れて成立しました。ブラフマー(創造)、 ヴィシュヌ(維持)、シヴァ (破壊)の三神が最高神。ヴェーダ文献に加えて、インドの二大叙事詩である『マハーバーラタ』『ラーマーヤナ』 などを聖典として持ち、『マハーバーラタ』の一部である『バガヴァッド・ギーター』 はウパニシャッドの教えの概説を表していることから、「ウパニシャッドのウパニシャッド」と呼ばれ、ガンディーもこれを「 スピリチュアル・ディクショナリー」と呼んでいます。

ブラフマー神 :ウパニシャッド哲学の最高原理であるブラフマン を神格化したもの。仏教においては釈迦が悟りを開いた際、世界に広まることをためらった釈迦の後押しをした「梵天 (ぼんてん)」として登場します。

ヴィシュヌ神 :ヴィシュヌ神の10の化身(アヴァターラ)のうち、7番目は『ラーマーヤナ』の主人公ラーマ、8番目は『マハーバーラタ』の主人公クリシュナ、9番目はブッダ(仏陀、釈迦)となっています。これによれば、終末期カリ・ユガに現れる10番目の化身カルキ再臨の仏陀弥勒菩薩 と重なってくるでしょう。釈迦を取り込んだ手法は、モーセやイエスを預言者として尊重しながら、ムハンマドを「最後の預言者」と位置づけたイスラーム教の手法に似ています。

シヴァ神 :ヨーガを創始したと言われ、日本では不動明王大黒天として呼ばれています。

ガンガー崇拝ガンジス河(ガンガー)を流れる水は「聖なる水」とされ、沐浴すれば全ての罪を清め、死後の遺灰をガンガーに流せば輪廻からの解脱が得られると信じられています。流域には ベナレスをはじめ多くの聖地が存在しています。

聖牛崇拝『リグ・ヴェーダ』『アタルヴァ・ヴェーダ』『マヌ法典』 などに牛を尊重すべきこと、畜殺を禁じることが説かれており、シヴァ神の乗り物でもある牛は聖なる動物だと考えられています。したがって、ヒンドゥー教では牛肉を食べませんが、牛乳は神の恵みだと考えられています。一方、イスラーム教徒は豚肉を食べませんが、牛肉タブーは無いので、インドでは牛肉はイスラーム教徒らが扱い、牛肉輸出量は世界一となっています。

ヨーガ :、古代インド発祥の伝統的な宗教的行法で、心身を鍛錬によって制御し、精神を統一して古代インドの人生究極の目標である輪廻からの「解脱」に至ろうとします。「体位法アーサナ)」「印相ムドラー)」「調息法プラーナーヤーマ)」「瞑想ディヤーナ)」などの要素を持ち、バラモン教、ヒンドゥー教、仏教、ジャイナ教などの修行法でもありました。

ハタ・ヨーガ :身体を鍛錬し、浄化するための準備段階的ヨーガ。健康やフィットネスを目的とするエクササイズとして、20世紀後半に欧米で大衆的な人気を獲得しました。

ラージャ・ヨーガ :、瞑想ディヤーナ)によって心を涵養し、真実在への理解を深めて最終的に 解脱を達成することを目指すヨーガ。

クンダリニー・ヨーガハタ・ヨーガの最終段階に位置する超能力ヨーガ。生命エネルギー中枢であるチャクラ の開発に始まり、クンダリニー・エネルギーの覚醒を目指します。仏教における瑜伽行派 が積極的に取り入れ、密教に結実しました。

バクティ・ヨーガ :献身的な礼拝、絶対神への帰依、信愛や奉仕を特徴としています。宗教を超えた信仰のあり方として、ヒンドゥー教改革運動 を起こしたラーマクリシュナ、その弟子で普遍的宗教を目指した ヴィヴェーカーナンダなどが知られています。

仏教衰退の原因 :インドにおけるヒンドゥー教の確立・復興と共に仏教の衰退が決定的となりますが、それには以下の原因が指摘されています。

民衆からの乖離 :ヒンドゥー教の儀礼などが日常生活に定着していく一方で、仏教が高度な学問へと発展し、一般庶民の日常生活から離れた難解な思想となりました。

保護王朝と有力支持層の没落 :マウルヤ朝からヴァルダナ朝までの間、仏教は1000年ほど国家宗教の位置を占めましたが、仏教を国教として保護していた王朝が滅亡してから衰退し始め、またローマ帝国の滅亡により交易で富を得ていた商人層が没落していき、有力な信者である商人層もヒンドゥー教に吸収されていき、仏教の衰退を早めました。

ヒンドゥー教の復興 :仏教でもヒンドゥー教の要素を取り入れた密教が起こりましたが、ヒンドゥー教でも釈迦をヴィシュヌ第9変化とするなど仏教を取り込んでおり、さらにバクティ運動に代表される熱烈なヒンドゥー信仰が起こり、仏教が排斥されていきました。

イスラーム教の浸透 :偶像崇拝を認めないイスラーム教が北部からインドに侵攻し、13世紀~16世紀の間にイスラーム王朝が勃興し、仏教寺院の破壊、仏教徒の迫害を行いました。そして、絶対平等主義のイスラーム教は差別階層原理を持つヒンドゥー教への対抗原理となりました。かつてヒンドゥー教の前身であるバラモン教の差別階層原理に対しては絶対的平等主義の仏教が対抗原理となったわけですが、仏教を克服して復活したバラモン教であるヒンドゥー教への対抗原理とはなり得なかったということです。

カビール :神への専心一途な献身的信仰を説くヒンドゥー教のバクティ信仰とイスラーム教の スーフィズム (神秘主義)を結びつける宗教思想を体系づけました。北インドのベナレスのバラモンの寡婦の子として生まれ、ムスリム織工に育てられてイスラーム教徒となりますが、ヒンドゥー教のバクティ信仰に触れながら、カースト制度の否定、不可触民への差別の非難、偶像崇拝の否定、苦行や儀礼の否定など、「宗教改革」的な活動を行い、民衆の支持を受けました。「宗教の寛容の精神」を実践し、万人に判る言葉で最初に説いた「人間の宗教」の先駆者とされ、その宗教思想はパンジャーブ地方でシク教を創始したナーナクや20世紀インドを代表する2人の宗教思想家ガンディータゴールにも影響を与えたとされます。

ナーナクシク教の教祖にして初代グル(尊師)。宗教改革者カビールとイスラーム神秘主義 スーフィズム の影響を受け、一神教信仰、偶像崇拝の否定などを説いています。ナーナクは「ヒンドゥー教徒もイスラーム教徒もいない」人類全てが分かち合える「唯一なる真理」のメッセージを伝えようとし、他の宗教を否定するのではなくそれを超えた真理に従順になり、慈悲の心を持つことが大切であると説き、その普遍的な教えに心酔した弟子達は「 シーク 」(弟子の意)と呼ばれ、シク教の名前の由来となります。シク教には僧院はなく、日常の職業に従事しながら互いに助け合う共同体生活の中から「平等・友愛・謙遜」という価値観が形成され、社会奉仕を重視してパンジャーブで定着していきましたが、イスラーム教への回帰を強めたムガル帝国のアウラングゼーブ帝の時代に厳しく弾圧されるようになります。19世紀にはシク王国を樹立してイギリスと徹底的な戦いを展開しており、その急進派はパンジャーブ独立運動と結びついてたびたびインド政府から弾圧を受けています。

ガンディー :「インド独立の父」「マハトマ」(偉大な魂)。ヒンドゥー教の聖典『バガヴァッド・ギーター』に述べられている不殺生アヒンサー)の精神に基づく非暴力・不服従を掲げ、 サティアグラハ真理把握 )と呼ばれるインド独立運動を展開します。ガンディーは熱心なヒンドゥー教徒でしたが、その真摯な姿はイスラーム教徒をも引きつけ、またカースト外の不可触民を神の子( ハリジャン)と呼んでその解放を訴えました。

タゴール :インドの「詩聖(グゥルゥデーウ)」、『ギタンジャリ(英語版) によりアジア人として初のノーベル賞となるノーベル文学賞を受賞。インド国歌「ジャナ・ガナ・マナ」の作詞・作曲、バングラデシュ国歌「我が黄金のベンガルよ」の作詞者。マハトマ・ガンディーらのインド独立運動を支持し、ガンディーに「 マハトマ 」(偉大なる魂)の尊称を贈ったとされます。ロマン・ロランやアインシュタインら世界の知識人との親交も深く、ドイツのノーベル賞物理学者ハイゼンベルクには東洋哲学を教え、モンテッソーリ教育を真の平和教育と賞賛、強く支持していました。


仏教

ゴータマ・シッダッタ (パーリ語表記。サンスクリット語表記ではガウタマ・シッダールタ ):釈迦、釈尊、釈迦牟尼。釈迦族の王子として生まれるも、四門出遊を経て出家。バラモン教祭祀主義を批判し、この世の真理である法(ダルマ)を悟ることで解脱を目指し、6年間の苦行を経て中道に至り、ブッダ仏陀覚者)となりました。すなわち、諸々の煩悩は苦しみや悲しみを引き起こしますが、その根本原因は 無常無我に関する無知(無明 )にあると考え、この世を貫く理法(縁起の法)を正しく悟ることで執着心から解放され、心安らかな境地( 涅槃寂静)へ至ることができると説きました。

四門出遊 :ガウタマが城の東門から出ようとすると老人に出会い、南門から出ようとすると病人に出会い、西門から出ようとすると死者に会って、人生の無常に直面しますが、最後に北門から出ようとすると托鉢の 沙門(出家の修行者)に出会い、出家を決意したとされます。

縁起の法 :ガウタマの悟りの根本となった存在の理法。全ては関係性から成り立っており、(直接的原因)+(周辺的条件)→生起(結果)・ (次の現象の原因)という因縁生起因縁果報 の理論で、これを「」の認識・克服に当てはめることで四諦説四法印が生まれました。

四諦 (したい):解脱に至るための4つの真理。苦諦集諦(じったい)・滅諦道諦の4つからなります。

苦諦:人生は苦しみに満ちているという真理。四門出遊一切皆苦四苦八苦

集諦:苦の原因は煩悩にあるという真理。十二因縁無明我執執着渇愛煩悩

滅諦:煩悩を滅することにより、安らぎの境地である涅槃に至るという真理。 諸法無我諸行無常涅槃寂静

道諦:涅槃に至るための具体的な修行方法が八正道であるという真理。

四法印一切皆苦諸行無常諸法無我涅槃寂静。なお、一切皆苦以外を三法印とも言います。

一切皆苦 :一見楽しそうなことも含め、この世の現実の全ては苦しみに他ならないという真理。

四苦

八苦四苦愛別離苦怨憎会苦求不得苦五蘊盛苦

愛別離苦(あいべつりく):愛する者といつか必ず別れねばならないという苦しみ。

怨憎会苦(おんぞうえく):憎い者と出会う苦しみ。

求不得苦(ぐふとくく):求めるものが得られない苦しみ。

五蘊盛苦(ごうんじょうく):存在するものを構成する5つの要素(五蘊 )が苦悩の源になっていること。

五蘊(物質的要素)、(感受作用)、 (表象作用)、(意志作用)、(認識作用)の5つ。

無明 (むみょう):この世の真理について無知であること。

諸行無常 :全てのものは常に変転し続け、とどまることはないということ。「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり、紗羅双樹の花の色、盛者必衰の理(ことわり)をあらわす」(『平家物語』冒頭文)のごとく、末法思想と共に日本に浸透して「無常観」を生みましたが、平安王朝文化をしのぶ鎌倉時代前期の『方丈記』鴨長明)のような消極的無常観 (いつまでも栄耀栄華が続くことはない)と室町時代を目前にした鎌倉時代後期の『徒然草』吉田兼好)のような積極的無常観 (今が不遇であってもこの状態がいつまでも続くわけではない)という2種類があることに注意しなければなりません。

諸法無我 :変わらない自己の本質というものはないということ。それ自体で存在するような恒常不変の実体は何も無く、存在するものを固定的に捉えてはならないとすること。

常見 :絶対的な我が生まれ変わり、死に変わりして輪廻転生するという考え。元々バラモン教 の思想であり、ガウタマはこれを否定しましたが、仏教説話が量産される中で、いつの間にか仏教思想の中に取り込まれていきました。

断見 :死ねば肉身は土に帰って、存在は無に帰すという考え。ガウタマ当時の自由思想家六師外道)の中にも見られる唯物論 的な思想でありますが、ガウタマはこれを否定しました。

三毒 :根本煩悩である(とん、貪欲、貪り)、(じん、瞋恚[しんに]、怒り)、 (ち、愚痴、愚か)の3つ。こうした煩悩から逃れるために、戒めや修行徳目が定められました。

(とん):煩悩の情的側面=渇愛

(じん):煩悩の意的側面=我執

(ち):煩悩の知的側面=無明

涅槃寂静 (ねはんじゃくじょう、ニルヴァーナ): 悟りによって因縁解脱し、煩悩の火が燃え尽きた寂静の境地。

中道 :快楽と苦行の両極端を避ける立場。そのための具体的実践方法が八正道です。

八正道正見正思正語正業正命正精進正念正定の8つからなる修行法。

正見(しょうけん):正しく現実を認識すること。正しい見解。

正思(しょうし):正しい思惟。

正語(しょうご):正しい言葉を使い、嘘や悪口を言わないこと。

正業(しょうごう):正しい行い。

正命(しょうみょう):正しい生活。

正精進(しょうしょうじん):正しく努力すること。

正念(しょうねん):正しい自覚・気づき。自覚を取り戻し、意識を「今、ここ 」に集中することで、「マインドフルネス 」と訳され、グーグルやアップルなど欧米の多くの企業で福利厚生として社員研修に取り入れられています。2000年代以降のアメリカで、正念+瞑想=マインドフルネス瞑想が普及しています。

正定(しょうじょう):正しい瞑想を行い、精神を統一すること。

在家信者三宝帰依し、遵守すべき五戒 を受けた在俗の信者のこと。

三宝(仏陀)、(仏法)、(僧侶)。

三帰帰依すること。

五戒 :仏教の在家信者が守るべき5つの戒め。不殺生戒不偸盗戒不邪淫戒不妄語戒不飲酒戒からなります。

不殺生戒(ふせっしょうかい):生き物を殺さないという戒め。

不偸盗戒(ふちゅうとうかい):人のものを盗んではならないという戒め。

不邪婬戒(ふじゃいんかい):淫らなことをしないという戒め。

不妄語戒(ふもうごかい):人に 嘘をついてはならないという戒め。

不飲酒戒(ふおんじゅかい):酒を飲んではならないという戒め。

十大弟子 :釈迦(釈尊)の弟子達の中で主要な10人の弟子。興福寺などにも十大弟子像があります。

サーリプッタ (パーリ語)、シャーリプトラ(サンスクリット語):舎利弗(しゃりほつ)、 舎利子智慧第一 。『般若心経』では仏の力を承けた観音菩薩の説法相手として、『阿弥陀経』では仏の説法相手として登場するなど、多くの経典に登場する。

マハーモッガラーナ (パーリ語)、マハーマゥドガリヤーヤナ (サンスクリット語):摩訶目犍連 (まかもっけんれん)、目連(もくれん)。神通第一 。サーリプッタ(シャーリプトラ)と共に懐疑論者サンジャヤ・ベーラッティプッタの弟子でしたが、共に仏弟子となりました。中国仏教では目連が餓鬼道に落ちた母を救うために行った供養が「 盂蘭盆会(うらぼんえ)」の起源だとしています。

マハーカッサパ (パーリ語)、マハーカーシャパ(サンスクリット語):摩訶迦葉(まかかしょう)、 大迦葉頭陀(ずだ) 第一 。釈迦の死後、その教団を統率し、第一結集では500 人の仲間と共に釈迦の教法を編集する座長を務めました。禅宗は付法蔵 (教えの奥義を直伝すること) の第2祖としています。

スブーティ (パーリ語、サンスクリット語):須菩提(しゅぼだい)。解空(げくう) 第一。『金剛般若経』等、「空」を説く大乗経典にしばしば登場します。

プンナ・マンターニープッタ (パーリ語)、プールナ・マイトラーヤニープトラ(サンスクリット語):富楼那弥多羅尼子(ふるなみたらにし)、 富楼那説法第一

マハーカッチャーナ (パーリ語)、マハーカートゥヤーヤナ(サンスクリット語):摩訶迦旃延 (まかかせんねん)。論議第一。辺地では5人の師しかいなくても授戒する許可を仏から得たとされます。

アヌルッダ (パーリ語)、アニルッダ(サンスクリット語):阿那律(あなりつ)。 天眼(てんげん)第一 。釈迦の従弟。阿難と共に出家しました。仏の前で居眠りして叱責を受けたため、眠らぬ誓いを立て、視力を失いましたが、そのためかえって真理を見る眼を得たとされます。

ウパーリ (パーリ語、サンスクリット語):優波離(うぱり)。持律第一

ラーフラ (パーリ語、サンスクリット語):羅睺羅(らごら)、羅雲。密行第一 。密行とは緻密、厳密、手抜かりのないことです。釈迦の長男。釈迦の帰郷に際し、12歳で出家して最初の沙弥(少年僧) となったことから、日本では寺院の子弟のことを羅子(らご)と言います。十六羅漢の1人でもあります。

アーナンダ (パーリ語、サンスクリット語):阿難陀(あなんだ)、阿難多聞(たもん)第一 。釈迦の従弟。出家して以来、釈迦が死ぬまで25年間、釈迦の付き人をしたため、第一結集の時、アーナンダの記憶に基づいて経が編纂されました。『無量寿経』等に仏の説法相手として登場します。

十六羅漢 :仏弟子の中で特に優れた16人。羅漢(らかん)は阿羅漢 (あらかん)の略称。十六羅漢像は各地の寺に多く見られます。

五百羅漢 :第1回の仏典結集に集まった500人の仏弟子達。五百羅漢像も各地に見られます。

初期仏教釈迦仏教原始仏教根本仏教):釈迦の死後、の「三蔵」をまとめる仏典結集が行われ、『阿含経』アーガマ)や『経集』スッタニパータ)、『法句経』ダンマパダ)、『本生(ほんじょう)経』ジャータカ)などが編集されました。その後、根本分裂が生じて上座部大衆部に分裂しました(部派仏教アビダルマ仏教)。これらが後に上座部仏教大乗仏教となります。なお、大乗仏教は上座部仏教を小乗仏教と呼び、『阿含経』など初期仏教経典を小乗経典と呼んで差別しましたが、 サンスクリット語・パーリ語の原典研究を進めた近代仏教学 によって再評価されることとなりました。

上座部仏教テーラヴァーダ):自分の悟りの完成(上求菩提)を目指して努力します。上座部で最有力であった説一切有部の主要経典・論書は 『成実論』『倶舎(くしゃ)論』南伝仏教 (セイロン、東南アジアなど)。

阿羅漢部派仏教上座部仏教 における理想像。アラハント:(パーリ語)、アルハット(サンスクリット語)に由来。修行を完成し、個人として最高の悟りを得た聖者で、出家者の最高位。「仏陀」「如来」と同義。尊敬や施しを受けるに相応しい聖者であることから、「 応供」とも呼ばれます。

大乗仏教マハーヤーナ):上座部仏教を自分1人だけ彼岸解脱)に渡すだけの小乗仏教ヒーナヤーナ )と非難し、自己の救済よりも他の救済(下化衆生)を優先する菩薩 を理想像として、修行方法として六波羅蜜が打ち出しました。北伝仏教 (チベット、中国、朝鮮、日本など)。

菩薩 :自分の悟りを後回しにして、全ての衆生に分け隔てなく慈悲を注ぎ、衆生の救済に励む存在。

六波羅蜜 (ろくはらみつ):大乗仏教の求道者が実践すべき6つの徳目。布施持戒忍辱精進禅定智慧からなります。

布施:物や教えを与え施すこと。

持戒:戒律を守ること。

忍辱(にんにく):困難を耐え忍ぶこと。

精進:修行に励むこと。

禅定(ぜんじょう):精神を統一すること。シャマタ)とも言います。

智慧:真理を悟ること。ヴィパシャナ )とも言います。

初期大乗『般若経』『華厳経』『無量寿経』『阿弥陀経』『観無量寿経』『法華経』などが代表経典。これらを基に三論宗華厳宗浄土宗天台宗などが生まれました。「 」仏教。存在論が中心。大乗仏教は一種の宗教改革で、キリスト教的要素を多分に持っており、『華厳経』の毘盧遮那ビルシャナのように、宇宙の本体を仏で表現した 法身(ほっしん)概念などは一種の人格神的把握と考えられます。また、『法華経』で法身 、人間でありながら悟りを得て法身と一つになった報身(釈迦如来など)、衆生救済のための様々な化身である応身(観音菩薩など)を「三身即一の法」としてとらえるなど、キリスト教の「 三位一体説」に似たような概念や、「仏国土建設 のように「地上天国実現に似た概念が出現していることも注目されます。

ナーガールジュナ竜樹):初期大乗空仏教の理論的中心、『中論』 。縁起の教義を徹底し、あらゆる事物は固定的な不変の実体を持たないとする、「」の思想を理論化しました。

「色即是空 空即是色」『般若心経』):「」は形あるもの、「 」は形なきもの。アインシュタインの質量とエネルギーの変換公式「Emc2」(E :エネルギー[空]、m:質料[色]、c:光速[定数])に比定されます。

無自性 :存在するものは固定的な実体を持たないこと。ナーガールジュナは、全ての事象は他との依存(いそん)・相依(そうい)の関係によって成り立っているとしました。

三論宗ナーガールジュナ龍樹)の『中論』『十二門論』 、その弟子デーヴァダッタ提婆)の『百論』 を合わせた「三論」を中心として中国で成立。唐代には、華厳宗天台宗法相宗の隆盛の陰に隠れ、学問としてのみ存在するようになりました。

華厳宗『華厳経』 を中心として中国で成立。新羅で盛んになり(「韓国は『華厳経』の国、日本は『法華経』の国」と言われます)、日本にも 新羅華厳宗が伝えられ、東大寺が中心となりました。後の真言宗 にも影響を与えます。「入法界品」では善財童子が登場し、文殊菩薩 の勧めにより、様々な指導者(善知識)53人(東海道五十三次の由来)を訪ね歩いて段階的に仏教の修行を積み、最後に 普賢菩薩の所で悟りを開くという、菩薩行の理想者として描かれています。

浄土宗浄土三部経『大無量寿経』『阿弥陀経』『観無量寿経』 )を中心として中国で成立。このうち、『大無量寿経』法蔵菩薩阿弥陀仏に成るための修行に先立って立てた「弥陀の四十八願」のうち、 第十八願「私が仏になる時、全ての人々が心から信じて、私の国(西方極楽浄土 )に生れたいと願い、わずか十回でも念仏して、もし生れることができないようなら、わたしは決して悟りを開きません」( 念仏往生の願)が根拠になっているとされます。

天台宗『法華経』を中心として中国で成立。当時、大乗経典として『華厳経』『法華経』『涅槃経』の評価が高かったのですが、天台大師智顗(ちぎ)の「教相判釈」により「五時八教」の説が立てられ、仏陀は最初に『華厳経』を説きました(華厳時)が、その教えが純粋で難しいため、人々が理解できなかったとして、次に平易な『阿含経』を説いた(阿含時)とします。その後、人々の理解の割合に応じて 『維摩経』『勝鬘経』など(方等時)や『般若経』 (般若時)を説いて教化し、最後の8年間で『法華経』を説き、死ぬ間際に『涅槃経』 を説いた(法華涅槃時)とします。したがって、最後に説いた『法華経』 が釈迦の最も重要な教えであるとしています。これによって『法華経』至上主義が生まれましたが、 文献批評に基づく聖書批評学に学んだ近代仏教学 がサンスクリット語・パーリ語の原典研究を始め、「五時八教」説を完全に否定しました。

中期大乗『維摩経』『勝鬘経』『涅槃経』などの如来蔵経典、『解深密経』『大乗阿毘達磨経』などの阿頼耶アーラヤ経典が代表経典。これらを基に法相宗 などが生まれました。般若空思想を根底にヨーガの修行 ( 瑜伽行) を基礎とし、全ての事象は心の作用が作ったものとする「唯識」 仏教。認識論が中心。

仏性思想如来蔵思想):『涅槃経』などでは、全ての衆生は仏になる可能性( 仏性)を備えている(一切衆生悉有仏性)ので、成仏成仏陀)できるという教えが説かれました。

阿頼耶アーラヤフロイト よりも千五百年以上も前に仏教修行の中で把握された無意識。眼識耳識鼻識舌識身識意識末那マナ自我自己意識表層意識)・阿頼耶識無意識潜在意識)の八識のうち第八に位置し、人間存在の根本にある識。あらゆる業力 を蔵するとされます。後には第八阿頼耶識が浄化されると第九阿摩羅アマラになるとされたり、阿頼耶識の中にある仏性を第九阿摩羅識ととらえる考え方も出てきました。あるいは第八 阿頼耶識フロイト的潜在意識個人的無意識 )ととらえ、第九阿摩羅識ユング的深層意識集合的無意識)ととらえる考え方もあります。さらに第十紇哩陀耶フリダヤ宇宙意識トランスパーソナル心理学の領域)を置く考え方もあります。

マイトレーヤ弥勒):釈迦牟尼仏の次に現われる未来仏再臨の仏陀)であり、大乗仏教では菩薩 の一尊です。唯識思想の伝説的創始者(実在の僧マイトレーヤ・ナータが弥勒菩薩に仮託されたとも言われます)とされ、阿弥陀如来の住む極楽浄土に往生したいと願う 極楽往生信仰のように、弥勒菩薩の住む兜率天 (とそつてん)に往生したいと願う弥勒上生信仰と、弥勒菩薩の降臨に馳せ参じて共に理想世界(仏国土)を作っていこうとする 弥勒下生信仰が生まれました。韓国・新羅において三国統一の原動力となった花郎道 や中国の元代以降に何度も農民反乱を引き起こした白蓮教は、この弥勒下生信仰によるものです。

アサンガ無著無着):『瑜伽師地(ゆがしじ) 論』『摂(しょう)大乗論』 、全ての事物は心によって生み出された仮の存在、表象にすぎないとする唯識思想を展開しました。 ヨーガを仏教に取り込んだ瑜伽行(ゆがぎょう) で、神通力によって兜率天に昇り、マイトレーヤ弥勒 )から後に「弥勒の五部論」と言われる五法(『瑜伽師地論』など)を授かり、さらには自らマイトレーヤと化してその現身説法を行ったとされます。ここに見られるようなシャマタ)の集中であらゆる「識」作用を止滅させ、ヴィパシャナ)の瞑想で仏陀の想念を現出させるという「 速疾成仏論」は、後期大乗密教の「即身成仏論」の原型となりました。

ヴァスパンドゥ世親):『唯識三十頌』、中期大乗唯識思想の理論的中心。アサンガの弟で、 『倶舎(くしゃ)論』上座部仏教 を理論的に確立した後、アサンガに導かれて大乗仏教に転じて瑜伽行派となり、唯識思想 を体系化しました。

法相 (ほっそう):インドのナーランダー学院で学んだ 玄奘が、当時の最先端仏教であった瑜伽行派唯識派 )の経典群を中国に持ち帰って成立。『解深密経』『瑜伽師地論』ダルマパーラ護法)がヴァスパンドゥ世親)の『唯識三十頌』を注釈した『成唯識論』などが中心経典・論書。日本では 薬師寺興福寺が中心。

後期大乗身密口密(くみつ)・意密の「 三密加持」で「即身成仏」を目指す密教 (秘密仏教)。それまでの仏教諸派を釈尊が公に説いた顕教 であるのに対し、大日如来(法身)が秘密裏に明かした教説と位置づけました。『大日経』『金剛頂経』 が代表経典。実践論が中心。「」の克服というテーマに関しても、上座部系が「逃避 」(出家によって苦の原因から遠ざかる)、浄土系が「来世救済」(死んだら救われる)、法華系が「 発想の転換 」(例えば「死」は悲しいものですが、墓掘り人夫にとってはメシの種になります)といったそれぞれの解決法を持っていましたが、密教のそれは「原因の打破」ということになります。日本には当初「雑密」(雑部密教)として伝わり、山岳信仰と合わさって修験道のルーツとなりましたが、空海が唐から当時最先端の「純密」(正純密教)を伝えました。修行法などを仏に見立てて 曼荼羅マンダラ )で表現したりしましたが、空海以降、形式化・形骸化が著しくなりました。

初期密教:「雑密」段階。

中期密教:代表経典である『大日経』『金剛頂経』成立。 『大日経』では法身「毘盧遮那如来」(大日如来 )の説法という形式で悟りの世界が語られ、これを曼荼羅化したものが「胎蔵曼荼羅」です。『金剛頂経』では即身成仏 の技法が語られ、これを曼荼羅化したものが「金剛界曼荼羅」です。また、男女の愛について論じた『理趣経』が成立しています。中国唐密教の最高峰恵果阿闍梨(あじゃり)が 空海に伝えたのは中期密教ですが、その後、中国では衰退します。

後期密教曼荼羅 に見られるような形式化・形骸化が進む一方、ヒンドゥー教の影響やイスラーム教の浸透でインドでは絶滅。チベットでは後期密教が独自の発達を遂げて、 チベット密教を形成しました。


ジャイナ教・自由思想家

ヴァルダマーナ自由思想家の1人、ジャイナ教の開祖。マハーヴィーラ(偉大な英雄の意)、ジナ(勝者の意)。バラモン教カースト制度を否定し、アヒンサー不殺生)を説きました。インドの伝統的思想でもあるアヒンサーを現代に復活させたのが非暴力不服従運動であるサティアグラハ真理把握)を展開したガンディーです。

五戒不殺生戒不偸盗戒不邪淫戒不妄語戒無所有戒仏教不飲酒戒)。

六師外道 :ゴータマ・シッダッタ(釈迦)と同時代の6人の自由思想家 (サマナ)達を、仏教の側から見て異端だと見なし、まとめて指すための呼称。プーラナ・カッサパ(無道徳論、道徳否定論)、パクダ・カッチャーヤナ(要素集合説、七要素説、積集説、唯物論的思考の先駆)、 アジタ・ケーサカンバリン(唯物論、感覚論、快楽主義)、マッカリ・ゴーサーラ (運命決定論、宿命論)、サンジャヤ・ベーラッティプッタ(懐疑論、不可知論)、 マハーヴィーラ(ジャイナ教の開祖、相対主義、苦行主義、要素実在説)。

六十二見 :仏教において、外道の見解(邪見)を62種類にまとめたもの。



(4)中国思想

儒教

孔子 :周王朝時代の政治(礼楽文化)を理想とし、特に周王朝の祖文王の子で、初代武王の弟、第二代成王の摂政であった周公旦を尊敬しました。の基礎として忠恕=純粋なまごころ、=他人への思いやり)を唱えました。内面的なの心をに表すべきであり(克己復礼)、その実現を目指して励む者を「 君子」と呼んで、理想的人間としました。「 」とは人間の従うべき道徳の規範だと考えました。「中国のソクラテス」的存在です。その言行録は『論語』にまとめられました。孔子思想を淵源とする儒教は、 孔子主義コンフューシャニズム)とも言われます。

五経『詩経』『書経』『礼記』『易経』『春秋』 。孔子以前に編まれた書物を原典として、孔子の手を経て現在の形になったと考えられています。元々、『楽経』も入って「 六経」でしたが、これは早くに失われたので、「五経」となりました。

『詩経』 :中国最古の詩篇。『史記』孔子世家によれば、当初三千篇あった膨大な詩編を、孔子が311編(うち6編は題名のみ現存)に編成し直したと言います。孔子は「 詩に興り、礼に立ち、楽(がく)に成る 」(詩を学んで人としての心をふるい起こし、礼を学んで人としての行いを確立し、 音楽を学んで人間を完成させるのである。『論語』)と述べているように、音楽の3つを君子に必須の教養としました。『万葉集』の編集も『詩経』を参考にしたと言われています。また、四言句を基本とする 『詩経』が北方詩の代表的源泉で、六言句を基本とする『楚辞』 が南方詩の代表的源泉となっており、これらが融合し、漢代の(ふ)、魏晋南北朝の四六駢儷文を経て、中国・東洋文学の精華とも言うべき五言七言絶句律詩を中心とする 唐詩が完成します。

『書経』:中国古代の歴史書で、伝説の聖人である(ぎょう、五帝の第四)・(しゅん、五帝の第五)・夏王朝の祖)から 王朝までの天子や諸侯の政治上の心構えや訓戒・戦いに臨んでの檄文などが記載されています。天命に従い、有徳者を尊び、徳によって民を安んずるという儒家の政治理念を最もよく示しており、古来、「 政治の紀(のり)」として尊ばれてきました。

『礼記(らいき):礼に関する注記。 は慣習に基づく規範なので、インドのマヌ法典に相当すると言えます。後に朱子によって『大学』『中庸』の2篇は独立した経書として見なされ、 『論語』『孟子』と共に四書 の1つに数えられるに至りました。宋学の大成者朱子は『大学』『中庸』を、陽明学の創始者王陽明は『大学』を、清末公羊学の康有為は「礼運編」を再解釈することによって自己の思想を確立したのです。

『易経』:殷の時代から蓄積された卜辞を集大成したもの。伝説では伏羲 (三皇の第一)が八卦を作り、さらにそれを重ねて六十四卦としました。次に周王朝の祖文王 が卦辞を作り、文王の子での周王朝の礼楽思想を確立し、孔子が尊敬して止まなかった周公が爻辞を作りました。そして、孔子が「伝」(注釈)を書いたので、この『易経』作成に関わる伏羲文王周公)・孔子を「 三聖 」と言います。『史記』孔子世家によれば、孔子は晩年、易を愛読し、「易を読んで竹簡のとじひもが三度も切れてしまった」( 「韋編三絶」)と言います。

『春秋』:孔子の母国である魯国の年次によって記録された、中国春秋時代に関する編年体の歴史書。現存しているものは全て 「伝」(注釈書)に包摂されているもので、『春秋左氏伝』『春秋公羊伝』『春秋穀梁伝』「春秋三伝」と呼ばれます。例えば、『春秋公羊伝』に基づく公羊(くよう)学では、『春秋』の簡潔な表現( 春秋の筆法)から孔子の「微言大義 」(微妙な言葉遣いの中に隠された大義)を探ろうとしました。後の清末近代化改革運動の指導者で公羊学者の康有為 (こうゆうい)は、春秋公羊学の三世説に従って、歴史は「拠乱の世」から「升平(小康)の世」を経て、「大同の世」に進化するものであるとし、大同世界への第一歩として日本を模範とした立憲君主制を打ち立てようとする変法運動を指導しています。

:根源的な愛。親や兄弟への自然な愛情としての、自分を偽らない、他者の気持ちになって考える、他者を欺かない誠実な心としての など、様々な形で表現されます。

:自分の心に忠実であること。の表現の1つ。

(じょ):他人を思いやること。の表現の1つ。

:親に尽くすこと。の表現の1つ。

(てい):年長者に従うこと。の表現の1つ。

:他者を欺かないこと。の表現の1つ。

:社会的に通用している規範。孔子は礼の形骸化が社会の混乱につながったと考え、上下の序列を守ることを重視し、形式的な礼ではなく、 が形となって現れたを実践することで伝統的な社会秩序を回復しようとしました。

克己復礼 :自己に打ち勝って礼に立ち返ることが仁であるとしました。

正名 (しょうみょう)思想:孔子は「(くん) 君たり、臣(しん)臣たり、父(ちち)父たり、子 (こ)子たり」と述べているように、礼の実践はそれぞれがその名にふさわしく行動し、名に与えられた天分を全うし、 名分(めいぶん)を正すことにほかならないとしました。

君子を兼ね備えた理想的人間像⇔小人。孔子は「人知らずして慍(いか)らず。また君子ならずや」「 君子にして不仁なる者あらんか。未だ小人にして仁なる者あらざるなり」「君子は義に喩 (さと)り、小人は利に喩(さと)」(『論語』)と述べています。

徳治主義 :為政者が徳をもって人民を治めるべきだとする政治観。⇔法治主義:為政者が法律や刑罰によって人民を治める立場。

(あした)に道を聞かば、夕べに死すとも可なり。」(『論語』):儒家では「」は人が人として守るべき規範(人倫)でしたが、道家では「 」を自然に本来備わる根本原理(万物の根源)と捉えました。

孝悌なる者はそれ仁の本たる。」(『論語』)

巧言令色、鮮(すく)なし仁 。」(『論語』):言葉巧みで見かけをよくしているだけの人は仁が乏しい。⇔「剛毅木訥(ごうきぼくとつ)、仁に近し」(『論語』)

(ふる)きを温(たず)ね、新しきを知る。」( 温故知新、『論語』):故事(古い事柄や学説)を研究して新しい知識や現代的意義を見出すこと。

学びて、時にこれに習うまた説(よろこば) しからずや」(『論語』):学んだことを、機会があるごとに復習し身につけていくことは、何と喜ばしいことでしょうか。

学びて思わざれば、則(すなわち)ち罔(くら) し、思いて学ばざれば、則ち殆(あや)うし 」(『論語』):学ぶだけで思考しなければ、知識を生かすことができず、思考するばかりで知識を学ばなければ、賢明な判断ができない。

過ちて改めざる、これを過ちと謂(い) 。」(『論語』):本当の過ちは、過ちを知りながら、それを認めずに改めないことであるとしています。

子曰く、吾(われ)十有五にして学に志す三十にして立つ。四十にして惑わず五十にして天命を知る六十にして耳順(したが)七十にして心の欲する所に従いて矩(のり)を踰(こ) えず。」(『論語』)

志学:15歳を表わします。

而立(じりつ):30歳を表わします。

不惑:40歳を表わします。

知命:50歳を表わします。

耳順(じじゅん):60歳を表わします。

従心:70歳を表わします。

孔門十哲 :「四科十哲」とも言われ、門徒三千人と言われた孔子の弟子の中でも最も優れた10人の弟子を指します。

顔淵顔回): 徳行科。孔子が「顔回ほど学を好む者を聞いたことがない」(雍也第六、先進第十一)と述べ、子貢が「私は一を聞いて二を知る者、顔回は一を聞きて十を知る者」(公冶長第五)、と述べており、孔子から後継者として見なされていましたが、早世したため、孔子の落胆は激しく、「 ああ、天われをほろぼせり」(先進第十一)と慨嘆しています。

閔子騫 (びんしけん):徳行科。孔子からも孝行者であると賞賛されています(『論語』先進第十一)。閔子騫の子孫だと自称する驪興閔氏(れいこうびんし)から朝鮮王朝最後の王である高宗の妃が選ばれ、 閔妃明成皇后)となっています。

冉伯牛 (ぜんはくぎゅう):徳行科。ライ病にかかった冉伯牛を見舞った孔子は、窓からそっと伯牛の手を取って、「このような人物を失うのも運命なのか。よりによってこの人にこの病気とは。よりによってこの人にこの病気とは」と言って大いに嘆いたと言われます。下村湖人の『論語物語』中の「伯牛疾あり」はこの箇所を描いた作品です。

仲弓 (ちゅうきゅう):徳行科。その人格の高さから「南面すべし 」(君主は南を向いて座ることから、君主たる器量があるという意味)と孔子が称えました。

宰我 (さいが):言語科。弁論の達人で、孔門の中では最も実利主義的な人物で道徳を軽視したため、礼とともに道徳を重んじる孔子からよく叱責を受けていました。

子貢 (しこう):言語科。弁舌に優れ、衛や魯でその外交手腕を発揮し、たびたび「子貢は孔子を超えている」と言われたほどで、「 過ぎたるは猶ほ及ばざるがごとし 」という言葉も子貢と孔子との会話から生まれたものです。『史記』(司馬遷)によれば子貢は魯や斉の宰相を歴任したとされ、『墨子』『韓非子』『荘子』など、多くの戦国時代の書物に子貢が登場していることから、当時の人々にとって非常に有名な人物であったことが分かります。孔子死後の弟子達の実質的な取りまとめ役を担い、弟子達は孔子の墓の近くで3年間服喪しましたが、子貢はさらに3年間、合計6年間、喪に服したとされます。さらに『史記』「貨殖列伝」にその名を連ねるほど商才に恵まれており、後世、財界に大成のあった者に贈る言葉として、子貢の姓である端木(たんぼく)にちなんだ「 端木遺風」が使われるほどで、財神として尊崇されることもあったようです。

冉有 (ぜんゆう):政事科。孔子から政治の才能を認められ、大きな町や卿の家の長官として取り仕切ることができると評されています。

季路子路 ):政事科。孔子門下でも武勇を好み、軽率な所がある反面、質実剛健たる人物でありました。孔子は子路の軽率さをとがめつつも、その率直さを愛しており、「 我とともにするは、それ由なるか 」と述べています。衛の高官に取り立てられるも、衛に乱があったことを聞いた段階で孔子は「由(子路の名)は死ぬだろう」と述べており、死の直前、冠の紐を切られた子路は、「君子は冠を正しくして死ぬものだ」と言って結びなおしたと言います。子路の遺体は「醢(かい、ししびしお)」(死体を塩漬けにして、長期間、晒しものにする刑罰)にされますが、これを聞いた孔子は悲しみにより、家にあった全ての醢(食用の塩漬け肉)を捨てさせたとされます。弟子の中で『論語』に出てくる回数が最も多い人物です。

子游 (しゆう):文学科。文学(学問の才能)に優れ、呉の人で、孔門七十子の中では唯一南方の出身。後に帰郷して江南に儒学を広めたとされ、「 南方夫子」と呼ばれています。

子夏 (しか):文学科。六経や古典に長けており、魏での弟子が兵家呉起 で、さらに子夏の学統から性悪説荀子も出ています。

七十子 (しちじっし):孔子の門人のうち才能の突出した70余人の学生を言います。『史記』孔子世家には孔子に弟子が3000人いたとあり、そのうち「身の六芸に通じる者、七十有二人」、仲尼弟子列伝には「子曰く、業を受けて身の通ずる者は七十有七人、皆な異能の士なり」とあります。

孟子孔子の孫の子思の門人の下で学び、聖人とされる孔子に次ぐ「 亜聖」と称されます。孔子の仁の思想を発展させ、「仁は人の心なり、義は人の路なり 」として、仁義を特に重視しました。性善説良知良能四端・四徳説五倫の道浩然の気王道政治天人相関説易姓革命。「中国のプラトン 」的存在です。孟子が一生の間、行った遊説や論争、弟子達との問答、および語録の集成が『孟子』です。

性善説 :人間の本性を善とする考え。

良知良能: 人間に生まれながらに備わっている道徳的判断能力(良知)と行為能力(良能)。良知四端説へ、良能四徳説へと連結され、孟子心理学が体系化されますが、後に王陽明良知良心)説を引き継ぎ発展させ、心即理に基づく致良知の理論(陽明学)を完成させます。これらは後の カントの「実践理性」に通じます。

四端説四徳)の端緒となる心を四端としました。なお、四徳を加えて五常の道としたのは、五経博士を置くなどして儒教を官学化した前漢の董仲舒によります。 五倫の道と共に「五倫・五常」として、儒教の重要な徳目となりました。

惻隠の心:他人の苦しみや悲しみ、不幸を見過ごせない心。 (思いやり)の徳の芽生え。

羞悪の心:自分や他人の正しくない点(悪)を恥じて憎む心。 (正義の心)の徳の芽生え。

辞譲の心:自らへりくだり、他人に譲る心。互いに譲り合い、他人を尊重する心。 (礼儀作法)の徳の芽生え。

是非の心:善悪を見分ける心。(道徳的判断力)の徳の芽生え。

五倫の道 :人間関係において守るべき5つの道徳。孟子は、愛は人間関係に応じて示されるべきであると考え、墨子兼愛を親疎の区別をしない禽獣の愛だとして非難しました。

:父子間の親愛。親子関係は根本規範であり、父子関係を基にした父系集団を宗族 と言い、中国や韓国では強力な共同体を形成するに至りました。

:君臣間の道義・礼儀。劉備が孔明を「三顧の礼」で迎え、「 君臣水魚の交わり」を結んだことや、「士は己を知る者の為に死す 」といったことわざが思い出されます。

:夫婦間の男女の区別。

:長幼間の順序。

:朋友間の信義。春秋五覇の第一となった 斉の桓公を支え、孔明が「理想の政治家」とした管仲 (かんちゅう)が「我を生んだのは父母、我を知るは鮑叔」と呼んだ無二の親友鮑叔(ほうしゅく)との「 管鮑(かんぽう)の交わり 」が有名です。伝統的な中国の共同体では、知り合い(友人)→「関係クアンシー )」→「情誼チンイー)」→「ほうパン)」「幇会パンフェ)」という結合の強さの段階があり、関係 (クアンシー)は日本の恩や義理に似ており、「管鮑の交わり」は情誼 (チンイー)の理想とされ、劉備・関羽・張飛による「桃園の誓い」などは (パン)のレベルとされます。

浩然の気 :仁義に代表される徳目は人間の内部に根源的に備わっているものとし、四徳を身につける中で養われる(「浩然の気を養う 」)強い精神力。天地に満ちている、大らかで力強い気のことでもあります。

大丈夫 (だいじょうぶ):浩然の気を備え、四徳を実践する理想的人物。

王道政治仁義に基づく理想的な政治、善政主義。⇔武力に基づく 覇道政治

天人相関説 :自然現象と君主の政治には関係があり、悪政が行われると地震、日食、洪水などが起こるとする考え方。

易姓革命天命を受けた者が天子 となりますが、仁政を施す者のみが君主であり、無道な悪政を行う者に対しては天命が革(あらた)まり、王朝が交替します( 易姓 =王姓がかわる)。このため、天皇の万世一系思想を持つ日本はこれを恐れ、「『孟子』を乗せた船は日本に着く前に沈没する」とまで言われていました。幕末の志士吉田松陰も『孟子』を愛読しており、『孟子』を講義して 『講孟箚記(こうもうさっき)を著しています。

湯武放伐 (とうぶほうばつ):夏王朝の最後の桀王 (けつおう)は暴虐無道の悪王で、殷王朝を創始した湯王に放伐され、殷王朝の最後の紂王 (ちゅうおう)も酒池肉林にふけった悪王で、周王朝を創始した武王に放伐されました。これに対して、武王を諌めた 伯夷叔斉 の例(二人は周の天下で生きることを恥じ、首陽山にこもってわらびを摂ってしのいでいましたが、やがて餓死しました)があるように「悪王といえども家臣が王を放伐して良いのか」という倫理的問題があったのですが、 孟子 は「仁を失った者は賊であり、義を失った者は残であり、仁義を失った者は君主である資格がなく、残賊、つまり、ただの男である。ただの男の紂を殺したとは言えても、君主である王を殺したとは言えない」として、これを正当化しました。これは西洋では、千三百年後のイギリスで、国王を追放して新たな王を国外から迎えた 名誉革命を正当化したロックの「抵抗権・革命権 」に通じる考え方ですが、東西を問わず、「悪王」と「義」(君臣の徳)の対立が難問であったことがうかがえます。儒家の伝統では、古代の聖天子 が有徳の賢人に「禅譲 」したことを理想としてきましたが、禅譲しようとしない悪王の場合は打つ手がなく、結局、湯武放伐論によってこれを討ちながら、形式的には禅譲という建前を取ってきたのです。あるいは、東洋における「帝王学」の教科書として著名な『貞観政要』に出てくる名君、唐の第二代 太宗李世民 ですら、玄武門の変で皇太子である兄李建成と弟李元吉を殺害して即位していますが、「悪王」と言わないまでも、より有能な王位候補者が他にいた場合の問題は深刻でした。これに対する1つの答えが、朝鮮王朝第4代王となるはずだった 譲寧大君 のケースです。譲寧大君は自分よりも三男の忠寧大君の方が王にふさわしいと考え、わざと酒色にふけって、世子(王太子)の資格を父王が剥奪するように仕向け、 忠寧大君が第4代世宗大王となり、朝鮮王朝史上最大の名君となる道を開いたとされます。

五十歩百歩 」(『孟子』):戦場で五十歩逃げた人が百歩逃げた人を臆病だと笑うこと、本質的には同じであること。梁の恵王の「隣国よりも善政を行っているのに国民が増加しないのはなぜか」という問いに、この例えを出し、どちらも善政とは程遠いことには変わりないとしました。

恒産なければ恒心なし。」(『孟子』):安定した生業(恒産 )を保障していれば、民心は安定し(恒心)、行いは自ずから善に向かうという考え。民衆を尊ぶ善政主義王道政治を説くものです。孔子の生まれる百年前の大政治家管仲の「倉稟(そうりん、米などの穀物を蓄えておく倉) 満ちて礼節を知り、衣食足りて栄辱を知る」(『管子』)に通じます。

孟母三遷 :子供の教育には良い環境が大切だということ。孟子は母の手一つで育てられました。最初、墓の近くに住んでいましたが、息子が葬式の真似ばかりするので、市場の近くに引っ越したところ、今度は商人の真似ばかりして遊んでいます。そこで、学校の近くに引っ越すと、息子は礼儀の真似事をして遊ぶようになったと言います。

孟母断機 :物事を途中でやめてしまったり、諦めてしまってはいけないという戒め。学業の途中で帰って来た孟子に、孟子の母は機(はた)で織りかけていた糸を断ち切って、学問を途中でやめることはこのようなものだと戒めました。

荀子 :斉王の優遇策で学者が集まり、「百家争鳴」の中心となった「稷下(しょくか)の学士」の祭酒(学長)で、諸子百家の説を批判的に吸収して古代思想を集大成しました。「 中国のアリストテレス」的存在です。性悪説 に立ち、人間の本性は欲望に傾きやすく、悪に陥ってしまうので、 による後天的な矯正によって、人間の行動を規制していく必要があると考え、礼の実践によって人民を治める礼治主義 を唱えました。天性という点では聖人も凡人も変わらないという「聖凡一如 」という立場から、凡人でも努力によって聖人になれるとして、後天的努力を評価しました。

礼治主義 :社会規範としての礼によって人々の行為を規制する立場。

出藍(しゅつらん)の誉(ほま)」「 青は藍より出でて藍よりも青し。」(『荀子』):弟子が努力を続けて学問に励み、その結果、師よりも優れること。

韓非子 (かんぴし):荀子の弟子。礼治主義から法治主義へと進んで法家思想を完成させ、それを採用した秦王政は辺境の地にあった秦を戦国七雄(西方の大国、北方の大国、東方の大国、南方の大国、周王朝由来の中原のから分かれた)の最強国にして中国統一を成し遂げ、始皇帝 となりました。この中国統一はEUに先立つこと二千二百年の超国家中央集権帝国実現の大事業であったと言えます。始皇帝は儒家思想に対して否定的で、 焚書坑儒で思想統制を行いました。

陽儒陰法 :孟子以降の儒家思想(儒教)は前漢時代に国教 となりましたが、実際には理想主義的儒家思想(儒教)によって中央集権帝国を統治することは難しく、現実主義的法家思想( 法教)に依らざるを得ませんでした。これを「陽儒陰法 」と言い、中華帝国2000年の基本統治原則となりました。例えば、前漢の武帝時代に財政政策として採用された、 塩・鉄・酒の専売と国家が商業経営に乗り出した均輸・平準の法 をめぐって、官吏候補生である賢良・文学60余人と御史大夫(副首相)桑弘羊 (そうこうよう)が白熱した議論を展開していますが(『塩鉄論』)、儒家思想 に立つ賢良・文学は道徳、仁義を説き、国家は利益を目的とする事業に手を染めてはならないとする原則論に立って、これらの制度の廃止を主張したのに対し、 法家思想 に立つ桑弘羊はこれらの制度は国家財政の安定に寄与しており、人民の生活安定にも貢献しているとして、その存続を主張して譲りませんでした。結局、酒の専売制が廃止されただけで、その他は継続されています。また、前漢の「中興の治」と言われた宣帝においても、「漢の統治法は表向き儒教だが、本当は 法家思想 によって治めていたのだ」と述べて、儒教に傾倒する皇太子(後の元帝)を戒めています。そして、儒家思想そのものの「聖諭六言(せいゆりくごん)」を作って津々浦々に普及させるなど、表向きは儒教を掲げた明の太祖朱元璋洪武帝)も、世界最高レベルの体系的な大法典である大明律令に代表される法体系を完備し、官僚システムを能率化して統治組織を精巧にして法教皇帝と言われるほど法家思想による統治を完成させており、フランスを代表する啓蒙思想家 ヴォルテールも宋代に完成した科挙制 に基づくこの統治モデルを羨望し、理想的な官僚制度であるとするほどでした。現代においても、林彪(りんぴょう)の 毛沢東批判において、「彼は真のマルクス・レーニン主義者ではなく、孔孟の道 を行い、マルクス・レーニン主義の皮を借りて、秦の始皇帝の法を実施する中国歴史上最大の封建的暴君である」としています。

三教一致合一):魏晋南北朝時代から、中国知識人は公的には政治的男性原理に立つ儒教世界(善政志向、詩も志を述べるもの)に生き、私的には生活的女性原理に立つ道教世界(養生法、不老長寿法、民間信仰)に生き、哲学的には仏教的真理を学ぶことが伝統的に行われており、三教一致合一)が成立していました。これは東洋のエキュメニカル運動と言え、西洋のエキュメニカル運動が挫折していることと対照的です。こうした伝統の中で、仏教の「」や神通力が老荘思想の「」の思想や道家思想の呪術信仰を土台として受容され、仏教の組織的体系の影響で宗教としての道教が確立され、荘子思想の強い影響で禅宗が興り、道家思想の呪術信仰の影響で念仏による浄土教が興りました。また、儒教でも禅宗の影響で宋学が興り、儒教・仏教・道教を総合した新儒学ネオ・コンフューシャニズム)が誕生しています。

西洋宗教・思想の位置づけ人間原理キリスト教 )、家庭・社会原理ユダヤ教イスラーム教)、 自然・世界原理ギリシア哲学近代科学

東洋宗教・思想の位置づけ人間原理仏教)、家庭・社会原理儒教)、自然・世界原理道教

朱子朱熹(しゅき)。理気二元論性即理 の立場に立ち、儒教・仏教・道教を総合して「理学」と呼ばれる宋学 を大成し、壮大な体系である朱子学を確立し、新興地主層(形勢戸 )から科挙を経て官僚となった士大夫 の指導理念になると共に、東アジア全体に影響を与えました。朝鮮王朝では国教化し、江戸幕府の統治イデオロギーともなりました。『四書集注(ししょしちゅう)』『資治通鑑綱目(しじつがんこうもく)』『近思録』『宋名臣言行録』。私欲によってその発露が妨げられているので、心を慎み、事物の理を究める 居敬窮理によって「」を発揮しなければならないと考えました。

性即理 :「」「天理」とは万物の根源であるだけでなく、人間の心の中にも「本性」として備わるものであるという考え。『中庸』が「天人一理」の典拠とされ、ここから「性即理」の思想が導出されました。ストア派自然法思想(宇宙の理法=人間の 理性)とも通じます。

居敬窮理 :自己の欲望を抑え、理を窮めるという朱子学の修養法。感情や欲望に動かされることを慎むこと(居敬 )、客観的な法則としての理を窮めること(窮理)。居敬窮理によって、人が本来の知に至ることを 格物致知と言います。

八条目『大学』に示された修己治人のための実践原理。「近代中国の父」と呼ばれる 孫文も、この八条目を世界に誇るべき政治哲学の宝として、新しい中国の政治の根本とすべきだと述べています。

格物:事物の理を窮める。朱子は「事物に格(いた)る」と読み、王陽明は「行為を格(ただ)す」と考えました。

致知:知識を極限まで広げる。朱子は「知を窮(きわ)める」ととらえ、王陽明は「良知を実践する」ととらえました。この「 格物致知」の解釈が朱子学陽明学 の最大の分岐点とされます。朱子は「物に即(つ)きてその理を窮め、その知を尽くす」と解釈し、陽明は「我が心の良知を事物の上に顕現させる」と説明しました。朱子の「格物致知」はカントの「純粋理性」、陽明の「格物致知」は カントの「実践理性」に通じる考え方だと言えるでしょう。

誠意:意を誠にする。自己欺瞞を無くすこと。朱子は初学者に最も大切であるとしました。

正心:心を正す。

修身:身を修めて善を行う。

斉家:家庭を整える。

治国:国を治める。

平天下:天下を平らかにする。

『四書集注 (ししょしっちゅう)四書 に対する宋代の学者達の注釈をふまえつつ,自己の世界観に基づいて新たな解釈を加えており、朱子学の言わばバイブルとして尊重され、最も広く読まれました。

『資治通鑑綱目 (しじつがんこうもく):理想的な中国史ダイジェストにして帝王学の書とされてきた、北宋の司馬光による『資治通鑑』を元に、重要事項を綱、付随細目を目として編纂した歴史書。「大義名分論」などの儒教道徳の標準を示す根本教科書として東アジアに普及し、 『神皇正統記』『大日本史』の成立にも影響を及ぼしました。

『近思録』 :北宋の哲学者である周濂渓(しゅうれんけい)、張横渠(ちょうおうきょ)、程明道(ていめいどう)、程伊川(ていいせん)の著作から編纂した 宋学の入門書。朱子は「四書は六経の足がかり、近思録は四書の足がかり」と述べています。

『宋名臣言行録』 :「宋代の士風」を形成した名臣達の逸話集。『貞観政要』 と並んで、為政者の必読文献として親しまれてきました。

周濂渓 (しゅうれんけい):周敦頤(しゅうとんい)、北宋の五子。朱熹が高く評価した程明道程伊川兄弟が少年時代に周敦頤に師事していたとされ、朱熹が展開した 道統論 において孔子・孟子の延長上に周敦頤を置き、孟子以後1400年の間、埋もれていた道統を継承して聖人の学を再び明らかにしたものが周濂渓であると位置づけられたことから、儒学史において重要な地位を与えられました。 『太極図説』『通書』。「太極 」が森羅万象の根源であり、陰陽と五行の錯綜によって万物が生成されていくとし、この「太極」を『中庸』で示される「 」と結びつけ、人の根本に「誠」がある状態とは人の根本に「太極」がある状態であるとしました。そして、万人が学問を通じて聖人に近づけるという見解は、従来の貴族に代わって宋代より新たに勃興する 士大夫の意向にかなうものでした。

張横渠 (ちょうおうきょ):張載(ちょうさい)、北宋の五子 。地方官を歴任した後、中央に上がりますが、王安石の新法に反対して帰郷し、読書と思索に没頭し、「 気の哲学 」(唯物論)を創始したことで知られます。「天地のために心を立て、生民のために道を立て、去聖のために絶学を継ぎ、万世のために太平を開く」と述べる豪傑で、兵法・仏教・老荘なども経ていますが、甥に当たる 程明道程伊川 兄弟から易論を聞いて感服し、門人達を二程氏に師事させています。無形である太虚と有形である気を一物両体、太虚即気という緊密な関係にあるとし、気一元の哲学を樹立して、明代の王陽明や明末清初の 王夫之、日本の大塩平八郎には大きな影響を与えました。

程明道 (ていめいどう):程顥(ていこう)、北宋の五子。中央では新法の王安石と意見が合わず、地方官を歴任しますが、周の文王の「民を視ること傷むが如し」を座右の銘とし、 によって民を感化することを政治の要訣と考え、その温厚な人柄によって多くの人に慕われ、あわせて実務処理の優れた才能を発揮して善政を行ったため、「 通儒全才」と称されました。多様な自然現象を秩序づけている法則を「 」と呼び、この理を直観によって把握すべきであるとし、心においても他人の苦しみを感じないことを「不仁 」、感じ得ることを「」と考え、天地万物を我が事のように一体と認識するような仁を体得するためには「 誠敬」の心を持たなければならないとしました。弟の程伊川 が兄の発想を分析・理論化したのに対し、程の直観を重視する傾向は陸象山に受け継がれ、朱子学陽明学双方の源流となります。ちなみに程明道の学風は「 春風和気」と言われるのに対し、程伊川の学風は「秋霜烈日」とされます。

程伊川 (ていいせん):程頤(ていい)、北宋の五子 。程伊川の学問は兄・程明道の直覚的な学風とは対照的で従来のように陰陽の二気を即宇宙の原理「 」とするのではなく、「道」は陰陽の根拠・原理であると同時に陰陽二気の働きによって創り出された現象世界に内在し、それぞれの事物の「」となっているとして、これを「理一分殊」と呼びました。「 」を質料とするのは他の学者と同じですが、「気」の存在や運動の因となるもの、形相としての「理」の存在を認め、一物の理は宇宙全体の理と同一であると考えることによって、道徳の淵源である「道」の尊厳を保ち、人の「 」をも「理」であると考えました。そして、「理」を絶対善・精神性、「気」を相対性・物質性としてとらえ、物質的なものの中に潜む理を窮めることにより人の「性」は本来の善を取り戻すことができるとし、 『大学』の「格物」を「物の理を窮める 」ことと理解したのです。こうした程伊川の「理気二元論」「性即理」「格物」などの発想は朱子に継がれました。程明道を宋学のプラトンとすれば、程伊川は 宋学のアリストテレスと言ってもいいかもしれませんが、程伊川にはストア派 的な要素も見られます。

邵康節 (しょうこうせつ):邵雍(しょうよう)、北宋の五子 。『易経』の河図洛書と先天象数の学を伝授され、易学について思索を深め、洛陽で儒学を教えます。司馬光程氏兄弟程明道程伊川)・ 張載などの政学界の大物を知己とし、ものにこだわらない豪放洒脱な人柄から「風流の人豪 」とも言われ、洛陽の老若男女に慈父のように慕われました。「易の名人 」として知られ、自然の中の現象から数を採って易卦を立てる「梅花心易」を創始し、晩年に天津橋上でホトトギスの声を聞き、 王安石 の出現と政界の混乱を予言したとされます。占機が動いた時(その件に関して占おうと思い立った時)の年・月・日・時刻から数を採り、 周易の八卦(小成卦)・六十四卦(大成卦)に置き換えて占断する先天法 や、ケースに応じて、目に触れた物・耳から聞こえてきた物・心で感じた物等から数を採り、八卦に置き換えて占断する三要応法 などがあります。

名人と達人の違い :邵庚節と息子が山中に隠棲していた頃、ある夜、家の戸の前で「今晩は」と声を掛ける人がいて、続いてドンドンドンドンドンと五回ほど戸を叩く音がしました。隣の農家の主人が何か物を借りにきたのですが、邵庚節は息子に梅花心易の三要応法を使って、隣家の主人が借りに来た物を占わせました。すると、息子はまず「今晩は」と一声掛けたので、これを採って一の数の卦「乾(けん)」を第一の卦とし、次にドンドンと五回ほど戸を叩いたので、五の数の卦「巽(そん)」を第二の卦としました。それで、第二の卦の「巽」を下にし、第一の卦の「乾」を上にすると「巽下乾上」となり、これで周易の「天風后(てんぷうこう)」という六十四卦が本卦となります。次に変爻があり、酉の刻でしたので十とし、先ほどの一+五に更に十を足して十六とします。この十六を「六払い」すると四が残るので四爻変となり、「天風后」の四爻変は「巽下巽上」で、「巽為風(そんいふう)」の之卦となります。そして、互卦は「乾為天(けんいてん)」となります。以上から判断すると、六つの小成卦の中に乾金の卦が三つ、巽木の卦も三つあり、易の象意では、乾は「剛金」、巽は「長い木」という事になります。そこで息子は「判りました。長い木に短い金属が付いている。これは鋤(すき)です」と占断したのです。すると、邵庚節はからからと笑って言いました。「違う。それは斧(おの)だ。お前の卦の立て方は間違いないし、判断もまずまずだ。しかし、夜だというのに畑仕事用の鋤を急に借りに来る人がいようか。これは、今夜は特に寒さが厳しいのに炉にくべる薪が足りなくなり、薪を割ろうとして斧が壊れたのだ」。そこで隣の主人を招き入れると、果たして斧を借りに来ていたのです。息子の邵伯雲も後に達人の境地に達した人ですが、名人と達人の違いが「 斧と鋤と違い」というわけです。

陸象山陸九淵。心を分析してその中に性・情や天理・人欲を弁別することを良しとせず、心そのものが「理」であると肯定し、「心即理」を基本原理とする心学を創始します。これは程明道の「善悪みな天理」「万物一体の仁」という考えを展開したもので、「 六経、みなわが心の注釈なり 」と述べて、権威ある六経よりも自らの心を上位に置き、六経や孔子・孟子に先験的な価値を置かない姿勢を打ち出しました。

王陽明宋学朱子学と共に新儒学に位置づけられ、「 心学」「陸王学」とされる明学陽明学 を確立しました。朱子学が世界を導く規範である「」を事物の内に求める傾向にあると批判し、朱子の論敵であった宋の 陸象山心即理の立場に立ち、外界の事物に「 」を追い求めるべきではなく、心の中の「」のままに生きる(致良知 )であるべきとしました。これは孟子良知良能説を引き継ぐものでもあります。 『伝習録』

良知 :人間の心の中に生まれながらに存在する「」、良心

心即理 :「」とは天地万物に内在する客観的なものではなく、心の働きがそのまま「 」であるとする考え。自己の心が事物や行為に即して理を生み出すことが本当の知になると考えました。

致良知 :心の中の「」のままに生きること、良心に従って生きること。

知行合一 (ちこうごういつ):知ることは行いの始めであり、行いにより知ることが完成するとしました。したがって、陽明学は行動主義的で、かつ不合理的な現実に対して否定的になるので、江戸時代の日本では体制維持のイデオロギーとして採用された朱子学に対して、在野の学にして倒幕のイデオロギーの1つとなりました。

事上磨錬 :行動や実践を通じて、知識や精神を磨き上げること。

山中の賊を破るは易く、心中の賊を破るは難し。」(「与楊仕徳薛尚誠書」)

陽明学 :王陽明後には、修養を重んじ、朱子学と折衷的な陽明学右派(漸進的な漸悟禅北宗禅 と通じます)と、現状肯定的な陽明学左派(瞬時に悟れるとする頓悟禅南宗禅 と通じます)に分かれ、左派から李卓吾 が出ました。李卓吾は福建省の泉州出身で、その先祖は儒教・仏教・道教から天主教(カトリック)・イスラーム教徒に至るまで多彩であり、自らも儒仏道の三教に通じる求道精神の持ち主で、南京でイエズス会のマテオ・リッチと会見しています。妥協のない思想を展開した『焚書』は禁書となり、獄死しますが、日本の陽明学者吉田松陰高杉晋作に送った手紙でこの『焚書』を激賞したことは有名です。また、「童心 」(真心)を理想として、男女平等の論を展開するなど、時代に先んじた思想は近代中国で高く評価されるようになりました。


道教

老子 :万物の根源である「」(タオ)の働きに従う 無為自然の生き方を説き、儒家が「 」を人為的・作為的な道徳や秩序として捉えたことを批判しました。『老子道徳経。荘子と併せて「老荘思想」と呼ばれ、道家思想の淵源となり、その「無」の思想は仏教の「空」思想との接点になりました。 道教タオイズム)では神格化されて「太上老君 」と呼ばれ、唐朝(李氏)でも老子(李耳)は同姓とされて尊重されました。

無為自然 :儒家の礼や仁を人為的なものとして批判し、それらが不要な社会こそ理想であると説きました。古典派経済学の「 自由放任レッセ・フェール )」とも通じる考え方です。無為の政治は秦末の混乱を経た前漢初期の政治で採用され、安定と繁栄の基を築き、第7代武帝はこれを土台に積極政策に転じました。 無為の政治法家思想 と組んで君主独裁制の確立に寄与したとされます。また、力の濫用を避け、戦わずして勝つことを眼目とするその軍事論は、 『孫子』兵法との関連性が指摘されています。

古典派経済学:「自由放任レッセ・フェール )」を中心教義とするので、老荘思想道教の「 無為自然」に対応します。

ケインズ経済学:適切な経済政策により失業を無くそうとするのもで、儒教の「 善政主義」に対応します。

社会主義:計画経済・統制経済を指向するので、法家思想に対応すると言えるでしょう。

小国寡民 (しょうこくかみん):老子は、小さな共同体の中で、何ものにも拘束されることなく、質素に生きるべきだと説きました。老子の説く理想世界は村落共同体のような世界だと言えます。

柔弱謙下 (じゅうじゃくけんげ):水のように柔和で謙虚な生き方。「柔よく剛を制する」。

和光同塵 (わこうどうじん):知恵(光)を和らげ、隠して、俗世間(塵)に交わること。楚の屈原 が才能を嫉まれて放逐されたのを、漁師(隠者)が「酒に酔い、泥に塗(まみ)れなさい」と諭したことが有名です。

大道廃れて仁義あり、智慧出でて大偽あり 。」(『老子』):無為自然の道が廃れたために儒家の仁義が強調され、知恵者が現れたため、偽りも行われるようになったとしています。この後に「六親(りくしん)和せずして孝慈あり、国家昏乱(こんらん) して忠臣あり」と続きます。

上善は水のごとし。」(『老子』):万物に恵みを与えながら、そのことを誇らない水を理想としました。

大器晩成 」(『老子』):鐘や鼎(かなえ、三本足の青銅祭器)など大きな器物はなかなか簡単に出来上がらないことから、大人物は晩年に大成するということ。

荘子 :全てのものが等しい存在であるとする万物斉同 (ばんぶつせいどう)の立場に立ち、善悪や生死などの相対的な区別を超えるべきだと説きました。『荘子(そうじ)

万物斉同 :対立や差別は人為的・相対的なものにすぎず(相対主義 的な立場)、ありのままの世界は差別や対立がなく、全てが斉(ひと)しい価値を持つという考え。「胡蝶の夢」「 朝三暮四」「無用の用」など、多くのたとえで語られています。

胡蝶の夢 」:荘周(荘子)が夢を見て蝶になり、蝶として大いに楽しんだところ、夢が覚めました。果たして荘周が夢を見て蝶になったのか、あるいは蝶が夢を見て荘周になっていたのか、分からなかったというのです。

朝三暮四 」:朝にトチの実を3つ、夕方にトチの実を4つやろうと猿達に持ちかけると、怒り出したので、今度は朝に4つに夕方に3つやろうと言うと、猿はみんな頭を下げて喜んだという故事から、実質上は何らの差異もないのに、一方については喜び、他方については怒るのは自分の是とするところに縛られているからだという例です。

無用の用 」:一見無用とされているものが、実は大切な役割を果たしていること。不用の用。『老子』にも出てきます。例えば、西洋の油絵からすれば単なる塗り残しに見える水墨画の白い部分や、床の間なども当てはまります。

逍遥遊 (しょうようゆう):人為的な価値観から解放され、ありのままの自然と一体となる自由な境地。天地万物の根源である道を自ら体現し、道と一体となって絶対自由の境地に遊ぶ境地。

真人至人):天地自然と一体となって生きていく存在。人為的な対立・差別に囚われず、自然と一体となり、自由な境地に遊ぶ( 逍遥遊)理想的人間。

心斎坐忘 :真人に至るための修養法。心を斎(ととの)え、坐して我を忘れること。

『列子』『老子』『荘子』と並ぶ道家の書で、「杞憂 (きゆう)」「愚公、山を移す」など、古代寓話の宝庫です。

杞憂 」:中国古代の杞の人が、天が崩れ落ちてきはしないかと心配したという故事から、心配する必要のないことをあれこれ心配すること。取り越し苦労。

愚公、山を移す愚公移山 )」:どんなに困難なことでも努力を続ければ、やがては成就するというたとえ。毛沢東 が演説の中で引用したため、有名になりました。

竹林の七賢 :魏から西晋にかけての3世紀頃、老荘思想の影響を受け、儒教倫理の束縛から離れた自由な議論(清談 )を展開した阮籍ら7人。

道家思想老荘思想養生法漢方医学不老長生法神仙道)、民間信仰 (御札、おまじないなどの符呪)の3要素からなり、仏教の受け皿になると共に、仏教の影響によって整備が進み、宗教としての 道教が確立しました。

漢方医学 :西洋医学的な対症療法ではなく、「医食同源」「未病 」などの思想を持ち、生命力・自然治癒力を目指す中国医学・東洋医学。狭義では漢方薬を投与する医学体系を指し、広義では経穴などを鍼や灸で刺激する物理療法(鍼灸医学)を含めた伝統医学を指します。 陰陽五行説に基づく医学理論及び鍼灸術を詳述した最古の医経『黄帝内経(こうていだいけい) 』素問(医学理論)・霊枢(鍼灸術)、「医中の亜聖 」「衆方の祖」と呼ばれた張仲景『傷寒論』 (傷寒=腸チフス及びその類の急性熱病)の二書が中国古代医学書の双璧です。さらに中国最古の薬物書『神農本草経 (しんのうほんぞうきょう)と併せて三大古典とされます。伝説的な名医としては、「漢方医で脈診を論ずる者は全て扁鵲(へんじゃく)の流れを汲む」とも言われ、『韓非子』『史記』その他に様々な逸話を残している扁鵲 、「麻沸散」(麻酔薬)を使って腹部切開手術を行い、「神医」と呼ばれ、「五禽戯 」と呼ばれる体操健康法(導引)の発明者とも言われている曹操の侍医華佗(かだ)、 『鍼灸甲乙経』を編纂した皇甫謐(こうほひつ)らがいます。

神仙思想劉向(りゅうきょう、前漢代)の『列仙伝』葛洪 (かっこう、西晋・東晋代)の『神仙伝』『抱朴子(ほうぼくし) などによって、漢民族の祖黄帝(「五帝」の第一)も道教の祖 老子仙人とされました。また、秦の始皇帝 も不老長生の霊薬を求め、徐福に童男童女三千人を率いて蓬莱山 も求めさせたことは有名ですが、日本全国に徐福伝説があり、『竹取物語』にも蓬莱山が出てきます。さらに干宝 (かんぽう、東晋代)の『捜神記(そうじんき)などの志怪小説張鷟(ちょうさく、唐代)の『遊仙窟』李復言(りふくげん、唐代)の『杜子春』などの伝奇小説が誕生し、瞿佑(くゆう、明代)の 『剪燈新話(せんとうしんわ)蒲松齢 (ほしょうれい、清代)の『聊齋志異(りょうさいしい)紀昀(ききん、清代)の『閲微草堂筆記(えつびそうどうひっき) などに結実していきました。


法家思想・諸子百家

管仲 :法家思想の淵源。経済を重視して民生を安定させ、人民の道徳意識を高めて教化するなど、利と徳を原則とする政治を行って、 信賞必罰の原則を確立し、斉の富国強兵を推進しました。

商鞅 :秦で変法 を断行し、身分などに左右されない信賞必罰の原則を徹底して秦を強国にしますが、ここでヨーロッパでも中世まで見られない「立法」行為が行われていることが注目されます。これは時代の変化や現実の必要に応じて法律を作ることで、倫理規範はといった古代の聖王が作ったもの(先王の道)で新たに作り出すものではないとした儒家思想や、自然の理法を発見しようとするストア派の「 自然法思想 」とは対照的です。ちなみに、1970年代前半、文化大革命の末期に中国で展開された、林彪と孔子を批判する運動「 批林批孔運動」では、法家系統の政治家の第一人者として商鞅の思想と行動を高く評価していました。

申不害 :老荘思想に基づいて刑名の学を唱え、「」の運用の仕方である「 」を説いて、韓の宰相として国力の強化に努めました。

刑名の学 :行動の形(実質)である「」と行動の評価である「 」の一致を厳しく求めた一種の法律学

韓非子法家荀子の「性悪説」と 老子の「無為 」を学んだ上で、儒家の仁愛という考え方、徳治主義を無力であると批判し、「商君の変法 」と呼ばれる政治改革を行って秦の富国強兵、中央集権化に成功した商鞅(しょうおう)の「」(人民を制御する法律を作ること)と申不害の「」(法律を施行するために行政官僚を駆使する統治技術)を総合して、法と刑罰による信賞必罰の仕組み(法術)でなければ社会秩序の維持や国家の統治はできないとする法治主義を説き、 法家思想を大成しました。『韓非子』 。西洋において、宗教と政治を分離して政治を科学的に研究し、『君主論』を著して 近代政治学の祖となり、マキャヴェリズム権謀術数 )の語源となったマキャヴェリとよく比較されますが、韓非子の方が千七百年も先立っています。

逆鱗(げきりん)に触れる 」(『韓非子』):龍のあごの下に逆さに生えた鱗(うろこ)に触れると、龍が怒ってその人を殺すという故事から、主君を諌めてその怒りを受けること(逆鱗に触れぬよう、主君を説得すべきだということです)。

守株 」(『韓非子』):旧来の方法に固執して、新しい状況に対応できないこと。韓非子は古代の聖人の方法に固執する儒家の愚かさを批判しました。

矛盾 」(『韓非子』):矛と盾を売る商人の食い違った説明から、前後のつじつまが合わないこと。儒家が理想とする聖人堯が天子の時、臣下である舜が奔走して世の乱れを直し、堯が舜に禅譲した故事について、「堯が聖人ならばなぜ天下が乱れたのか。また、天下が乱れなければ舜の活躍はないから、両立しない」と、儒家を批判しました。

法家思想欧米法民法中心で、人権思想を根底に持ち、絶対性一義性抽象性を特徴とする近代的所有概念を中心とする近代民法が誕生しますが、 中国法刑法中心で、しかも法家思想 の伝統を受け継ぐ統治術であって、人権思想を根底に持ち、罪刑法定主義を中心とする近代刑法には至っていないとされます。また、中国においては、ユダヤ教イスラーム教のごとく、世俗法即宗教法(俗人と聖者との媒体はいないため、イスラーム教の法律家(ウラマー )のごとく、僧の機能代替者として法律の最終的解釈を行うのが(行政官僚)です。したがって、日本の官僚による 行政指導なども近代法に基づくものではなく、法術の発想とされます。

墨子墨家 の祖。人類の行動を監視し、賞罰禍福を与える天帝、鬼神の存在を信じ、天志を奉じた一種の宗教的階級政治を理想としました。近親さを重視する儒家の説く仁を肉親の愛情に偏った差別的な愛(別愛)として批判し、無差別・平等の愛(兼愛)を説いていることは、キリスト教的な 神の愛アガペー )を思わせます。また、他者を自己と同じように愛し、利益をもたらし合うこと(交利)を説きますが、これも「 自分を愛するように、あなたの隣人を愛しなさい」というキリスト教の隣人愛 を思わせます。さらに、門弟300人を引き連れて大国の侵略阻止に動くなど、行動的平和主義に立つ非攻 説を説くと共に、儒家の礼は形式的で、儀式を行うために多くの出費を必要とすることを批判し、倹約(節用 )を説きました。貴族の腐敗政治や世襲制に対する批判、儒家の礼楽尊重や非行動性に対する批判が社会の下層から支持されて、急速に信奉者を増やしたことは、バラモン教仏教、あるいいはヒンドゥー教イスラーム教 との関係を思わせます。一時は儒家と二大勢力を形成するほどでしたが、漢代に儒教が国教として確立されると、思想界から消失します。

孫子兵家。呉王闔閭(こうりょ)・夫差(ふさ)と2代にわたって補佐し、 小国呉をもって大国・楚(そ)を撃破し、春秋の覇者に導いた呉国の将軍孫武で、戦術・兵法を説きました。『孫子』 は老子思想の影響を受けた兵法書とされますが、孫武は「軍律を正す」ことを重視しており、これはヨーロッパでは クロムウェル以降に確立された思想で、法律重視の法家思想 にも通じると言えます。また、孫武の子孫で約150年後に斉の将軍となった孫臏(そんぴん)も優れた戦略家で、「 二人の孫子」と呼ばれましたが、『孫臏兵法』 が発見されたことで、『孫子』の著者は孫武であることが確定しました。「戦わずして勝つ」「弱をもって強に勝つ」を理想とする考え方は『孫子』にも『孫臏兵法』にも共通しています。

彼を知り、己(おのれ)を知れば百戦殆(あや) うからず」:毛沢東『矛盾論』 『中国革命戦争の戦略問題』『持久戦論』で引用しており、孫子を重視していたことが分かります。この後に、「 彼を知らずして己を知れば一勝一負す。彼を知らず己を知らざれば、戦うごとに必ず殆うし」と続きます。

その疾(はや)きことは風のごとく、その徐(しず) かなることは林のごとく、侵掠することは火のごとく、動かざることは山のごとし 」:1つの状態に固定することなく、静と動、正と奇という具合に変幻自在、状況に応じた変化の必要性を言います。有名な武田信玄の旗印「 風林火山」はこの言葉に由来します。

呉起兵家。孔子の晩年の弟子曾子 に学んでいますが、次第に法治主義によって富国強兵を図ろうとする法家思想による政治の実践に乗り出し、その著書『呉子』法家思想の流れを汲むとされる兵法書です。ちなみに曾子の弟子が孔子の孫である子思 であり、その門人に学んだのが孟子でした。やがて、魏の将軍を経て楚の宰相となり、刑罰に身分差があった ハンムラビ法典のごとく、「刑は士大夫にのぼらず 」という伝統があった時代に、貴族にも平民にも同じ法律を適用し、信賞必罰 の原則を徹底して中央集権化を強行し、楚の強大化に貢献します。

兵法学 :単なる戦争技術ではなく、人間の本性に対する鋭い洞察に基づいて、勝負に関する行動の原則を探り出す学問であり、伝統的に 帝王学の1つとされてきて、春秋戦国の諸子百家の時代には兵家思想 として現れました。周王朝建国の功臣にして斉の地に封ぜられた太公望呂尚(りょしょう)の『六韜(りくとう)、春秋時代斉の大司馬(だいしば、将軍)田穣苴(でんじょうしょ)の『司馬法』孫武『孫子』呉起『呉子』、秦の始皇帝に仕えた尉繚(うつりょう)の『尉繚子』、漢の高祖劉邦に仕えた軍師 張良『三略』、唐の太宗李世民に仕えた名将李衛 (李靖)の『李衛公問対(りえいこうもんたい)を特に「 武経七書兵法七書)」と言います。

虎の巻 」(『六韜』):六編の1つである虎韜(「韜」は「秘訣」)のこと。門外不出の秘伝が書かれている書、転じて、教科書などに対する解説書のことも指すようになりました。

柔よく剛を制す」(『三略』):老荘思想に基づくとされ、柔術柔道の理念ともなりました。

鄒衍 (すうえん):陰陽家。自然現象を、対立しつつ補完し合う陰陽と、全ての物質を構成する五行という概念によって説明し、さらに循環する五行の順序に従って王朝が変わるという 陰陽五行説を唱えました。

陰陽五行説 :五行思想は五元素 で存在・生成・変化などを説明する理論で、エンペドクレス空気からなる四元素論より緻密なものです。木生火(もくしょうか)、火生土土生金金生水水生木という相生(そうしょう)理論と、木剋土 (もくこくど)、土剋水水剋火火剋金金剋木相剋理論とがあります。さらに殷の甲骨文にも干支十干十二支)が見られますが、五行に陰陽を当てはめれば 十干になり、(きのえ、陽木)・ (きのと、陰木)・(ひのえ、陽火)・(ひのと、陰火)・ (つちのえ、陽土)・(つちのと、陰土)・ (かのえ、陽金)・(かのと、陰金)・(みずのえ、陽水)・(みずのと、陰水)が出てきて、十二支 )と合わせれば六十干支論となり、「丙午(ひのえうま)」という年号表記や60歳を還暦という概念はここから来ます。そして、『易経』に見られる太極両儀陰陽)→四象八卦の理論と合わせて、東洋運命学の根幹(五行断易)を形成しますが、東洋運命学とは、天文暦学兵法学風水地理学などを含み、帝王学 の一環とされてきたもので、東アジア世界全体に多大な影響を及ぼしてきました。例えば、伝統的な「五術 」という分類では次のようになります。

(めい):生年月日時の四柱の干支(八字とも言います)を基にして命式をつくり、運勢・性格・吉凶・器などの「看命」(運命を読み取ること)を行うもの。「紫薇斗数(しびとすう)」→「淵海子平(えんかいしへい、四柱推命も言います)」→「 張果星宗」という三段階がありますが、紫薇斗数は合婚法 という相性診断に特徴があり、日本や韓国では四柱推命が盛んで、張果星宗の研究者はほとんどいません。

(ぼく):時間・方位・現象などから「機」を読み取るもの。「六壬神課 (ろくじんじんげ)」→「奇門遁甲(きもんとんこう)」→「大乙神数 (たいおつしんすう)」の三段階があり、兵法学などで使われてきたとされるのが奇門遁甲です。六壬神課や大乙神数の研究者はほとんどいません。

(そう):表面に現れたものを通して、内面の本質を読み取るもの。「人相名相印相」(個人一代)→「家相墓相」(家庭・家系)→「風水地理 」(都市・国家)の三段階があり、手相は人相に含まれ、姓名判断は名相のことです。鬼門(東北方向)に水回りを避けるというのは家相で、京都の東北に比叡山を置き、江戸の東北に上野寛永寺や日光東照宮を置いて鎮めるというのは風水地理(あるいは奇門遁甲)です。韓国などでは墓相(特に立地)は子孫繁栄に関わるとして、非常に重視しています。

(さん):心身の修養法により人間的完成を目指すもので、道教的思想が色濃く出ています。「食餌築基(ちくき)」(養生導引・呼吸法)→「玄典」( 『老子』『荘子』『西遊記』など仙人道の書)→「修密 」(密教を修めること)の三段階で、築基は土台づくり、導引は体内の精気である内丹を錬成する呼吸法、修密は気を巡らす 小周天大周天などの仙道の技法から、武道まで含みます。

(い):病気を直し、生命力・自然治癒力を高めるもので、漢方医学・中国医学が該当します。「 方剤」(漢方薬)→「鍼灸」→「霊治 」の三段階で、鍼灸には指圧も含み、霊治が心理療法や神霊療法に該当します。

風水地理学 :「 」の流れで場所の善し悪しを見極める気の地理学。北に高くそびえる山があり、南が広く開けた湖沼があり、東に清き流れがあり、西に大きな道が続く四神相応の地の地を選んだ平安京、「背山臨水」や 龍脈の思想から朝鮮王朝の都に選ばれた漢城(ソウル)なども風水地理学による遷都です。

公孫龍子 (こうそんりゅうし):名家詭弁家(きべんか)。「 白馬は馬ではない 」などの言葉で知られ、諸子百家の百家争鳴の中で安易に扱われがちであった名辞、論理について自覚的反省を促しました。ギリシア哲学における「ゼノンのパラドックス」(「アキレスは亀に追いつけない」など)で有名なエレア学派、あるいはソフィスト的存在だと言えます。名家の思想は儒家の「 正名 」(名を正す、名称と実質との一致を志向)の考えに発し、荀子や後期墨家によって論理学的考察が進められ、公孫龍は墨家の影響の下に活動を始めたとされます。




3 日本思想

(1)日本神話・文化

日本の風土と自然観

モンスーン型和辻哲郎『風土』 によれば、豊かな恵みをもたらしたり、巨大な暴威をふるう気まぐれな自然の前に、アジア世界は受容的、忍従的になるとしました。

日本の自然は、残忍な破壊力と慈母の優しさを兼ね備えた、鬼子母神(きしぼじん) である 。」:和辻哲郎は、日本はモンスーン型の中でも特殊で、四季の変化が著しく、突発的な台風や大雪があり、熱帯的かつ寒帯的な二重構造を持つと指摘しました。

しめやかな激情、戦闘的な恬淡 (てんたん)」:和辻哲郎は、二重構造を持つ自然の中で育まれた日本人は、激情的・戦闘的だが、あきらめがよく、あっさりと融和する性格であるとしました。

天災は忘れた頃にやってくる」:夏目漱石の弟子にして、関東大震災を経験した科学者である寺田寅彦の言葉です。寺田寅彦は「文明が進めば進むほど、災害は激烈さを増す」と警告する一方、「 災害文化 」として、「わが国のようにこういう災禍の頻繁であるということは一面から見ればわが国の国民性の上に良い影響を及ぼしていることも否定し難いことであって、数千年来の災禍の試練によって日本国民特有のいろいろな国民性のすぐれた諸相が作り上げられたことも事実である」と指摘しています。

ハレとケ :伝統的な稲作社会で生まれた、人々の生活文化を日常のと非日常のハレ に分ける考え方。ハレは祭りや年中行事が行われる、特別で神聖な日であり、この時に着る服を晴れ着と言います。

四季と旬 (しゅん):季節感を行事と食事を通して大切にすること。

①春:花見(梅、桜、桃)、桃の節句、端午の節句、春の七草、春キャベツなど。

②夏:七夕、海開き、土用の丑の日、お盆、初ガツオ、新茶など。

③秋:仲秋の名月、月見、紅葉、新米など。

④冬:初雪、大晦日、正月、書き初め、節分、鍋 など。

雪月花花鳥風月 :日本人の伝統的代表的美意識。これらはとりわけ和歌に詠み込まれて継承・発展させられてきており、自然と共に生き、自然を大切にし、自然を愛してきた精神の現れとされます。

ますらをぶり賀茂真淵が指摘した、奈良時代までの和歌の集大成である『万葉集』 の男性的で力強く、大らかな歌風。

たをやめぶり賀茂真淵が指摘した、平安時代を代表する最初の勅撰和歌集『古今和歌集』 の女性的で優美・繊細な歌風。真淵はこれを批判しますが、弟子の本居宣長はこれを評価しました。

もののあはれ本居宣長が指摘した、平安時代を代表する世界最古の小説『源氏物語』 に見られるような、しみじみとした情趣。

をかし :平安時代を代表する随筆『枕草子』に見られるような、知的なおもしろみ、風情。

無常感 :仏教の諸行無常思想が末法思想 と共に浸透し、情緒的・詠嘆的に育まれてきた感性。平安時代末期から鎌倉時代以降、顕著に表れてきた意識で、四季の恒常的変化が毎年繰り返される自然環境と有為転変が激しい人間社会が対照的にとらえられました。

幽玄藤原俊成が指摘した、鎌倉時代を代表する『新古今和歌集』の神秘的で奥深い美。もののあはれから派生し、無常感の影響を受けた美だとされ、能楽を大成した 世阿弥『風姿花伝』などで継承・発展させました。

有心 (うしん):俊成の幽玄 を継承した理念で、やはり余情を重んじますが、より技巧的で妖艶な美が主調となっています。俊成の子で、共に 『新古今和歌集』を編纂した藤原定家は、有心を和歌の最高理念としました。

わび :室町時代の禅僧による五山文学、茶道、水墨画などに見られ、無常感を背景に持ち、幽玄 を継承した閑寂で枯淡の味わいを示す理念。

さび松尾芭蕉俳諧 の根本理念で、わびと同様、閑寂で枯淡の境地であり、自然と一体化して世俗を超越した精神の現れとされます。

(すい):浮世草子浄瑠璃 で描かれている、元禄期の上方で理想とされた遊びの哲学。決して官能に溺れず、人情の機微を察知し、適切に物事に対処していくことを言います。対義語は 無粋(ぶすい))です。これが江戸に移り、知的な要素がより加わったものが意気 (いき)で、身なりや振る舞いが洗練されていることを言います。

(つう):意気と同じく、上方の粋が江戸に移ったもので、黄表紙洒落本人情本などの理想的理念です。 のものを好むことも通です。逆に通の境地にまで至らず、外面のみ真似るものを半可通、通や意気を全く介さないものを 野暮(やぼ)と言います。

島国根性 :他国と交流の少ない島国に住む国民にありがちな、視野が狭く、閉鎖的でこせこせした性質や考え方。鎖国意識 などと共に否定的にとらえられますが、その一方で大陸・半島から一定の距離を隔てた島国であるがゆえに、大陸・半島で失われた伝統や文化が保存されたり、独自の発展を遂げたりするプラス要因になった面もあります。

ムラ社会 :地縁・血縁などの所縁からなる生活共同体+協働共同体。共同体の成員がムラ意識を持つことに特徴があります。日本では「 人に迷惑をかけるな 」ということが子どもの頃から第一義的に教え込まれますが、これはムラ社会の掟のようなものです。また、会社も協働共同体なので、「ウチの会社」という身内意識が働きます。

模倣性と独創性 :日本文化には自然をそのまま愛でる伝統を持ちつつ、切り取って生け花にしたり、枯山水 (かれさんすい)のように自然を庭園に凝縮表現したりするような二重性があります。また、華道茶道書道柔道剣道武道 などのように本来は単なる技術だったものが、道徳性を帯びてきて、人格形成を目的とした「 」と化していくことは日本文化の独創性かもしれません。「道」にまで至らなくても、どの職業分野でも「職人気質 (かたぎ)」は容易に生じてきます。あるいは、先進文化地帯であった中国から何でも模倣しているように見えますが、科挙宦官(かんがん)、纏足 (てんそく)などは入れていませんし、犬や猫を食べる風習も無いので、何らかのフィルタリングがかかっているようです。法律や制度でもアレンジをどんどん行っています。

雑種ハイブリッド文化 :日本列島は南北に長く連なり、亜寒帯(冷帯)気候・温帯気候・亜熱帯気候といった多様な気候帯があり、山地・平野・河川・海洋から豊富な産物を得る農林水産業が古来発達し、北方 アイヌ人と南方琉球人に代表されるような縄文文化 と半島渡来の弥生文化が融合するなど、多様性多重性多層性が日本文化の大きな特徴となっています。また、文字も 漢字をベースにひらがなカタカナ が創造されて、世界でも珍しい3文字言語となっています。さらに、古来の神道にすら外来性があり、そこへ儒教仏教道教陰陽道)やキリスト教 も入ってきて、独自の折衷的雑教である日本教が形成されているという指摘もあります。


記紀神話の世界

『古事記』天武天皇の命で稗田阿礼(ひえだのあれ)が「誦習 」していた『帝皇日継』(ていおうのひつぎ、帝紀、天皇の系譜)と『先代旧辞』 (せんだいのくじ、旧辞、古い伝承)を太安万侶 (おおのやすまろ)が書き記し、編纂したもの。世界は自然の力によって自ずから成ったものとする創世神話から始まり、 推古天皇までの事績を書いています。

『日本書紀』 :日本最初の正史で、六国史の第一に当たります。 舎人親王(とねりしんのう)らの撰で、神代から持統天皇 の時代までを扱い、漢文・編年体にて記述されています。

高天原 (たかまのはら、たかまがはら):『古事記』に出てくる、神々が住む世界。これに対して、人間の世界を葦原中国 (あしはらなかつくに)、死者の世界を黄泉国(よみのくに)と言います。

イザナギイザナミ:「国生み神話 」の中心となった男性神と女性神。夫であるイザナギは妻であるイザナミが亡くなった後、黄泉国 に会いに行き、その醜さにおののいて逃げ出しました。イザナギがイザナミに会うため、黄泉の国を訪れる話は、ギリシア神話でアポロンの竪琴を伝授された吟遊詩人 オルフェウス(オルペウス)が死んだ妻エウリュディケー に会うため、冥界を訪れる話と似ていますが、こちらはオルフェウスが地上に戻る目前で戒めを破って振り返ったために、エウリュディケーは冥界と逆戻りします。黄泉国から戻ったイザナギは穢れを川で清めて(みそぎ)を行い、左目から アマテラス(姉)、鼻からスサノヲ(弟)が誕生しました。

(みそぎ):川や海の清らかな水で罪や穢れを洗い清めること。不浄を取り除く行為である (はらい)の一種とされます。禊・祓に見られるような「水に流す 」観念は、キリスト教の原罪思想や仏教の業思想のような深刻な罪意識に比べて楽天的であり、罪や穢れを外から付着したチリやホコリのように捉えていたと考えられます。

(はらい):天つ罪(あまつつみ)・国つ罪 (くにつつみ)などの罪や穢れ、災厄などの不浄を心身から取り除くための神事・呪術。

天つ罪:農耕や祭祀などを妨害する行為。アマテラス の稲田の畔(あぜ)を壊し、汚物を撒き散らして宮殿を汚すといったスサノヲ の行為は、農耕を邪魔し、祭祀を妨げるという罪となります。

国つ罪:社会秩序を破壊する行為や現象を指します。

アマテラス天照大神、高天原で祭祀を行う存在。和辻哲郎は、アマテラスは人々から「 祀られる神」であると同時に、他の神の祭祀を行う「祀る神 」でもあると指摘しました(『日本倫理思想史』)。荒々しい性格のスサノヲがアマテラスに会いに来た時、アマテラスはスサノヲが「 きたなき心」ではなく、「清明心 」を持っていることを確認して高天原に入ることを許しましたが、スサノヲが乱暴を働いたため、怒って天の石屋戸 に籠りました(岩戸隠れ)。この時、八百万(やおよろず) の神が新たに貴い神を迎えて喜ぶ様を演じることでアマテラスを誘い出し、天地に光が戻ったとされます。

スサノヲ :高天原を追放された後、出雲八岐大蛇ヤマタノオロチ)を退治し、その地の統治者となりました。

出雲大社 :縁結びの神。旧暦10月に当たる神無月(かんなづき)には八百万の神が出雲に集まるとされ、出雲だけはこの月を 神在月(かみありづき)と呼びます。綱(縄)による出雲国の拡大である「国引き神話 」と併せて、縄文日本は出雲中心であったことが窺えますが、出雲のオオクニヌシ大国主大神)がアマテラスに統治権を譲渡した「国譲り神話」と、アマテラスの孫であるニニギノミコトが「 天孫降臨」したのが筑紫であることから、半島より青銅器・稲作が到来した弥生日本は筑紫中心になったことが分かります。

清き明き心清明心):神に対して欺き、偽る心がない状態。古代人が重んじた心。同義語「赤心 (せきしん)」⇔対義語「黒心(こくしん)」「濁心(きたなきこころ)」「 邪心」「暗き心」「私心 (わたくしごころ、利己心)」。

高く直き心賀茂真淵『万葉集』に見出した、素朴で大らかな心情。

真心 :本居宣長が「よくもあしくも生まれたるままの心」と表現した、偽りのない、素直でやさしい心。

正直 (せいちょく):偽りのない、素直な心。古代の清明心が中世以降、武士の徳とされ、正直と表現されるようになりました。


古代日本人の宗教観・基層文化

自然崇拝 :儒教や仏教が伝来する以前の古代日本の宗教は、自然崇拝中心の多神教で、自然の中に神を見出して崇拝したり(アニミズム )、自然と調和して生きようとする態度が生まれました。例えば、太陽や霊山は古来、称賛と崇敬の対象となっており、あるいは四季折々の山紫水明の美を詩歌に歌ったり、庭園に再現したりして親しんできました。

アニミズム :自然界における様々な霊的存在への信仰のこと。アニマはラテン語で「霊魂」の意味。

八百万 (やおよろず)の神:江戸期の国学者本居宣長 は、古代日本人にとっての神は「世にもすぐれて畏(おそ)るべきもの」と述べています。神は自然現象や太陽・動物など不可思議で威力あるものであり、人々に恩恵と同時に災厄をもたらす存在でもありました。すなわち、日本的神は時に祟り神となって現れ、自然災害・疫病といった災いや不幸をもたらしますが、このエネルギーを和らげるのが 祭祀です。

太占 (ふとまに):古代の占いの一種。鹿の肩甲骨を桜の樹皮で焼き、骨のひび割れの形によって吉凶を判断するもの。

盟神探湯 (くかたち):古代日本で行われていた神明裁判。正邪を判断する場合、神に誓って熱湯の中に手を入れさせ、正の手はただれないが、邪の手はただれるとしました。

祈年祭 :その年の豊穣を祈願する2月の祭り。国家の祭祀としては7世紀に始まり、現在でも宮中や各地の迅社で行われています。

新嘗祭 (にいなめさい):その年の収穫を感謝し、神々に新穀を供えて、天皇自らも食す11月の祭り。宮中祭祀の中で最重要視され、各地の神社でも行われています。11月23日の勤労感謝の日の由来。

常民 :共同体に生きる無名の人々。柳田国男 は文字に残されない生活様式や祭り、伝承、あるいは祖霊信仰の中から彼らの思想を掘り起こそうとする民俗学 を確立し、日本民族固有の文化を解明しようとしました。

祖霊信仰 :人は死後に遠い彼方の世界に行くのではなく、身近な山などに留まって、子孫を見守る神となり、定期的に子孫のもとを訪れ、豊穣をもたらすという考え方。 柳田国男が『先祖の話』で述べました。

まれびと :共同体の外部から訪れる来訪神。折口信夫(おりぐちしのぶ)が指摘しました。

産土神 (うぶすながみ):生まれた土地を守護する神のこと。

蕃神 (あだしくにのかみ):外国神、外来神。仏教伝来の際、以前から神を信仰してきた日本人は仏を蕃神と呼び、外国から来た神として認識しました。

神仏習合 :神に対する信仰が仏に対する信仰と融合すること。奈良時代に始まり、神社に寺が建立され(神宮寺 )たり、仏教で行われていた読経(どきょう)が神前で行われる(神前読経)といった形で見られました。

本地垂迹説 :仏は根源であり、神はその現れと考える思想。神仏習合が進む中で平安時代に現れました。

権現 (ごんげん)思想:仏・菩薩が権(かり)に神の姿を取って、この世に現れたと考える立場。平安~鎌倉時代にかけて、 神仏習合が理論化される過程で説かれるようになりました。

御霊 (ごりょう)信仰 :怨霊の祟りを恐れ、これを鎮めて平穏をもたらそうとする信仰のこと。天変地異は全て御霊の所業と考えられ、御霊による祟りを防ぐための鎮魂儀礼を 御霊会(ごりょうえ)、御霊祭と言います。

天神 (てんじん)信仰:藤原氏の陰謀で左遷され、失意のうちに没したとされる菅原道真 の霊を鎮め、学問の神として祭る信仰。御霊信仰の影響を受け、京都・北野天満宮を発祥とします。

伊勢神道度会(わたらい)神道外宮(げくう)神道。鎌倉時代に伊勢神宮の外宮の神主 度会氏が、神道五部書を基として儒仏の説を取り入れ、本地垂迹説とは逆の神主仏従 の立場を打ち出した神道。以後の諸神道説の先駆をなしました。後に南朝と結びつくことで勢力を失っていたため、吉田神道が反本地垂迹説を受け継ぐこととなりました。

吉田神道唯一神道卜部(うらべ) 神道。室町時代後期に京都の吉田神社の神官吉田兼俱 (かねとも)が興した、仏教・儒教・道教・陰陽道などの思想を取り入れた総合的な神道。本地垂迹)説に基づく両部神道山王神道に対して、反本地垂迹説(神本仏迹説 )を唱え、本地で唯一なるものを神として森羅万象を体系づけ、仏教を「花実」、儒教を「枝葉」、神道を「根」と位置づけて、汎神教的世界観を構築しました。江戸時代には、 諸社禰宜神主法度 (しょしゃねぎかんぬしはっと)で神道本所として全国の神社・神職をその支配下に置くこととなり、長期的に影響力を及ぼしました。

垂加(すいか)神道山崎闇斎 (あんさい)が伊勢神道や吉田神道を継承した吉川神道を学び、陰陽道、易学なども取り入れて、朱子学で総合整理した朱子学的神道。闇斎は儒教の説く「王道」は万世一系の皇室を持つ日本だけだという「大発見」をして、 神儒の合一を主張し、尊王思想 の思想的バックボーンを形成しました。そして、彼の後を継ぐ崎門(きもん)学派 が尊王思想を理論的に進化させ、日本が神国であるとして、水戸学や幕末の志士達に大きな影響を与えました。

復古神道:儒教・仏教などの影響を受ける以前の日本民族固有の精神である「惟神 (かんながら)の道」に立ち返ろうという独自の神道。国学者達によってより学問的な立場で突き詰められていき、 平田篤胤 (あつたね)が体系化しました。都市部の町人のみならず、庄屋・地主層を通じて農民にも支持され、幕末の志士達にも大きな影響を与え、 尊王攘夷運動のイデオロギーに取り入れられることとなりました。

儒学 :江戸時代になると、宗教としての儒教ではなく、倫理としての儒学が人々の間に定着しました。



(2)日本仏教

奈良仏教:国家仏教、鎮護国家

聖徳太子 :日本仏教の祖、日本教の原点。十七条憲法『三経義疏(さんきょうのぎしょ)。十七条憲法では第一条に和の原理を掲げ、第二条以降に仏教思想や儒教思想を取り入れ、人は皆、煩悩に囚われている「 凡夫」であると説きました。三教一致の調和思想 はその後の日本文化に多大な影響を与えましたが、韓国仏教の祖元暁(がんぎょう)にも「 和諍 (わじょう)」思想があり、「和」の思想は共通しています。また、高句麗僧慧慈(えじ)に学び、『三経義疏』で初期大乗の主要経典である『維摩経(ゆいまきょう)と中期大乗の主要経典である『法華経』『勝鬘経(しょうまんぎょう)に注釈を加え、 法隆寺四天王寺 を建立ました。ちなみに聖徳太子は出家した僧ではなく、あくまで摂政という政治家であり、『維摩経』の主人公維摩居士 (ゆいまこじ)も在家の覚者なので、藤原不比等がこれを重視し、藤原氏によって『維摩経』を講ずる法会(ほうえ)である維摩会(ゆいまえ)を興したことは、日本仏教の特徴を考える上で注目されます。聖徳太子は後には 救世観音(ぐぜかんのん)の化身とされ、聖徳太子信仰 が成立しました。後に親鸞も六角堂への百日参籠の中で95日目に「聖徳太子の夢告」を受けて、肉食妻帯に踏み切りました。冷静に考えれば、政治家である聖徳太子から夢で許可を得て、出家者である親鸞が戒律を破って肉食妻帯に踏み切るわけですから、おかしな話と言えますが、聖徳太子=救世観音という信仰が定着していればこそのことでしょう。

和をもって貴(とうと)しとし、忤(さから) うことなきを宗(むね)とせよ」(『十七条憲法』第一条)

(あつ)く三宝(仏法僧)を敬え 。三宝とは、仏・法・僧なり。」(『十七条憲法』第二条)

礼をもって本とせよ。」(『十七条憲法』第四条):儒教を統治の理念として取り入れました。

「われかならずしも聖(ひじり)にあらず。かれかならずしも愚(おろか)にあらず。ともにこれ凡夫 (ぼんぷ)のみ。」(『十七条憲法』第十条)

世間虚仮(せけんこけ)・唯物是真 (ゆいぶつぜしん)」(『天寿国繍帳(てんじゅこくしゅうちょう)』):聖徳太子が妻に語ったとされる言葉。現実は仮のものであり、ただ仏だけが真実であるということ。

鎮護国家 :仏の加護によって国を治め、護ろうとする思想。特に聖武天皇光明皇后 は仏教を深く信仰し、この鎮護国家思想に立って全国に国分寺国分尼寺 を造り、その中心に東大寺を置いて大仏を建立すると共に、 『金光明経(こんこうみょうきょう) などの護国経典を僧に読誦させています。さらに中国から正式な戒律を伝えた鑑真から 菩薩戒を受け、国家仏教の隆盛を特徴とする天平文化を現出しました。

聖武天皇大仏造立の詔(みことのり)、国分寺建立・国分尼寺の詔を出し、 鎮護国家 の思想を上から実現していくと共に、感慨施設・橋・布施屋(ふせや、休憩宿泊所)などの社会福祉事業で民衆に人気のあった 行基の力を借りて、民衆の教化・動員も進めています。

行基法相宗 (ほっそうしゅう)の私度僧(国家の認定を受けずに出家した僧)として民間に仏教を布教したため、政府から弾圧されましたが、東大寺毘盧遮那仏(びるしゃなぶつ)造立の際に協力し、仏教界の最上位である 大僧正の位を受けました。

鑑真 :日本に仏教の正式な戒律を伝えるため、多くの苦難を乗り越えて奈良時代に唐から来日し、東大寺戒壇を設け、公認の僧となるための正式な 授戒制度を確立しました。かくして正式な僧侶(僧尼令による官僧)となるためには、得度 (とくど、官の許可を得て出家)して修行し、東大寺(奈良県)・筑紫観世音寺 (かんぜおんじ、福岡県)・下野薬師寺(しもつけやくしじ、栃木県)の三戒壇のいずれかで 受戒(戒律を守ることを誓う儀式)が必要となりました。

南都六宗三論成実(じょうじつ)、法相(ほっそう)、 倶舎(くしゃ)、華厳 の6つの仏教学派。宗派というより学派なので、一寺に六宗がそろって研究されている場合もありました。

三論宗:インド中観派(初期大乗空仏教)の龍樹 (りゅうじゅ、ナーガールジュナ)による『中論』『十二門論』、その弟子 提婆(だいば、デーヴァダッタ)による『百論』 を合わせた「三論」を所依の経論とし、空論の研究を中心とします。元興寺法隆寺大安寺の三流があり、華厳宗真言宗にも影響を与えました。三論教学を大成した隋の 嘉祥大師吉蔵に学んだ高句麗僧慧灌 (えかん)が渡来し、日本の三論宗の祖となりました。慧灌は蘇我氏の氏寺である元興寺(がんごうじ、 法興寺飛鳥寺元興寺 )を拠点とし、弟子の中に中国から来た福亮智蔵 父子がいます。福亮は藤原鎌足の要請で、山階寺(やましなでら)で『維摩経』 を講じていますが、これは後の藤原氏の氏寺である興福寺維摩会 (ゆいまえ)の起源となりました。智蔵は入唐して嘉祥大師吉蔵に学び、帰国して法隆寺で三論宗を広めます。智蔵の弟子 道慈は遣唐使で唐に渡って帰国してから大安寺 を拠点とし、この道慈の建言で戒律の師が要請され、鑑真来日に結実しました。

成実宗訶梨跋摩(かりばつま、ハリヴァルマン )によって著され、鳩摩羅什(くまらじゅう、クマーラジーヴァ)の訳による説一切有部(上座部仏教の最大勢力)の『成実論』を研究するものです。『成実論』は 『倶舎論』が翻訳されるまでは仏教教理の綱要書の代表とされ、中国で成実宗 が成立しましたが、天台宗天台大師智顗(ちぎ)や三論宗嘉祥大師吉蔵からは小乗の論だと批判されました。日本へは百済僧 道蔵が伝えましたが、日本では三論宗の附宗とされました。凝然 (ぎょうねん)の『三国仏法伝通縁起』によれば、聖徳太子は成実論を法相(中期大乗唯識思想)の入門とし、成実論に精通した南朝梁の三大法師の一人、光宅寺法雲の説を踏まえて『三経義疏』を著したとしています。後に仏教の教学修行において「 唯識三年、倶舎八年 」(仏教教理の根本を学ぶのに『倶舎論』で八年、最先端理論である唯識思想を学ぶのに三年はかかる)という言葉が生まれていますが、それを踏まえると、聖徳太子の認識は当時としては妥当なものだったと考えられます。

法相宗三蔵法師玄奘がインドのナーランダー学院 で学んだ最先端理論である中期大乗唯識思想が伝えられ、その弟子の慈恩大師基が開いた宗派で、世親ヴァスバンドゥ)の『唯識三十頌』護法ダルマパーラ)が注釈した『成唯識論』 を中心に、『解深密経』などを所依の経論としています。興福寺薬師寺法隆寺が中心です。日本法相宗の初伝は玄奘に師事した 道昭法興寺で広めたもので、行基 はその弟子です。第二伝は入唐して玄奘と法相宗第三祖濮陽大師(ぼくようだいし)智周 に学んだ智通智達によるもので、平城右京に元興寺が創建されると法相宗も移り、元興寺伝南伝となります。第三伝は入唐して濮陽大師智周に学んだ新羅僧智鳳で、帰国後は法興寺を拠点とし、藤原不比等維摩会を復興した折にはその講師を勤めています。弟子に義淵がおり、義淵の弟子に玄昉行基隆尊良弁などがいて、道慈道鏡 なども義淵の門下であったとされます。第四伝は入唐して智周に学び、玄宗皇帝からも才能を認められた玄昉 (げんぼう)によるもので、帰国後は興福寺法相宗の基を築き、興福寺伝北伝と言われます。最後は筑紫観世音寺別当に左遷されて現地で没します。南都六宗 の代表として隆盛を極め、元興寺には虚空蔵法を修して空海とも親交があった護命 などの碩学が出ましたが、後に元興寺法相宗は興福寺に吸収されました。また、興福寺の 徳一は仏になれるかどうかは人の資質により差異があるとする三乗思想 に立って、一乗思想に立つ天台宗最澄との間で 三一権実諍論を争っています。

倶舎宗:インド瑜伽行派(唯識派)の世親ヴァスパンドゥ)が説一切有部の思想を中心にまとめた論書( アビダルマ)である『アビダルマ・コーシャ』の真諦『阿毘達磨倶舍釋論』玄奘『阿毘達磨倶舍論』 を中心として、玄奘が翻訳した多数のアビダルマ文献を研究するグループとして興り、日本に伝わりました。日本では法相宗の附宗となっています。

華厳宗『華厳経』の思想を拠り所として独自の教学体系を立てた宗派で、開祖 杜順は普賢行を修し、文殊菩薩の化身と考えられました。第二祖智儼 (ちごん)は『華厳経』の注釈学と唯識学を統合した華厳教学の実質的開祖です。第三祖賢首大師香象大師法蔵は新羅華厳宗の開祖義湘の弟弟子にして、日本華厳宗の祖審祥の師でもあります。第四祖澄観は天台宗や律宗・三論宗・禅宗など幅広く学び、第五祖 定慧禅師宗密は諸種雑多な仏教思想と実践行とを統一する「教禅一致 」の立場から、さらに儒教や道教も仏教のもとに統合しようとする「三教融合」思想を打ち出しています。金鐘寺(後の 東大寺)の良弁の招きを受けた新羅僧審祥 は、『華厳経』『梵網経』に基づく講義を行い、その思想が反映されて東大寺盧舎那仏像が建立されました。鎌倉仏教期には、 明恵によって密教思想が取り込まれ、さらに凝然による教学の確立がなされています。

律宗:正式な僧となるには戒律を修めなければならなかったため、東晋代に戒律について翻訳されると、唐代に 道宣が成立させました。この流れにある鑑真は4万人以上に授戒した後、日本から来た栄叡普照 らの要請を受け、弟子達を引き連れて、5度の渡海に失敗して失明しながらも、6度目にして日本に渡り、正式な戒律を伝えると共に、 唐招提寺を拠点に律宗を興します。正式な戒律に基づけば、男性出家者である比丘 (びく)と女性出家者である比丘尼(びくに)の具足戒を授ける授戒には 三師七証 が必要になるため、最低でもこの資格を持った10人が必要になり、弟子を引き連れて来日する必要があったのです。三師七証とは、戒を授ける直接の師である戒和尚、戒場で白四羯磨(びゃくしこんま)の作法を実行する羯磨師、威儀作法を教える 教授師からなる三師と七人の証明師 を指します。ちなみに具足戒とは比丘なら二百五十戒、比丘尼なら三百四十八戒に及びます。

日本における戒律不在 :鑑真が三師七証の資格を持つ弟子達を引き連れて、失明しながら、6度目の渡海でやっと日本に伝えた戒律ですが、それを早くも骨抜きにしたのが 大乗戒壇構想を打ち出した最澄 でした。鑑真によって出家者が受ける戒は厳密で、質・量共に膨大な具足戒でしたが、聖武天皇・光明皇后らが鑑真から授かった 梵網戒菩薩戒 )は在家・出家区別なく受ける簡略なものでした。最澄も東大寺戒壇で具足戒を受け、修行に励みますが、鑑真が伝えた天台宗の教えに惹かれ、入唐して天台教学を学んで帰国し、天台宗を興すと、小乗の具足戒ではなく、大乗菩薩戒をベースとして、戒師は1人でよく、千里の内に伝戒師がいなければ仏像の前で至心に臓悔して行なう 自誓受戒でも良いとしました。さらに戒律を破った場合はインド以来、仏教集団である僧伽 (そうが、サンガ)からの追放が基本だったのを、悔悛すれば再び戻ってきても良いとしました。最澄の大乗戒壇構想は最澄の死後に勅許が下りて実現しますが、これによって出家も還俗も自由自在となりました。例えば、後白河天皇の皇子である 以仁王 (もちひとおう)は出家して、堀川天皇の皇子である最雲法親王の弟子になるも、最雲法親王の死後に還俗して、最後は平家打倒のために挙兵しています。あるいは、後醍醐天皇の皇子である 護良親王(もりよししんのう)も出家して比叡山のトップである座主 (ざす)になるも、還俗して鎌倉幕府倒幕のために挙兵しました。さらに室町幕府第三代将軍足利義満の子義教(よしのり)も出家して、「天台開闢以来の逸材」と称され、大僧正にまでなりますが、還俗して第六代将軍となり、恐怖政治をしいたことから今度は「 第六天魔王 」と恐れられ、最後は暗殺されています。かくして、平安中期の末法思想の浸透以降、破戒僧や僧兵といった存在が横行し、戒律も有名無実になり、鎌倉新仏教の皮切りとなった 浄土宗の開祖法然 も戒律不要という立場でしたが、法然自身は戒律を守る清廉潔白な人格であったため、公家や武士からも尊崇されました。これに対して、戒律にとどめを刺したのが 浄土真宗の開祖親鸞で、肉食妻帯 に踏み切ります。以後、日本仏教では妻帯は普通のこととなり、個人宗教から家庭宗教 になる可能性が開かれました。さらに、四つ足の動物は食べられないことに対して、うさぎを鳥の仲間だとして1羽、2羽と数えて食べ、酒も薬のように見なして般若湯(はんにゃとう)と称して飲むようになり、外面的行動を規制する外的規範である戒律は不在となって、これが日本における 法不在 につながったとされます。強力な外的規範を持つユダヤ教・イスラーム教が日本に入りにくく、内面的行動のみ規制する内的規範と化したキリスト教や先祖崇拝の宗教から学問・教育に転じた儒教が日本文化になじんでいったのは、平安時代から鎌倉時代にかけて進行した日本仏教における 戒律不在が大きな転機になったとされます。

日本における法不在 :法律及びそれを支える法的精神リーガル・マインド )が無いこと。ユダヤ・キリスト教の契約思想が浸透している西洋社会では、絶対主義以降、神と人間との縦の契約が人間同士の横の契約に展開されて、契約の絶対性という思想が出てきたために、契約成文化され、破ったかどうかが一義的に決まる 二分法 でありあらゆる契約が微に入り細に入った条項であらゆる場合を想定しています。これに対して、日本の契約には規定があいまいな「誠実協議条項」(甲乙、誠意をもって協議の上、解決するものとする)が組み込まれ、「和解」を裁判官が勧めるほど、裁判での法的決着よりも和解による解決を良しとし、漢帝国の祖 高祖劉邦の「法三章 」(殺すな、傷つけるな、盗むな)のごとく簡素な法律が好まれ、契約書・条項の細部まで目を通さず、簡単に同意することも普通に行われていますが、これを日本における 法不在 と言います。あるいは、訴訟社会であるアメリカでは、法的手続きに瑕疵(かし、手抜かり)があるだけで、どんなに有罪の確証があっても罰することができないのは「デュー・プロセス」(適法手続き)の原則が徹底しているからで、「1000人の罪人を逃すとも、1人の無辜(むこ、無実) を刑するなかれ」「疑わしきば罰せず 」という鉄則が貫かれていますが、日本では容疑者段階ですでに犯罪者扱いで、マスコミもこれに異議を唱えるどころか、同調し、あおる側に回っています。さらに法律違反に対しても、アメリカではスピード違反などの交通法規違反に対して、法律に基づいて処理するだけですが、日本では警察官にあの手この手で言い逃れをして情状酌量を求め、警察官も時として罪に問わないことがありますが、これは法を執行するかどうかを警察官が決定していることに他ならず、これは 法治国家ではなく、人治国家の特徴でもあります。


平安仏教:貴族仏教、加持祈祷

最澄伝教大師(でんぎょうだいし)、天台宗比叡山延暦寺。奈良仏教が能力や資質によって成仏できるかどうかに差が出るとし、仏の教えを聞いて覚る 声聞(しょうもん)、師無くして一人で悟る縁覚 (えんがく、独覚)、自分が仏になると共に他をも悟りに至らせる菩薩乗からなる三乗思想を説いたのに対し、仏の教えの本質は一つ(菩薩乗)であるという 一乗思想を展開しました。また、鑑真が伝えた上座部仏教系の戒律(具足戒 )を授ける東大寺の授戒制度を否定し、大乗菩薩戒を授けて僧とする大乗戒壇 設立に尽力しました。さらに四種相承(ししゅそうしょう)・四宗合一 の立場から、入唐して(天台)・(真言)・(律)の四宗を相承・総合し、中国の天台宗とは違う日本独自の天台宗を作り上げたように、 総合仏教 を目指しました。しかしながら、一時代前の隋代に栄えた初期大乗の天台宗を中心に、中期大乗の仏性思想を取り入れ、仏教の総合化を図った最澄は、唐代最高にして最先端の後期大乗の密教を導入した 空海には遠く及ばず、本格的な密教(正純密教 )を学ぶために弟子入りします。やがて、比叡山には円仁円珍 といった優れた人材が入唐して天台宗の弱みであった密教を補完して台密を形成して真言宗の東密に対抗し、空也源信らが浄土信仰を広め、そして、法然親鸞栄西道元日蓮 といった鎌倉新仏教の祖達が現れて、禅宗系、浄土系、法華系の一宗一派を興していきます。最澄が総合仏教を目指し、最澄を超える多彩な人材が育まれていったという点で、 日本仏教の母と言って良いでしょう。

一切衆生悉有仏性(いっさいしゅじょうしつうぶっしょう)」(『涅槃経』):生きとし生けるものは全て 仏性を備えているという意。最澄は、仏になるためにはこの仏性を自覚した上での修行が必要であるとしました。

草木国土悉皆成仏 (そうもくこくどしつかいじょうぶつ)」:草木や国土のような非情なものも仏性を具有して成仏するという意。この思想はインドにはなく、 『涅槃経(ねはんぎよう)の「一切衆生悉有仏性 」の思想を基盤とし、生命を持たない無機物にも全て「」が内在するという道家思想 を媒介として、六朝後期から主張され始めた中国仏教独自の思想で、天台宗華厳宗 などで強調され、特に日本で流行しました。哲学者梅原猛はさらに「山川草木悉皆成仏」と造語しています。

一隅(いちぐう)を照らす。これ、国宝なり」( 『山家学生式(さんけがくしょうしき)):それぞれの立場で精一杯努力する人は皆、 何者にも代えがたい大事な国の宝だという意味です。

天台宗 :「四種相承」「四宗合一」の伝統から、『法華経』 に加えて、密教戒律 なども総合的に学ぶという特徴があり、比叡山延暦寺は「仏教の総合大学」「日本仏教の母山」と呼ばれました。「南都六宗兼学」の伝統を持ち、平安時代には天台真言両宗の寺院が山内に建立されて、「八宗兼学」の寺となった東大寺のごとく、ヨーロッパで「 12世紀ルネサンス」で誕生した大学 に匹敵する機能を持っていたと言えます。さらに初期仏教の議決方法「多語毘尼(たごびに)」に由来する「 満寺集会」での「大衆僉議 (だいしゅせんぎ)」という多数決による議決方法が確立し、日本的民主主義の原型とも目されています。しかしながら、京都の東北方向( 鬼門)の鎮めという役割もある比叡山において、天台宗トップである座主 は皇族が務めるようになり、世俗権力に介入する僧兵達は白河法皇 が「賀茂河(鴨川)の水、双六(すごろく)の賽(さい)、山法師(比叡山の僧兵)、是ぞわが心にかなわぬもの」と嘆いた「 天下三不如意」の1つに挙げられるほどになります。織田信長に至っては僧兵に業を煮やし、比叡山焼き討ちを敢行します。

空海弘法大師(こうぼうだいし)、真言宗高野山金剛峯寺東寺『三教指帰 (さんごうしいき)』『十住心論』 。最初は儒教を学んで官僚となりますが、その後、出奔して道教的・修験道的な雑密の修行に明け暮れ、1人の沙門から密教の技法である 虚空蔵求聞持法 を授かったことを転機とし、その後、最澄と共に入唐します。最澄が地方の天台山などで修行したのに対し、空海は都長安でインド僧般若三蔵梵語サンスクリット語)を学ぶと共に、不空三蔵(真言宗第四祖)から『金剛頂経』系の密教と 善無畏三蔵(真言宗第五祖)の弟子玄超から『大日経』 系の密教を学んで両系統の密教を統合し、三代の皇帝に師を仰がれた密教界の第一人者である青龍寺恵果阿闍梨 (けいかあじゃり、真言宗第七祖)に師事したのみならず、千人を超える弟子達を差し置いて密教における奥義・法脈伝授である伝法灌頂(でんぽうかんじょう)を受け、その伝統を日本に伝えます。本来、20年間の留学期間をわずか2年で終え、「 虚しく往きて実ちて帰る」(虚往実帰 (きょおうじっき)、『性霊集』)と述べていますから、その充実ぶりが伺えます。ちなみに、当時の長安(現在の西安)には景教ネストリウス派キリスト教秦教)の大秦寺があり、大秦景教中国流行碑を書いた波斯ペルシア僧景浄アダム)は般若三蔵と共に『大乗理趣六波羅密多経』 の共訳をしようとした人物であるため、空海は景教と接触した可能性があり、この機縁でイギリスの比較宗教学者ゴルドン夫人 によって大秦景教中国流行碑のレプリカが高野山に寄贈されています。空海は、『三教指帰』 で儒教・道教・仏教を比較して仏教を最も優れていると位置づけ、『十住心論』で人の心を欲望のままに行動する最低段階(第一住心)から、儒教道徳、道教的脱俗、小乗仏教(上座部仏教)、大乗仏教(法相宗、三論宗、天台宗、華厳宗)と順次位置づけ、 真言密教を最高の第十住心の段階とする教相判釈 (きょうそうはんじゃく)を展開するなど、仏教という枠にとらわれず本質を追求した結果、後期大乗密教という当時における最高段階に至ったと言えます。有名な空海の即身成仏伝説を伝える 『孔雀経音義序』『元亨釈書(げんこうしゃくしょ)』『日蓮遺文』 などによれば、空海は清涼殿において、嵯峨天皇と群臣、南都六宗や比叡山の高僧の前で、手に印契を結び、口に真言を唱え、心を仏の 三昧(さんまい、サマーディ)に住するという三密行 を示し、自身金剛身大日如来 )となって即身成仏の境地に入ったと言います。空海の頭に五智の宝冠が見え、体から黄金の光を放ち、金色の蓮花台に座された大日如来の姿に変わったため、嵯峨天皇は思わず礼拝し、南都北嶺の高僧や群臣達も威光赫々たる仏の姿を思わず拝して、その法力に帰伏したと言いますから、まさしく日本仏教の最高峰、 日本仏教の父 と言ってよいでしょう。しかしながら、最澄以後の天台宗に最澄を超える人材が多数輩出されたのと対照的に、空海以後の真言宗に空海を超える人材は現れず、曼荼羅マンダラ)による修行システムの図像化や 加持祈祷 などの形骸化が進む一方であったので、真言宗は空海によって始まったのではなく、空海によって終わったとも言えます。空海は能書家でもあり、 嵯峨天皇橘逸勢(たちばなのはやなり)と共に三筆 と讃えられていますが、入唐した頃、韓愈(かんゆ)がそれまで「書聖 」として崇拝されてきた王羲之(おうぎし)を否定し、顔真卿 (がんしんけい)を称揚する主張を行っていたため、空海は顔真卿の書風を好んだとも言われています。

三密加持印契(いんげい、ムドラー)を結び(身密)、真言マントラ)を唱え(口密)、心に 大日如来を思い描く(サマーディ意密 )こと。本来は即身成仏を目指す高度なシステムで、神通力を生み出す技法でもあるので、 加持祈祷として仏の加護を祈願する方法として一般化しました。鎌倉仏教 では庶民に高度な修行は難しいとして、禅宗系は「座禅」の身密や「公案」による意密浄土系は「南無阿弥陀仏」の口密や「阿弥陀来迎図」による意密法華系は「 南無妙法蓮華経」の口密のように、一密加持 に徹していった所に特徴があります。

即身成仏 :生きているこの身のまま大日如来と一体化すること。瑜伽行(ゆがぎょう、ヨーガ)をベースにした中期大乗唯識仏教において確立された「速疾成仏」の技法から発展したとされます。密教を学んだ最澄も、あらゆる精神作用を止滅させる「」( 奢摩他シャマタ禅定 、コンセントレーション)と強力な精神集中で思念を現出させる「」(毘鉢舎那ヴィパシャナ智慧、メディテーション)の技法からなる「 止観」を天台宗に取り入れました。

真言宗 :天台宗の密教を台密と言うのに対し、真言宗の密教を東密 と言います。インド仏教の伝統を色濃く伝ええており、伝持の八祖は次のようになります。

①第一祖龍猛菩薩(りゅうみょうぼさつ):竜樹ナーガールジュナ)のこと。大日如来の直弟子 金剛薩埵(こんごうさった)から密教経典を授かって、世に伝えたと言われています。

②第二祖龍智菩薩 :龍猛から密教を授かったとされます。

③第三祖金剛智三蔵:インドで龍智から密教を学んだ後、唐へ渡り、『金剛頂経』 を伝えました。

④第四祖不空三蔵:西域に生まれ。貿易商の叔父に連れられて唐へ行き、長安で金剛智に入門します。『金剛頂経』を漢語に翻訳し、灌頂道場を開きました。鳩摩羅什(くまらじゅう、 クマーラジーヴァ)・真諦(しんだい、パラマールタ )・玄奘三蔵らと共に四大訳経家とされます。

⑤第五祖善無畏三蔵 (ぜんむいさんぞう):インドに生まれ、大乗仏教を学んだ後、密教を受け継ぎます。80歳になって唐に渡り、『大日経』 を伝えています 。

⑥第六祖一行禅師(いちぎょうぜんじ): 中国生まれ。禅・律・天台教学・密教・天文学・暦学などを学びました。長安で善無畏に入門し、善無畏の口述を元に 『大日経疏(だいにちきょうしょ)』を完成させました。

⑦第七祖恵果阿闍梨 :中国生まれ。不空に師事して金剛頂系の密教を、また善無畏の弟子玄超から『大日経』系と『蘇悉地経』系の密教を学んでいます。『金剛頂経』・『大日経』の両系統の密教を統合した第一人者で、両部曼荼羅の中国的改変も行いました。長安青龍寺に住し、代宗・徳宗・順宗と3代にわたって皇帝に師と仰がれると共に、東アジアの様々な地域から集まった弟子達に法を授けています。

⑧第八祖.弘法大師空海 :恵果阿闍梨から金剛・胎蔵界両部を授けられ、日本に伝えて真言密教を開きました。

円仁 (えんにん):慈覚大師(じかくだいし)、『入唐求法巡礼行記』 。最澄から止観を学んだ後、入唐して仏教迫害の中で10年近く滞在し、長安の大興善寺で金剛界大法を、青竜寺で胎蔵界大法・蘇悉地大法を授けられています。また、台密にまだなかった念願の金剛界曼荼羅を得た晩、亡き最澄が夢に現れ、曼荼羅を手に取りながら涙ながらに大変喜び、円仁が師の最澄を拝しようとすると、最澄はそれを制して逆に弟子の円仁を深く拝したと言います、帰国後、円仁は天台宗第3代座主となり、台密を興隆させます。後に浄土宗の開祖 法然も、私淑する円仁の衣をまといながら亡くなったと言います。

円珍智証大師 (ちしょうだいし)、空海の甥(もしくは姪の息子)に当たります。入唐して天台教学はもとより、長安の青竜寺で大いに密教を学び、多くの密教経典、儀軌、曼荼羅などを将来すると共に、注釈論書を撰述し、天台宗第5代座主として東密に匹敵する台密の基礎を築きました。その後、 園城寺三井寺 )を拠点としまが、円仁が法華経の教えと密教の教えは同等であると考えたのに対し、円珍は法華経と密教では両者は同じ教えを説いているものの密教の方が大事であると考えており、延暦寺を拠点とする円仁派は 山門派、円珍派は寺門派となって、対立関係になっていきます。

『日本霊異記 (にほんりょういき):薬師寺僧景戒 (きょうかい)、平安時代前期に成立した日本最初の仏教説話集。因果応報や霊験に関する話などが多数収められています。

因果応報 :自分の行為(カルマ)によって運命が決定されるという仏教の考え方。自業自得

末法思想 :ブッダの死後500年または1000年を正法、次の1000年を像法 、その後1万年続く乱れた時代を末法と区分する仏教の時代観。日本では1052年より末法の世に入ると信じられたため、 極楽浄土への往生を願う浄土信仰 が人々の間に広がりました。

正法(しょうぼう):(仏の教え)・ (修行・修行者)・(悟り)の3つともある時代。

像法(ぞうほう):(仏の教え)・ (修行・修行者)の2つがあって、証(悟り)がない時代。

末法(仏の教え)しかなく、行(修行・修行者)・証(悟り)の2つがない時代。

空也 :平安時代中期、阿弥陀聖(あみだひじり)・市聖 (いちのひじり)。比叡山を中心に行われた「山の念仏 」に対し、鉦(かね)を叩き鳴らし、数々の社会事業を行いながら、南無阿弥陀仏と死者鎮魂の念仏を唱えながら諸国を遊行し、庶民を中心に浄土信仰を布教しました。時宗の 一遍は空也を「わが先達」として敬慕しており、高野聖 など中世以降に広まった民間浄土教行者「念仏聖」の先駆となっています。

恵心僧都源信 (えしんそうずげんしん):延暦寺中興の祖にして第18代天台座主である元三大師(がんざんだいし) 良源の弟子であり、日本浄土教の祖として、新欄が定めた浄土真宗七高僧 のうちの第六祖に挙げられます。様々な経典を参照して、極楽浄土や地獄について述べた『往生要集』 を著し、浄土信仰を広めました。『往生要集』は中国の天台山からも評価され、「日本小釈迦源信如来」と称号を送られるほどでした。その生々しい地獄描写は人々を念仏信仰に導くための脅しでもありましたが、霊界について探求するスピリチュアリズムの観点からは、ダンテ『神曲』スウェーデンボルグ『霊界日記』などと共によく研究、引用されます。

七高僧 :浄土真宗の宗祖親鸞が選定したインド(天竺)の龍樹天親、中国(震旦)の曇鸞道綽善導、日本(和朝)の 源信源空の7人の高僧のこと。

①第一祖龍樹ナーガールジュナ、空思想を唱えた初期大乗中観派の祖。 蓮如(れんにょ)以後の浄土真宗では八宗の祖師 と称されており、竜樹が大乗仏教の理論的原点にいることが分かります。

②第二祖天親ヴァスパンドゥ世親 )、中期大乗瑜伽行唯識学派の大成者。

③第三祖曇鸞(どんらん):中国南北朝時代の僧、中国浄土教の開祖。浄土宗で重んじる中国の5人の高僧、「 浄土五祖」の第一祖とされます。インド僧菩提流支 (ぼだいるし)から『観無量寿経』を与えられて浄土教を学び、絶対他力 の思想を打ち出します。この曇鸞から1字取って自らの名前としたのが親鸞です。

④第四祖道綽(どうしゃく):南北朝~唐代の僧、聖徳太子とほぼ同時代人です。曇鸞の影響で浄土教に入り、『観無量寿経』を講義すること200回、称名念仏すること日に7万遍に及んだと言います。浄土宗で「 浄土五祖」の第二祖とされます。

⑤第五祖善導:唐代の僧。道綽に師事して浄土教思想を完成させ、日本の法然・親鸞に多大な影響を与えます。浄土宗で「 浄土五祖」の第三祖とされます。『阿弥陀経』を 10万巻書写し、浄土の姿を 300枚余描いたと伝えられ、善導の念仏が長安に広まると、人々は肉食を断ち、肉を買う者がなくなってしまったので、それを職業としていた畜殺者が善導を殺害しようとしたところ、逆に善導の徳に打たれて帰依し、立派な念仏者となったと言います。

⑥第六祖源信:平安中期の天台宗の僧。横川にある恵心院に隠棲して念仏三昧の求道の道を歩み、恵心僧都と呼ばれ、時の最高権力者藤原道長も帰依しています。紫式部の『 源氏物語』芥川龍之介『地獄変』 に登場する横川の僧都は、源信をモデルにしているとされます。法然 も源信の『往生要集』によって善導の浄土思想に導かれており、親鸞『教行信証』 の末尾で源信の徳と教えを称えています。

⑦第七祖源空法然専修念仏の教えを説き、浄土宗の開祖となります。ちなみに浄土宗では善導を高祖とし、法然を 元祖と崇めています。

厭離穢土 (おんりえど、『往生要集』):煩悩や穢(けが)れに満ちたこの世界を厭(いと)い離れること。

欣求浄土 (ごんぐじょうど、『往生要集』):阿弥陀仏の極楽浄土に往生すること。

観想念仏 :阿弥陀仏の姿を心に思い描き、念仏を唱えること。天台宗の止観と呼ばれる瞑想法の伝統を重視する源信は、念仏を三昧(さんまい、瞑想状態)に入り、その中で阿弥陀仏の姿を心に想い浮かべる観想念仏として理解しました。これは 口密意密による「二密加持 」と言ってもよいでしょう。法然専修念仏に至って、 口密による「一密加持」が完成します。

慶滋保胤 (よししげのやすたね):平安中期の文人貴族。日本最初の往生伝である『日本往生極楽記』 を著し、後の仏教説話集にも影響を与えました。


鎌倉仏教:庶民仏教、末法思想、易行道

本覚 (ほんがく)思想:中期大乗の如来蔵思想仏性思想 が発展し、衆生は誰でも仏になれるという思想。元々、天台宗にあった考えで天台本覚思想と言い、末法思想と共に鎌倉新仏教の思想的背景となります。生も死も絶対の立場から見れば別ではなく「 不二」であり、ついには煩悩に迷う凡夫も悟りを得た仏も不二であるとして、凡夫 をそのまま肯定することとなりました。

法然浄土宗知恩院『選択本願念仏集 (せんじゃくほんがんねんぶつしゅう)』『一枚起請文(いちまいきしょうもん)。「 知恵第一 」と讃えられながら学問を捨て、声聞(しょうもん、仏の教えを聞いて悟る)・縁覚(えんがく、一人で悟る)・菩薩(他者を救済して如来となる)などの 聖道門(しょうどうもん)は自力救済難行道 であり、末法時代穢土(えど)においては、難行を行い得ない者の方便として易行道(いぎょうどう)が必要であるとして、ひとまず浄土に生まれようと念仏する他力本願の道を説きました。この観点から見れば、禅宗系自力志向、浄土系他力志向、日蓮法華系共力(自力+他力)志向となります。ちなみに 『徒然草』兼好法師も法然を敬愛し、一休禅師 も法然を称えて、『一枚起請文』を奇跡の書だと述べています。

阿弥陀仏の誓願弥陀の本願):『無量寿経』に、阿弥陀仏がかつて法蔵比丘だった時に立てた四十八の誓願本願)が説かれており、その中の第十八願に「阿弥陀仏の名を唱える者は全て極楽浄土へ往生させよう」という誓願があり、これが浄土信仰の中心となって「 南無阿弥陀仏」の名号を唱える称名念仏が広がりました。

称名念仏 :阿弥陀仏の姿を実際に見るかのように思い描く観想念仏に対して、「南無阿弥陀仏 」(阿弥陀仏への絶対的帰依)の名号を唱えること。これは「アッラーの他に神はなし、ムハンマドは神の使徒なり」の聖句を唱える、イスラーム教の「 信仰告白」(シャハーダ)に相当すると言ってもいいかもしれません。

専修念仏 (せんじゅねんぶつ):称名念仏を往生のための唯一の手段とすること。法然の称名念仏・専修念仏の「 」には自力の要素があるとして、内面の「」を重んじる絶対他力に至ったのが 親鸞です。

親鸞浄土真宗の開祖、本願寺『教行信証 (きょうぎょうしんしょう)法然他力本願 の信仰をさらに進め、絶対他力 の考えに到達しました。キリスト教でもローマ=カトリックでは聖職者の妻帯禁止を原則としてきましたが、宗教改革を起こした ルター は禁欲的な人でありながら、かねて聖職者も結婚すべきであり、独身を前提とした修道院も廃止すべきであると主張しており、修道女だったカタリーナ・ボラと結婚して、三男三女をもうけ、結婚を礼賛しています。ルターは 信仰義認 を強調し、プロテスタント教会における教役者・牧師の結婚という伝統を作ったという点でも親鸞と共通点があり、戦国時代に日本に来たイエズス会の宣教師達が浄土真宗の存在を知って、「日本にルター派の異端がいる」と驚いたのもうなずけます。

自然法爾 (じねんほうに):自ら然(しか)らしむるように(自然)、真理としてそうなるがままに(法爾)、作為を捨てて生きる、絶対肯定の境地。「自然にそうなる」という「 自発 」の言葉を多用する、日本人の感覚に通じます。親鸞は、信心さえも全ては阿弥陀仏のはからいによるものであるとしましたが、これは アウグスティヌス恩寵説にも通じます。

『教行信証』『大無量寿経』を根底に念仏の要文を集め、念仏のを体系化したもの。 救世観音の化身とされた聖徳太子の夢告により、法然 を訪ね、肉食妻帯に踏み切った親鸞は、自らを非僧非俗の「愚禿 (ぐとく)」と呼び、「悲しいことに、この愚禿親鸞は愛欲の広い海に沈み込んでしまい、名利の大きな山に踏み惑って、浄土で仏になることが約束された人々の仲間に入ることをうれしいとも思わないし、真実のさとりに近づくことを快いとも思わない。恥ずかしいことである、悲しいことである」と赤裸々に述べていますが、これはアウグスティヌスの『告白』と共に日本人に好まれている一節です。

『歎異抄 (たんにしょう):親鸞の弟子・唯円 。師の言葉をまとめた部分と異端の説への批判を加える部分からなります。悪人正機説が説かれています。

悪人正機説 :煩悩にとらわれて自らの力では悟りを開くことができない人、自らの罪深さを自覚して阿弥陀仏の他力にすがる人を悪人 と呼び、悪人こそ阿弥陀仏の救いの対象であるとしました。

善人なをもて往生をとぐ、いはんや悪人をや 」(『歎異抄』):善人でさえ救われるのだから、悪人はなおさら救われるという逆説です。この後に「世の人つねにいわく、悪人なお往生す、いかにいわんや善人をや」と常識論が述べられ、「自力作善(じりきさぜん)の人は、ひとえに他力をたのむ心欠けたる間、弥陀の本願にあらず」としてこれを否定し、自力から他力に転ずることを促して、最初は自力を頼みにしていた善人でも阿弥陀仏の他力にすがれば救われるのだから、善を為そうとして為し得ずに苦しみ、地獄を棲み家と覚悟した煩悩具足(ぼんのうぐそく)の悪人は、最初から阿弥陀仏の慈悲である他力に絶対的にすがるので、必ず救われるのだということです。これはイエスの「山上の垂訓」に出てくる「 心の貧しい人は幸いである天の国はその人たちのものである 」(心の貧しい人=自分の心の貧しさを知っている人)という教えや、「放蕩(ほうとう) 息子の話」「1匹の迷える羊 」などの例え話にも通じます。

地獄は一定(いちじょう)、すみかぞかし 」(『歎異抄』):地獄は自分の堕ちゆく住まいと決まっている、という意味。仮に法然上人にだまされて、念仏して地獄に堕ちたとしても決して後悔はしないだろう、なぜなら、念仏以外の修行に励んで仏になることができる者が念仏によって地獄に堕ちたのなら後悔もあるだろうが、自分はどのような修行も不可能な者であるから、元々、地獄は自分の住処だと決まっているというわけです。これはキリスト教の原罪観にも通じる痛切な自己認識ですが、ここから阿弥陀仏釈尊善導法然 へと続く念仏の法統への絶対的信心を打ち出しています。

一遍 :鎌倉中期、時宗の開祖。遊行上人捨聖 。南無阿弥陀仏の名号こそが真実であると確信し、自らが持つ全てを捨てて遊行し、ただ1度だけでも名号を称えれば、貴賎を問わず、往生することができると説きました。また、念仏札を配って布教し、念仏を唱えながら踊る 踊念仏を広めました。踊念仏は盆踊りの起源ともなりました。

遊行上人 (ゆぎょうしょうにん):全国各地を布教して回った一遍に対する称号。

捨聖 (すてひじり):一遍は常に臨終の時と心得て、全てを捨てて念仏することを説いたため、捨聖と呼ばれました。

禅宗ディヤーナ)は八正道正定六波羅蜜禅定に由来し、老荘思想と結びついて、「」の直接体験を求めるもので、浄土宗と共に中国で誕生した中国的仏教です。中国の有名な禅書『無門関』によれば、「 拈華微笑 (ねんげみしょう)」の故事として、釈迦が霊鷲山(りょうじゅせん)にいて花を拈(ひね)って大衆に示すと、皆、何を意味するのか分からず黙然としていましたが、ただ摩訶迦葉(まかかしょう、マハーカッサパ)のみが破顔して微笑したので、 釈迦は「吾に、正しき法眼の蔵にして涅槃の妙心(正法眼蔵・涅槃妙心)、実相・無相・微妙の法門有り。文字を立てず教外に別伝し( 不立文字教外別伝 )、摩訶迦葉に付嘱す」と言ったとして、禅宗の由来を示しています。第28祖菩提達磨 (ぼだいだるま、ボーディダルマ)によって中国に伝わったとされます。そして、達磨を初祖とする中国禅宗では、第五祖弘忍に 神秀慧能 という優れた2人の弟子がおり、神秀から修行・努力を重ねて次第に悟りを得ていく「漸悟」の北宗禅が生まれ、慧能から瞬時に悟りを得る「頓悟」の南宗禅が生まれ、慧能が第六祖を継いで、中国禅宗の主流となります。日本では栄西臨済宗を伝え、道元曹洞宗を伝えますが、 臨済禅では悟りのヒントとなる「公案 」を使い、言葉や思考の果てに言葉や思考を超えた悟りを得ようとするので、「超論理」の禅であり、 曹洞禅ではひたすら座禅 に徹し、言葉ならぬ言葉、思考ならぬ思考によって悟りに至ろうとするので、「非論理」の禅であると言えるでしょう。

不立文字 (ふりゅうもんじ)・教外別伝 (きょうげべつでん):仏教の真の精髄は言葉によって表現し得るものではないので,心から心へと直接伝達されるとする考え方。密教がそれまでの教えは、言葉や文字で表した顕教だとして、真実の教えは秘密に伝えられてきたとしたことに通じます。

直指人心 (じきしにんしん)・見性成仏 (けんしょうじょうぶつ):真理は自己の外にあるのではなく、自己の心の中にこそ発見され、その自己の本性を見るならば、仏となることができるということ。

栄西日本臨済宗の開祖、建仁寺『興禅護国論 (こうぜんごこくろん)』『喫茶養生記』 。天台宗と密教を学んだ後、2度にわたって入宋し、臨済宗を興します。外には戒律を守り、内には慈悲の心を保って坐禅に打ち込み、悟りに達することによって、自己だけでなく国家をも平安にできると説き、鎌倉幕府からの支持を得ました。栄西は総合的な人格者で、台密に東密を加えた葉上流(ようじょうりゅう)の祖であり、京都に建仁寺を創建して天台・真言・禅の三宗兼学の道場とし、禅宗の拡大に努めたのみならず、東大寺の重源の後を受けて東大寺大仏の再建にも尽力しています。かくして臨済宗は幕府(将軍)の帰依を受け、武士上層部に普及すると共に、五山文化を生み出します。道元の語るところによると、建仁寺に生活に困窮した人が施しを求めに来た時、栄西は薬師如来像の光背を作るために取っておいた銅を困窮者に渡したため、弟子達から「仏物己用の罪」(仏のものの私物化)と非難されますが、栄西は「お前達の言うことはもっともだ。しかし、貧しい人を助けて地獄へ行くのは本望である」と答えたと言います(『正法眼蔵随聞記』)。

道元日本曹洞宗の開祖、永平寺『正法眼蔵 (しょうぼうげんぞう) 。従来、中国に学んだ僧達はたくさんの経典を招来していますが、天童山で座禅に打ち込んだ道元は、当然のことを当然とする「 眼横鼻直 (がんのうびちょく)」の仏法を体得し、経巻1つも携えずに徒手空拳で帰国しています。純粋で一途な修行者道元は栄西の孫弟子に当たり、栄西を尊敬していますが、栄西とは対照的に一切の権力から遠ざかり、自他に厳しい禅風を打ち立てました。

只管打座 (しかんたざ):ひたすら坐禅をすること。

身心脱落 (しんじんだつらく):身心を尽くした修行により、一切の束縛・執着から離れた境地に入ること。

修証一等 :修行の結果として悟りが得られるのではなく、坐禅の修行がそのまま悟りであるということ。

現成公案 (げんじょうこうあん):現象界の全てが活きた仏道だという意味。これは座禅動禅 に変わる契機となり、歩くことも仕事をすることもスポーツをすることも全てそこに意味があり、今を一生懸命生きることに悟りがあるということになります。

『正法眼蔵随聞記 (しょうぼうげんぞうずいもんき):道元の弟子・懐奘(えじょう)が師の談話をまとめました。

日蓮日蓮宗久遠寺(くおんじ)、『開目抄 (かいもくしょう)』『立正安国論(りっしょうあんこくろん) 。女人を含む万人救済を説く『法華経』に帰依し、「南無妙法蓮華経」と 題目 を唱えることによって成仏が可能になると説きました。『法華経』には「この経を恨む者が多い」「しばしば追放され」「枕木や瓦石で打擲(ちょうちゃく)されるだろう」などとあることから、迫害がかえってその真実性を証明するとして厳しい迫害に屈せず、四大法難と呼ばれる大弾圧の中でも逆に信仰を確信したと言います。さらに日蓮は『立正安国論』で邪教の蔓延による国家の滅亡を予言し、これに外寇(がいこう、侵略)と内乱の難が加われば七難八苦の仏罰で日本は滅びると警告していますが、元寇で予言を的中させたとして、多くの支持者が生まれました。そして、『法華経』の行者として現実の国土を 仏国土にすべく、「われ日本の柱とならん、われ日本の眼目とならん、日本の大船とならん 」(『開目抄』)と宣言していますが、京都で有力商人が帰依し、町衆(商工業者)に日蓮宗が広まります。

唱題 :「南無妙法蓮華経」(南無帰依する、 妙法蓮華経=法華経の正式名称)という題目 を唱えること。これは『法華経』の教えを信じ、実践するという宣言なので、使徒信条ニカイア・コンスタンティノポリス信条などの受け入れを表明する、キリスト教の「 信仰告白」(クレド)に相当すると言ってもいいかもしれません。

四箇格言 (しかかくげん):念仏無限、禅天魔、真言亡国、律国賊。

叡尊 :奈良の西大寺で真言律宗を復興しました。

蓮如 :浄土真宗中興の祖。村々に結成されたを拠点に、教義を消息(手紙)の形で分かりやすく説いた 『御文(おふみ) で布教し、教勢を一気に拡拡大させます。こうした講は単なる宗教結社の枠を超え、自治単位となり、やがて真宗本願寺派門徒( 一向宗)の農民による一向一揆 の組織的基盤となって、戦国大名達を恐れさせました。頓智で知られる一休禅師 との交流でも知られ、蓮如とは意気投合しつつもかなわないこともあった一休は、蓮如に頼んで親鸞の画像を受け取ると、「襟まきの あたたかそうな黒坊主 こやつの法は天下一品」と詠み、68歳の時にはついに師である大燈国師の頂相(ちんぞう、肖像画)を本寺へ返して念仏宗(浄土真宗)に改宗しています。

吉田兼好 :鎌倉末期の歌人・随筆家。『徒然草』では、仏教の無常観 に影響を受けた美意識が描かれています。今にも花が咲きそうな梢(こずえ)や花が散った後の庭に見所があると述べ、世の中は無常であるがゆえに「あはれ」があるのだと主張しました。

世阿弥 (ぜあみ):室町時代、父観阿弥と共に能を完成させました。「幽玄 」を能の美的理念とし、『風姿花伝花伝書 を著して、演技者が目指すべき有り様を「」に譬(たと)えながら、演技者としての心得を説きました。

幽玄 :元来仏教の教えが奥深いことを意味する仏教用語でしたが、余韻や余情の美しさを表すようになり、世阿弥によって能に取り入れられました。

千利休 :安土桃山時代の茶人。「わび」を重んじました。

わび :簡素の中に見出される趣のこと。



(3)日本儒教・近世日本思想

朱子学

朱子学 :形式的な秩序を重視する学問で、中世に伝来し、禅宗寺院で学問として研究されてきました。藤原惺窩(ふじわらせいか)→ 林羅山と伝わった朱子学(京学 )が本流となり、上下定分の理に従う身分道徳を説く林羅山が徳川家康の顧問となったことから、封建社会の秩序と安定を維持する価値規範として幕府公認の官学となり、幕藩体制の精神的支柱となります。ただ、中国や朝鮮王朝では科挙のため、朱子学一辺倒となり、その中で学派に分かれて政争が起きましたが、近世日本では朱子学以外に陽明学古学実学が起こり、古学から 国学、実学が接点となった蘭学洋学 なども起こり、さらにこれらを折衷した心学 などの学問も普及して、思想の百花繚乱状態でした。これが中国・朝鮮王朝に先んじて明治維新以降に近代化が急速に進展していった背景となったとされます。

京学 :「東方の小朱子」と呼ばれた李退渓(りたいけい、イテゲ)らによって純化された朝鮮朱子学姜沆(カンハン、きょうこう)によって 藤原惺窩に伝わり、惺門四天王の一人である林羅山 が打ち出した「上下定分の理」が江戸幕府の統治イデオロギーとして利用されます。しかしながら、朱子学には「 大義名分論 」もあり、なぜ本来臨時職である征夷大将軍とその戦地での軍営たる幕府が恒久化され、本来天皇が行うべき天下の政治(大政 )の実権を握っているのかという問題が生じていき、江戸中期に寛政の改革を実行した老中松平定信は「 大政委任論 」によってこれを説明しましたが、幕末に開国・貿易問題に後継者問題や改革の不手際が加わって幕府の危機管理能力・対応能力に疑問符が突きつけられ、700年間続いた幕府政治に終わりを告げる「 大政奉還論」となっていきます。

南学海南学派):南村梅軒(みなみむらばいけん)に始まるとされ、実質的には土佐の 谷時中(たにじちゅう)から始まった朱子学の流れで、谷時中の弟子山崎闇斎 が日本的朱子学である崎門学派を形成すると、幕末の国粋的尊王思想である水戸学 などに影響を与え、尊王攘夷運動 のバックボーンの1つとなります。江戸幕府の最後の15代将軍となった慶喜も水戸の出身で、水戸学の影響にあったため、大政奉還をし、鳥羽伏見の戦いにおいても徹底抗戦せず、江戸に逃げ帰ったわけです。この崎門学派によって、天皇が 現人神であること、日本が神国 であることが主張され、尊王思想が完成したわけですが、この尊王思想を明治以降、天皇教に変えて大日本帝国憲法の根幹に据えたのが 伊藤博文です。伊藤はヨーロッパでの憲法研究の中で「宗教なき所に憲法はあり得ない 」という事実に気づき、憲法の「機軸 」となる宗教が必要なのに儒教・仏教・神道のいずれも土台になり得ないことから、尊王思想を近代化して天皇をキリスト教的神 にしたのです。これを端的に示したのが、1871年に行われた廃藩置県で、イギリスの駐日公使だったパークスは「 日本の天皇は神である 」と驚嘆しました。もしもヨーロッパで国王が領主達から土地を強制的に取り上げ、特権や既得権益を奪ったとしたら、何年も内戦となり、何万人もの血が流れるのに、天皇の命令一つでこれを実現してしまったというわけです。

水戸学 :第2代水戸藩主徳川光圀が始めた『大日本史』の編纂を中心とする前期水戸学と、第9代水戸藩主の徳川斉昭が設置した藩校弘道館を中心とする後期水戸学があります。前期水戸学の中心は明の亡命遺臣朱舜水で、その学問は朱子学と陽明学の中間にあるとされ、実理・実行・実用・実効を重んじたので、経世致用(けいせいちよう)の学にも通じる要素がありました。後期水戸学は藤田幽谷(ゆうこく)・東湖(とうこ)父子、会沢正志斎(あいざわせいしさい)らが中心で、大義名分論国体論尊王攘夷論などを特徴とし、「愛民」「 敬天愛人」といった思想は吉田松陰西郷隆盛 をはじめとした多くの幕末の志士等に多大な感化をもたらし、明治維新の原動力となりました。ちなみに弘道館は松下村塾などの私塾をはるかにしのぐ日本最大の藩校で、総合大学と言っても言いほどでしたが、安政の大地震のため、藤田東湖らが圧死するなど大変な被害を受け、人材供給で大きく差がつくことになりました。

薩南学派 :室町時代後期の臨済宗の僧桂庵玄樹 (けいあんげんじゅ)が明で朱子学を学んで帰国し、薩摩国の桂樹院で朱子学を講じたことに始まる朱子学の流れ。

藤原惺窩 :近世儒学の祖。藤原定家の後孫で、元は京都五山の一つである相国寺の禅僧でしたが、仏教の出世間性(世間からの超越性)に疑問を抱き、還俗して儒学者となりました。豊臣秀吉の朝鮮侵略の捕虜となって来日した姜沆から朝鮮朱子学を学び、江戸幕府を開いた徳川家康からのオファーに対しては弟子の 林羅山を推挙しました。惺窩は朱子学だけでなく、陽明学、神道、仏教にも寛容でした。

林羅山 :「黒衣の宰相」と呼ばれた金地院崇伝南光坊天海 などと共に家康の顧問として武家諸法度などを起草し、4代将軍家綱まで侍講として仕えました。『春鑑抄』『三徳抄』。天の道理にかなう生き方に喜びがあるとし、「上は尊く、下は卑しい」とする 上下定分の理を説き、近世の封建的身分秩序の中で善を実現するには、居敬窮理 の工夫である存心持敬 (そんしんじけい)が必要であるとしました。また、イエズス会の日本人修道士イルマン・ハビアンと「地球論争」を行っていますが、羅山は地動説と地球球体説を断固として受け入れず、地球方形説と天動説を主張しています。ちなみに上野忍ヶ岡の私塾弘文館は、第3代学頭林鳳岡(ほうこう)の時に5代将軍綱吉の援助で神田昌平坂の湯島聖堂に移されて聖堂学問所となり、やがて幕府直轄の学問所 昌平黌(しょうへいこう、昌平坂学問所、東京大学の前身の1つ)となります。

居敬窮理 :欲望を抑えて心身を慎み、天地や人倫の秩序を根拠づける上下定分の理を明らかにすること。

存心持敬 :常に心の中に「」(欲望を抑えて慎むこと)を持つことを心がけること。

木下順庵 :江戸時代前期の朱子学者、5代将軍綱吉の侍講。幼少より神童と称され、僧天海に鬼才を見込まれて法嗣を望まれますが、惺門四天王の一人松永尺五に師事することを選び、自らも木門学派を形成して、門下に室鳩巣雨森芳洲新井白石木門十哲がいます。

室鳩巣 :江戸時代中期の朱子学者、8代将軍吉宗のブレーンとして享保の改革を補佐、『駿台雑話』 。仏教は世間を捨てることを説きますが、結局は自分が極楽往生することを願う点で、自分の楽しか考えていないとして、仏教の出世間主義を批判しました。

雨森芳洲 (あめのもりほうしゅう):朝鮮語に通じた朱子学者。対馬藩に仕えて朝鮮通信使 との外交に当たりました。朝鮮の風俗・慣習を理解し、「交隣の道は誠信にあり」として「誠信の交わり 」を外交の基本姿勢とし、朝鮮との善隣友好外交に尽力しました。

新井白石『采覧異言』『西洋紀聞』『折たく柴の記』 。朱子学を学び、やがて6代将軍家宣・7代将軍家継の時に幕府の政策立案に関与しました。屋久島で捕らえられたイタリア人宣教師シドッチを尋問して、西洋各国の政治や地理を聞いて記録し(『采覧異言』)、西洋の技術に敬服する一方、宗教では儒教が優れていると考えました(『西洋紀聞』)。自伝『折たく柴の記』は 福澤諭吉『福翁自伝』と共に日本の自伝文学の双璧 とされ、『玉勝間(たまかつま)(本居宣長)、 『花月双紙』 (松平定信)と共に江戸期を代表する随筆ともなっています。さらに賀茂真淵・本居宣長ら国学者も利用した国語辞典『東雅(とうが)』、古代史をまとめた『古史通』など、多様な著書があります。

山崎闇斎 (あんさい):「敬(つつしみ)」と義を重視して君臣関係のあるべき姿を論じるなど、厳格に朱子学の教えを守って生きるべきだと主張しました。また、理に従って欲望を捨てることで本来の心を保ち、天と合一できるとして、神道を取り入れた神儒一致を主張し、 吉田神道を受け継いだ吉川惟足(よしかわこれたり)の吉川神道 を発展させて、朱子学的神道である垂加神道 を創始しました。京都堀川の塾で多くの門人を育てて崎門学派を形成し、江戸では諸大名に講義し、3代将軍家光の異母弟にして家光と4代将軍家綱を補佐した会津藩主 保科正之 (ほしなまさゆき)にも厚遇されています。闇斎は「劉邦は秦の民であったし、李淵は隋の臣であったのだから、彼らが天下を取ったのは反逆である。それは殷でも周でも他の王朝でも同じことで、創業の英主といわれていても皆道義に反しており、中国歴代の創業の君主で道義にかなっているのは後漢の光武帝ただ一人である」と述べて易姓革命を否定しており、あるいは弟子達に向かって「もし中国が孔子を大将にし、孟子を副将にして数万騎の軍勢を率いて、日本を攻めてきたならば、われわれ孔孟の道を学ぶ者はどうすればよいのか」と問い、返答に窮した弟子達に「「不幸にもそのような事態に遭遇したならば、われわれは鎧を着込み、手に武器をとって一戦して、孔子・孟子を虜にして国恩に報ずる。それが孔孟の道なのだ」と説いています(原念斎『先哲叢談)。


陽明学

陽明学 :主観主義的・実践的・行動主義的な学風から、社会体制や権威に対して批判的な精神的態度を育て、幕府からは敬遠されましたが、幕末においては 大塩平八郎吉田松陰などに現状改革の精神と行動をもたらしました。

中江藤樹 (なかえとうじゅ):日本陽明学の祖、「近江聖人」、『翁問答』 。はじめ朱子学を学び、藤樹書院で教えていましたが、やがて疑問を抱くようになり、『陽明全書』に触れて陽明学の致良知説に共鳴するようになりました。林羅山が主君への「 」を強調したのに対し、「 」に人倫関係を成り立たせている根本原理を見出し、全ての人々が儒学を学び、実践すべきだと主張しました。

致良知良知 とは人間に生まれながらに備わっている、善悪分別を真実に弁(わきま)え知る徳性断の知のことで、これを働かせることを 致良知と言います。

知行合一 (ちこうごういつ):知ることと行うことは本来一つであるという考え。

時処位 (じしょい):(場所)・ (社会的地位)に応じて適切な判断を行う主体的な働きを「」と言い、具体的な場面に即した「権」の働きを重視しました。

愛敬 (あいけい):孝の徳を具体的に言えば、人々が「ねんごろに親しみ」()、「上を敬い、下をあなどらない」( )ことであるとしました。

熊沢蕃山 (くまざわばんざん):江戸前期の陽明学者、『大学或問(だいがくわくもん) 。中江藤樹の思想に影響を受け、礼法は に応じて柔軟に変えてもよいと考えました。「治国平天下 」という儒学の理念を現実との関わりの中で考え、岡山藩主池田光政に仕えて治山治水に業績を上げ、例えば樹木を切り尽くすと山の保水力が乏しくなり、水害が起こりやすくなるので、山林を保護すべきであると主張するなど、環境保護思想の先駆者としても知られます。また、蕃山は庶民教育の場となる「花園会」の会約を起草していますが、これが後に日本初の庶民学校として開かれた 郷学閑谷学校 の前身となります。しかし、蕃山の陽明学は幕府や藩の批判を受けるようになったため、藩の重職を辞して、真っ昼間なのに提灯を下男に掲げさせ、「この町は先が見えぬ。昼でも夜でも真っ暗じゃあ」と大声でわめきながら城下の大通りを堂々と退去していったとされます。

佐藤一斎 :大坂の学問所懐徳堂の第4代学主として全盛期を支えた中井竹山 に学んだ後、林家8代で林家中興の祖とされる林述斎(はやしじゅっさい)に仕えて 昌平坂学問所 に入り、塾長として述斎と共に多くの門弟の指導に当たりました。儒学の大成者として公に認められ、述斎没後に昌平坂学問所の儒官(総長)となり、朱子学を専門としつつもその広い見識は陽明学まで及び、内心では陽明学を信奉しているとして、「陽朱陰王」と評されました。その門下から山田方谷佐久間象山渡辺崋山横井小楠 ら多くの人材を輩出しています。一斎の随想録『言志四録』は指導者のための指針の書とされ、 西郷隆盛の終生の愛読書だったとされます。

佐久間象山 (さくましょうざん):当時の儒学の第一人者であった昌平坂学問所の佐藤一斎に詩文・朱子学を学び、 山田方谷と共に「佐門の二傑 」と称されましたが、アヘン戦争で清国がイギリスに敗北したことに衝撃を受け、西洋に対抗するためにはその科学技術の移入が必要であると考えました。そのため、伝統的な「和魂漢才」論に対して、「東洋道徳」と共に「 西洋芸術」を学ぶべきであるという「和魂洋才 」論を主張しました。象山は五月塾で砲術と兵学を教えていますが、その門下から勝海舟西村茂樹吉田松陰坂本龍馬加藤弘之らが出ています。

吉田松陰 :天道との関わりにおいて人間の実践を能動的なものとして捉え、天道にかなうとは、功名や利欲を離れた純粋な心情に徹し、己の誠を尽くすことにほかならないとしました。そして、我が国の主君に忠を尽くす勤皇の精神は、この誠において天道に通じているとし、藩の枠を超えて全ての民衆が天皇に忠誠を尽くすべきという「一君万民論」を説き、尊王倒幕運動に大きな影響を与えました。緒方洪庵適塾と共に幕末の二大私塾と呼ばれた松下村塾 において、27歳からのわずか1年半の教育で、高杉晋作久坂玄瑞(くさかげんずい)、吉田稔麿(としまろ)、入江九一(いりえくいち)、伊藤博文山県有朋前原一誠品川弥二郎山田顕義 など幕末~明治維新期のリーダーを育てました。その秘訣は長崎、江戸をはじめとして全国から最先端の情報が集まるようにした「 飛耳長目 (ひじょちょうもく)」、自分がその場にいたらどうするかと全てを自分に引きつけて考える主体性の教育にあったとされます。例えば、日本の歴史を学ぶにしても、『古事記』『日本書紀』の日本神話からひもとくのではなく、「我々は長州人である。長州の所からやろう」と長州史から始め、合戦の所にさしかかると地図を広げ、軍陣を確認し、「自分だったらどうするか」を考えさせたと言います。明治期、中国からの留学生が増加することにより、新しい中国の国づくりを考える若い思想家・運動家の中で中国ではすでに衰退していた陽明学が逆輸入され、松陰の著作も中国で読まれるようになりました。後に春秋公羊学を掲げ、明治維新をモデルにした変法運動を主導した康有為も吉田松陰の『幽室文稿』を含む陽明学を研究し、康有為の弟子の梁啓超は1905年に海で『松陰文鈔』を出版するほど、陽明学を奉じた吉田松陰を称揚しています。

決別なんぞ多情、松塾当に隆起すべし」(門下生に宛てた詩)

身はたとひ武蔵の野辺に朽ぬとも留置かまし大和魂」(遺書『留魂録』冒頭の句)

親思ふ心にまさる親心けふの音づれ何ときくらん」(辞世の句)

松下村塾の双璧 :「識の高杉、才の久坂」と称された高杉晋作久坂玄瑞 。吉田稔麿が山県有朋に見せた「裃を付け端然と座っている坊主、鼻ぐりのない暴れ牛、木刀、そして隅にただの棒きれ」の絵では、「この坊主は久坂だ。久坂は医者のせがれだが、廟堂に座らせておくと堂々たる政治家だ。この暴れ牛は高杉だ。高杉は中々駕御できない人物だ。この木刀は入江のことだ。入江は偉いが、まだ刀までとはいかない木刀だ」と言ったとされます。山県が「じゃ、この棒きれは誰だ。」と聞くと、稔麿は「それは、お前のことだ」と言いました。伊藤博文と共に維新第二世代として活躍し、元老にして陸軍の大立者となった山県も松下村塾では「棒きれ」に過ぎなかったということです。

松陰門下の三秀高杉晋作久坂玄瑞吉田稔麿。吉田は 「稔麿が生きていたら総理大臣になっただろう」(品川弥二郎)と評された人物であり、山県有朋が自分は稔麿に比べてどの程度劣っているか高杉晋作に尋ねると、高杉は「(人として比べられるくらい)同等と言うのか、吉田が座敷にいるとすれば、お前は、玄関番ですらない」と笑ったとされます。

松下村塾の四天王高杉晋作久坂玄瑞吉田稔麿入江九一


古学

古学 :孔子・孟子、さらには周公から堯・舜・禹の「先王の道」にまで帰ろうとする原点回帰運動。朱子学陽明学も仏教や道教の影響を多分に受けた 新儒学ネオ・コンフューシャニズム )ですが、これに対して儒教原典の実証的研究が進み、古学山鹿素行)→古義学伊藤仁斎)→古文辞学荻生徂徠)が形成されます。特に古文辞学は近代的学問の原点となったヨーロッパの 聖書批評学、中国清朝の考証学と時を同じくしており、方法論的に高く評価されています。

山鹿素行 (やまがそこう):山鹿流兵学・古学の祖、『聖教要録』『中朝事実』 。林羅山について朱子学を学び、さらに甲州流兵学を学んだ後、朱子学批判に転じ、孔子や周公の直接の教えにつくことを主張する古学を提唱しました。また、武芸を重んじ、学問を軽んじる当時の武家の風潮に対し、太平の世における新たな武士のあり方を士道として主張し、武士は儒学に基づき、為政者の役割を果たすべきだと主張しました。素行は地球球体説を支持し、儒教の宇宙観である天円地方説を否定しています。ここから 『中朝事実』 では、中国では易姓革命で王朝が何度も替わって家臣が君主を弑することが何回も行われていて君臣の義が守られてもいないので、中国を天命の中心として四方に夷蛮(東夷、南蛮、西戎、北狄)を配する中華思想を否定し、日本は外国に支配されたことがなく、万世一系の天皇が支配して君臣の義が守られているとして、日本こそが中朝(中華)であると主張しています。

士道 :武士が重んじるべき道徳、民の対する為政者としての道。

伊藤仁斎古義学『童子問』『論語古義』 。日常卑近な人間関係における仁愛こそ天道にかなうものであり、人々が孔子の道に立ち返り、他者に対する忠信や忠恕の実践に努めるならば、互いに愛し親しむ和合が実現するとして、「 」を重んじました。京都堀川の古義堂堀川学校 )は堀川を隔てて山崎闇斎闇斎塾 と相対しており、仁斎は穏やか、闇斎は厳しい人柄で知られ、両塾ともに人気が高く、古義堂では約40年間に約3000人が学んだとされます。

古義学 :仁斎は『論語』を「最上至極宇宙第一」の書とし、 『孟子』を孔子の思想を正しく理解するために必要不可欠な解説書と捉え、これらの古義 (古代語における元々の意味)を明らかにすることによって文献的に孔子・孟子の思想を実証しようとした

真実無偽 (むぎ):私心の無い、純粋な心の状態。伊藤仁斎が「」を表すのに用いた言葉。

『童子問』 :童子の問いに師が答える形で人間の生き方を述べたもの。

荻生徂徠 (おぎゅうそらい):古文辞(こぶんじ)『弁道』『政談』 。「道」は天地自然に備わっているものではなく、人為的なものだと捉え、為政者が学ぶべき道とは道徳ではなく、天下を安定させるための手段であるとしました。すなわち、孔孟の教えの実践よりも先王の時代の制度を重視し、それを学ぶには六経などの 古文辞 (中国古代の言語)を訓読に頼らず、中国語で読まねばならないとしました。かくして、徂徠は朱熹を古代の言語を全く知らないと批判し、古代の言語、制度文物の研究を重視する「 古文辞学」を提唱して、蘐園塾 (けんえんじゅく)で多くの門人を育てました。8代将軍吉宗の政治的助言者であり、討ち入りをした赤穂浪士の処分裁定論議では、 林鳳岡室鳩巣、山崎闇斎の弟子にして「崎門三傑 」の一人である浅見絅斎 (あさみけいさい)らが賛美助命論を展開したのに対し、徂徠は「もし私論を以て公論を害せば、此れ以後天下の法は立つべからず」として義士切腹論を主張して、この徂徠の論が採用されました。

礼楽刑政 (れいがくけいせい):古の聖人が定めた制度「先王之道(せんおうのみち)」で、その目的は 経世済民 (けいせいさいみん)にあるとされます。荻生徂徠は、学問の目的は人格の修養ではなく、経世済民を学ぶことにあると考えました。


国学

国学 :古学派の古典研究に影響を受け、日本の古典に日本固有の精神(古道 )を見出そうとする学問。儒学に対する一大学派となりました。

契沖 :江戸中期の国学の先駆者、『万葉代匠記』 (『万葉集』の注釈書)。『万葉集』を古の遺風を伝える書物と考え、儒学や仏教の解釈によらずに文献学的・実証的に研究すべきだと主張しました。古来の為政の理想である古道を見出す学問を始め、 国学の祖 と言われます。そもそも水戸藩において第2代藩主光圀の志により、『万葉集』の諸本を集めて校訂する事業を行っており、 下河邊長流 (しもこうべながる)が註釈の仕事を託されまたしが、長流が病でこの依頼を果たせなくなった時に同好の士である契沖を推挙し、契沖に引き継がれます。契沖は『万葉集』の正しい解釈を求める内に、当時主流となっていた定家仮名遣の矛盾に気づき、歴史的に正しい仮名遣いの例を『万葉集』『日本書紀』『古事記』『源氏物語』などの古典から拾い、分類した『和字正濫抄』を著していますが、これに準拠した表記法は「 契沖仮名遣」と呼ばれ、後世の歴史的仮名遣 の成立に大きな影響を与えました。かくして完成した『万葉代匠記』は、鎌倉時代の仙覺や元禄期の 北村季吟 に続いて画期的な事業と評価されており、仏典漢籍の莫大な知識を補助に著者の主観・思想を交えないという契沖の註釈と方法が最もよく出ている代表作です。

荷田春満 (かだのあずままろ):賀茂真淵本居宣長平田篤胤と共に「国学の四大人 (しうし)」の一人とされます。古語の理解によって古代精神を明らかにしようとしました。契沖の『万葉代匠記』などを学び、古典・国史を学んで古道の解明を試み、古道の意義を強調して国学の学校創設を8代将軍吉宗に進言します。弟子に賀茂真淵がいます。

賀茂真淵 (かものまぶち):江戸中期の国学者、「国学の四大人(しうし)」の一人、『国意考』『万葉考』『歌意考』。日本固有の道である「古道」を知るには 『万葉集』 を研究すべきであると考え、国学の方法を確立しました。儒学や仏教の影響を受けていない日本人の素朴な自然のままの境地の重要性を主張し、「 高く直き心 」を理想としました。本居宣長は伊勢神宮の旅の途中、伊勢松阪の旅籠に宿泊していた真淵を訪れ、生涯一度限りの教えを受けていますが(「 松阪の一夜 」)、この時、宣長は33歳、真淵は66歳で、22歳の時に契沖の古典研究に触れて国学を志した宣長が『古事記』の注釈がしたいと言うと、真淵は「私は国学の基礎は『古事記』にあるとしながら、その前段階の『万葉集』の研究に人生の多くを費やした。あなたなら記紀の解明はできるでしょう」と励ましたとされます。その後、宣長は真淵に入門して学問の志を受け継ぎ、文通を続けながら『古事記』の研究に着手し、約35年を費やして精密、詳細な『古事記伝』を完成させるのです。

古道 :人為を加えない、自然のままの感情を重んじる日本古来の道。真淵は、偽りや技巧を排した古代人の精神にこそ古道があるとし、それが神のはからいに他ならないとしました。

ますらをぶり :『万葉集』の男性的で大らかな歌風。真淵は、天地自然のままに素直に大らかに生きる古代精神の基調「高き直き心 」によって歌われた和歌を高く評価しました。これに対して、儒教・仏教の影響があるさまを「からくにぶり 」として排しました。

たをやめぶり :『古今和歌集』以降の女性的で優雅な歌風。真淵は批判していますが、弟子である本居宣長は、 『源氏物語』を高く評価し、「たをやめぶり」も日本の文化の大切な流れであるとしました。

高き直き心 :『万葉集』研究によって理想とされた、自然のままに素直に雄々しく生きる古代人の精神。

塙保己一 (はなわほきいち):和学講談所『群書類従』 。全盲ながら賀茂真淵に学び、実証主義的な史料研究を行い、全てを耳で聞いて覚えて、国学・国史を主とする一大叢書『群書類従』666巻を出版しました。その版木を製作させる際、なるべく20字×20行の400字詰に統一させていますが、これが現在の原稿用紙の一般様式の元となっています。また、 平田篤胤『日本外史』を著した頼山陽 なども保己一に学んでいますが、『群書類従』はイギリスのケンブリッジ大学をはじめ、ドイツの博物館、ベルギーの図書館、アメリカの大学等に寄贈されたため、三重苦で知られるアメリカの ヘレン・ケラー も幼少時より「塙保己一を手本にしなさい」と母親より教育され、来日時には真っ先に渋谷にある塙保己一資料館「温故学会」を訪れて保己一の座像や机に触れ、「日本訪問における最も有意義なこと」と述べています。

本居宣長 :「国学の四大人(しうし)」の一人、国学の大成者、『古事記伝』『源氏物語玉の小櫛』『玉勝間』『馭戒慨言(ぎょじゅうがいげん)契沖の文献考証、賀茂真淵 の古道説を継承し、約35年を費やして当時の『古事記』研究の集大成である注釈書『古事記伝』を著し、一般には正史である『日本書紀』を講読する際の副読本としての位置づけであった『古事記』が、独自の価値を持った史書としての評価を獲得していく契機となりました。言語学的にも係り結びの法則を明らかにしたり、「上代仮名遣い」は母音の違いに対応するとして、奈良時代には「イ・エ・オ」がそれぞれ2種類( 甲類乙類 )に分かれていて母音は合計8個あったことが明らかになり、画期的な業績となりました。その後、甲乙の区別が無くなって今日の5母音となったのであり、こうした研究から上代日本語の復元が進みました。また、『源氏物語』の研究から注釈書『源氏物語玉の小櫛』を著していますが、宣長は「 もののあはれ 」という感情を重視し、儒学が素直な感情よりも道理を優先して、人間の自然な感情を抑圧しているとして批判しました。そして、善悪などの価値観、作為的な観念は儒学や仏教によってもたらされたものであり、これに影響された漢意を排除して真心に従い、古代日本の神々の道に従う生き方を理想としました。私塾 鈴屋(すずのや)で500人近い門人を育てていますが、平田篤胤 などは死後に夢中で対面して入門を許されたとしています。

漢意 (からごころ):儒学や仏教に感化された心。うわべをつくろうさまを「唐土風 (もろこしぶり)」として排しています。江戸時代以前の日本外交史に関する『馭戒慨言(ぎょじゅうがいげん) も漢意の批判・排除を目的としています。

惟神 (かんながら)の道:『古事記』『日本書紀』『万葉集』に見られる日本古来の道「古道 」のこと。

真心 :良くも悪くも生まれつきたるままの心。本居宣長は和歌や物語文学を通じて歌道を研究する中で、漢意を捨てて、悲しむべきことを悲しみ、喜ぶべきことを喜ぶ、ありのままの心の働きを知ることこそが大切であると説きました。

もののあはれ :人が物や事に触れた時、しみじみと素直に感じる心のこと。真心の現れで、この心を知り、身につけた人を「 心ある人」と評価しました。

平田篤胤 (ひらたあつたね):「国学の四大人(しうし)」の一人、復古神道『霊能真柱(たまのみはしら)』『仙境異聞(せんきょういぶん)。宣長の没後2年目にその著書を読んで国学に目覚め、夢の中で宣長より入門を許可されたとしており、「宣長没後の門人」を自称しました。篤胤は死後の魂の行方と救済をその学説の中心に据え、人は死ぬと皆、 黄泉国に往くという『古事記』の主張に立った宣長に対し、死者の霊魂は幽冥界 に行き、神の下で子孫を見守る存在になるとしました。また、国学を基礎に日本固有の古代の神の道を説き、幕末の尊王攘夷運動に影響を与えましたが、国学の実証的性格は薄れていきました。私塾 気吹舎 では塾教育と連動して、多種多様な出版物を刊行していましたが、篤胤の死後も含めて門人は約4200人に上ったとされます。

『霊能真柱』 :「霊の行方の安定(しづまり)」を知るならば「大倭心(やまとごころ、大和心)」を堅くすることができ、「真道(まことのみち)」を知ることができるという死後安心論の意図をもって著述され、人は生きては天照大神が瓊瓊杵尊に命じて治めさせ、それを引き継いだ天皇が主宰する「顕界(うつしよ)」(目に見える世界)の「御民(みたみ)」となり、死しては大国主神が主宰する「 幽冥 (かくりよ)」(目には見えない世界、冥府)の神となって、それぞれの主宰者に仕えまつるのだから、死後は必ずしも恐怖するものではないと説きました。

『仙境異聞』 :神仙界を訪れ、呪術を身に付けたという少年寅吉(とらきち)からの聞書きをまとめたもの。以前から異境や隠れ里に興味を抱いていた篤胤は、寅吉の話により幽冥の存在を確信したとされます。

復古神道 :国学者達により学問的な立場で突き詰められていった国学的神道。賀茂真淵本居宣長 らが古道説を体系づけ、さらに平田篤胤 らが儒教や仏教を強く排斥して日本古来の純粋な信仰を尊んで大成しました。そして、仏教・儒教・道教・蘭学・キリスト教など様々な宗教教義なども進んで研究分析し、八家の学とも称しされた平田派国学から明治期の古神道が生まれ、篤胤の弟子本田親徳(ほんだ ちかあつ)は神道における霊的側面を理論化し、さらにその流れを汲む大本教出口王仁三郎らは人間の心は根源神の分霊である「直霊(なおひ)」が「荒魂(あらたま、あらみたま)」、「和魂(にぎみたま)」、「奇魂(くしみたま)」、「 幸魂(さきみたま、さちみたま)」の4つの魂を統御するという日本古来の「一霊四魂 」説を体系化しました。今でも出雲大社や出雲大社教などでは、神語「幸魂奇魂守給幸給 」(さきみたま、くしみたま、まもりたまえ、さきはえたまえ)を唱える伝統があり、これは浄土系仏教徒が「南無阿弥陀仏 」を唱えたり、日蓮宗系仏教徒が「南無妙法蓮華経」と唱えたり、キリスト教徒が「 アーメン」と唱えたりすることに通じます。

直霊 :天とつながる霊的部分で、4つの魂の働きをコントロールし、良心のような働きをします。本居宣長『古事記伝』にも「直毘霊 (なおびのみたま)」が収められ、その古道論を論じていましたが、後に独立した一書となりました。後に五行思想が取り入れられ、中央の土に該当とするとされました。

荒魂 :「勇」の機能、前に進む力。五行思想では南方の火に相当するとされました。

和魂 :「親」の機能、人と親しく交わる力。五行思想では北方の水に相当するとされました。

幸魂 :「愛」の機能、人を愛し育てる力。五行思想では東方の木に相当するとされました。

奇魂 :「智」の機能、物事を観察し分析し、悟る力。五行思想では西方の金に相当するとされました。


実学

実学 :天理を追求する朱子学窮理 の精神が自然科学的な実学を生み、後の西洋知識の受容を準備しました。明末清初の中国でも、顧炎武(こえんぶ)・ 黄宗羲(こうそうぎ)・王夫之 (おうふうし)らが学問は現実の社会問題を改革するために用いられなければならないと主張して経世致用(けいせいちよう) の学を興し、朝鮮王朝後期の朝鮮半島でも、事実に基づき真理を求める「実事求是 」と物を役立てて用い生活を豊かにする「利用厚生」を基礎にした実学が興っています。

貝原益軒 (かいばらえきけん):『大和本草』『養生訓』『和俗童子訓』『女大学』 。元々は朱子学者ですが、和算から陽明学に至るまでの幅広い読書とフィールドワークを重ね、木下順庵山崎闇斎ら朱子学者と交流すると共に、農業学者宮崎安貞『農業全書』 編集を手伝い、動植物への関心から博物学的な知のあり方を追究する一方で、日用の道徳を分かりやすく説くなど、朱子学を日常に活かす試みを行いました。70歳で役を退いてからは著述業に専念するようになり、60部270余巻に及ぶ著書を残して、本草学(薬学)の発展に貢献すると共に、教育、養生、経済、農業など幅広い領域で実績を残しました。ちなみに シーボルトは実証的博物学者益軒を「日本のアリストテレス 」と称しています。養生法の達人でもあり、83歳にして抜歯が1本も無かったとされます。

本草学 :植物や鉱物などの効用を研究する学問。

西川如見 (にかわじょけん):江戸時代前・中期の天文暦算家・地理学者。明・琉球・オランダなど世界各国から日本からの道程や気候・風俗・物産などを記した、日本初ての世界商業地誌 『華夷通商考』を著します。

横井小楠 (よこいしょうなん):熊本藩校時習館塾長を経て、後に教育勅語を起草する元田永孚(もとだながざね)らと実学党を結成し、「大義」を世界に行き渡らせ、「 民富」を図る実学 を提唱しました。小楠は儒学に基づきつつ、西洋の技術と知識の積極的な受容を説いて和魂洋才論積極的開国論の立場に立ち、幕府・藩を越えた統一国家の必要性を説いています。ちなみに小楠の第一の門弟は徳富蘇峰蘆花の父親である徳富一敬でした。その後、福井藩の 松平春嶽 に招かれて政治顧問となり、幕政改革や公武合体の推進などにおいて活躍し、明治維新後に新政府に参与として出仕しています。

「尭(ぎょう)・舜(しゅん)・孔子の道を明らかにし、

西洋器械の術を尽くさば、

何ぞ富国に止らん、

何ぞ強兵に止らん、

大義を四海に布(し)かんのみ」(小楠がアメリカに留学する甥の左平太・太平に贈った言葉)

熊本洋学校 :肥後実党の建策により、明治維新後にアメリカの元軍人リロイ・ランシング・ジェーンズ を招聘して開設された英学校。閉鎖後は同志社英学校に引き継がれます。

熊本バンド :明治期日本にキリスト教を広めた三大バンドの1つ。熊本英学校を母体として誕生し、金森通倫、小楠の息子横井時雄小崎弘道海老名弾正徳富蘇峰らが輩出され、 国権的キリスト教の流れができます。


蘭学・洋学

杉田玄白 :江戸中期の蘭学者・蘭方医、『蘭学事始(らんがくことはじめ)前野良沢(まえのりょうたく)らとドイツ人クルムスの解剖医学書のオランダ語訳 『ターヘル・アナトミア』の正確さに驚き、これを翻訳して『解体新書』 を刊行し、日本の蘭学発展に多大な影響を及ぼしました。晩年には翻訳のいきさつや苦労を『蘭学事始』にまとめています。

三浦梅園『玄語』 。天文学に関心を持ち、遊学先の長崎で西洋の自然科学的知識を積極的に受容しました。懐疑的態度から世界のあり方を問い、気や理などの朱子学の用語を用いて自然に備わった「 条理」を探求し、条理学を構築しました。

条理 :天と地、陰と陽、動物と植物というように、あらゆる存在は対立する概念を持ち、1つに全体はその対立する2つの部分から成り立つという筋道。

反観合一 (はんかんごういつ):分かれた2つの部分の統合として全体を捉える方法。

帆足万里 (ほあしばんり):豊後国日出藩家老として財政改革に成功したのみならず、三浦梅園広瀬淡窓と共に豊後三賢の一人とされます。自然科学、特に物理的な知識をまとめた 『窮理通(きゅうりつう) は日本における自然科学史に画期的な文献とされ、明治年間にオランダのフルベッキ が『窮理通』の説を聞き、江戸時代の科学の進んでいたことに驚いたと言います。

渡辺崋山 :三河国田原藩家老、蘭学者のリーダー的存在にして文人画家、『慎機論』 。江戸時代後期に蘭学者、儒学者など幅広い分野の学者・技術者・官僚などが集まった勉強会「尚歯会(しょうしかい)」を 高野長英らと共に主導し、「蘭学にて大施主 」(藤田東湖)と呼ばれたほどですが、日本来航を企図したモリソン号を幕府が異国船打払令により砲撃したこと( モリソン号事件)を批判して『慎機論』を著したことがきっかけで、蛮社の獄 で自殺に追い込まれます。画家としては、中国王維を源流とする南宗画の流れを引く南画の谷文晁 (たにぶんちょう)らに学び、さらに洋画の陰影を施した筆運びや遠近法などを取り入れて、独自の画風を確立しています。

シーボルト :オランダ商館医として長崎出島に赴任したドイツの医師・博物学者。長崎郊外に鳴滝塾 を開き、高野長英・二宮敬作・伊東玄朴らに講義をし、論文を書かせ、日本で初めてのドクトル の称号を授与しています。帰国の際に幕府禁制の日本地図を所持していたとして、国外追放処分となります(シーボルト事件)。

高野長英 :鳴滝塾のエース。モリソン号事件を批判して『戊戌(ぼじゅつ)夢物語』 を著したため、蘭学者の弾圧である蛮社の獄で自殺に追い込まれます。

二宮敬作 :日本初の女医(産科医)となったシーボルトの娘・楠本イネ を養育したことでも知られ、『ライプツィヒ版ドイツ百科事典』に日本人としてはただ一人だけ「日本の俊才、二宮敬作伝」と記されています。

伊藤玄朴 :天然痘の予防接種である種痘法 を実施して近代医学の祖とされ、官医界における蘭方医の地位を確立したとされます。種痘所頭取に適塾適々斎塾、大阪大学の前身)を開いた緒方洪庵を推挙しています。

適塾の三傑大村益次郎橋本佐内福澤諭吉 。適塾25年の歴史で3千人の入門者があったとされますが、その筆頭に挙げられる3人です。大村は日本陸軍の創設者、橋本は福井藩の名君松平春嶽のブレーン、福澤は慶應義塾の創設者です。


武士思想

山本常朝 :鍋島藩士。『葉隠(はがくれ) 。主君に対する絶対的忠誠とそれに根差した死の覚悟を説き、民に対する為政者としての自覚を求める士道山鹿素行)とは異質の武士道 を示しました。『葉隠』は戦前には軍人必読の書とされました。

武士道というは、死ぬことと見つけたり」(『葉隠』冒頭文)。

士道 :太平の世における新たな武士のあり方。山鹿素行は、武芸や主君への献身を重視する従来の武士道とは異なり、武士は政治担当者という自覚を持って高貴な人格を保ち、農工商の三民の師となって道を教え、天下に人倫の道を実現しなければならないとしました。

『武士道』新渡戸稲造(にとべいなぞう)が日本人の精神的伝統として武士道を国際社会に紹介した英文著作。岡倉天心『茶の本』鈴木大拙『日本的霊性』などの英文著作と共に、世界に日本を紹介する先駆的役割を果たしました。新渡戸は武士道をヨーロッパの 騎士道ピューリタン の精神に匹敵する道徳原理としてとらえ、この武士道によってこそキリスト教の日本化が完成すると考えました。

広瀬淡窓 :幕末最大の漢学塾咸宜園(かんぎえん)を天領のある豊後国日田に開き、その門人は高野長英大村益次郎など約4800人に及びます。咸宜園には「 三奪の法 」があり、身分・出身・年齢などにとらわれず、全ての塾生が平等に学ぶことができ、幕末の志士達もここを訪ねて意見を戦わせていたようです。


町人思想

井原西鶴浮世草子の作者、「元禄の三大文学者」の一人、 『好色一代男』『日本永代蔵(にほんえいたいぐら)』『世間胸残用 (せけんむねざんよう)。「浮世 」において金銭欲や色欲にまかせて享楽的に他者と関わる生き方を、当時における町人の有り様として肯定的に描き出しました。

松尾芭蕉 :「元禄の三大文学者」の一人。俳諧を連歌から独立させて詩歌の一形式として確立した 松永貞徳門下(貞門俳諧)の北村季吟 に学び、俳諧に静寂・閑寂な「さび」の美を込めて、俳諧を芸術の域にまで高めた蕉風俳諧 を創始します。江戸から伊勢を経て関西地方を旅した際の『笈(おい)の小文(こぶみ) 、江戸から東北・北陸を巡って美濃大垣に至る『おくのほそ道』 などの俳諧紀行文が有名です。

古池や蛙(かはづ)飛びこむ水の音」(『蛙合』)

夏草や兵どもが夢の跡」(『おくのほそ道』岩手県平泉町)

(しずか)さや岩にしみ入る蝉の声」(『おくのほそ道』山形県・立石寺)

五月雨をあつめて早し最上川」(『おくのほそ道』山形県大石田町)

荒海(あらうみ)や佐渡によこたふ天河 (あまのがわ)」(『おくのほそ道』新潟県出雲崎町)

初しぐれ猿も小蓑(こみの)をほしげ也(なり)」(『猿蓑』)

旅に病んで夢は枯野をかけ廻る」(辞世の句)

近松門左衛門人形浄瑠璃の脚本家、「元禄の三大文学者」の一人、 『曽根崎心中』『国性合戦 (こくせんやかっせん)。儒教的な人倫において重んじられる「義理」と恋人に対する「 人情」との間で苦しんだ男女が、最後には身を破滅させる物語を共感的に描きました。

鈴木正三 (しょうさん):江戸初期の禅僧。『万人徳用』。武士・農民・職人・商人のいずれも、自らの生業を通じて仏になることができるという「 世法即仏法」を説き、商人は商売の営みを天道から与えられた役目として受け止め、「正直 」を旨として商いに大いに励むべきであるとしました。石田梅岩よりも早く職業倫理を説きました。

職業仏行説 :各々の職業に励む正直の道が仏道修行になるという考え。

石田梅岩 (ばいがん):江戸中期、石門心学、『都鄙問答(とひもんどう) 。独学で神道・仏教・儒教を学び、自らの商人としての体験をふまえ、人の道について考察しました。「正直」と「 倹約 」に基づいた、商いによる利益の追求を天道にかなう正当な行為であるとし、正直と倹約という徳は全ての人が守るべき道であると説きました。ここから梅岩は CSR(コーポレート・ソーシャル・レスポンディビリティ、企業の社会的責任 )の精神の先駆者とされ、「売り手よし」「買い手よし」「世間よし」からなる近江商人の「 三方よし 」と共に、現代企業に引き継がれているとされます。また、梅岩は謝礼なし、身分や男女を問わず聴講自由とし、「得意先が水害に遭って代金の回収ができなくなった場合はどうすべきか」「得意先を切り替えるか迷った時はどうすればよいか」などといった具体的な題材を取り上げて講義を進めており、『都鄙問答』も門人らとの討論会を元にした問答形式となっています。これば今日の市民講座による 大衆教育やMBA(経営学修士)プログラムにおけるケース・スタディー (事例研究)を思わせます。

知足安分 :自分の身分に満足し、正直と倹約を心がけて生きること。石田梅岩が町人道徳として強調しました。

「御法を守り、我が身を敬(つつし)むべし」:コンプライアンス(法令・企業倫理)の遵守(じゅんしゅ)。

「先(仕入れ先・得意先)も立ち、我も立つ」:共生の理念。

「たとい主人たりとも非を理に曲ぐる事あらば少しも用舎(容赦)いたさず」:コーポレート・ガバナンス(企業統治)。

「一銭軽しというべきにあらず」:コスト意識。

「世界のために三つ要る物を二つにてすむようにするを倹約という」:合理化、創意工夫。

「金銀は天下の御宝なり。銘々は世を互いにし、救い助くる役人なり」:フィランソロピー (民間が公益のために行うボランティア)。

石門心学 :石田梅岩は神道・仏教・儒教などを融合した石門心学を創始し、町人道徳を説きました。心学では商人の儲けは武士の俸禄と同じであるとして商人の営利活動を肯定し、正直と倹約を町人道徳の徳目として挙げました。石門心学は各地に 心学講舎を設立した弟子の手島堵庵 (てじまとあん)によって、町人だけでなく、農民や武士にも広められました。

富永仲基 (とみながなかもと):大坂の町人学問所である懐徳堂に学んだ町人学者、『出定後語 (しゅつじょうごご) 。大乗仏典を文献学的に検討し、仏典の全てが釈迦自身の教説であるとは限らず、後代に付加されたものもあるという加上説 を唱え、大乗非仏説論を主張しました。

山片蟠桃 (やまがたばんとう):『夢の代(しろ)懐徳堂 に学び、地動説に基づく独自の宇宙論を展開し、市場原理に基づく貨幣経済を考察するなど、合理的精神を発揮しました。合理主義的観点から仏教や迷信、霊魂の存在までも否定する 無鬼論を主張しました。

『夢の代』 :山片蟠桃の主著。天文、地理、歴史、経済など多くの分野について論じました。


農民思想

安藤昌益 :江戸中期の医者・思想家、『自然真営道』 。日々営まれる農業こそ自然の根源的な生成活動としての天道にかなう営みであり、万人が直接農業に携わる自給自足の生活に復帰すべきであり、農民に寄生している武士や町人は無用であるとしました。かくして、農民に寄生する「 不耕貪食(ふこうとんじき)の徒 」武士が支配者として上に立つ当時の社会、封建的な身分制度を「法世(ほうせい)」として批判し、理想社会としての「 万人直耕」の「自然世 」へ復帰すべきであると説きました。江戸期にはほとんど知られず,明治期に狩野亨吉(かのうこうきち)が発見・紹介し,第2次大戦後E.H.ノーマンの『忘れられた思想家――安藤昌益のこと』により世界的に有名になりました。

法世 :人が作った制度により、人が人を差別し、搾取する社会(封建制社会)。

万人直耕 (ばんにんちょっこう):全ての人が田畑を耕し、自給自足の生活を営む自然世における人間の姿を表したもの。

自然世 (しぜんせい):全ての人々が平等に田畑を耕し、衣食住を自給する社会。昌益は、万物は互いに対立しつつ補い合い(互性 )、その相互の働き合い(活真)が自然の真の営みであるとしました。

二宮尊徳 :江戸末期の農政家。天道 は事物の自ずからなる働き、自然の営みですが、そこから人間が恵みを得ようとする作為、人間の営みである人道 が加わることによって事物の働きは完全になるとし、農業 は天道と人道が相まって成立する営みであるとしました。そして、勤労や分に応じた倹約(分度)によって得た富を社会に還元( 推譲)することによって、天地や親、他者などの恩恵に報いる報徳思想を唱えました。

報徳思想 :人は天の恵みや祖先の徳のおかげで存在できるのであるから、その恩に徳をもって報いるべきであるとする考え。恩に報いるための実践方法が 分度(ぶんど)と推譲 (すいじょう)です。この報徳思想を背景に尊徳は各地の農村を復興させ(報徳運動 )、幕府にも登用されますが、明治以降に近代資本主義を推進していくに当たり、「勤勉の精神 」のモデルとして採用され、戦前の修養の教科書でもしばしば取り上げられました。

分度 :自分の経済力に応じた合理的な生活設計を立てること。

推譲 :倹約によって生じた余剰の富を社会に還元すること。



(4)近代日本思想

啓蒙思想・自由民権思想

福沢諭吉 :渡米欧経験の後、慶應義塾を創立。『西洋事情』『学問のすゝめ』『文明論之概略』『福翁自伝』 。日本の独立のためには、まず一人一人が独立自尊の精神(独立心)を育てることが必要であり、そのためには 実学 としての西洋の学問、特に数理学(近代諸科学)を学ばなければならないと考えました。すなわち、神仏などへの「信」によって形成される依存的な体質が真理を見失わせ、文明への進歩を妨げるとし、封建社会を支えた儒教に対しても批判的で、独立心の涵養と数理学の導入による文明化こそが近代日本の歩むべき道であると考えたのです。また、後年には官民調和論を唱え、人権論に基づく自由民権運動を批判しました。

天賦人権論 :全ての人間は平等であるとする考え方。

実学 :日用の役に立つ技術の他、地理・物理・歴史・経済・倫理といった学問を指します。福澤は個人が実学を修めることで、精神的にも経済的にも自立し、その結果として一国の独立が維持できると考えました。

独立自尊 :幕末から明治初期にかけて、アメリカに2回、ヨーロッパに1回派遣された福澤は、西洋文明を野蛮・半開・文明の3段階でとらえたため、日本を半開の国として「 一身独立して、一国独立す」という主張や、「脱亜入欧 」と呼ばれる主張が出てきたとされます。しかし、特に脱亜論は福澤が創刊した「時事新報 」の社説であり、福澤の論とは限らず、福澤自身は弟子井上角五郎を送って韓国で初めてのハングル新聞「漢城周報」を創刊したり、たくさんの韓国人留学生を慶應義塾に迎えたり、韓国の近代化を目指す金玉均ら開化派を支援しているので、むしろ西郷隆盛のような 大アジア主義 (アジア諸国が結束して西洋列強の帝国主義的侵略に対抗すべきとする思想)にも通じる立場であったと思われます。

門閥制度は親の敵(かたき)でござる」(『福翁自伝』)

天は人の上に人造らず人の下に人を造らずといえり。」(『学問のすゝめ』、天賦人権論 に立つ言葉です。)

明六社 :森有礼の呼びかけによって明治6年(1873年)に設立された啓蒙思想団体。機関誌『明六雑誌』 を発行して西洋思想・文化を紹介し、国民の啓蒙に大きな役割を果たしました。明六社の活動を通して多くの人が天賦人権論などの西洋思想に触れ、演説会を熱心に聴聞した植木枝盛(うえきえもり)のように自由民権運動を担う思想家を育て、日本の近代化の原動力となりました。

森有礼 (もりありのり):第1次伊藤博文内閣で初代文部大臣、学校令 を制定しました。明六社、商法講習所(一橋大学の前身)の創設者。人倫関係の中でも夫婦のあり方(一夫一婦制 )に注目し、相互的な権利と義務に基づいた婚姻形態を提唱して、自らも実践しました(日本で最初の契約結婚)。

西周 (にしあまね):日本哲学の父。「哲学」や「理性」などの訳語を案出し、西洋の哲学や倫理学などを日本に移入する基礎を作り上げました。

津田真道 (つだまみち):西周と共にオランダに留学し、西洋法学を日本で初めて紹介しています。

西村茂樹『日本道徳論』 。伝統的な儒学を批判的に継承しつつ、西洋哲学を選択的に受容することで、新たな国民道徳の樹立を唱えました。

加藤弘之 :東京大学初代総理。はじめ天賦人権説に拠った啓蒙思想の傾向が強く、明六社を結成して啓蒙活動を展開しましたが、後には 社会進化論の立場から民権思想を批判するようになり、国家利益を優先する国権論 に転じます。

中村正直 (まさなお):『西国立志編』『自由之理』。サミュエル・スマイルズの『自助論( Self Help)』 を『西国立志編』として出版し、100万部以上を売り上げ、最終的に300万部以上売れたとされる福澤諭吉『学問のすゝめ』と並ぶ大ベスト・ロングセラーとなりました。また、ジョン・スチュアート・ミル 『自由論(On Liberty)』 を、『自由之理』として訳し、功利主義を紹介しています。

中江兆民『民約訳解』『三酔人経綸問答』。フランス留学から帰国して、ルソーの『社会契約論』 を翻訳し、『民約訳解』として刊行して、「東洋のルソー 」と呼ばれました。唯物論の立場に立ち、弟子に大逆事件で刑死した社会主義者幸徳秋水がいます。  

植木枝盛 (うえきえもり):板垣退助の立志社に参加し、天賦人権や主権在民を平易に解説した『民権自由論』 で民権思想の普及に貢献しました。また、圧政への人民の抵抗と革命権を唱える急進的な私擬憲法(憲法案)である 『東洋大日本国国憲按』を起草しました。

田中正造 :明治期に自由民権運動に参加し、後に衆議院議員を務めました。明治時代後半に足尾鉱毒事件 が起こった時、農民の側に立って反対運動を行い、足尾銅山の鉱毒が渡良瀬川流域を汚染した被害の深刻さを訴え続けました。鉱毒が川に流れ込むことによって、魚が死に、田畑が荒れていく中で、人々の生活と自然との強い結びつきを見出し、「民を殺すは国家を殺すなり」と訴えました。


キリスト教思想

3 大バンド :日本のプロテスタントの源流となった3つの集団。熊本洋学校出身の海老名弾正 (えびなだんじょう)・徳富蘇峰らによる熊本バンドは国家主義的な特徴を持ち、後に同志社英学校に移ります。横浜のアメリカ人宣教師ヘボンバラブラウンらの影響を受けた植村正久らによる横浜バンドは福音主義的な特徴を持ちます。札幌農学校出身の新渡戸稲造(にとべいなぞう)・内村鑑三らによる 札幌バンドは独立主義的な特徴を持ちます。

新島襄 :幕末に脱藩して渡米し、欧米の近代文明の根底にはキリスト教道徳があるという洞察のもと、キリスト教に入信します。帰国後、京都に 同志社英学校 を創立しました。もっぱら知識のみに頼った教育に危惧を抱き、キリスト教道徳に基づく良心教育を重んじました。弟子にキリスト教社会主義の安倍磯雄救世軍により日本の社会福祉の草分けとなった 山室軍平、カント哲学の大西祝(はじめ)らがいます。

新渡戸稲造『武士道』。アメリカ・ドイツで経済学・農政学を学び、後には国際連盟事務次長も務めました。青年時代から「 太平洋の架け橋とならん 」という意識を持ち、日本の文化を諸外国に紹介するために英文で『武士道』を著し、西洋文明の精神的基盤であるキリスト教を日本人が受け容れる倫理的な素地として武士道があると述べました。米大統領 セオドア・ルーズヴェルトは『武士道』を愛読しており、日露戦争の調停役を果たすほど、親日的な人物でした。

武士道 (Chivalry、シヴァリー):武士の掟、武人階級の身分に伴う義務(ノブレース・オブリージュ)。

内村鑑三 :日本の代表的キリスト者、『代表的日本人』『 How I Became a Christian余は如何にして基督信徒になりし乎。日露戦争に対しては、真の愛国心とは武器を戦うことではないと主張し、非戦論の立場を取りました。

無教会主義 :一人一人が独立した個人として神の前に立ち、聖書そのものに拠ることで、信仰がその人の心の内に与えられるとする、教会の教義や組織や儀式にとらわれない立場。内村は社会改良運動など様々な事業に参加する一方、日露開戦に際しては非戦論を唱えるなど、信仰に基づいて積極的に社会に関わり続けました。

二つの J :イエス(Jesus)と日本(Japan )。内村鑑三は、イエスを信ずることと日本を愛することは矛盾しないと述べました。

武士道の上に接木(つぎき)されたるキリスト教 」:内村は自らの文化的伝統である武士道精神がキリスト教受容の土台になると考えました。

I for Japan; Japan for the World; The World for Christ; And All for God 自分は日本の為に 日本は世界の為に 世界はキリストの為に 凡ては神の為に)」

キリスト教社会主義 :キリスト教人道主義から社会主義に向かった流れ。内村鑑三が信仰の内面化に向かったのに対し、幸徳秋水の下にいた安倍磯雄木下尚江(なおえ)らはキリスト教を精神的社会主義ととらえ、物質的キリスト教と位置付けた社会主義に進みました。 片山潜 は日本共産党結成を指導し、コミンテルン幹部としてモスクワで没しており、姉崎正治のユニテリアン協会から鈴木文治(ぶんじ)の 友愛会運動が生まれ、内村と共に日本を代表する二大クリスチャンと目される賀川豊彦 (かがわとよひこ)は神戸貧民窟伝道から友愛会に参加しています。


国家主義思想

国家主義 :明治初年度(文明開化啓蒙思想)➝明治10年代( 欧化主義自由民権運動)➝明治20年代(国家主義 )。明治20年代には政府主導の欧化主義(鹿鳴館政策)に対する反発から、一種の伝統回帰が起こり、徳富蘇峰平民主義陸羯南(くがかつなん)の国民主義三宅雪嶺(みやけせつれい)・志賀重昂(しげたか)らの 国粋主義高山樗牛(ちょぎゅう)の日本主義 などが起こります。これは文学面では浪漫ロマン主義となります。1930年代以降の軍国主義 とは異なりますが、その源流の1つでもあります。

教育勅語元田永孚(もとだながざね)や井上毅 (こわし)によって起草され、学校教育と国民教化の絶対不可侵の指針となりました。帝国憲法が天皇制統治機構(法)を確立したことを受け、天皇制理念による内面規制(道徳)を推進する役割を担い、天皇は神聖にして侵すことのできない神であり、忠孝に基づいて天皇に奉仕するのが日本人の責務であるとしました。

井上哲次郎 :明治・大正期の哲学者。教育勅語の注釈書を著し、教育界にも大きな影響を与えました。教育勅語に対する拝礼を信仰上の理由に基づいて拒否した内村鑑三の「 不敬事件 」では、教育勅語の趣旨を否定する反国家主義的な宗教だとしてキリスト教を排撃し、教育と宗教をめぐる論争を引き起こしました。

徳富蘇峰 (とくとみそほう):民友社設立、雑誌『国民之友』新聞『国民新聞』 を創刊。新日本の建設(近代化)は一部の貴族ではなく、実際の産業に携わる普通の人民を中心とすべきであるという平民主義 を唱え、藩閥政府を批判しますが、日清戦争後に平民主義から皇室中心の国家主義に転じました。

陸羯南 (くがかつなん):新聞『日本』を創刊。政府の欧化主義を批判し、国民主義 を唱えました。ジャーナリストの先駆者と呼ばれます。正岡子規も新聞『日本』の記者として「獺祭書屋俳話(だっさいしょおくはいわ)」を連載し、俳句の革新運動を開始しており、後には「 歌よみに与ふる書」を連載して短歌の革新運動も興しています。

国民主義 :日本国民であることを自覚し、外国には独立・対等を、国内では国民の団結・統一をはかるべしという考え方。伝統に基づく社会改革を志向します。

三宅雪嶺 (みやけせつれい):志賀重昂(しがしげたか)らと政教社設立、雑誌『日本人』創刊、『真善美日本人』『偽悪醜(ぎあくしゅう)日本人』。欧化主義の持つ極端な西洋崇拝を批判し、日本人としての誇りを持つべきだ( 国粋主義)と主張しました。

岡倉天心フェノロサに学び、『東洋の理想』『茶の本』 などの英文著作で、東洋文化を世界に紹介しました。日本美術に見出される多様なアジアの諸理想の統一を賛美し、「 アジアは一つ(Asia is one)」と訴えました。

高山樗牛 (たかやまちょぎゅう):井上哲次郎の弟子で、雑誌『太陽』日本主義 を唱え、日清戦争後の明治30年代のロマン主義と国家主義を代表しました。

南方熊楠 (みなかたくまぐす):生物学者・民俗学者。アメリカ・イギリスに渡り、英語で多数の論文を発表し、明治政府によって神社合祀令が出された時には、古い社や鎮守の森が破壊されるとして、反対運動を起こしています。すなわち、 鎮守の森 は、人々の信仰心や共同性を育むものとして必要であると共に、生態学の研究対象としても重要であると主張し、信仰の面からも環境保護の立場からも強く反対したのです。 自然保護運動の先駆として知られます。

柳田国男日本民俗学の創始者『遠野(とおの)物語』 。歴史学の文献中心の研究姿勢を批判し、歴史書などでは伝わらない無名の民衆(常民 )の生活に注目しました。西欧人類学(民族学)を批判的に摂取し、民間伝承を取り上げ、人々にとって山は先祖の霊が帰る場所であり、人々は時を定めて先祖の霊と交流できると信じていたと説き、村落共同体の景観と信仰との関係について考察を進めました。

常民 :村落共同体で生活する無名の人々。柳田国男は常民の習俗・信仰の中に日本文化の基層を探ろうとしました。

折口信夫 (おりくちしのぶ):国文学者・歌人(釈迢空 [しゃくちょうくう])。古くからの神のあり方について研究を進め、日本の神の元型を「まれびと 」として捉え、人々は海の彼方に理想的な世界を思い描いていたと説きました。

まれびと :海の彼方にある常世(とこよ)国から定期的に村落を訪れる存在。折口信夫によって、日本の神の元型とされました。

新国学 :柳田国男・折口信夫らの研究は、本居宣長や平田篤胤の方法につながるものとされました。

北一輝 (きたいっき):極端な国家主義である超国家主義の理論的指導者、『日本改造法案大綱』 。貧しい農民や労働者を救うために、現状を変革し、富が平等に分配されるように訴え、そのためには天皇と国民が直結する国家の建設が必要だと考えました。彼の思想に影響を受けた青年将校が企てた二・二六事件の首謀者として処刑されました。


社会主義思想

社会主義 :戦前の社会主義にはキリスト教的社会主義唯物論的社会主義 と2つの流れがありました。「アカ」と見なされ、国家や軍部から危険視された人々も素朴な人道的社会主義 から出発している人が多く、マルクス主義 の理論体系に基づいていたとは言い難いケースも多く見られましたが、ロシア革命によってマルクス主義が現実の国家体制となってからは、ソ連共産党の指導の元で革命志向が強まりました。

河上肇 (かわかみはじめ):経済学者・社会思想家、『貧乏物語』 。内村鑑三やトルストイの影響を受けた人道主義者でしたが、人道主義だけでは社会問題を解決できないという理由から次第にマルクス主義的主張に傾斜していき、貧困への対策の必要性を説きました。

片山潜キリスト教社会主義者として活躍し、後にコミンテルンに参加して、 日本共産党の結成を指導しました。

安倍磯雄 :キリスト教社会主義者。日本初の社会主義政党である社会民主党の結成に参加しますが、同党は治安警察法により結成禁止とされます。女性解放運動にも積極的に関与し、戦後は 日本社会党結成に尽力します。

木下尚江 (きのしたなおえ):キリスト教社会主義者として社会民主党結成に参加。新聞記者として普通選挙運動や足尾鉱毒事件などに取り組んでいます。

堺利彦 (さかいとしひこ):幸徳秋水らと共に平民主義(階級打破)・社会主義・平和主義を掲げた平民社を創設、『平民新聞』を創刊。日露戦争では非戦論を展開し、日本共産党初代委員長となりますが、後に離党し、 社会民主主義を唱えます。

幸徳秋水 (こうとくしゅうすい):社会主義運動家、『二十世紀之怪物帝国主義』『社会主義神髄』 。中江兆民の弟子で、社会民主党結成や平民社創設に参加します。大杉栄らと共に労働者の団結によるストライキなど 直接行動論を主張し、片山潜らの議会主義 派と対立します。天皇暗殺容疑(大逆罪)で処刑され(大逆事件)、以後、日本の社会主義運動は冬の時代を迎えていきます。

石川啄木 (たくぼく):『明星』の浪漫主義からスタートし、第一詩集『あこがれ』で天才詩人と呼ばれ、自然主義の影響から歌集 『一握(いちあく)の砂』生活派 歌人として知られるようになりましたが、大逆事件をきっかけに社会主義に近づき、評論『時代閉塞の現状』 で国家との対決を避ける自然主義と決別しました。


大正デモクラシー

吉野作造大正デモクラシーを理論的に支えた政治学者、『憲政の本義を説いてその有終の美を済 (な)すの途(みち)を論ず』黎明会 を結成。国家の主権は人民にあるとする民主主義と区別して、天皇主権下のデモクラシーである民本主義を唱えます。原敬の政党内閣や加藤高明内閣の 普通選挙法などの成立など、一定の成果につながり、女性解放運動や労働運動などの社会運動に発展しました。

美濃部達吉 :憲法学者。天皇機関説 を唱え、大正デモクラシーの中で広く支持されました。しかし、1930年代に軍国主義が台頭してくると、天皇機関説は天皇主権を否定する反逆的思想と非難され、美濃部の著書は発禁され、政府は「 国体明徴声明」で天皇機関説を異端の学説と断罪しました。

平塚らいてう青鞜(せいとう)を結成し、雑誌『青鞜』 を創刊。市川房江らと新婦人協会設立。「元始 (げんし)、女性は実に太陽であった」と主張し、女性の解放を求める運動を展開しました。

母性保護論争与謝野晶子女権主義 の立場に立ち、女性が男性にも国家にも頼らずに経済的に独立すべき、経済力がないなら結婚すべきではないとする評論を発表したのに対し、 平塚らいてう母性保護主義 の立場に立ち、妊娠・出産・育児期の女性は国家が保護し、女性が結婚と職業を両立できるようにするべきであると主張しました。さらに 山川菊栄(やまかわきくえ)が社会主義 の立場から資本主義ではどちらも徹底できないと指摘し、男女の機会均等を図り、母としての生活を平等に保護するには社会主義を実現すべきだと主張して、約1年半にわたって母性保護論争が繰り広げられました。

身分差別撤廃運動 :人間的存在の権利を奪ってきた部落差別からの解放を目指す全国水平社が結成され、「 人の世に熱あれ、人間に光あれ」と訴えました。


近代文学

写実主義 :社会の実情や人間心理をありのままに写そうとする文学的立場・方法。坪内逍遥の評論『小説神髄』や実験小説『当世書生気質』、ロシア文学のリアリズム理論に基づいた二葉亭四迷『小説総論』や「だ」体の口語文による 言文一致体の小説『浮雲』、翻訳『あひゞき』 (ツルゲーネフ)などがあります。逍遥は雑誌『早稲田文学』を舞台にして森鷗外と「没理想論争」(文学における現実主義と理想主義の対立)を交わしたり、島村抱月と文芸協会を設立して、 新劇運動を展開しています。

擬古典主義 :開国以来の欧化主義への反動としての復古的思潮。尾崎紅葉山田美妙らは文学結社「硯友社」を作り、我が国最初の純文芸雑誌『我楽多(がらくた) 文庫』を創刊して、紅葉は写実主義の最高傑作と呼ばれる『多情多恨』 を発表して、言文一致体の到達点である「である」体を案出し、大作『金色夜叉』を連載して大評判を博します。幸田露伴は漢学・仏教・儒教の精神を基底に理想的・男性的・意志的な世界を中心に 『五重塔』を著わし、紅葉の写実派に対して、理想派と称され、「紅露時代」を築きます。

浪漫主義 :前近代的な因習や倫理を否定し、内面の真実を重んじて、理想や恋愛に自我を解放しようとしました。森鷗外 はドイツのロマン主義をふまえた文芸・評論雑誌『しがらみ草紙』を主宰し、小説『舞姫』 や翻訳『即興詩人』(アンデルセン)などを発表しました。キリスト教的な精神文化を取り入れた初期ロマン主義の文芸雑誌『文学界』には、北村透谷の評論『内部生命論』樋口一葉の小説『たけくらべ』島崎藤村 の詩などが発表されました。和歌でも与謝野鉄幹東京新詩社を結成し、雑誌 『明星』を創刊して、浪漫主義の歌風を主張していますが、これに与謝野晶子 が参加すると、第一歌集『みだれ髪』が大反響を呼び、激しい情熱と自由奔放な空想のあふれる近代浪漫主義歌風を樹立します。

森鷗外『舞姫』『青年』『阿部一族』。自我に目覚めた近代人の苦悩(『舞姫』)➝運命に対する 諦念(ていねん、『予が立場』)。

北村透谷 (きたむらとうこく):明治時代のロマン主義の詩人・評論家。『内部生命論』 (文芸評論)。自由民権運動に挫折し、大恋愛と通してキリスト教に入信しました。この体験が近代的自我に目覚めるきっかけとなり、文学の道に進んでロマン主義の先駆的存在となりました。自己の内面の「 想世界 」における自由と幸福を実現するためには信仰と愛が必要だと考え、恋愛を賛美しましたが、後に理想と現実の狭間で悩み、27歳で自ら命を絶ちました。

想世界 :北村透谷は、自己とは政治的な世界(実世界 )において実現されるものではなく、具体的な現実を離れ、想世界の充実を通じて内面的に確立されると論じました。

内部生命 :北村透谷は、精神的な内部生命を反映したものが文学であると考えました。

「恋愛は人世の秘鑰(ひやく)なり。」:恋愛は人生の秘密を解く鍵であるということ。

与謝野晶子 :歌人として自己の感情や官能を大胆に歌い、人間性の解放を主張しました。日露戦争時には「君死にたまふこと勿(なか) 」を『明星』に発表して、反響を呼びます。

自然主義 :フランスの自然主義の影響の下に、人間や社会の実相を科学的態度で客観的に描こうとする立場で、写実主義との違いは産業革命の進展による社会問題・労働問題の出現が背景にあることです。ただフランスの自然主義とは違い、日本の自然主義は社会の現実を見据える立場を深めるよりも、作家自身の身辺を描く「私小説」「心境小説」となっていきました。国木田独歩(くにきだどっぽ)の『武蔵野』『牛肉と馬鈴薯(じゃがいも)は自然主義文学の先駆とされ、その方向を決定したとされるのが島崎藤村『破戒』田山花袋『蒲団(ふとん) です。雑誌『早稲田文学』は自然主義理論と作品発表の中心となりました。こうした自然主義のリアリズム精神は近代文学発展の原動力となりましたが、社会性・実証性を欠き、自己の真実を描写することが文学の本道であるという考え方を確立したため、 高踏派(森鷗外)・余裕派(夏目漱石)、耽美派 (芸術至上主義)、白樺派(人道主義)という3つの批判的立場(反自然主義 )が出てきます。

高踏派・余裕派 :和・漢・洋にまたがる深い学識を備え、身辺雑記に傾いた自然主義に批判的な立場から、独自の主知的・倫理的作風を守り、主として知識人や近代の問題を描きました。森鷗外と夏目漱石は近代文学の巨峰にして、流派を超越した「圏外の孤峰」と見なされていました。

夏目漱石『吾輩は猫である』『坊っちゃん』『三四郎』『こころ』『明暗』 。西洋の新しいものを単に受け入れるだけでなく、その中身を吟味し、消化する内発的な近代化が大切であるが、その実現は困難であり、内発的な近代化という理想と外発的な近代化が進む現状との落差を指摘しました(「現代日本の開化」)。日本文化の外発性『現代日本の開化』、外発的開化、自己喪失による不安)➝利己主義エゴイズム)の恐ろしさ(『こころ』)➝自己本位(内発的開化、自我を確立すると共に他者の個性も尊重)の個人主義『私の個人主義』、利己主義の克服)➝則天去私『明暗』 、私心を去り、天地自然の理法に従って生きる境地)。漱石の周辺には多くの人材が集まり、「漱石山脈」と呼ばれる文化的人脈を形成しています。

阿部次郎 :夏目漱石に師事し、青春の苦悩と思索を綴った『三太郎の日記』を著す一方、真・善・美を求め、人格の向上を目指す 人格主義を説く哲学者としても活躍しました。

耽美派 :自然主義の持つ日常性の閉塞的で陰鬱な描写を否定し、美の世界を重視しました。次第に官能的・享楽的傾向を強めます。永井荷風主幹で森鷗外・上田敏が顧問を務めた慶應義塾文科の機関誌 『三田文学』や『明星』の後を継いで森鷗外を指導者とした耽美主義的文芸雑誌『スバル』 などが中心となっています。永井荷風『あめりか物語』『ふらんす物語』『すみだ川』谷崎潤一郎『刺青(しせい)』『痴人の愛』『春琴抄』『細雪(ささめゆき)

白樺派 :自然主義の暴露的自己否定的な人生観に対して、個人主義とキリスト教に基づく理想主義的な人道主義を掲げ、個の尊厳を主張し、芸術全般に影響を与えました。学習院出身者らによる同人誌『白樺』が中心で、武者小路実篤(むしゃのこうじさねあつ)の『お目出(めで)たき人』『友情』、「小説の神様」と呼ばれた志賀直哉『城(き)の崎(さき)にて』『和解』『暗夜行路』有島武郎(ありしまたけお) 『生れ出づる悩み』『或る女』『惜しみなく愛は奪ふ』

武者小路実篤白樺派 の作家。夏目漱石とトルストイの影響を受けて理想主義・人道主義を掲げ、各自の人間的な成長が人類文化の発展につながると説き、「 新しき村」を創設して、理想の共同体の実現に努めました。

有島武郎 :白樺派の作家。個性の成長や完成に愛の意義を認めました。

新思潮派新理知派新現実主義 ):雑誌『新思潮』(第四次)に拠った漱石門下の作家達を指し、人間心理を分析し、主知的な手法によって現実に新しい解釈を加えようとしました。芥川龍之介『羅生門』『戯作三昧(げさくざんまい)』『鼻』菊池寛(きくちかん)『恩讐の彼方に』

プロレタリア文学 :ロシア革命の世界的影響の下で、大正時代に起こった共産主義的・社会主義的な革命文学運動。小林多喜二『蟹工船』 。後に権力からの弾圧を受け、転向文学が生まれたり、革命的運動には参加しないものの、心情的にプロレタリア文学を支持する 同伴者文学が生まれたりしています。

新感覚派 :雑誌『文芸時代』 に拠り、自然主義的な写実の方法を批判し、感覚的な表現の斬新な方法を用いて、新しいイメージの文学を創造。プロレタリア文学が「革命の文学」であるのに対し、新感覚派は「文学の革命」と評されました。川端康成(かわばたやすなり)『伊豆の踊子』『雪国』横光利一『日輪』。この流れから新興芸術派新芸術派)の井伏鱒二(いぶせますじ)『山椒魚 (さんしょううお)梶井基次郎『檸檬(れもん) 新心理主義堀辰雄『聖家族』『風立ちぬ』 などが生まれてきます。

小林秀雄 :昭和期の文芸評論家、『様々なる意匠』『無常といふ事』『モォツァルト』『考へるヒント』『本居宣長』 。プロレタリア文学理論に対抗し、思想や理論を流行の意匠のようにもてあそぶあり方を批判、批評 という独自の方法を用いて主体的な自己の確立を目指して、文芸批評・近代批評というジャンルを確立しました。すなわち、評論は単に文芸作品の感想や解説を述べるものではなく、批評の形式を取りながら、自己の思想を語るものと捉えたのです。

新戯作派 :戦後、既成の文学観や道徳観、安易に時勢に追随する世相を批判し、自己の生活そのものに倫理の基盤を据えた作品が生まれます。一部は「無頼(ぶらい)」とも呼ばれます。 太宰治『斜陽』『人間失格』坂口安吾『白痴』

坂口安吾 :昭和初期の小説家、『堕落論』。既存の道徳に安住することを偽善と批判し、人間本来の姿に戻ることを「 堕落」と呼び、そこから「堕ちきる」ことで真の自己の回復を目指しました。

戦後派 :戦争責任、組織と個人、政治と文学などの問題を追求した同人誌『近代文学』 に拠った人々を中心にし、近代人の主体性と文学の自立性を指向しました。野間宏『真空地帯』大岡昇平『野火』安部公房『壁』三島由紀夫『仮面の告白』『金閣寺』

第三の新人 :戦後派の政治的思想性や観念性とは異なり、私小説の伝統を受け継ぎ、自分の日常生活の現実を見つめて、自己の本質をとらえようとし、市民性を先取りしました。安岡章太郎『海辺(かいへん)の光景』吉行淳之介『驟雨(しゅうう)遠藤周作『海と毒薬』『沈黙』曽野綾子『遠来の客たち』


独創的思想

西田幾多郎『善の研究』。西田哲学は日本で最初の独創的な哲学体系とされます。主観と客観を対立的に捉える哲学的立場を批判し、 主客未分である純粋経験 を考究の出発点としました。そして、自他の人格の根底に働く宇宙の統一力こそが喜びの根本であると考え、真の人格は個人的欲望を超えて他者への愛に喜びを見出すものであると主張しました。人格の実現(至誠)が善ということです。友人に英文 『禅と日本文化』で仏教思想を紹介し、『日本的霊性』 でわび・さびといった美意識や武士道、茶道、俳句などにも禅の精神が大きく影響していると説いた鈴木大拙(だいせつ)がいます。

主客未分 :思索や反省以前の、主観と客観の区別の意識がない状態。

純粋経験 :主観と客観が分かれる以前の主客未分の状態における根本的な経験。真実在は、感情や意志を排した知性による認識による抽象的な概念ではなく、全体としての人格の行為的直観によって把握される、知・情・意が一体の純粋経験であるとしました。

「場所」の論理 :西田幾多郎は、主観と客観の分化を論理的に基礎づけるため、主客の根底を問い、主観と客観を成立させると同時にそれを包む場としての意識を「場所」と呼びました。これは多数の個(多)と世界(一)の弁証法的統一( 絶対矛盾的自己同一)であるとしました。

絶対無 :「場所」の根底にあり、有と無の対立を超えて、事物事象そのものを成り立たせているもの。

和辻哲郎 :夏目漱石門下にして、ドイツでハイデッガーの実存哲学、フッサールの現象学、ディルタイの解釈学を学び、個人と社会の弁証法的関係を軸とした人間学的倫理学を大成しました。 『古寺巡礼』『風土』

間柄的存在 :個人と社会を弁証法的に統一する人間のあり方。個人であると共に共同して生きる存在。

倫理学 :倫理とは社会存在の理法であり、倫理学は人と人との間柄の学「人間(じんかん)の学 」であるとしました。

風土論 :和辻哲郎は、モンスーン型(東アジア沿岸部)の風土では人々は自然に「受容的・忍従的 」であり、砂漠型(アラビア・アフリカ)の風土では「対抗的・戦闘的」、 牧場型(ヨーロッパ)の風土では「自発的・合理的」であると分類しました。

柳宗悦 (やなぎむねよし):朝鮮陶磁器と出会ったことで、無名の職人が手仕事で作った器や布などの日用品の中に、生活に根差した固有の美を見出し、生活そのものを美的にすることを目指す 民芸運動の推進者となりました。日本民芸館を設立して、日本各地の民芸を公開しました。

丸山真男 :政治学者。日本がファシズムに至った原因を、天皇制の下で決断主体を欠いた日本の政治体制(無責任の体系 )に見出し、批判的な検討を加えました。そして、戦後の社会において、近代的な主体による民主的な市民社会の形成を唱えました。




4 近現代思想

(1)ルネサンスと宗教改革

ルネサンス

ルネサンス (Renaissance):元々、「再生」を意味する言葉、中世のキリスト教中心的なあり方から個人を解放することを目指し、古代ギリシア・ローマの古典の中に人間らしい生き方を見出しました。かくして、ルネサンス期には、古代ギリシア・ローマの文芸を再生し、古典を学び直そうという運動が広く展開し、古典を模範とすることで人間性を会報誌、新たな人間像を探求する、人間中心の文化が花開きました。なお、イタリア=ルネサンスの中心地の1つ、フィレンツェは東方貿易、毛織物生産、金融業などで繫栄しており、14世紀初頭にはヨーロッパ最大の都市であったように、経済的発展の土台の上に文化的成熟が生じることが分かります。

人文主義ヒューマニズム):古典研究を通じた、教会中心から人間中心のあり方の追求。なお、ヒューマニズムという言葉には、①人文主義(ギリシア・ローマの古典研究)、②人本主義(人間中心主義⇔ 神本主義物本主義)、③人道主義 (ヒューマニテリアニズム、humanitarianism)の3要素があるので、要注意です。

万能人普遍人 ):あらゆる分野で個性や能力を発揮する人間。古代ギリシア・ローマの理想の人間像が善・美の人、中世ヨーロッパの理想の人間像が信仰の人であるのに対し、ルネサンス時代の理想の人間像とされました。

ダンテ :ルネサンス文学の先駆者、『新生』『神曲』 。罪に苦悩する人間の浄化を描いた『神曲』を、ラテン語ではなく、トスカナ地方の方言で著しました。人文主義的な機運の先駆けをなし、 トスカナ語近代イタリア語の土台となりました。

ペトラルカ :イタリアの人文主義者・詩人、人文主義の父。『叙情詩集カンツォニエーレ。ダンテが理想の女性としてベアトリーチェ を『神曲』に登場させたように、ペトラルカの『叙情詩集』はラウラという女性に捧げられたものです。

ボッカチオ (ボッカッチョ):『デカメロン(十日物語) 。人間の欲望を素直に表した『デカメロン』は最初のリアリズム文学とされ、ダンテの『神曲』に対して『人曲』と呼ばれます。

ピコ=デラ=ミランドラ :ルネサンス期のイタリアの人文主義者、『人間の尊厳について』 (演説草稿)。人間は自由意志に基づいて自分の生き方を選択し、自らの存在のあり方、自分の本性を形成する存在であるとし、そこに人間の尊厳の根拠を見ました。すなわち、人間は神から与えられた自由意志によって、動物に堕落することも神に近づくこともできるとしました。

レオナルド=ダ=ヴィンチ :数学や解剖学の研究に裏付けられた遠近法の技術を駆使して、人間や世界の新たな表現法を提示し、「モナ=リザ」「 最後の晩餐 」などの作品を制作しました。「モナ=リザ」はイタリア・ルネサンス様式の1つの頂点であり、西洋古典絵画のシンボルと見なされています。

ミケランジェロ :人間の偉大さや力強さを追求し、フィレンツェ共和国の自由と独立の精神を象徴する「ダヴィデ像 」やシスティナ礼拝堂の天井画・壁画に「最後の審判」などの作品を描きました。

ラファエロ :レオナルド=ダ=ヴィンチ、ミケランジェロと共にルネサンス期の3大巨匠とされます。多くの聖母子像や「 アテネの学堂」などの作品を描きました。

アルベルティ :建築・音楽・哲学など多方面に才能を発揮したイタリアの万能人。『家族論』 で合理的な経済活動に基づく利潤追求を説きました。「人は欲しさえすれば自分の力一つで何事でもできる」という言葉に、自ら意欲次第で何事をも成し遂げるルネサンスの人間観が現れています。

マキャヴェリ :イタリアの政治学者、『君主論』。現実に対応できない統治者を批判し、国家の統治のためには道徳に反した行い( 権謀術数 )も許されると主張しました。「いかに生きているかということ(現実)といかに生きるべきかということ(道徳)は、はなはだしくかけ離れている」と述べ、政治を道徳や宗教から分離し、あるべき理想ではなく、ありのままの現実を起点とする思考こそ為政者の責務であると説きました。マキャヴェリはローマ教皇軍を率いた軍師、チェーザレ=ボルジアを理想の君主としました。中国で法家思想を大成した韓非子に比され、 マキャヴェリズム とは、どんな手段や非道徳的な行為であっても、結果として国家の利益を増進させるのであれば許されるという考え方を言います。

エラスムス :ルネサンス期オランダの最大の人文主義者、『愚神礼賛痴愚神礼賛 。カトリック教会を鋭く批判し、キリスト教国家の平和を訴えました。著作のいくつかは当時普及しつつあった印刷術によってベストセラーになり、「人文主義者の王」と呼ばれました。エラスムスが生んだ「卵」(『愚神礼讃』)をルターが「孵化(ふか)」(宗教改革)したと言われるように、ルターとも交流がありましたが、『自由意志論』の立場であるエラスムスと『奴隷意志論』の立場であるルターとの間に「 自由意志論争」が起こり、両者は決裂します。

トマス=モア :イギリスの人文主義者・政治家、エラスムスの終生の友人、『ユートピア』 。私有財産のない平等な理想社会、共産主義的な理想社会を描き、当時のイギリスの囲い込み運動(エンクロージャー )を批判しました。トマス=モアは国王ヘンリ8世とイギリス国教会の成立をめぐって対立し、反逆罪で処刑されましたが、その思想は初期社会主義へとつながりました。

ユートピア :「どこにもない」という意味、理想郷。なお、監視社会や行動の制限などがある反ユートピアの世界をディストピア と言います。


宗教改革とモラリスト

ルター :ドイツの宗教改革の指導者、『キリスト者の自由』 。教会を通じてこそ信仰が成り立ち、救済がなされるという従来のキリスト教のあり方を批判。教会の権威や教義に縛られることなく、聖書を通じて一人一人が直接神と向き合う信仰によって罪から解放されると説きました。ルターには2度の回心があり、1度目の「雷雨の体験」で聖アウグスチノ修道会士となり、2度目の「塔の体験」で パウロ書簡の1つである「ローマ人への手紙 」の研究から信仰義認の深い理解に導かれます。かくしてヴィッテンベルク教会に「95 か条の論題(意見書)」を提出し、贖宥状免罪符 )批判を展開します。贖宥状はルター時代よりも200年前に始まったものですが、「贖宥状を買えば魂が救済される」として教会の資金集めに使われ、特に強力な王権のないドイツは教会から搾取され、「 ローマの牝牛 」と言われていました。ルター時代にはサン・ピエトロ大聖堂の建設資金を集めるために贖宥状が販売され、「贖宥状を買うことで、煉獄の霊魂の罪の償いが行える」と盛んに宣伝されていたのです。これに反発したルターの主張は、①聖書中心主義(聖書のみ、sola scripturaソラ・スクリプトゥーラ⇔聖書+伝承・伝統)、②信仰義認論(信仰のみ、sola fideソラ・フィデ⇔信仰義認+行為義認)。③万人司祭主義(⇔教会中心主義)、の3つに集約され、これをプロテスタンティズムの 3原理 と言います。ルネサンスが古代ギリシア・ローマを再生させたごとく、宗教改革は初代教会の精神に立ち返ろうとしたわけですが、ルターが立ち返ったのはイエスの原点( イエス教=本来のキリスト教)ではなく、パウロの原点(パウロ教 =実際のキリスト教)だったわけです。ルターが所属した修道会の尊重するアウグスティヌスも「ローマ人への手紙」によって回心した人物でした。ちなみに、ルターは数多くの修道士の結婚を斡旋し、自らも元修道女カタリーナ=フォン=ボーラと結婚して3男3女の子宝に恵まれ、聖職者の結婚に道を開いたとされます。この点で、ルターは日本仏教における親鸞と共通性があり、イエズス会らの宣教師がはるばる日本にやって来て、浄土真宗を見た時、「異端のルター派がいる!」と報告したことは有名です。ルターはローマ教皇に破門を宣言され、自説の撤回を求められたヴォルムス帝国議会では、自らの良心に基づき、「我、ここに立つ!」「神よ、我を救い給え!」と叫んで、帝国追放刑を受けます。しかしながら、100年前に同様の主張をして破門・火あぶりの刑にあったイギリスのウィクリフやベーメン(ボヘミア)のフスらとは違い、グーテンベルク活版印刷術の普及によってヨーロッパ各地にルター思想が広がり、旧教(ローマ=カトリック)への反発から新教プロテスタント)への移行が生じました。そして、この間、ルターは 『新約聖書』のドイツ語訳を完成しますが、これが近代ドイツ語 の母体となります。讃美歌にもルターが作ったものが多く残されています。

聖書中心主義 :ルターは信仰の原点はカトリックが説く戒律や儀式を守ることではなく、「神の言葉」を記した聖書を信じることであるとし、当時、聖書がラテン語で書かれていて、ドイツの民衆には読めなかったので、聖書のドイツ語訳に全力を注ぎます。比較宗教学の観点から言えば、聖書の時代的制約性や他の宗教の真理性、自然の真理性(自然神学、近代科学)を否定することはできず、純化・先鋭化したプロテスタントよりも聖書以外の要素も認めるカトリックの方が普遍性があるとも言えます。

信仰義認論 :ルターは罪深い人間は内面的な信仰によってのみ神から救われるとし、自由意志を肯定したエラスムスと論争を起こしました。これは恩寵論に立つアウグスティヌスと自由意志論に立つ ペラギウスとの対立(ペラギウス論争 )の再現を思わせます。ただし、キリスト教は愛を説きながら、人種差別や虐殺、奴隷売買を平気で行っていたという事実は「信仰のみ」に重きを置いた客観主義(自分は正しいとして、他者の主観を無視して自己の信念=「客観的真理」だと思うものを押し付けること⇔主観主義)の問題点を浮き彫りにしてくれます。実際、「信仰のみ」の立場に立つと、「善行」の意義が薄れ、日本の神社仏閣にあるようなおみくじやお札なども全て否定されます。

万人司祭主義 :ルターは、カトリック教会が聖職者に認めていた宗教的権威を否定し、1つの福音の下にある限り、全てのキリスト教信者は等しく司祭であり、聖職者と一般信者の身分的差別はないと主張しました。これは神の前の平等という観点で 近代民主主義の思想的淵源となり、さらにここから全ての職業は神によって与えられた召命天職、ドイツ語Beruf、英語calling)という職業召命観 が生まれ、それまで卑しいとされてきた世俗の職業に励むことが奨励されるようになりました。こうした職業召命観・天職思想は カルヴァンによって予定説と連結され、近代資本主義 の淵源となります。

『キリスト者の自由』 :キリスト者が何ものにも従属しない自由な主人であると同時に、隣人愛の実践として全ての者に従属し、仕える神の僕であると述べています。

カルヴァン『キリスト教綱要』予定説 (選民思想⇔万人救済説、ユニバーサリズム)を唱えるとともに、職業召命観 に依拠し、神の道具として与えられた職業に励むことが神を讃える人間の責務であると主張し、スイスのジュネーブで宗教改革を行いました。ルター派は人々の良心の癒しとその慰めに重点が置かれていましたが、カルヴァン派ではむしろ奉仕と戦いに全力を尽くすことが特徴的でした。また、ルター派は外面的な世界を統制する国家権力に奉仕することはキリスト者の望ましい態度とし、国家権力の強大化を助長する結果となりましたが、カルヴァン派は逆に国家権力が神の栄光に奉仕すべきと考え、社会や国家権力を積極的に改革しようという傾向がありました。カルヴァン派は商工業者らに支持され、フランスではユグノー、ネーデルランド(オランダ)ではゴイセン、イングランドでは ピューリタン、スコットランドではプレスビテリアン と呼ばれるようになりますが、その積極的な改革態度は各地の絶対君主との対立を招きました。かくして、1620年には102名のピューリタンが信仰の自由を求めて、北アメリカに渡り、 ピルグリム・ファーザーズ (巡礼始祖)となりました。彼らがアメリカのプロテスタントの始まりとなる一方、イギリスで絶対君主と闘い続けた人たちは1642年に ピューリタン清教徒革命 を起こしています。したがって、カルヴァンの思想は近代資本主義の淵源のみならず、 近代市民革命を経て、近代民主主義にもつながるのです。

予定説 :カルヴァンは従来の教会のあり方を批判し、救済は神の意志により予め決定されており、人間の善行によってその決定を変えることはできず、救いの確信を得るために職業に励むことを説きました。

職業召命観 :世俗の職業は神の栄光を増すために与えられた使命であるとする考え方。神への奉仕としての職業労働を通じて、世俗社会において救済の確信を得ることができるとし、人々に精神的な支えをもたらしました。

職業人禁欲的に勤勉に職業に励む態度(心的態度=エートス)を持った人物像。この態度が 資本主義の精神の基礎になったとされます。

ウェーバー :ドイツの社会学者、『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』 。職業召命観を持つ、プロテスタンティズムの禁欲的な職業倫理が近代資本主義の精神を生む原因となったことを指摘し、キリスト教信仰と近代産業社会の関係について新たな捉え方を示しました。

対抗宗教改革 :宗教改革に対抗してカトリックが起こしたもので、プロテスタントに奪われた土地を取り戻すべく、スペイン出身のイグナティウス=ロヨラフランシスコ=ザビエルらが創設した イエズス会は、アメリカ大陸やアジアで布教活動を行いました。

モラリスト :人間の生き方を探求・反省し、人間の能力や本性を謙虚にとらえる立場。宗教改革によりプロテスタントとカトリックの対立は激化し、ヨーロッパ各地で悲惨な宗教戦争が起こり、隣人愛を説くキリスト教徒同士の戦争を目の当たりにして、人間を深く観察し、生き方を探求・反省したモンテーニュパスカルラ=ロシュフーコーなどの モラリストが登場しました。

モンテーニュ :フランスのモラリスト、『エセー随想録 。懐疑主義の立場から人間の生き方を探求し、自己の認識を常に疑う批判精神の重要性と寛容の精神の大切さを説きました。『エセー』は随筆(エッセイ)という文学ジャンルの原型となりましたが、日本ではモンテーニュの500年前に清少納言『枕草子』を著しており、日本における「三大随筆」の第一に置かれています。ちなみに第二は鴨長明『方丈記』、第三は 吉田兼好『徒然草』で、特に吉田兼好は「日本のモンテーニュ」と呼ばれることがあります。

ク・セ・ジュ私は何を知るか )」:モンテーニュは、独断を差し控えて謙虚に生きることを説きました。これは古代懐疑学派の祖、ギリシアのピュロン の判断中止による絶対的懐疑ではなく、対立と矛盾に満ちた現実からより確実な認識、判断を導くために判断を留保する 積極的懐疑であり、後にデカルト方法的懐疑 として、真理を探究するための1つの方法にまで高められます。

パスカル :フランスのモラリスト、『パンセ瞑想録 。人間のあり方や事柄の本質を捉え、近代科学がもたらした不安から救われるためには、幾何学的精神だけでなく、 繊細の精神が必要であると考えました。また、偉大さと悲惨さの間を揺れ動く、中間者 としての人間の不安定なあり方を直視しつつ、神の愛の下に生きることの大切さを説きました。

幾何学的精神 :推理や論証を行う能力。原理を基に推論して論証的認識に向かう精神。理性の眼。

繊細の精神 :直観的に物事を把握する能力。人生の複雑な意味を明証的に直観し、原理をとらえる精神。感情を含むしなやかな心。心情の眼。

この宇宙の沈黙は私を震撼させる。」「人間は考える葦(あし) である。」(『パンセ』):パスカルは考えることに人間の尊厳を見出しました。

ラ=ロシュフーコー :フランスのモラリスト、『箴言集(しんげんしゅう)


近代科学


コペルニクス :ポーランドの天文学者、『天球の回転について』。中世を通じて、アリストテレスプトレマイオス天動説 がキリスト教の宇宙観になっていたのに対し、ピタゴラス派の主張を受けて地動説を完成させました。

ブルーノ :イタリアの哲学者。神は無限なる宇宙の生命そのものと見なす汎神論的宇宙論を説き、地動説を支持したため、異端者として火刑に処されました。

ガリレイ :イタリアの数学者・物理学者、『天文対話』。宇宙や自然を「第二の聖書 」と考え、仮説を実験によって実証し、数学的に論証することで近代科学の方法を創始し、宗教と科学を分離します。天文学・力学分野で実験をもとに 慣性の法則自由落下の法則落体の法則 )を発見し、近代物理学の基礎を築きました。また、『天文対話』で地動説を支持しましたが、宗教裁判にかけられて自説を撤回しました。

ケプラー :ドイツの天文学者。ティコ=ブラーエ の天体観測によって得られた精密な観測値に基づき、惑星が楕円軌道を描くという法則を発見して、伝統的な宇宙観に変更を迫りました。

ケプラーの3法則:①第一法則(楕円軌道の法則)~惑星は太陽を1焦点とする楕円軌道を描く。

②第二法則(面積速度の一定の法則)~惑星と太陽を結ぶ直線は等しい時間に等しい面積を掃く。

③第三法則(調和の法則)~任意の2惑星の公転周期の2乗は太陽からの平均距離の3乗に比例する。

ニュートン :イギリスの数学者・物理学者・天文学者、『プリンピキア(自然哲学の数学的諸原理) 。地上から天体までのあらゆる自然現象の運動を統一的に説明し得る根本原理(運動の法則万有引力の法則)を発見することで古典力学を確立し、近代的な自然哲学を構築、 機械論的自然観(⇔目的論的自然観)に道を開きました。

ニュートンの運動の 3 法則 :①運動の第一法則(慣性の法則 )~物体に外部から力が働かない時、またはいくつかの力が働いてもそれらの力がつりあっている時は、止まっている物体はいつまでも静止を続け、動いている物体は等速直線運動を続ける。

②運動の第二法則(運動方程式)~物体に力が働くと,力の向きに,力の大きさに比例した速度の変化。加速度) を生じる。

③運動の第三法則(作用反作用の法則 )~物体Aから物体Bに力を働かせると、物体Bから物体Aに、同じ作用線上で、大きさが等しく、向きが反対の力が働く。

目的論的自然観 :自然界の現象は一定の法則によって規定されているという見方。

機械論的自然観 :自然を機械のような存在としてとらえ、自然界の事象を物理的な因果関係のみによって説明する見方。デカルトの物心二元論やニュートンの力学はこの立場に立ち、ここから自然の支配・利用が進みました。


(2)近代思想

イギリス経験論

経験論 :経験の起源を経験(感覚)に求める立場。生得観念を否定し、観察実験によって自然法則を導く帰納法を学問方法としました。これは 近代科学 の方法論でもあります。現実の生活での有用性を重んじるイギリスを中心に発達し、経験(知覚)を根拠にした認識とはどういうことかを追究していきます。

ベーコンイギリス経験論の祖、『ノヴム・オルガヌム』 『ニュー・アトランティス』。人間にはその本性や感覚によって誤謬や錯覚が生じますが、実験と観察を通じて得られた知識によって、それらを取り除き、自然の一般的な法則を捉えることで、自然を支配できると考えました。『ニュー・アトランティス』では科学技術が発達した理想郷を描いています。

「人間の知識と力は合一する(知は力なり)。」(『ノヴム・オルガヌム』)

帰納法 :実験と観察によって得られた個別的事例から一般的な法則を導き出す方法。

イドラ :先入観・偏見など。ベーコンは自然を正しく認識するためには、イドラを排除しなければならないとしました。

種族のイドラ (Idola Tribus):人間という種族であるがゆえに陥る偏見。人間に共通する自然的な制約から生じる偏見。感覚による錯覚など。

洞窟のイドラ (Idola Specus):個人的な性向や経験から生じる偏見。各人が各様に持っている経験や知識から生じる偏見。自然の光が遮られた洞窟の中にいる状態にたとえたもの。

市場のイドラ (Idola Fori):言葉の不適切な使用から生じる偏見。人間相互の交わりから生じる偏見。人々が集まる場所でうわさ話を信じることにたとえたもの。

劇場のイドラ (Idola Theatri):伝統や権威を無批判に盲信することから生まれる偏見。劇場で演じられる芝居を、観客が本物と思い込むようなもの。

ロック『人間悟性論』 。人間には生まれつき一定の観念が備わっているという見方(生得観念)を否定し、あらゆる観念は感覚という外的な経験と反省という内的経験によって、後天的に形成されるとしました。

白紙タブラ・ラサ、tabula rasa):人間の心の生まれた当初の状態、経験する前の状態。

バークリー :観念以外の事物の存在を否定する唯心論。

存在することとは知覚されることである。 」:バークリーは、事物が存在するのは人間がこれを知覚する限りにおいてであり、心の他に物質的世界などは実在しないと考えました。

ヒューム :因果関係の客観性を否定する懐疑論。原因と結果の結びつきはむしろ習慣的な連想や想像力に由来する主観的な信念に他ならないとしました。このヒュームの懐疑論は、後にカントの独断のまどろみを破ったことで知られています。

知覚の束 」:ヒュームは経験論を徹底させ、人間の心は単なる「知覚の束」にすぎないと主張しました。そして、実在するのは流れゆく知覚だけで、実体としての精神は存在しないという懐疑的立場を取りました。


大陸合理論

合理論 :感覚的な経験は不確かだとし、人間の理性 を知の源泉と考える立場で主にヨーロッパ大陸で発展しました。人間に生まれつき備わっている観念(生得観念本有観念)を認めます。

デカルト大陸合理論の祖、物心二元論『方法序説』『省察』『情念論』 。情念(感情や欲望)を外部からの刺激によってもたらされた受動の状態であると考えました。また、万人に等しく良識が備わっており、これを正しく用いることで真理に到達できると考えました。具体的には、 方法的懐疑から出発して演繹法 を近代的な学問の方法とし、これを土台として一切の学問を築き上げようとしました。これは近代数学の方法でもあり、座標平面デカルト座標系)を使って代数幾何を統合したのもデカルトの業績です。

良識ボン・サンス):真偽を判断する能力。デカルトは、理性良識と呼び、「この世で最も公平に与えられたもの」であると考えました。

「良識はこの世で最も平等に分配されている。」(『方法序説』)

高邁の精神理性良識 )によって感情や欲望などの情念を制御することで生じる、自由な主体としての気高い心。

方法的懐疑 :数学的な知識やここにいるという感覚でさえも疑った上で、意識的な自我の存在を疑い得ない事実として哲学の基本原理に据えました。

我思う、ゆえに我ありcogito ergo sum.コギト・エルゴ・スム)。」:デカルトは、少しでも疑い得るものは虚偽として退ける 方法的懐疑 を徹底した結果、疑っている限りの我の存在だけは確実であると考えるに至りました。これにより、身体から切り離された意識の主体としての「私」(自我)の存在が確立され(近代的自我の成立)、精神と物質を区別する物心二元論心身二元論)が成立しました。

演繹法 :疑い得ない根本原理から推論によって結論を導き出す方法。

物心二元論 :デカルトは実体を、思惟を本質とする精神延長 を本質とする物体を区別し、それぞれを独立した実体と考えました。

主客対立 :デカルトの物心二元論に代表される、西洋哲学の基本となる考え方。

スピノザ :合理論の哲学者、『エチカ』。宇宙全体が神の現れであるという汎神論を唱えました。

神即自然」:スピノザは、神は無限で永遠の唯一の実体であり、自然そのものであるとしました。

永遠の相のもとに 」:スピノザは全ての事物を、神を表現するものとして「永遠の相のもとに」見ることの重要性を主張しました。

「事物を永遠の相のもとに観想する。」(『エチカ』)

ライプニッツ :物体的なものは現象にすぎないが、その基礎にある真の原子は人間の心がそうであるような単純な実体であると考え、それを モナドと呼びました。


ドイツ観念論

カント『純粋理性批判』『実践理性批判』『判断力批判』 。批判哲学の立場から理性を検討し、主観の働きにより対象が構成されるという認識論を展開して、ロックやヒュームなどのイギリス経験論とデカルトを祖とする合理論を総合しました。また、理性を 理論理性実践理性 に分け、理論理性の領域は経験できるものに限られ、それを超えたものは実践理性が明らかにする領域だと考えて、理性の限界を明らかにしました。

『純粋理性批判』 :人間の認識能力(理論理性)の限界を検討。概念を形成する悟性は、 感性 より得た直感的な印象に思考の枠組みを当てはめて対象を構成するとしました。そして、こうした感性と悟性の協働によって認識が成立しますが、事物そのものである「 物自体」は認識できないとしました。

感性 :認識の素材を受け取る能力。時間・空間という形式を持ち、感覚を受容します。

悟性 (understanding):素材を整理し、秩序づける能力。また、感性と悟性をつなぐものをカントは構想力 と呼びました。

物自体 :現象の背後にある、物そのもの。

『実践理性批判』 :人間の道徳能力(実践理性 )の限界を検討。経験を超える事柄(神、霊魂の不滅など)については理論理性では判断できませんが、実践理性が関わる領域であるとしました。自然界を貫く自然法則と同様に普遍性を持つものとして、人間の行為の世界における道徳法則を追求しました。

『判断力批判』 :反省的判断力について検討。自然美や芸術などの美的対象を考察の対象として取り上げ、それらに関わる想像力(構想力 )の自由な働きや自然の合目的性を判断する能力を分析しました。

内容なき思考は空虚であり、概念なき直観は盲目である。」(『純粋理性批判』)

私の上なる星空と、私の内なる道徳法則 」(『実践理性批判』):「繰り返し長く考えれば考えるほど、常に新たな感嘆と崇敬をもって心を満たすもの」として挙げられたもので、『実践理性批判』の結びの言葉。カントの墓碑銘にもなっています。

「汝の人格や他のあらゆる人格の内にある人間性を、いつも同時に目的として扱い、決して単に手段としてのみ扱わないように行為せよ。」(『道徳形而上学の基礎づけ』)

コペルニクス的転回 :カントが従来の「認識が対象に従う」という理解の仕方を「対象が認識に従う 」と180度転換したこと。

道徳法則 :いつでもどのような場合でも、誰にでも当てはまる普遍的な法則。カントは、自然界に法則があるように、人間にも従うべき道徳法則があると考えました。これは神が与えたものではなく、人間に先天的に備わる実践理性によって打ち立てられるものであるとしました。また、行為の動機を重視したカントは、感覚的欲望(傾向性)から出た行為は結果として道徳法則に合致していても、道徳的価値を認めませんでした。

定言命法 :「ただ~せよ」という命令で、道徳法則 は定言命法の形で発せられます。カントはこの命令に義務として従う行為のみが道徳的価値を持つとしました。

仮言名法 :条件付きで従うべき命令。カントはこれを道徳法則と認めてはいません。

自律 :実践理性が自ら立てた道徳法則に自発的に従うこと。カントは自律的に行為する主体に自由と尊厳を認めました。

目的の王国 :各人が互いの人格を目的として尊重し合う理想社会。全ての人間が互いを自律的主体と見なし、尊重し合う道徳的共同体。

永久平和論 :カントは目的の王国の考えを国際社会に適用し、戦争のない永久平和を実現するために世界連邦が必要であると考えました。

シェリング :ドイツ観念論の哲学者。同一哲学を唱え、芸術に現れる絶対者の直観的把握を目指しました。

同一哲学 :自然と精神の対立の根底に両者を統一する絶対者を認める哲学。

ヘーゲル :ドイツ観念論の大成者。客観的なと主観的な道徳 の統一を主張しました。自由を本質とする精神は、まず個人の主観的精神として現れ、次に社会関係としての客観的精神となり、最後に両者を統一する 絶対精神 になると考え、このように主観的精神と客観的精神を統一した絶対精神が自由を実現していく過程として世界史を捉えました。すなわち、世界史は「 自由の意識の進歩」であり、1人の人間が自由であった時代から、万人が自由な時代に進むとしました。

弁証法 :矛盾を単なる誤りとするのではなく、全ての存在や認識は対立や矛盾を通してより高次なものへと展開していく、とする思考法。ヘーゲルは、事物や現象の運動を支える原理として、事物が の過程を繰り返しながら発展していく法則を弁証法としました。また、世界を精神の弁証法的な自己展開の過程と考えました。

相互承認 :フィヒテ・ヘーゲルの用語。互いを理性的存在者として認め合うこと、自己と他者が互いにその存在を認め合いながら存在すること。ヘーゲルは人間精神にとって、「自分はこういう者である」と自覚する自己意識が成り立つ上で、他者の存在は不可欠であり、異なる他者のうちに自らを見出すことで初めて自己意識が生じるとし、 人倫という共同体において相互承認が行われると考えました。

ゲーテ :ドイツの詩人・作家。疾風怒濤 (しっぷうどとう)と呼ばれる文学運動を主導しました。スピノザの汎神論の影響を受け、独自の自然観を築き、機械論的自然観に基づくニュートンの物理学を批判しました。

疾風怒濤シュトルム・ウント・ドランク):元々はゲーテシラー による、理性よりも人間の感情を重視した文学運動を指す言葉でしたが、後に感情起伏の激しい青年期の内面を表す言葉として、「 疾風怒涛の時代」が用いられるようになりました。


社会契約説とフランス啓蒙思想

ボシュエ :フランスの神学者。王権神授説を説きました。

グロティウス :オランダの法学者、近代自然法の父国際法の父。国家間の問題にも個人間と同様に 自然権が認められるとし、自然法に基づく国際法 を構想しました。

社会契約説 :理性の声である自然法が、個人の生命・自由をより確実に保障するために人間を契約 に向かわせ、国家が人々の契約の上に成立するという考え。

自然権 :全ての人間に備わっている権利。

ホッブズ『リヴァイアサン』。人間は自分の生命を維持する自己保存の欲望(自然権 )を持つ利己的な存在であるため、自然状態闘争状態 になると考えました。互いに争う人々を批判し、国家を『旧約聖書』ヨブ記に登場する怪物リヴァイアサン に譬(たと)え、各人が自らの自然権を全面的に譲渡して国家が成立したとしました。かくして国家に服従することによって混乱を回避するという 社会契約説を説き、強大な権力を持った国家による支配を正当なものとして示しました。

ロック :生命・自由・財産所有など、各人が生まれながらにして持つ自然権を守ることを正義とし、その保障を政府の役割であるとしました。

所有権 :ロックは自分自身の身体と労働は各人の所有物であり、自然から取り出し、労働 を付け加えたものはその人の所有物(その人以外の誰も権利を持てない)と考えました。ロックの所有権 の発想は、市民階級の要求を正当化するものであり、私有財産制を基本とする資本主義 (生産のための土地、工場、機械などの生産手段を所有して労働者を雇い、利潤を得ようとする仕組み)へと発展する基盤を作りました。

信託 :ロックは自然状態を基本的に平和で自由な状態だと考えましたが、生命・自由・財産を所有する自然権が侵害されることもあるので、自然権をより確実に保障するため、政府に権力を信託するという社会契約説を唱えました。

抵抗権革命権 :ロックは、人々が政府に統治を委ねるのは自由軒の保障のためであり、政府が権力を濫用する場合、人々は抵抗権や革命を行う権利をもつと考えました。

ルソー :フランスの啓蒙思想家、『人間不平等起源論』 。自由で平等な自然状態が文明社会になって堕落したことを指摘しました。すなわち、自然状態において人間は自己愛と憐れみの心だけを持っていましたが、文明社会が財産の私有を認めたために人々から憐れみの心が失われ、争いや不平等が起こったと考えました。かくして、他者と結びつき、社会状態へと移行する際に各自の権利を譲渡し、一般意志に委ねることによって、共同の自我や意志を持った統一的な社会が成立するとしました。

自己愛 :生まれつき持っている自己保存を求める自然な欲求。

一般意志 :人類の普遍的な福祉を目指す、自分自身の意志にして、国家の唯一最高の意志・主権。

ヴォルテール :フランスの啓蒙思想家、『哲学書簡』 。ロンドン滞在中の見聞を書簡形式の著作に著し、イギリスの進歩的な政治制度や思想をフランスに紹介して、伝統的身分や宗教的権威が君臨する旧制度を批判しました。百科全書派にも協力しています。

ディドロ :フランスの啓蒙思想家。同時代のイギリス思想の影響から出発し、後に政府から弾圧されながらも、自然や社会に関する合理的な知識の集大成である 『百科全書』 を編集責任者として発刊。人民主権、代議制民主主義、個人の権利の保護などの政治原則を挙げ、フランス啓蒙主義思想において中心的な役割を果たしました。

モンテスキュー :フランスの啓蒙思想家、『法の精神』。権力の濫用を防ぐために三権分立 を唱え、イギリスの立憲君主制を理想として、当時のフランスの絶対王政を批判しました。


功利主義とプラグマティズム

功利主義快楽 を求める存在である人間にとって、快楽は幸福、苦痛は不幸であり、より多くの快楽をもたらす行為がよい行為だと考え、社会的な利益を最大にすることを重視しました。

アダム=スミス :経済学者、古典派経済学の祖、『道徳感情論』『諸国民の富』 。先天的に備わる道徳感情によって、善悪を知ることができると考えました。そして、人間には利己心と同時に共感の感情があり、共感が利己的行為を是正する原理となるとし、利己心と社会全体の幸福を調和させました。また、国家の干渉を批判し、個人が自らの利益を追求することが社会全体の繁栄につながると主張しました。

共感シンパシー ):道徳の原理となるのは共感であり、自己利益を追求する行為は、公平な第三者の視点から共感が得られる範囲内で是認されるとしました。

見えざる手 :市場原理。『諸国民の富』で、個人の利益追求が「見えざる手」に導かれて、社会全体の繁栄をもたらすとされました。

自由放任レッセ=フェール):国家は経済活動への干渉を避けるべきだという考え。

ベンサム :イギリスの功利主義者、快楽の量を重視する量的功利主義。「最大多数の最大幸福 」を道徳の原理としました。功利主義の立場から、社会契約説はフィクションにすぎないと批判しました。

最大多数の最大幸福 :社会は個人を全て合わせたものという社会観から、より多くの人々が利益を追求すれば社会全体も豊かになると考えました。

快楽計算 :幸福の計算において、各人を等しく一人として数えなければならず、特権などによるいかなる加算も加えられてはならないという考えは、普通選挙を求める「一人一票」の原則につながりました。

J S ・ミル『正義論』、快楽に質的な差異を認める質的功利主義 。感覚的な快楽(低級な快楽)より精神的な快楽(高級な快楽)を求めるべきとしました。

精神的快楽 :幸福は量的なものに単純に還元することができず、むしろ精神的快楽の質の方が重要な要素であるとしました。また、幸福は社会貢献など幸福以外の何かを目的として打ち込む時に、副産物として与えられるものであると考えました。

満足した豚であるよりも不満足な人間の方がよく、満足した愚か者であるよりは不満足なソクラテスである方がよい。

自由論 :各自の個性を伸ばすことが社会の進歩にもつながるとし、そのためには個人の自由を最大限に尊重することが必要と考えました。

危害原則他者被害の原則):他人に害を与えない限り、自由を制限してはならないという考え。

正義論 :ミルはトクヴィル『アメリカのデモクラシー』 の影響を受け、で画一的な世論が反対意見を封殺する「多数派の専制」について論じました。

プラグマティズム :真理の判定基準は認識と実在との一致に求められるのではなく、生きる上での課題の解決へと行動を導く点にある、とする思考法。概念や思想の真理性をそれが導く行動(ギリシア語で「プラグマ」)やそのもたらす結果によって検証しようとする立場。

ジェームズ :アメリカのプラグマティズムの哲学者・心理学者。真理の有用性・相対性に注目し、プラグマティズムを普及させました。真理、善、美などは、それが人間の生活において有用であるか否かによって決まり、具体的な状況における実践の結果に左右されるので、普遍的でも絶対的でもないとしました。

真理の有用性 :「真理であるから有用」「有用であるから真理」と表されます。

デューイ :プラグマティズムの大成者。人間の知性は環境に適応するための道具であり、この創造的知性 によって人間性を改善し、理想的な民主主義社会を作り上げねばならないとしました。そして、知性によって個人と社会が調和し、多様な価値が認められる民主主義社会が実現することを理想として、教育が既成の価値観の単なる伝達となることを批判し、問題解決学習の重要性を説きました。

道具主義 :道具を用いて環境を改善していく人間にとって、自らの知性もまた個別の問題を解決して、社会を進歩させるための道具であるとする考え方。

創造的知性実験的知性):問題解決能力。知性は社会の様々な対立や摩擦を解決する力になるとされました。


社会学と社会主義

コント :フランスの実証主義の哲学者、社会学の創設者。人間の知識・精神の発展は、神学的段階形而上学的段階実証的段階科学の精神)の三つに分けられ、その三段階を社会の進歩の三段階(軍事社会法律社会産業社会 )に対応させて説明しました。科学の精神を備えた科学者は、事実の観察を通して発見した社会の発展法則に基づき、社会を設計する必要があるとしました。

ダーウィン自然淘汰によって生物の種の進化を説明する進化論を唱えました。

スペンサー :ダーウィンの進化論を社会に適応して社会進化論 を説き、社会の発展に政府が介入してはならないという自由放任を主張しました。個人は適者生存のメカニズムと自由競争によってふるいにかけられ、社会は共同性のより高い状態へと変容していき、最終的には個人の権利が尊重され、個人の自由が実現される産業型社会へと発展すると考えました。

社会主義 :19世紀、産業革命が急速に進んで資本主義 が発達し、女性や子どもを含む労働者は劣悪な環境の下、低賃金で過酷な労働に従事するようになり、労働者の搾取や経済的不平等が社会問題となりました。 サン=シモンフーリエオーウェン らはこうした社会問題を引き起こす資本主義の弊害を人道主義的立場から批判し、社会主義と呼ばれる思想や運動を生み出しました。彼らは平等を重視し、労働者の連帯を説き、資本家の善意に基づく、差別や搾取のない理想的な共同体づくりなどを目指しました。

フーリエ :フランスの空想的社会主義者。自由競争下での産業社会は統一性を欠いた無政府的なものであり、不正や欺瞞に満ちていると考え、農業を基本とした、調和と統一のとれた理想的な共同社会( ファランジュ)を構想しました。

オーウェン :イギリスの空想的社会主義者。経営者の立場から労働者の生活や労働条件の改善に努めた後、理想社会の実現を目指してアメリカに渡り、共同所有・共同生活の村( ニューハーモニー村)を実験的に建設しました。

マルクス :サン=シモンらの思想を空想的社会主義と呼んで批判し、科学的に現状を分析して、 社会主義革命 を唱えました。労働とは本来、人間の本質的な喜ばしい活動であるはずが、資本主義社会の下では労働が苦役になっているとして、 階級闘争による歴史の必然的進歩が革命によって成就すると論じました。

労働の疎外 :生産手段を持たない労働者は自分の労働力を売って生活するしかなく、労働の成果も資本家のものとなる中、労働が苦役になっているということ。

人間の人間からの疎外 :人間は本来、労働を通して社会や他者と関わり、連帯しながら自己の本質を実現していく類的存在ですが、資本主義社会では 社会的連帯が失われているとしました。

物象化 :資本主義社会では商品の交換関係 が支配的となり、人間もまた物のように取り替えのきく存在として捉えられるようになること。

物神化 :商品の価値は人間の労働に由来するものであるにもかかわらず、商品や貨幣それ自体が価値を持つものとして、ますます崇拝されるようになること。

唯物史観史的唯物論):資本主義社会における資本家と労働者のように、その社会の物質的な生産力に応じた生産関係が土台( 下部構造)となって、政治や芸術など(上部構造 )を規定するとしました。そして、資本主義社会の矛盾は階級闘争を呼び、労働者による社会革命が起こると説きました。

エンゲルス :マルクスの協力者。科学的社会主義を目指しました。

レーニン :マルクス主義を受け継ぎ、帝国主義 の時代に対応した新たな社会主義理論を発展させました。また、プロレタリアートによる独裁が必要であると考え、ロシア革命 を指導することで世界最初の社会主義国家を建設しました。

バーナード=ショウ :イギリスのフェビアン協会 の指導者の一人であり、福祉政策の充実や生産手段の公有化などを行うことによって、現代社会が抱える悲惨な状況を少しずつ改善していくべきであると主張しました。

フェビアン協会 :イギリス。武力革命ではなく、議会制民主主義によって漸進的に社会主義の実現を目指す立場。

ベルンシュタイン :ドイツ。武力革命ではなく、議会制民主主義によって漸進的に社会主義の実現を目指す立場。

シモーヌ=ヴェイユ :フランスの思想家。哲学教師をしていましたが、労働問題への関心から自ら未熟練工として工場で労働し、その体験をもとに機械労働のシステムが人間の尊厳を奪い、労働者達を不幸にすると考え、他者の不幸に共感する不幸論を説きました。


生の哲学と実存主義

ショーペンハウアー :生存への非合理的(盲目的意志 が世界の根源であるとし、ニーチェらに影響を与えました。

盲目的意志 :生存への不合理な意志のこと。ショーペンハウアーは、苦悩からの脱却にはこの意志を否定しなければならないとしました。

ベルクソン :フランスの哲学者。創造的な生命の流れ(生の躍動)を根源的な実在とする「生の哲学 」を説きました。

生の躍動エラン・ヴィタール ):ベルクソンは、創造的な生命の流れは自己防衛の本能に基づく閉鎖的な社会から普遍的な人類愛に基づく社会へと人間を向かわせ、その転換は人類愛を備えた人物の創造的行為によって成し遂げられるとしました。

創造的進化 :他の社会に対して排他的な閉じた社会から、普遍的な人類愛に基づく開いた社会へと創造的進化を図るためには、人類愛を実践する開かれた魂を持たなければならないとしました。

キルケゴール :デンマークの有神論的実存主義の先駆者。真の信仰を問う視点から、人間は神の前の 単独者 として存在しているという事実を見据えるべきとし、平均化・画一化した当時の社会の中で人々が本来の自己のあり方を見失い、欺瞞的に生きていると批判しました。

単独者 :産業革命後、機械の歯車のようになって大衆の中に埋没する人々を批判し、神の前にただ単独者となる時、人は本来の自己を取り戻す( 宗教的実存)と説きました。

実存の三段階実存の質的弁証法 ):世界のあり方を説明する従来の哲学に対し、主体的真理を求めることが重要だと考え、人間が現実に生きている主体的な自己のあり方である実存に至る段階を 美的実存倫理的実存宗教的実存 として示しました。

美的実存 :「あれも、これも 」と欲望に導かれて、快楽を求める生き方。しかし、結局のところ、心が満たされないばかりか、かえって自己を見失うことによって、やがて絶望に陥ることになるとしました。

倫理的実存 :「あれか、これか 」の決断をし、責任を持って良心的に社会生活を営む生き方。だが、倫理的に生きようとすればするほど、かえって自己の無力さに絶望することになるとしました。

宗教的実存絶望 の果てに罪の意識におののきながらも、神と向かい合うことで、信仰に生きること。ただ一人単独者として神の前に立つ宗教的実存に至る時、神との本質的な関係を取り戻すとしました。

ニーチェ :ドイツの無神論的実存主義 の先駆者。古代の周期的な時間観に示唆を受け、あらゆることが目的もなく無限に繰り返される循環的な時間(永劫回帰 )の中で、そのことから目をそらさず、自らの人生を「ならば、もう一度」と肯定的に引き受ける(運命愛)、超人としての生き方を模索しました。超人は生を肯定し、西洋の伝統的な道徳に囚われず、 力への意志を体現しており、自らの手で新しい価値を創造するとしました。

ニヒリズム虚無主義):伝統的な価値や真理を否定する立場。ニーチェは従来の価値を否定し、虚無の中から新しい価値を創造していく 能動的ニヒリズムを主張しました。

ルサンチマン怨恨 ):弱者が強者に対して抱く憎悪や復讐心のこと。ニーチェは、19世紀末のヨーロッパ人がニヒリズムに陥っている原因はルサンチマンに基づくキリスト教道徳にあると指摘し、キリスト教の道徳を 奴隷道徳と呼びました。

奴隷道徳 :ニーチェは、キリスト教の倫理観と結びついた西洋の理想主義は奴隷道徳であり、理想主義を支えている善悪の区別は自分よりも優れたものを憎悪するルサンチマンに基づいているとし、尊いものと考えられてきた人間性はむしろ克服されるべきものだと考えました。

永劫回帰 :世界が無意味な永遠の繰り返しであること。

運命愛 :無意味な繰り返しである自己の運命を受け入れること。

自己愛 :自己の世界を愛して、自己満足にひたること。

超人 :従来の価値(キリスト教道徳)を破壊し、自分の力で生きる意味や目的を創造する者。

力への意志 :自己を伝統的な価値や社会の通念への従属から解放して、自由な価値創造の主体として肯定する意志のこと。常に自己を成長させ、新しい価値を創造する意志のこと。

ヤスパース有神論的実存主義の立場に立つドイツの哲学者。限界状況に直面した時、人間は有限性を自覚し、 超越者と出会い、そして、実存的交わり によって本来的な自己を取り戻すことができると説きました。

限界状況 :死・苦悩・争い・責めなど、人間の力では変えることも乗り越えることもできない状況。

実存的交わり :他者と真実の自分を探究し合うこと。

ハイデッガー :人間は近代技術を用いることで自然を対象化し、支配するようになりましたが、人間も機械の部品のようになり、自己を喪失していると指摘しました。このように日常性の中に埋没した人間が「 存在のよびかけ 」に応えて有限性を自覚する(あらゆる瞬間に到来し得る死を自覚する)ことで、没個性的な生き方から脱し、本来的な自己を取り戻すことができると述べました。

現存在 :存在の意味を問うことができる唯一の存在者としての人間のあり方。

世界内存在 :人間は世界の中に投げ出されており(被投性)、そこで他者や物事との関係の中で日常を生きる人間のあり方。

ダス=マンひと世人 ):日常性に埋没した非本来的な人間のあり方。平均化され、本来的自己を喪失した存在。

存在忘却 :日常に埋没して自己固有の存在を忘れている状態。

故郷の喪失 :近代技術社会の中であらゆるものが技術の対象と見なされ、人間が本来の存在を見失っている状態。

死への存在 :ハイデッガーは、人間は誰もが自分の死を引き受けなければならず、死の自覚を介して初めて、本来的な自己のあり方を獲得することができると考え、本来の自己へと至るためには、死への不安から逃避することなく、死への存在であることを自覚しなければならないとしました。

サルトル :フランスの無神論的実存主義の作家・思想家、『弁証法的理性批判』『嘔吐』 。第二次世界大戦後、人間においてはあらかじめ決まった本性はなく、人間の本質は自由であるが、人間は自らに対してだけでなく、社会に対しても責任を負っているとして、積極的に社会参加しなければならないと呼びかけました。

『嘔吐』 :主人公が公園のマロニエの木を見て、存在の偶然性を発見する場面を描きました。

実存は本質に先立つ。 」:人間の自由は自己のあり方を自分で選択していくところにあるとする考え方。まずこの世に存在し、そこから自由に生き方を選択する中で自己の本質を作り上げるという人間のあり方。

アンガージュマン社会参加 ):人間は社会に自分を投げ込むと同時に、その自由な選択の責任を全人類に対して負うとしました。すなわち、人間は他者との関係の中で存在しており、選択は他者との関係において行われ、他者を巻き込まずにはいられないため、全人類に自己をアンガージュマンさせて生きているのであるとしました。

即時存在 :それ自体で存在する本質で規定された事物。

対自存在 :自己を意識し、自分を新たに作っていくことのできる人間。

カミュ :フランスの無神論的実存主義の作家・思想家、『シーシュポスの神話』『ペスト』 。人間の生が不条理であることを示し、その中で生き続けることを人間の運命としました。

『シーシュポスの神話』 :ゼウスに背いて「無意味」という罰を受け、山の上から転げ落ちる岩を運び上げることを無限に反復するシーシュポスの姿が描かれます。

『ペスト』 :アルジェリアの町で伝染病と戦う人々を描きました。

ブーバー :ユダヤ人の宗教哲学者。互いに人格として認め合う「我-汝」の関係を理想としました。

レヴィナス :リトアニア出身のフランスのユダヤ系哲学者。ナチスに家族を虐殺された経験から、他者の異質性を認めず、自己に同化する全体性を批判し、他者の存在を受け入れ、その苦痛に責任を負うことが倫理の出発点になるとしました。

全体性 :他者の異質性を認めず、自己に同化する考え方。

他者とは、私とは絶対的に異なった独自の「 」を持つものとして現われ、常に私の理解や予測を超える存在であるとしました。


現象学

フッサール :ドイツの哲学者。事物の実在に関する判断を差し控えるエポケー判断停止 )によって、意識に現れる現象をありのままに記述し、考察する学問(現象学)を確立しました。

エポケー判断中止):世界の実在性について判断を停止、事実をあるがままに受け入れること。


(3)現代思想

無意識の思想

フロイト :精神分析学の創始者。無意識の存在を発見し、無意識の層に潜んでいる根源的な欲望を性の衝動であるとしました。

ユング :人間の行動や意識には無意識の領域が深く関与すると考え、無意識を個人的無意識集合的無意識 とに分類し、人類共通の集合的無意識と自我との関連を神話や伝説の分析を通して指摘し、集合的無意識を構成している元型 に注目しました。

集合的無意識 :個人の体験を超えて、人類が太古から繰り返してきた体験が積み重なってできてきた普遍的無意識。


社会分析

フランクフルト学派 :近代化の推進役である理性が道具的な性格に堕し、手段の効率性に囚われて、目的それ自体は顧みなくなることで、かえって野蛮な時代が生じる点に着目し、理性のあるべき姿を探る批判理論を展開しました。

ホルクハイマーとアドルノ :ドイツのフランクフルト学派第一世代『啓蒙の弁証法』。人間を自由にするはずの 啓蒙的理性が人を支配する道具的理性になってしまっていると指摘しました。

道具的理性 :実現すべき目的を批判的に検討する能力であった理性は、近代社会の発達に伴って、任意の目的に手段が形式的に適合するかどうかを判断するだけの道具的理性と化し、個人を抑圧する画一的な社会を形成してきたとされます。

フロムフランクフルト学派第一世代、アメリカに亡命、『自由からの逃走』 。大衆の心理を分析し、束縛から脱し、自由を獲得したはずの人間が自由のもたらす孤独や不安に悩み、むしろ自由から逃走するようになると説きました。そして、この自由のもたらす不安から逃避しようとした大衆の心理がナチズムを支えたと分析しました。

ハーバーマスフランクフルト学派第二世代を代表するドイツの社会学者。理性を信頼し、新しい理性のあり方を検討しました。

対話的理性 :社会の構成員が対等な立場で話し合いながら、共通理解の下で合意を作り出す理性的な能力のこと。

生活世界の植民地化 :目的の効率的な達成を目指す近代の政治的及び経済的なシステムが、コミュニケーションが行われる場(生活世界)を侵略し、人々の日常的な行動や人間関係が侵食して植民地のように支配していること。

ハンナ=アーレント :大衆社会が全体主義の温床になったと捉えました。

活動 :他者の存在に刺激され、人と人とが直接関わり合う行為。政治を始めとする公的な営みは活動であるべきとした。

労働・仕事 :必要や有用性に基づくもので、物と人との間で成立する行為。

ボーヴォワール :サルトルのパートナー、『第二の性』

リースマン :アメリカの社会学者、『孤独な群衆』。人間の社会的性格を伝統指向型内部指向型他人指向型 に分類し、現代の大衆社会においては、孤独への不安から他人の行動に同調し、他人からの承認を強く求める他人指向型の人間が多いとしました。

ボードリヤール :フランスの社会学者。現代の消費社会において、消費者は使用価値を求めてではなく、他者との差異を示すための 記号として商品 を所有し、それによって差別化を図っていると分析しました。そうした差異への欲望を刺激し、消費拡大を目指す企業を批判する言説も消費の対象になっているとされます。


分析哲学・科学哲学

分析哲学 :哲学的な問題を何よりも言語と関わっているものと捉え、言語批判 (言語の働きとその限界の分析)によって解決しようとする思考法。

ウィトゲンシュタイン :言語哲学の基礎を作ったオーストリアの哲学者、『論理哲学論考』 。理性的思考を言語の観点から考察し直し、言語活動は一定の規則に従う「言語ゲーム 」であり、共同体で習得されるとしました。

語り得ぬものについては、沈黙せねばならない。 」:自然科学においては、命題が真か偽かを確定することができますが、神や道徳などの問題に関する哲学や宗教の言語は現実の事象との対応関係を持っておらず、語り得ぬものを語ろうとすることになってしまうとして、従来の哲学・形而上学を批判しました。そのため、これまでの哲学的問題の多くは語り得ぬものを語ろうとしたために生じてきた、としました。

言語ゲーム後期ウィトゲンシュタイン は日常生活における言語の使用や規則の習得について省察を深めていき、日常会話や自然科学の議論は日常生活を基盤として一定のルールに従って行われる言語ゲームであると考え、そのルールは日常生活の中でしか習得できないとしました。

トーマス=クーン :アメリカの科学史家。観察など研究活動の蓄積から理論が徐々に進歩していくという科学像に代えて、パラダイム (理論の枠組み)の中で初めて研究活動は可能になり、その枠組みは時に革命的に変化するという科学像を示しました。

パラダイム (理論の枠組み):クーンは科学の発展の歴史をパラダイムの変換(パラダイム・シフト)によって説明しました。


構造主義・ポスト構造主義

ソシュール :スイスの言語学者。個人の主観的意識を超えた構造として言語を捉え、自由で主体的に見える人間の言語活動や思考も、そうした構造によって可能になっているとして、 構造主義の成立に大きな影響を与えました。

ラング :個人の主観的意識を超えた社会的・文化的制度としての言語体系。

パロール :自由で主体的に見える、個々の具体的な会話。

構造 :システムの中の要素が変わっても、そこに変化しないである、普遍的なもの。

構造主義 :事象や行為の意味を、主観的な意識を超えた社会的・文化的システムとしての構造に注目することによって解明しようとする思考法。具体的な事象は、社会的・文化的システムの中で他の要素と関係づけられることによって意味を持つとします。

レヴィ=ストロース :文化人類学者。ブラジルの先住民の結婚制度・親族や神話などを調査し、個人の主観的意識を超えたシステムが存在していることを見出し、人間に普遍的な構造( システム )を明らかにしようとしました。また、西洋における科学技術文明の絶対化を批判し、未開の「野生の思考」と西洋の「科学的思考」の間に優劣はないという文化相対主義を主張して、20世紀の思想に大きな影響を与えました。

フーコー :フランスの構造主義の哲学者、『監獄の誕生』 。ニーチェからの影響を受け、人間の思考を無意識のうちに支配する知や社会の構造を明らかにすることで、人間の主体的な自由を賛美するヒューマニズムを批判し、さらに従来の権力概念に変更を迫ることで、生のあり方を問い直しました。権力が日常的な人間関係の中で働いて、本来の自由が損なわれる危険性を指摘し、権力を強化する監獄などの装置を作り出した近代社会を批判しました。具体的には、近代の監獄 パノプティコン(全展望監視システム、ベンサム のアイデア)において、実際に監視者に見られていると確認できなくても、見られる可能性を知っていれば、囚人は監獄の規則に従うようになるように、囚人が規則に適う行動を自分で自分に強制する権力が身体を統制する仕組みを分析した。すなわち、監獄・学校・病院・工場などにおける監視と処罰を通して、権力に都合のよい人間が作られていくことを明らかにした。


正義論

自由主義 :社会は自由で独立した個人の集合体であり、個人は自分にとって望ましい生き方を好きなように取捨選択できる存在( 負荷なき自我)として捉えられています。

ロールズ :アメリカの政治哲学者、『正義論』 。功利主義を批判し、社会契約説を元に基本的な財(自由・機会・所得などの社会的条件)の分配をめぐる平等の原理として正義を捉え直し、現代思想に大きな影響を与えました。具体的には、各人が自分の能力や境遇について知らないという「自然状態」を想定し、その上で自由競争によって生まれる不平等を克服する思考実験を通じて、不平等を是正する公正としての「 正義の原理」を考察しました。

アマーティア=セン :インド生まれのイギリスの経済学者。貧困や飢餓の解決には経済成長を目指すだけでなく、人間の潜在能力 を開発することが必要であると考えました。市場経済が経済発展のために不可欠であることを認めながらも、公正な発展を推進するためには民主主義の確立や教育の拡充が必要であるとしました。

機能:「教育を受けられる」「健康である」といった、人間が価値を見出す状態や行動のこと。

潜在能力 :様々な機能を達成できる実質的な自由のこと。


共同体主義

コミュニタリアニズム共同体主義 ):個人を共同体との関係で捉え、共同体全体の善(共通善)を重視する立場。抽象的な正義によって一元的に統制された社会ではなく、それぞれの共同体が育んできた複数の徳が継承され、成員が友愛や道徳的・政治的責務を積極的に担うような社会が望ましいとします。

マイケル=サンデルロールズ原初状態における「無知のベール 」をかぶらされた個人を「負荷なき自我」であると批判し、コミュニティ の伝統や文化を背負った成員達が討議を通して共通善を追求する社会を目指しました。


平和論

シュヴァイツァー :アフリカでキリスト教布教活動と医療活動を行いました。

生命への畏敬 :シュヴァイツァーは全ての生命には生きようとする意志が見出されるとし、全ての生命を尊重する「生命への畏敬」を倫理の根本原理とし、あらゆる生物の命を尊ぶことが人間の責任だと説きました。

ガンディー :自らの政治運動においてサティヤーグラハ真理把持)の理念を掲げ、これはアヒンサー不殺生)とブラフマチャリヤー自己浄化)を実践することで実現するとしました。

ラッセル :イギリスの数学者・哲学者・平和運動家。

ラッセル-アインシュタイン宣言 :1955年。核戦争によってもたらされる人類絶滅の危機を回避するため、ラッセルとアインシュタインらは核兵器廃絶を訴え、平和に対する科学者の責任を説きました。

マザー=テレサ :カトリックの修道女。キリスト教に基づく人間愛や社会的弱者への共感を背景として、インドで孤児や病人に対する救済活動に生涯を捧げました。

「最大の罪は愛と憐れみを持たないことです。」

動物実験をする際に配慮すべき原則 (3R):Reduction(動物使用数の削減)、Replacement (動物実験の代替手段への置換)、Refinement(動物が受ける苦痛の軽減)。