古文選~代表的名文で古文の素養を豊かにする~


古文選

~代表的名文で古文の素養を豊かにする~

1、『古今和歌集』仮名序
2、『竹取物語』
3、『土佐日記』
4、『伊勢物語』
5、『大和日記』
6、『蜻蛉日記』
7、『枕草子』
8、『和泉式部日記』
9、『源氏物語』
10、『紫式部日記』
11、『堤中納言物語』
12、『更級日記』
13、『大鏡』
14、『方丈記』
15、『平家物語』
16、『十六夜日記』
17、『徒然草』
18、『奥の細道』


1、『古今和歌集』仮名序

【例文】やまとうたは、人の心を種として、万(よろづ)の言の葉とぞなれりける。世の中にある人、ことわざ繁(しげ)きものなれば、心に思ふことを、見るもの聞くものにつけ、言ひ出(いだ)せるなり。花に鳴く鶯(うぐひす)、水に住む蛙(かはづ)の声を聞けば、生きとし生けるもの、いづれか歌をよまざりける。力をも入れずして天地(あめつち)を動かし、目に見えぬ鬼神(おにがみ)をもあはれと思はせ、男女(をとこをんな)の中をも和(やは)らげ、猛(たけ)き武士(もののふ)の心をも慰むるは歌なり。

【訳文】和歌というものは、人間の心情をもととして、(それが)様々の言葉となって、表れたものである。この世の中に生きている人は、(いろいろと)出あう事件やする仕事が多いものであるから、(それについて)心に感じたことを見たり聞いたりするものに託して、(言葉として)表現したものである。花の咲く木に来て鳴く鶯の声や、水に住む河鹿(かじか)の鳴く声を聞くにつけても、全てこの世に生きているものは、何一つとして歌を詠まないものがあろうか(、皆歌を詠むものだということが感じられる)。(別に)力をも入れないで天地(の神)を感動させ、目に見えない鬼神をもしみじみと感じさせ、(また)男女の仲をも和合させ、勇猛な武士の心をも慰めるものは、歌である。

【解説】905年以後成立。最初の「勅撰和歌集」(天皇・上皇の命令によって編纂した和歌集。平安時代から室町時代にかけて21回行われ、これを「二十一代集」と言います)で、「古」は『万葉集』から後を、「今」は撰者(紀貫之<きのつらゆき>、紀友則<きのとものり>、凡河内躬恒<おおしこうちのみつね>、壬生忠岑<みぶのただみね>の4人で最初は友則が中心でしたが、その没後に従弟の貫之が中心となりました)の時代を指しています。成立当時は『続(しょく)万葉集』とも呼ばれていたようですから、勅撰ではないとはいえ、如何に『万葉集』の存在が大きかったかが窺えますね。


歌集 成立 撰者 歌風 傾向 修辞
『万葉集』 760年頃 大伴家持(おおとものやかもち) 「ますらをぶり」(男性的)。素朴・雄大で簡明。 現実的、直感的、主情性。 枕詞(まくらことば)・序詞(じょことば)が多く、対句・反復表現に富む。
『古今和歌集』 905年 紀貫之、紀友則、凡河内躬恒、壬生忠岑 「たをやめぶり」(女性的)。優雅・繊細で詠嘆性が強い。 観念的、技巧的、理知性。 掛詞(かけことば)・序詞・縁語が多く、擬人法による表現も多い。
『新古今和歌集』 1205年 藤原俊成、藤原定家ら 幽玄・有心体(うしんたい)。華麗で優美性に富む。 幻想的、余情的、象徴性。 本歌取(ほんかど)り・体言止め(余情)に富む。暗喩性が強い。


 『古今和歌集』の歌風は「古今調」として近代まで長く和歌の手本となっており、整然とした構成や配列なども後の勅撰和歌集の模範とされています。また、この「仮名序」は「文学史上最初の優れた歌論」とされ、やはり後世の文学に大きな影響を及ぼしています。ちなみに「仮名序」と並んで紀淑望(よしもち)の「真名序(まなじょ)」(「真名」は漢字の意)が巻頭を飾っていますが、これは仮名序を漢文に訳したものと見られています。『万葉集』の歌人としては、「歌聖」柿本人麻呂(かきのもとひとまろ)が最高峰とされ、山部赤人(やまべのあかひと)、山上憶良(やまのうえのおくら)、大伴旅人(たびと)、大伴家持らがそれに続きますが、仮名序の中でも紀貫之らに先立つ著名な歌人として「六歌仙」を挙げて、けっこうボロクソに品評しています。

六歌仙
品評
僧正遍照(そうじょうへんじょう)
歌としての特色ある風体はなしているが、(歌のうちにこもる)感動というものが欠けている点がある。例えば、絵に描いてある女を見て、(その美しさに)むやみに心を動かすようなものである。
在原業平(ありはらなりひら)
歌の(根源である)感動は余るほど込められているが、(それを表現する)言葉が足りない。(例えば)しぼんでいる花が、その美しさは失(う)せてしまって、匂いが残っているようなものである。
文屋康秀(ふんやのやすひで)
言葉の技巧は優れているが、巧みさだけが際立っていて、風体と調和したものとなっていない。例えて言うなら、商人が良い着物を着ているようなものだ。
喜撰法師(きせんほうし)
表現の仕方が奥深くて、一首全体の上で意味が明瞭でない。例えて言うなら、清らかな秋の月を見ている時に、(その月が)暁方の雲に覆われたようなものである。(ただし、この人の)詠んだ歌は世間に多く知られていないから、あれこれの歌を比較して(見ることができないので、その歌風は)よくとらえることができない。
小野小町(おののこまち)
古代の衣通姫(そとおりひめ)の流れを汲むものである。優美で身にしみるような趣きを持っているが、力強さがない。例えて言うなら、美しい女が病気で悩ましげにしているところがあるのに似ている。力強さに欠けるところがあるのは、女の歌だからだろう。
大伴黒主(おおともくろぬし)
その歌風が卑俗である。例えて言うなら、薪(たきぎ)を背負っている木こりが花の陰に休んでいるようなものである。

  ところで、貫之がこの仮名序で「力をも入れずして天地を動かし、目に見えぬ鬼神をもあはれと思はせ、男女の中をも和らげ、猛き武士の心をも慰むるは歌なり」と述べているのは「言霊」の作用を言ったものですが、文章的には『詩経序』(子夏の作とされる)からの影響と見られています。そこには次のように出てきます。
「故に得失を正し
 天地を動かし
 鬼神を感ぜしむる
 詩に近きはなし
 先王これを以って夫婦を経し
 孝敬を成し
 人倫を厚くし
 教化を美しうし
 風俗を移す
 故に詩に六義あり」

 実際に和歌によって天地を動かし、鬼神をもあはれと思わせ、男女の仲をも和らげ、猛き武士の心をも慰めた例として、『今昔物語』『宇治拾遺物語』『古今著聞集(ここんちょもんじゅう)』『今物語』『塵塚物語(ちりづかものがたり)』などに多く見ることが出来ます。また、中世歌学の家の権威を重んじる風潮から、『古今和歌集』の語句解釈に関する秘密伝授がなされるようになり、これを「古今伝授」と呼んでいます。

【関連】
①「それ故に古今集は、日本和歌史に於(お)ける一大エポックの創立的記念碑であり、万葉以後の新歌風を開拓した最初の黄金歌集として、正に千古不滅の価値を残す者でなければならない。実際古今集以後の世々の歌風は、そのスタイルと美学の根本原理を、悉(ことごと)く皆母胎の古今集に踏襲している。たとえ枝葉(しよう)に於(おい)て、多少の変化を試みた歌風であっても、原則として古今集を離れた者は一つもなかった。」(萩原朔太郎『恋愛名歌集』)

②「『古今集』の百九十年以上も前に編まれた『古事記』の序文は四六の駢儷(べんれい)体であって、同時代の中国にも書く人はほとんどいなくなった修飾の凝ったもので、太安万侶(おおのやすまろ)の学問のほどが察せられる。またこれより数年おくれてできた『日本書紀』は堂々たる漢文である。いな、それよりももっと注目すべきことは、わが国最初の歌集である『万葉集』ができる前に、『懐風藻(かいふうそう)』(七五一年)が出ていることである。つまり和歌集の前に、すでに日本人の漢詩集があったのだ。そしてこのパタンはその後になってもくずれない。つまり日本の最初の勅撰集は漢詩集である『凌雲集(りょううんしゅう)』(八一四年頃)なのである。つまり最初の勅撰和歌集である『古今和歌集』(九〇五年頃)ができる九十年も前に、外国語の勅撰詩集が出ていることになるのである。」(渡部昇一『日本語のこころ』)

③「昨秋、ハワイへ行った。学会出席のためであったが、少し遊んできた。予想どおり、ハワイはすばらしいところであった。十一月末というのに、日本の六月末の気候であり、しかも日本特有の湿気はなかった。乾いた暑さなので人はほとんど暑さを感じない。そして、花がすばらしく美しかった。熱帯独特の香りの強い花が咲き乱れ、果物はひどくうまかった。ここはたしかに極楽である。
しかし正直いうと、私はハワイの花を見ても、花を感じなかったのである。それはたしかに花であるが、われわれの想像する花ではない。日本人の理解する花とちがった花がそこにある。それは、なにゆえであろうか。ひとくちにいえば、われわれの理解している花は、咲き、そして散る花である。つまり季節によって、咲き散る花、それがわれわれの知る花である。しかしハワイの花は、そういう花ではない。もちろん、季節によって咲く花もあるが、しかし多くの花は一年中咲いている。ここには咲く花の美しさはあっても、散る花の美しさはない。 われわれの祖先の愛好した花は、そういう花ではない。それは、咲く花であるより、むしろ散る花である。私は日本人の美意識を決定したものは、『古今集』であると思うが、この『古今集』という歌集は、ほぼ自然の歌と恋の歌で出来上がっている。そして自然の歌の多くは、花の歌である。しかも花の歌といっても、主として散る花の美をうたう歌である。
桜と紅葉が、『古今集』でもっとも多く歌われる花であるが、桜も紅葉も、その美しさは、盛りになるところにあるというより、散るところにあるといえる。「久方の光のどけき春の日にしづ心なく花の散るらむ」(紀友則)という歌と、「ちはやぶる神代もきかず龍田川から紅に水くくるとは」(在原業平)という歌は、この日本人好みの二つの花の散る美しさをうたった代表的な歌である。
このことは、日本人の生と死の見方とも深く関係しているように思われる。日本人にとって好ましい人物は、散りぎわの美しい人物であった。あくまで生きぬき、ねばりぬくというような人物は、日本人好みではない。源義経、豊臣秀頼、大石良雄など、どこか日本人好みの人物には散る花の美しさがある。」(梅原猛『哲学の小径』)

④「地方赴任者は、栄転・昇格など都からの吉報を今か今かと待つ。反乱を起こした藤原純友(すみとも)を討つ将として西海に下った小野好古(よしふる、八八四~九六八)も、その一人である。
 好古はいらいらしていた。討伐が思うようにいかないからではない。翌年正月の定例人事で、自分が四位に昇格するかどうかが心配なのである。好古はどうしたことか、もう二十年間も五位に据えおかれたままなのだから、苛立(いらだ)ちも当然である。万年五位、そんな言葉が好古の頭をよぎるのも一、二回ではなかった。
 年は代わった。都離れた西国では、定例人事の情報もなかなか伝わってこない。都から下ってくる人に聞くと、昇格したといってくれる人もあり、また、しなかったのではという人もいる。
 ようやく都の友人源公忠(きんただ、八八九~九四八)から手紙が来た。不安で高鳴る胸を押さえつつ封を解くと、一別以来の消息がこまごまと書かれているだけで、昇格には何も触れていない。発信の月日は人事発表以後であるのに触れていない友の手紙に、憎しみの念さえ抱いたのである。が、追伸が奥にあった。
 玉くしげふたとせ会はぬ君が身を 朱(あけ)ながらやはあらむと思ひし
「二年会わぬ貴方(あなた)が、年が明けても朱の衣のままでいるとは思ってもいませんでした」と言う。五位の衣の色は朱色、四位は紫に近い深緋(しんぴ)。今度も昇格できなかったのである。好古は声をあげて泣いた。それは昇格できなかった悲しみばかりではない。ショックを和らげるため追伸で、しかも、枕詞(まくらことば)・掛詞(かけことば)・縁語などのレトリック交じりの歌で非情を和らげ、婉曲(えんきょく)に伝えてくれた公忠の友情に感激してであった。
好古は公忠に西海の状況を書き、追伸として一首添えたのである。
朱ながら年経ることは玉くしげ 身のいたづらになればなりけり
「年が明けながらも朱衣であるのは、私が役立たずだからでしょう」と。
 今度こそ本社へと、異動発表を待っている地方の支店勤務の友人に、駄目だったということを知らせる難しさ。さらりと何気なく伝えることに公忠は苦労している。人は落ち目になればなるほど、友人の優しい心遣いには嬉(うれ)しさを感じるものである。
 好古は四ケ月後に四位になった。臨時人事なのだが、両人の歌と友情が評判になっての特別昇格だろうか。」(山口博『王朝貴族物語』~源公忠は「三十六歌仙」の一人で、紀貫之とも度々歌の贈答をしています。)

⑤「平家が全盛であったとき、源氏で朝廷に仕えていたのは頼政(よりまさ)一人であり、老年になっても四位以上にならなかった。そこで、
登るべき 道しなければ 木の下に しいを拾いて 世をわたるかな
と詠んだら、さすがの清盛も憐れに思って、三位(さんみ)にしてくれたという。頼政のことを源三位(げんさんみ)というのはそのためであるが、和歌の徳によって出世した武士としては彼が最初であろう。
次は頼朝である。奥州征伐で白河の関を越えたとき、頼朝は諸将に向かって、能因(のういん)法師の歌はどうだ、と声をかけた。
能因の歌は、誰でも知っている例の「都をば 霞とともに いでしかど 秋風ぞ吹く 白河の関」である。
そこで梶原景季(かじわらかげすえ)が進み出て、
秋風に 草木の露を 払はせて 君が越ゆれば 関守もなし
という歌を詠じた。
すると頼朝がおおいに喜んで、即座に五〇〇町歩の土地を与えたという。なにしろ頼朝は、後世の武士から見れば武士のカミサマか、ご本尊様みたいな人であるから、その人が家来の歌一つに五〇〇町歩を与えたという効果は大きい。
頼朝のあとを継いだ泰時もまた文武の人であったので、文武両道ということが武家の理想として明らかに根づいたのである。
時代が下って足利時代のことであるが、将軍義満が伏見の桜を見に出かけたときの話である。
ちょうどあいにく雨が降ってきたので、将軍は、
「雨乞いの歌というのがあるが、誰か雨を止めさせる歌でも作らないか」
と言った。
そこで大内義弘が、
雨しばし 雲に休(やす)らへ 小幡山(こはたやま) 伏見の花を 見て帰る程(ほど)
と詠んだ。
すると、ちょうど雨が止んだので、義満は大いに喜んで、
「恩賞は望みしだいぞ」
と言ったので、義弘は、
「私の領地である周防(すおう)・長門(ながと)の隣に、安芸(あき)の東西条という地方がありますので、あそこを拝領したい」
と答えた。すると義満は、
「それはいとも易(やす)いことである」
と言って、東西条全部を褒美としてくれたという。
一所懸命の時代に、和歌一つで新領土をもらうというのだから、日本の武士の歌心というのは、たいしたものである。
その最もドラマチックな例が細川幽斎(ゆうさい)の場合である。
幽斎こと細川藤孝(ふじたか)は、足利義晴(よしはる)・義輝(よしてる)・義昭(よしあき)に仕え、戦国末期のどさくさに将軍家の家臣として活躍したが、足利幕府の滅亡ののちは織田信長に仕え、信長のあとは秀吉に仕え、ともに重んじられた。豊臣滅亡ののちは徳川家康に重んじられ、細川家は肥後熊本城主の大名として明治に至って、その子孫には、今日なお著名の人が少なくない。足利幕府以来の大名で残っているのは、おそらく細川家のみであるから、これを幽斎の天才的世渡り術と見る人もいるであろうが、その本当の秘密は、和歌にある。
たとえば関ヶ原の戦いのとき、彼のいた田辺城は石田光成の軍によって包囲された。ところが幽斎は、当時、「古今伝授」を受けた唯一の人であった。彼が殺されれば、藤原基俊(もととし)・俊成(しゅんぜい)・定家(ていか)以来の『古今和歌集』についてのオーソドックスな解釈の伝統が断絶してしまう。
これを心配された後陽成(ごようぜい)天皇は、勅命を下されて、包囲を解かせてもらったのである。これは家康側にとっては予期せぬモラル・サポートであった。
家康は「第二の頼朝たらん」と努めた人である。頼朝の和歌尊重のことは十分に知っている。細川家が徳川家に優遇されたのは当然のことであった。こういうのを「和歌の徳」と言うのである。」(渡部昇一『日本史から見た日本人・古代編 「日本らしさの源流」』)

⑥「三日の夕方、いくらか空模様も落ち着いてきたので、幼子を抱いて、灰にいけた炭火のそばに座って外を眺めていると、垣根の群竹の上に、愛宕山や嵐山の連山が夕日に美しく照り映えて横たわっている。見る見るうちにその山々に夕雲がたなびいて、日が暮れてしまった。その雲の色は黒く、薄い所は紫色もあるらしいのが、南に向かって大小の旗のように流れ去って行くようである。あるものは獣の吠える形、あるものは鳥が飛んでいる姿に見えるなど、様々である。あるものはたちまち人の顔になり、あるものは鬼の姿になって消え失せ、見ているうちに激しく変化していく様子は、幻のような感じがする。
一つ一つの雲の形に名前をつける間もないうちに消え去ってしまうのを、「ああだこうだ」と言っていると、幼子が気づいて、「菫の花に似ているね」と言った。それを聞いて、私はすぐさま「菫の雲は消えにけるかな」と口ずさみ、続いて「こういう風に詠むのが、いつもお前に教えているあの歌なんだよ」と言うと、幼子は驚いて、そういう風に詠めば歌になるのかという顔つきをするのだが、それが何かを分かっているような様子なので、私は続けてこう言った。「お前が近頃読んでいる古今集の序に『見るもの聞くものにつけて言ひ出だせるなり(=見るもの聞くことに託して、言葉で表現したものである)』とあるのは、こういう歌を詠むことを言うのだよ。もっと試しに言ってごらん」と言うと、「雲が見ゆれば鐘も鳴るなり」と詠んだ。これはちょうど黒谷の日暮れの鐘が後方に聞こえたからである。私は彼をほめて、「そうそう、歌とはそういうものなんだよ」と言っているうちに、隣の垣根から薄い煙がこちらに向かって流れているのを見て、私は「雲と煙と見えにけるかな」と言って、「やはり、このように物に託して詠めないものはないのだよ」と言うと、幼子はそれを聞きつけて、「『立ちにけるかな』としたらどうかしら」と言った。これはまさにあの「あめ牛に突かれた」ということであった。「立ちにける」と言ったら理解できないだろうと思って平易な表現をしたために、かえって愚行を演じてしまったのである。
おととし頃から、「月や花を素材にして歌を詠め」と私が言うと、「どの歌を詠みましょうか」と彼は言う。これは百人一首や三十六歌仙の古歌などを詠みあげることだと思っていたのである。「自分が心に思うことを詠むのだよ」と教えるのだが、ややもすれば理解しかねて、他人が詠んだ歌などを脇で聞き覚えて、口ずさんだりしていたのである。だが、今日という今日は彼自身が言っていた言葉で教えたので、理解したのである。振り返ってみると、「歌」という名にこだわり、「詠む」という言葉に悩まされていたのである。ただ、「月を言い表せ、花を言い表せ」などと言っていたら、おそらくはすぐに理解したであろうよ。その後で次々に言い出した歌を聞いていると、未熟なのは言うまでもないが、素直な気持ちが込められているので、十分に歌と呼べるものである。
以上のことは、この幼子だけの問題ではない。歌の道に入る人は誰一人として、「歌」とか「詠む」とかいう言葉に思い悩まない人はいないと思う。この夕方の雲をめぐってのたわいない考えを幼子に教えるその間に、相変わらず思い悩んでいる世間の人々の誤りを正そうと、少々心に決めたこともあるので、また、それを読む人のためにもなればと、くどいけれども書きつけるだけのことである。」(香川景樹『桂園遺文』)

⑦「ある年、天下は大ひでりして、三か月に及んで雨の潤いが無かったので、民の種も実らず、君も臣も嘆きに思って、様々の御祈禱があったけれども、その効験もない。恐れ多くも天皇の叡慮が止むことはおありにならず、「鬼神・龍神をなだめるには、和歌を手向けるのが一番だろう」と御詮議があって、その当時、和歌の誉れがあるとして、小野小町を選び出された。小町は、心では遠慮し、恐れ多いと思ったけれども、勅を承って辞退申し上げるのは叶い難く、昔から霊地と聞こえた神泉苑(京都市、天皇や貴族達の遊覧の地であり、善女龍王が住むとも言われた霊地)の池の水際に至って、しばらく礼拝をして、「このことを叶えさせ給え」と心に深く誓いをなして詠んだ歌に、

 ことわりや日の本なれば照りもせめさりとてはまたあめが下とは
(我が国は日の本と言いますから、陽が照るのも道理でしょう。そうは言っても天(雨)が下とも言いますから、(雨が降ってもよいでしょうに))

と詠じたところ、この歌の徳によって、天神地祇(ちぎ)の御心を和らげ、龍神も感応なさったのだろうか、大いに雨を降らし、三日三夜に及んだので、久しく照り乾いた国土はたちまち潤いわたって、草木はことごとく青い色を表し、茂り栄えているうちに、民の嘆きは止まり、五穀豊穣になったということである。」(『七小町物語』)

「陽成院の帝(第五十七代天皇、八七六~八八四在位)の御時、ことさらに敷島の道(和歌の道)をお好みになられて、その当時、和歌に堪能であった人々にたくさんの歌をお詠ませになるけれども、いまだ御心に叶うほどの秀歌がなかった。ここで(天皇が)、小野小町は百年のうばとなって、関寺(近江国逢坂関の東にあったとされる寺院)の辺りに住んでいるということをお聞きになって、「あれは並びなき歌の上手であるので、素晴らしいことなどがあるだろう」と叡慮をめぐらされ、まず御あわれみの歌を下され、その返歌によって重ねて題を下されるのが良いとの宣旨によって、勅使が小町の庵に至って、その趣旨を述べられ、御あわれみの御製の歌を示されたが、その御歌に、

 雲のうへはありし昔にかはらねど見し玉だれのうちやゆかしき
(宮中は昔と変わらないけれど、かつてあなたが見た御簾の中が見たいですか)

小町はありがたく頂戴して、「帝の御歌を詠み返しましたならば差し障りが多い。一字の返歌をお詠み申し上げよう」と言って、

 雲のうへはありし昔にかはらねど見し玉だれのうちぞゆかしき
(宮中は昔と変わらないけれど、かつて私が見たい御簾の中が見たいです)

と詠んだので、勅使も大いに感じなさり、「だいたい三十一字を連ねてさえ心が足りない歌もあるのに、一字の返歌ということは、誠に霊妙な歌詠みである。しかし、歌の体にこのようなことがあるのだろうか」と尋ねなさったので、小町は答えて、「それですよ、この体をおうむがえしと申すのです。そもそもおうむという鳥は中国の有名な鳥で、人の言葉をさえずり、「何ぞ」と問えば、「何ぞ」と答える。それゆえ、この返歌をおうむがえしと名付けるのです」と申されたのであった。」(『七小町物語』)

2、『竹取物語』

【例文】今は昔、竹取の翁といふものありけり。野山にまじりて竹を取りつつ、万(よろづ)の事に使ひけり。名をば讃岐の造麻呂(さぬきのみやっこまろ)となむいひける。その竹の中に、もと光る竹なむ一筋ありける。あやしがりて寄りて見るに、筒の中光たり。それを見れば、三寸ばかりなる人、いとうつくしうてゐたり。

【訳文】今ではもう昔のことであるが、竹取の翁という者が住んでいた。(その竹取の翁は)野や山に分け入っては、竹を取ったりして、いろいろな道具を作るのに使って(暮らして)いた。その名を、讃岐の造麻呂(さぬきのみやつこまろ)といった。(ある日のこと、いつも取る)その竹の中に、根もとの方が光る竹が一本あった。(翁が)不思議に思って(そばに)近寄って見ると、竹の筒の中が光っている。それをよく見ると、(中に、身の丈)三寸ほどの(小さい)人が、たいへんかわいらしい姿で入っていた。

【解説】910年頃成立。『源氏物語』に「物語の出(い)で来(き)はじめの祖(おや)」と記されていて、「作り物語」(伝説などを元に創作された長編の物語)の最初に位置づけられます。「作り物語」の系譜はさらに『宇津保(うつほ)物語』『落窪(おちくぼ)物語』と引き継がれていき、もう一つの伝統たる「歌物語」(和歌が詠まれた場面を紹介する短編集)の系譜(『伊勢物語』に始まり、『大和物語』『平中[へいちゅう]物語』を経て、『源氏物語』に流れ込む)と共に『源氏物語』に大きく結実します。
 また、こうした「物語文学」は宮廷社会を中心としたもの(ひらがなの普及が散文文学にも大きな影響を及ぼし、物語・日記・随筆など多様なジャンルの作品を生み出したわけです)ですが、そうした貴族文学とは別に広く庶民の間で愛され、世々語り継がれていった「説話文学」(「説話」とは人の口から口へと語り継がれる世の中の珍しい話のことです)と呼ばれる流れがあったことも見逃せません。これには「仏教説話」(世俗の人々に対する説教の材料として僧侶の間で重んじられたものが、仏教説話集としてまとめられたのであり、宮廷貴族に対するもう一方の教養の柱が寺院僧侶であったことが窺えます)と「世俗説話」があり、総じて教訓的色彩が強いものです。すでに平安初期には僧景戒(きょうかい)による仏教説話集『日本霊異(りょうい)記』(822年頃成立)があり、これは『竹取物語』の出現に先立っています。平安時代後期になると、世俗説話の要素が増え、和歌に関する世俗説話と仏教説話から成る『古本(こほん)説話集』などを経て、質量共に説話史上の最高とされる『今昔(こんじゃく)物語集』(1120年以後成立)が出現します。これは鎌倉時代の「軍記物語」に多大な影響を与えています。
 鎌倉時代以降も説話文学の流れは続き、世俗説話の流れとしては『宇治拾遺(しゅうい)物語』(1213年以後成立)、『十訓抄(じっきんしょう)』(1252年成立)、『古今著聞集(ここんちょもんじゅう)』(橘成季〔たちばなのなりすえ〕、1254年成立)、仏教説話の流れとしては『発心(ほっしん)集』(鴨長明〔かものちょうめい〕、1216年頃成立)、『沙石(しゃせき)集』(無住道暁〔むじゅうどうぎょう〕、1283年成立)などがあります。また、室町時代になると物語の読者も一般庶民にまで広がり、「近世小説の祖」とされる『御伽草子(おとぎぞうし)』(有名な「鉢かづき」「一寸法師」「物くさ太郎」「浦島太郎」といった作品が含まれています)が生まれ、江戸時代の「仮名草子」につながっていきます。

【関連】
①「幻想的物語が、写実主義の小説以上に、しばしば人間的真実を語るものであることを、現代のぼくらはもう一度、知り直さなければいけない。空想とユーモアとが、いかにぼくらを笑わせ、決して通俗的義理人情からでない、純粋に人間的な涙を―いかに芸術的に甘美な涙を誘うものであるかをぼくらは『竹取物語』によって、思いだす必要がある。」(中村真一郎『王朝文学』)

②「月の明るい季節がきた。朱(あか)い夏は逝(ゆ)き、白い秋がきたのだ。ほそい三日月も好きだ。縄を投げて三日月にひっかけ、夜空を壮大なブランコで揺れたいと、何度も想ったことがある。双眼鏡で、輝く満月を、肩がこるほど見飽かないこともある。そして、「かぐやひめ」の昇っていった、帰っていったのは、あそこなんだと思う。
「竹取物語」はおとぎばなしではない。みごとに構築された物語、知性豊かな大人が、思わず呻(うめ)いて書きあげた哀しい物語だ。
それは物語の祖(おや)だと紫式部は源氏物語に書いている。場面は、絵合わせ。左右に分かれて絵や絵巻を出しあい、議論して勝ちを競っている。双方のうしろ立てにはライバルの光源氏と頭(とう)の中将とが力を貸している。
勝負の第一番に、竹取物語と宇津保物語の絵と絵詞(えことば)とが競いあわれた。物語絵は当代の大家が描いていて甲乙なかった。絵詞は、竹取の方を紀貫之が、宇津保の方を小野道風が書いていた。ともに名うての能書で、かすかに道風のほうが「今めかし」い、つまり新味があるとして優勢になった。
だが、勝ち負けに私の関心はない。初めてこれを読んだ頃から、なぜ、紀貫之が竹取物語の詞を書くのだろうと、それにこだわった。字が上手だからという説明では納得しきれなかった。
源氏物語は、書かれた時期から百年たらず昔に時代設定した小説で、しかも作者は架空の物語を、可能なかぎりよく史実や事件を調べて「準拠」した。そこが非凡な手法と言われてきた。 では、「かぐやひめ」の物語を絵詞に書く役を貫之が務めたのにも、当時の読者が納得するに足る準拠が、事実あったのか。今日の大学者たちに直接アンケートしてみたが、盲点だったとみえ、準拠は得られなかった。
なぜ、こだわるのか。今日の学会には、貫之をむしろ「伊勢物語」の作者に擬する人があるくらいで、彼を「竹取物語」にことよせて語った学者はいなかったからである。しかも源氏物語の絵合わせの場面には、すぐ続いて「伊勢物語」の絵巻もちゃんと登場するのだから、貫之には「伊勢物語」の詞を書かせた方が、当時の読者にも真実感が増したのではなかったかと推察されるからである。
だが、紫式部はためらうことなく紀貫之に「かぐやひめ」を書かせている。私たちにもはや知り得ない、何か確たる「準拠」を作者は把握していたのではないか。竹取物語と貫之を結んで当時の誰もがすんなりと受け入れやすい証拠を、彼女は秘め持っていたのではなかろうか。
もしそうならば、この「土佐日記」の著者で、「古今和歌集」の選者としても名高い貫之を、この物語の祖とも深く関わらせ、新たに考え直さねばすまなくなる。
私は「かぐやひめ」と貫之をつなぐに足る、少なくとも、一つの事件を知っている。いつ、どのようにと確定はしにくいが、貫之は、確実に、愛する娘に「死なれて」いた人であった。「土佐日記」には、大事にそれが書き込まれている。そして「かぐやひめ」の物語とは、あれこれは娘に「死なれた」物語にほかならないと、十五夜の月を見つめて、私は、疑わない。」(茅ヶ崎リハビリテーション専門学校1998年入試問題)


3、『土佐日記』

【例文】男もすなる日記といふものを、女もしてみむとてするなり。それの年の十二月(しはす)の二十日(はつか)あまり一日(ひとひ)の日の、戌(いぬ)の時に門出す。そのよし、いささかに物に書きつく。

【訳文】男も書くという日記というものを女(である私)も書いてみようと思って書くのである。ある年の十二月二十一日の午後八時頃、家を出る。その有様を少しばかりものに書きつける。
  【解説】935年頃成立。「日記」や「旅行記」はすでに奈良時代から存在しており、平安時代の貴族達も「備忘録(びぼうろく)」として「日記」を書いていますが、これらはいずれも公的立場にある男性が、政務や行事の記録を漢文で記したものであり、類型的な表現に制約されがちでした。これに対して、紀貫之は個人的な心情を何の制約もなく日本語で表現できる「ひらがな」を使用し、「日記文学」という新しい文学領域を創造したわけです。しかも、「ひらがな」の女性的、私的な特性を生かして、自分を女性に仮託するという虚構性を持たせ、土佐国で亡くした娘をしのぶ心情をせつせつとたたえた作品を生み出したため、これが後の女流文学を切り開いたとされます。娘への哀歌をいくつか見てみましょう。
「都へと思ふものの悲しきは帰らぬ人のあればなりけり」
「あるもののと忘れつつなほなき人をいづらととふぞ悲しかりける」
「世の中に思ひやれども子を恋ふる思ひにまさる思ひなきかな」
「生まれしも帰らぬものをわが宿に小松のあるを見るが悲しき」
 また、「かな文学」は「漢字かな混じり文」という驚くべき混交文を定着させました。思えば、日本文化においては「本地垂迹(ほんちすいじゃく)説」を駆使して「神仏習合」を実現させ、儒仏道は「三教一致」の観点で融合させており、南蛮文化渡来時代には10人に1人がカトリックを受け入れ、明治以降にはキリスト教諸派がどんどん入ってきていますから、1億人の人口に対して宗教人口は2億人に達するという世にも不思議な混交性・融合性を見せています。同様に文字も漢字・カタカナ・ひらがなの3種類をベースにアルファベットも普通に氾濫しているわけですから、これはもう文化的特性と言うしかないでしょう。参考までに「かな」によって開かれた日本語的心情表現(つまり、漢字では表現できない)の極致とされる、種田山頭火の非定型俳句「自由律」を見てみましょう。
「分け入っても分け入っても青い山」
「まったく雲がない笠をぬぎ」
「まっすぐな道でさみしい」
「分け入れば水音」
「すべってころんで山がひっそり」
「また見ることもない山が遠ざかる」
「どうしようもないわたしが歩いている」
「うしろすがたのしぐれていくか」
「ゆっくり歩かう萩がこぼれる」
 これ以上やさしい日本語で書くことは不可能に近いですね。

【関連】
①「紀貫之は男である。婦女子のために女手(おんなで)を使って日記を書くことは、とても一人前の男のすべきこととは思われなかった。そこで紀貫之は冒頭にこの一句を置いて、自己を韜晦(とうかい)させなければならなかった。しかし、『土佐日記』の内容は決して女の立場で一貫して書かれているものではない。たちまち筆者が男だという本性が明らかになるのだが、最初にこの一句を置いたところに、当時の漢字の文章と女手の文章との社会的位置の相違がのぞいている。―『土佐日記』という絵入りの女手の作品は、絵を見る楽しみと、読みあげる文章を聴く楽しみという二重の効果をもたらす新しい領域を女性のために開拓した。」(大野晋『日本語の世界』)

②「「土佐日記」の価値は、第一にかな文学の先駆として文学史上不滅の意義を有していることである。平安時代の初期、平易な草(そう)がな(ひらがな)が考案され、中国伝来のむずかしい漢字にたよらなくてもよくなった便利さは認められたものの、依然として当時の人たちは、長年の習慣と中国文化を崇拝する気持ちとから、漢字を尊重し、かなはわずかに一部の女性たちの間で用いられるに過ぎなかった。ところが、わが国の伝統を尊重する大歌人紀貫之が現われて、まず延喜五年(九〇五)古今和歌集を撰するにあたって和文の序を書き、更に承平五年(九三五)和文の日記「土佐日記」を書いたのである。これは我が国新文学の進路を開拓したものであって、貫之は一世の尊敬を受けた大歌人であったから、その影響も大きく、しだいにかな文学が盛んになっていったのである。
第二には、「日記文学」という新しい文学形態をうちたてたことである。これまでも「日記」はあった。しかしそれは、男たちが漢文で、宮中の政務のことや儀式の作法などを忘れないために書くいわゆる備忘録であり、半ば公的なものであった。まれに女性のかな日記があっても、やはり無味乾燥で文学性のない備忘録にすぎなかった。「土佐日記」は、日にちを追うて書くという従来の日記の形式をかりて、しかも十二分に文学的味わいを発揮した最初のものであった。この影響をうけて「蜻蛉(かげろう)日記」・「紫式部日記」・「和泉式部日記」・「更級(さらしな)日記」などのいわゆる平安朝女流日記が相次いで生まれたのである。日記文学は、自己に対する深く鋭い観照の精神―すなわち自照性から生まれたもの(日記文学を自照文学ともいう。)で、このような形態の文学が一時代の主流として存したのは、古今東西に例のないことであった。この独自な文学形態を生んだ最初の作としての価値もまた不朽である。
第三には、作者の個性が作品の上に躍如としていて、時代を越えた普遍的な文学的価値をそなえていることである。…土佐日記を通読すると、貫之の風貌・性格・態度などが、まのあたりに見るように感じられ、しかもその明るく諧謔(かいぎゃく)的で、機知に富み、情にあつく、ことに亡児に対する切々たる思いなどは、読む人の心をひきつけて離さない。あの有名な「歌よみに与ふる書」(明治三十一年)で貫之を罵倒(ばとう)した正岡子規でさえも、この日記については「これだけに事情のよくあらはれてゐて面白きもの後世になきは如何にぞや」と激賞したほど、この日記の文学的価値は高く評価されているのである。」(『要説 土佐日記 全巻』、日栄社)


4、『伊勢物語』

【例文】むかし、男、初冠(うひかうぶり)して、奈良の京春日(かすが)の里に、しるよしして、狩(かり)にいにけり。その里に、いとなまめいたる女はらからすみけり。この男かいまみてけり。思ほえず、ふる里にいとはしたなくてありければ、心地まどひにけり。男の、着たりける狩衣(かりぎぬ)の裾(すそ)をきりて、歌を書きてやる。その男、信夫摺(しのぶずり)の狩衣をなむ着たりける。
 春日野の若むらさきのすりごろもしのぶの乱れかぎりしられず
となむおひつきていひやりける。ついでおもしろきことともや思ひけむ。
 みちのくのしのぶもぢずりたれゆゑに乱れそめにしわれならなくに
といふ歌の心ばへなり。昔人(むかしびと)は、かくいちはやきみやびをなむしける。

【訳文】昔、ある男が、元服したばかりの頃、奈良の都の春日の里に、領地があった関係で、狩に出掛けて行った。その里に、たいそう上品で美しい姉妹が住んでいた。(それを)この男はちらと見てしまった。意外にも(こんな寂しい)旧都には全く不似合いな様子であったので、(男は)が動揺してしまった。(そこで男は)自分の着ていた狩衣の裾(すそ)を切って、歌を書いて贈った。その男は、しのぶ摺(ず)りの狩衣を着ていたのであった。
 春日野の若い紫草で染めたこの狩衣の忍草(しのぶぐさ)の模様が乱れている様に、(美しいあなた方をお見かけしてから)私の心は限りなく乱れていることです。
と、大人びた口調で詠んでやった。(男がこんなことをしたのは)その場にかなった面白さとでも思ったのであろうか。(一体、この歌は)
 陸奥(みちのく)のしのぶもぢ摺(ず)り(の乱れ模様)の様に、私の心が乱れ始めたのは、一体どなたのためでしょうか(ただあなた一人のためなのです)。
という古歌の心(をくんだの)である。昔の人はこのように臨機応変の風流をしたものである。

【解説】947年頃成立。在原業平(ありわらのなりひら)らしい「男」の一代記であることから、業平に縁(ゆかり)ある人によって原型が書かれたと見られています。百二十五段の長短様々な物語から成り、各段には必ず一首以上の和歌が入っていて、文が単なる歌の詞書(ことばがき、作歌事情の客観的解説)ではなく、歌が詠まれた深い情趣を丁寧に記すことで、文と歌が一つに融合している点で、「歌物語」と呼ばれます。この伝統は『大和物語』『平中(へいちゅう)物語』を経て『源氏物語』に結実し、さらに中世・近世の演劇・詩歌、谷崎潤一郎などの近代文学も含めて、後世に大きな影響を及ぼしています。
 では、著名な歌をいくつか見てみましょう。
「くらべこし振り分け髪も肩過ぎぬ君ならずしてたれかあぐべき」
「世の中に絶えて桜のなかりせば春の心はのどけからまし」
「唐衣(からころも)きつつなれにしつましあればはるばるきぬる旅をしぞ思ふ」
「名にし負(お)はばいざ言(こと)問はむ都鳥わが思ふ人はありやなしやと」
「つひに行く道とはかねて聞きしかど昨日今日(きのふけふ)とは思はざりしを」(辞世の句)
 ちなみに世阿弥作と見られている謡曲『井筒(いづつ)』は、諸国をめぐる僧が大和の在原寺(ありわらでら)に参詣して、業平の妻であった紀有常の娘の霊魂と語り合い、彼女は亡夫業平を恋い慕って彼の愛用した冠と直衣(のうし)を着、思い出深い井筒のほとりで、舞を披露するというものですが、これは『伊勢物語』二十三段に出てくる「筒井筒」のエピソードが元になっています。そして、この段の挿入歌である「筒井つつの井筒のかけしまろがたけ過ぎにけらしな妹(いも)見ざるまに」「くらべこし振り分け髪も肩過ぎぬ君ならずしてたれかあぐべき」の2つの歌から、樋口一葉の『たけくらべ』の題名が出てきたとされています。

【関連】
①「歌の因縁を説くという、抒情的であると同時に叙事的な動機のうちに成立した、教訓的な歌物語の集積のなかから、その教訓的な意図が、おのずから理想的人間像の形成への自覚を生み落とすのである。そして、そのような人間像は、「もののあはれ」を知る貴族ということに外ならなかった。光源氏が生み出される必然性は、『伊勢物語』のなかに胚胎(はいたい)している。」(山本健吉『古典と現代文学』)

②「「二条の后」と呼ばれた藤原高子(たかいこ)は、太政大臣・藤原長良(ながら)の娘である。第五六代の清和天皇との間に、第五七代の陽成天皇を生んだ。これが、系図上の事実である。…
伊勢物語は、男性である業平の視点から描かれている。「高嶺の花」である藤原高子が、いったんは自分の恋の相手となったのだけれども、それが永遠に自分の手もとから去ってしまったという「喪失感」が何度も何度も語られる。井戸のように、男の心にぽっかりと空虚な穴をあけた欠落感が、言ってしまえば伊勢物語の主題である。…
「二条の后」の生涯を簡潔に要約してみよう。清和天皇の后でありながら臣下の在原業平と密通し、罪の子をみごもり出産してしまう。あまつさえ、その罪の子を次の天皇の位に即(つ)けてしまう(陽成天皇)。これは、どこかで読んだ記憶のある人生である。そう、源氏物語の最初のヒロインである藤壺(ふじつぼ)の人生そのままではないか。…
九段で、業平は東下りの旅に出る。八橋(やつはし)でも、宇津(うつ)の山でも、富士の山でも、隅田川でも、彼は目に触れる植物・山川・動物によって都に残した二条の后をしのぶ。これは、光源氏の須磨・明石流離の原型である。天皇の后と男女関係の過ちを犯した男性は、都を追放されて、はるかなる異界を普通は三年間、さすらわなければならない。…
東海道を移動しつづける業平と、須磨・明石に居つづける光源氏とは対照的だが、「流謫(るたく)の地」へとだとり着く途中の流され人の「末期(まつご)の目」を視点として描かれた旅の文学が東下りであり、流謫の地へとたどり着いた沈淪(ちんりん)の日々を描いた旅の文学が須磨・明石巻なのだろう。業平の東下りは、『平家物語』や『太平記』で確立し、近松門左衛門の心中物で極限まで達した「道行文(みちゆきぶん)」という表現形式の実質的な濫觴(らんしょう)なのである。」(島内景二『源氏物語と伊勢物語 王朝文学の恋愛関係』~この本は衝撃的です。是非入手しましょう。)

③「紫式部の創作した源氏物語は、基本戦略として伊勢物語の骨格をそのまま踏襲している。在原業平が経験した多種多様な恋愛絵巻が伊勢物語だったように、光源氏の華麗な恋愛遍歴を語るのが源氏物語だからである。
ただし、野心的な文学者だった紫式部は、個別的恋愛をその場その場で語る散発的な短編ではなくて、大波がうねるような長編を書く新しい試みに挑戦した。全部で一二五段からなる伊勢物語を、たった一つの章段へと書き換えて源氏物語を執筆したのである。むろん源氏物語は五十四帖からなるので、ミクロコスモス的には五十四個の短編の集合体であるとの見方もできる。しかしマクロコスモス的に観察すれば、源氏物語の最大の魅力が光源氏というただ一人の人間性の成熟と変貌のプロセスにあることは、誰の目にも明らかだろう。
伊勢物語では章段間の接続がパサパサしていて、ある時には緊密な全体性が見失われてしまいかねなかった。互いに矛盾するような内容の章段も、平気で併存している。源氏物語は、一本の強靭な構想の糸によってネバネバとした長編となったのである。けれども、長編である源氏物語ですら、「男と女」の恋愛関係が波紋として巻き起こす喜怒哀楽の感情を精緻に描くものであるがために、基本的発想は伊勢物語を越えることはなかった。すなわち、「伊勢物語十二の愛」は、光源氏の恋愛模様(ラブ・アフェア)に大いなる影響を与えたのである。
源氏物語は、伊勢物語の長所を貪欲に取り込みつつ、そのうえで伊勢物語の内包していた欠陥を修正しようとした。紫式部という文学者は、一筋縄ではいかない。
今は、源氏物語の作者のような天才ですら「伊勢物語に書かれていない愛の様式」をほとんど開発できなかったという点を強調しておきたい。臣下の男性と天皇の后との不義密通の恋にしても、俗人の男性と神に奉仕する処女(尼を含めてもよい)との宗教的タブーを乗り越えた恋にしても、既に伊勢物語で典型例が確立していたのである。だから、源氏物語の愛読者は、そこに登場している女君たちのほとんどすべてを「伊勢物語に当てはめれば○○だな」と同一化できる。
愛の様式だけではない。光源氏の前半生最大のターニング・ポイントである須磨・明石への旅立ちは、伊勢物語九段で語られていた在原業平の東下りの換骨奪胎である。伊勢物語は短編だから、ダイナミックなストーリー展開能力はその短い章段の内部だけでしか有効に機能しない。むしろ、めまぐるしく流転するストーリーではなく、ふと立ち止まって思索する(恋して苦悩する)男の一瞬一瞬の「思い」を和歌として結晶させようとする。ストーリーの流れを中断させて静止させた「写真」のような切断面が、伊勢物語にちりばめられている珠玉の和歌なのである。
源氏物語は長編であるから、「光源氏の一代記」を完成させるために、ストーリー展開能力を全面的に作動させる。なおかつ、ある場面ある場面での男と女の瞬間的な思いをも、適切に挿入してある和歌によって静止画面で析出しようとする。かなり欲張った考えだから、相当に「剛腕作家」でないと、この試みは失敗する。それが、源氏物語以後に、「伊勢物語と源氏物語の亜流」ばかりが量産されてしまった理由である。
日本文学は、この二大傑作の不肖(ふしょう)の子だらけの観がある。伊勢物語が開発し源氏物語が完成させた「恋愛文学における新機軸」の黎明期が過ぎ去ったあと、待望久しかった恋愛文学のルネッサンス期は、まったく別の構成原理をもつ西洋文学が怒濤(どとう)のごとくながれこんだ明治時代まで待たねばならなかった。
それはあまりにも長く日本人を縛りつづけていた古典様式の破壊へとつながった。「古典の再生」ではなく、「古典の否定」へと近代文学者は突っ走った。その反省が、昨今の「古典ブーム」となっているのだろう。」(島内景二『源氏物語と伊勢物語 王朝文学の恋愛関係』)

④「小野小町は、丹治成里(たんじなりさと)の没後はしばらくは色っぽい心は絶え果てておりました。しかし、またまた昔のような「世心」が湧き起こってしまったのです。そして、どうにかして自分を心から愛してくれるやさしい男の人と逢いたいものだという気持ちをほのめかしたのです。
継子二人は、父親の遺言を守った立派な人間だったのですが、小町のあまりの常識はずれの願いを知って、「何と不謹慎なことだ。それにしても、七十歳間近の老女の口にするせりふではないなあ」と言い捨てて、部屋を出てしまいました。
三男は、小町の実子ですから、彼女の心が身にしみてよく理解できます。彼はもともと、「お母さんは若い頃は絶世の美女で、男たちからちやほやされていた。だから、今でもその頃のことが忘れられないのだろう」と思って、「どんな男の人であってもお母さんに逢わせてあげたいな」と、心の中では考えていたのです。けれども、その願いが実現せずに時間が経って、今日にいたったのです。
三男息子は、小町の告白を聞いてから、つくづくと母の願いの深さを理解できました。そして、「こうなれば、女性に対して情け深いと評判の在原業平様におすがりするしかない。業平様は、美しくない女性であっても、決してその心を踏みにじることもなく、心からあわれと思って同情してくださるにちがいない。お母さんの老い衰えなさった容貌も、この業平様だけはお情けをかけてくださることだろう」と決心しました。
ちょうど折しも、在原業平が嵯峨野に鷹狩りのために逍遥(しょうよう)していましたので、三男息子は業平の乗った馬の口に必死に取り付いて、「心からのお願いがございます。わたくしの母親が、かくかくしかじかのありさまなのですが、ぜひとも業平様にお救い願いたいのでございます」と直訴に及んだのです。そして、業平と小町を逢わせることに成功しました。かくいう出来事が元慶(がんぎょう)元年のことですので、小野小町は六十九歳、業平は五十三歳、田村三郎成忠は当年とって十八歳のことです。」(『和歌知顕集(わかちけんしゅう)』~最も古い伊勢物語の注釈書とされます。)


5、『大和日記』

【例文】泉の大将、故左大殿(ひだりのおほいどの)にまうでたまへりけり。ほかにて酒などまゐり酔(ゑ)ひて、夜いたくふけてゆくりもなくものしたまへり。大臣(おとど)驚きたまひて、「いづくにものしたまへるたよりにかあらむ」など聞こえたまひて、御格子(みかうし)上げ騒ぐに、壬生忠岑(みぶのただみね)御供にあり。御階(みはし)のもとに、まつともしながらひざまづきて、御消息(せうそこ)申す。
「かささぎの渡せる橋の霜の上を夜半(よは)に踏み分けことさらにこそ
となむのたまふ。」
と申す。あるじの大臣、いとあはれにをかしとおぼして、その夜一夜(ひとよ)大御酒(おほみき)まゐりあそびたまひて、大将も物かづき、忠岑も禄(ろく)賜はりなどしけり。
 この忠岑がむすめありと聞きて、ある人なむ「得(え)む」と言ひけるを、「いとよきことなり」と言ひけり。男のもとより、「かの頼めたまひしこと、このごろのほどにとなむ思ふ」
と言へりける返りごとに、
 わが宿にひとむらすすきうら若み結びどきにはまだしかりけり
となむよみたりける。まことにまだいと小さきむすめになむありける。

【訳文】泉の大将(右近衛大将藤原定国、八六七~九〇九年)が故左大臣(藤原時平、八七一~九〇九年)のお屋敷に参られた。よそで酒など召し上がって酔い、夜がひどく更けてから突然おいでになった。大臣は驚きなさって、「どこにおいでになったついででしょう」などと申されて、(邸では)大騒ぎして御格子を上げると、壬生忠岑がお供していた。御殿の階段の下で松明(たいまつ)をともしながらひざまづき、ご挨拶を申し上げる。
「御殿の階段の霜をこの夜更けに踏み分けて、わざわざお伺いしたわけで、よそへ行ったついでではございません。
と大将が仰せでございます。」
と申し上げる。主人の大臣はたいそう心にしみておもしろいとお思いになり、その夜一晩中お酒を召し上がり、管弦の遊びをなさって、大将も引き出物を賜わり、忠岑もご褒美をいただきました。
 この忠岑に娘がいると聞いて、ある人が「もらいたい」と言ったところ、忠岑は「大変結構なことです」と言った。(その後、)その男の所から「例のお約束して下さったこと、近いうちにと思うのです」と言ってきたので、返事に、
 私の家の一叢(ひとむら)のすすきはまだいかにも若く、みずみずしいので、結ぶにしてはまだ早すぎます(私の一人娘は幼いので、結婚にはまだ早いのです)。
と忠岑は詠んだのだった。まことにまだたいそう小さい娘であった。

【解説】951年頃成立。『伊勢物語』に続く歌物語で、『伊勢物語』が雅(みやび)と哀感を描いた物語であるのに対して、『大和物語』前半は当時の天皇・皇族・貴族・僧といった実在の人物の歌語りの集成で、世俗的な話題を集めています。後半では民間伝承を基にした伝説的人物が中心で、哀感の漂う物語も多く出てきます。例えば、「をばすて山」(信濃の国の更級〔さらしな、長野県更級郡〕の話で、親に早く死に別れておばに養育された男が妻をめとったところ、おばに邪険な妻にせがまれて、とうとうおばを高い山の峰に捨てて来るも、おばのことを思って一晩中寝られず、また連れ戻してきたという話)などがそれです(後の『更級日記』の題名の由来ともなっています)。これは各地に残る「姥捨(うばすて、おばすて)山の棄老伝説」につながるものでしょう。有名な深沢七郎の『楢山節考(ならやまぶしこう)』も信州が舞台となっています。
 ちなみにこの泉の大将訪問時の壬生忠岑に関するエピソードは有名で、この時に詠んだ「かささぎの渡せる橋の霜の上を夜半(よは)に踏み分けことさらにこそ」の歌は、大伴家持の「かささぎの渡せる橋に置く霜の白きを見れば夜ぞふけにける」(これは百人一首にも入っています)を本歌として作り変えたものです。壬生忠岑は『古今和歌集』の撰者の一人ですが、彼の詠んだ歌が『古今和歌集』中の第一の歌として、藤原定家と藤原家隆(共に『新古今和歌集』の撰者)から推薦されたというエピソードも残っています。

【関連】
①「(後鳥羽)上皇があるとき、「古今集の中の秀歌といったらまずどれであろうか」と近臣の者に尋ねたのである。すると藤原定家と藤原家隆の二人は、奇(く)しくも同じ答えを出した。いうまでもなく定家も家隆も『新古今集』の撰者として当代の代表的歌人である。その二人が二人とも、「古今集の中の第一の秀歌」といって推したのは、壬生忠岑の、
有明の つれなく見えし 別れより 暁(あかつき)ばかり 憂きものはなし
であったという。特に定家は「これほどの歌を一つ詠むことができましたら、この世の思い出ともなるでしょう」とまで激賞した。・・・
まず彼の出世の糸口は、いまあげた和歌によるものであった。「有明の」という例の歌は、延喜(えんぎ)年間、宮廷における歌合(うたあわせ)で詠んだものである。この歌を聞かれたとき、醍醐天皇はひじょうに喜んで忠岑に昇殿を許し、御書所に出勤するようにした。かくして忠岑は紀貫之、紀友則、凡河内躬恒(おおしこうちのみつね)とともに『古今集』の撰者となったのである。」(渡部昇一『日本語のこころ』) ②「信濃の国の更級(さらしな)という所に、ある男が住んでいた。若い時に親が死んだので、おばが親のように、若い時からつきそって暮らしていたが、この男の妻の心がひどくよくないことが多くて、この姑が年老いて腰が曲がっているのを常に憎み憎みして、男にもこのおばの心が意地が悪くてよくないことを言って聞かせたので、男は昔のようでなく、このおばに対しておろそかに扱うことが多くなっていった。このおばはたいそうひどく年を取っていて、腰が曲がって二重になっていた。これをやはりこの嫁が厄介がって、(よくも)今まで死なないことだと思って、悪口を言い言いして、「つれていらっしゃって、深い山に捨ててしまって下さい」と女が責めてばかりいたので、男は責められて困り、そうしようと決心するに至った。月のたいそう明るい夜、「おばあさん、さあいらっしゃい。寺で法会(ほうえ)がありますから、それをお見せいたしましょう」と男が言ったので、おばはこの上なく喜んで背負われた。男は高い山のふもとに住んでいたので、その山の奥にはるばると入り、高い山の頂上の下りて来られそうもない所におばを置いて逃げてきた。「おーい、おーい」とおばが言ったが、男は答えもしないで逃げ、家に帰って来て考えていると、妻が告げ口して腹を立てた折は、腹が立ってこのようにしてしまったが、長年、親のように自分を養育して共に暮らしてきたのだから、たいそう悲しく思われた。この山の上から月が実にこの上なく明るく出たのをもの思いに沈んで眺めて、男は一晩中寝られず、悲しく思われたので、こう詠んだのだった。
わが心なぐさめかねつ更級やをばすて山に照る月を見て
(更級の、おばを捨てて来た山の上に照る月を見て、私の心はどうしても慰められない)
と詠んで、また山に行って、おばを連れ帰って来た。それから後、この山をおばすて山と言った。おばすて山を慰め難いことの縁語に用いるのは、こういう訳からであった。」(『大和物語』156段)


6、『蜻蛉日記』

【例文】かくありし時過ぎて、世の中にいとものはかなく、とにもかくにもつかで、世に経る人ありけり。かたちとても人にも似ず、心魂(こころだましひ)もあるにもあらで、かうものの要にもあらであるも、ことわりと思ひつつ、ただ臥(ふ)し起き明かし暮らすままに、世の中におほかる古(ふる)物語のはしなどを見れば、世におほかるそらごとだにあり、人にもあらぬ身の上まで書き日記(にき)して、めづらしきさまにもありなむ、天下(てんげ)の人の品高きやと問はむためしにもせよかし、とおぼゆるも、過ぎにし年月ごろのこともおぼつかなかりければ、さてもありぬべきことなむおほかりける。

【訳文】このようにはかなく生きてきた過去半生も過ぎてしまって、まことに頼りなく、中途半端な状態で暮らしている女(ひと)があった。容貌といっても十人並みにもいかず、思慮分別もあるわけでもなく、こんな役立たずな有様でいるもの、もっともなことだと思いながら、ただ無意味に日々を過ごすつれづれのままに、世間に流布している古物語の一端などをのぞいてみると、どれもこの世に実在しないような作り事ばかり、それでさえも、もてはやされているので、つまらない自分の身の上でも日記としてありのままに書いてみるなら、なおのこと、珍しく思われるであろう。この上なく高い身分の人に嫁(か)した女の生活はどんなものなのかと問われたら、その答えの実例にでもしてほしいと思われるのだが、なにぶん過ぎ去った長年来のことは、記憶も薄れてはっきりしないので、なんとかまあ我慢ができるという程度の記述が多くなってしまった。

【解説】974年以後成立。作者は藤原道綱母(みちつなのはは)で、藤原兼家(かねいえ)と結婚して、後に右大将となる道綱を生んだことからこう呼ばれます。父は藤原倫寧(ともやす)なので、藤原倫寧女(ともやすのむすめ)とも言います。『和歌色葉集』に「本朝古今美人三人之内也」、『尊卑文脈』に「本朝第一美人三人内也」とあるので、評判の美人だったようです。ちなみに「本朝三美人」とは、「光明皇后・後朱雀天皇の麗景殿女御(れいけいでんのにょうご)・道綱母」説と、「衣通姫(そとおりひめ)・染殿后(そめどののきさき、文徳天皇后)・道綱母」説がありますが、いずれにも道綱母は入っていますから、まず当時の評価としては動かないところだったのでしょう。さらに『大鏡』に「きはめたる和歌の上手におはしければ」とあり、勅撰集作歌者として『拾遺集』以下に三十七首入集しているほか、「中古歌仙三六人」「後六々撰」に加えられるなど、歌人としても名高かったので、平安朝を代表する「才色兼備」の女性であったと言えるでしょう。
本日記には兼家との愛と苦悩の結婚生活が回想的に書かれていますが、作者はこれまでの「作り物語」を「古物語」として批判・否定し、人生観照の態度、自然描写、季節的風物などを巧みに取り入れながら、時の経過に沿って身辺の起伏に富んだ出来事を主観を通して記述するという、従来の日記文学とは面目を変えた新しい日記文学を創始しています。この写実的手法は後の物語に影響を与え、特に『和泉式部日記』や『更級日記』はこの手法を学び取っているとされ、「自照文学」(日記や随筆などのように、自分自身を観察・反省する精神から生み出された文学)を確立した「最初の女流日記文学」として位置付けられます。
こうした文学史的位置付けもさることながら、『蜻蛉日記』のすごさは、作者をめぐる人脈ネットワークのすごさにあると言ってもよいでしょう。彼女の夫たる兼家は藤原摂関家の中心人物で、「そんなに最高の栄華を極めさなってもやっぱり、天皇にはお生まれになれないで、人臣にお生まれになっているところを見ますと、それだけまだ、前世のご果報がお足りにならなかったのでしょうか。そのような身のほど知らずなご行状によって、あまり長くは天下をお取りあそばされなかったのだなどと、世間で批判申し上げたようでした。」(『大鏡』)と評されるほど権勢を欲しいままにし、放埓をきわめた生涯を送ったとされています。兼家の妹は第62代村上天皇の后となって第63代冷泉天皇と第64代円融天皇を生んでおり、兼家の長女は冷泉天皇の女御として第66代一条天皇と第67代三条天皇を生んでいます。そして、兼家の五男が道長で、「此の世をば我が世とぞ思ふ望月(もちづき)のかけたることも無しと思へば」(『小右記〔しょうゆうき〕』)と豪語するほどに権勢の頂点を極めています。道長の娘彰子(しょうし)は一条天皇の中宮で、彰子に仕えていたのが『源氏物語』を書いた紫式部です。彰子の前に同じく一条天皇の中宮であった定子(ていし)は兼家の長男道隆の娘で、この定子に仕えていたのが『枕草子』を書いた清少納言です。さらに三条天皇の弟(したがって兼家の孫)である為尊(ためたか)親王(弾正宮〔だんじょうのみや〕)と敦道(あつみち)親王(帥宮〔そちのみや〕)らと派手な恋愛を繰り広げたのが『和泉式部日記』の和泉式部でした。そして、藤原倫寧(ともやす)の娘(道綱母の姉妹)が菅原孝標(すがわらのたかすえ)と結婚して生まれたのが、『更級日記』の菅原孝標女(すがわらのたかすえのむすめ)であり、道綱の曾孫(ひまご)に当たるのが『讃岐典侍日記(さぬきのすけにっき)』の藤原長子(ちょうし)です。何とまあ、当時の権力中枢と文学中枢のほとんど全部を網羅(芸術は権力の保護と経済基盤の上に花開くことがほとんどなので、この2つが同時に出てくるのは当然と言えば当然ですが)しているかのような人脈絵巻が、そこに浮かび上がってくるのです。

【関連】
①「日記を日記として書く習いから脱却し、真の意味において日記を物語ふうに書くことをなしとげた最初の作品が本日記であった。そして全篇を読んで、その印象をかみしめていると、書かれた細部は次第に影が薄れていき、その底からにじみ出てくるのは、女の悲しさ、人間のあわれさ、つまり<もののあはれ>である。」(柿本奨『蜻蛉日記』)

②「この大臣(おとど)兼家公のご長男は、女院詮子(せんし)様と同じ母君から生まれた道隆公で、内大臣で関白をなさいました。また、ご次男は陸奥守(むつのかみ)倫寧(ともやす)殿の息女を母としてお生まれになった方です。これは道綱卿と申し上げました。大納言までなさって、右近衛大将を兼ねていらっしゃいました。この大将の母君(倫寧の娘)は、この上もない和歌の名人でいらっしゃったので、この兼家公がお通いになっていらっしゃった頃のことやその歌などを書き集めて、『かげろふの日記』と名づけて世にお広めになりました。その中にこんなことが書いてあります。兼家公がお訪ねになった時に門をなかなか開けなかったので、早く開けてくれるよう従者に催促を申し入れなさったところ、女君がこういう歌をお送りになりました。
なげきつつひとりぬる夜のあくる間はいかに久しきものとかは知る
(あなたは戸を開けるのが遅いといって度々のご催促ですが、あなたのお出でを待ち焦がれ、嘆き続けて空しく一人寝をする、その夜の明けるまでの間がどんなに長いものかご存知でしょうか、いいえ、ご存知ありますまい。この歌は「百人一首」にも入っています)
兼家公はこれは大変おもしろいとお思いになって、返歌にこう詠まれました。
げにやげに冬の夜ならぬまきの戸もおそくあくるは苦しかりけり
(本当にあなたの言う通り、冬の長い夜を待ち明かすつらさはもっともですが、待っている身には槇〔まき〕の戸が開くのが遅いのもつらいものですよ。)
こうしたわけで、この女君の御腹にできた君がこの道綱卿です。この方は晩年には皇太子の傅(ふ、補導役)になられたので、傅殿(ふのとの)と人々がお呼び申し上げました。大変重くお患いになって、大将をも辞任なさっておしまいでした。この殿が今の入道殿道長公の夫人倫子(りんし)様の御妹君のもとにお通い申し上げなさって、お生まれになった方が参議の中将兼経(かねつね)の君ですよ。(もうお一人は道命阿闍梨〔どうみょうあじゃり〕です。この方はこの上もない和歌の名人でいらっしゃいました。)」(『大鏡』)


7、『枕草子』

【例文】春はあけぼの。やうやうしろくなりゆく山ぎは、すこしあかりて、紫だちたる雲のほそくたなびきたる。 夏は夜。月のころはさらなり。やみもなほ。蛍のおほく飛びちがひたる、また、ただ一つ二つなど、ほのかにうち光りて行くも、をかし。雨など降るも、をかし。
秋は夕ぐれ。夕日のさして、山のはいと近うなりたるに、烏(からす)の、寝どころへ行くとて、三つ四つ、二つ三つなど、飛びいそぐさへ、あはれなり。まいて、雁(かり)などの列(つら)ねたるが、いと小さく見ゆるは、いとをかし。日入りはてて、風のおと、虫の音(ね)など、はたいふべきにあらず。
冬はつとめて。雪の降りたるは、いふべきにもあらず。霜のいと白きも。また、さらでもいと寒きに、火などいそぎおこして、炭もてわたるも、いとつきづきし。昼になりて、ぬるくゆるびもていけば、火桶(ひをけ)の火も、白き灰がちになりて、わろし。

【訳文】 春は夜明け方(が第一だ)。だんだん白々(しらじら)と明けてゆく峰近くの空が少し明るくなって、そこに紫がかった雲が細くたなびいている(のは素晴らしい)。
 夏は夜(だ)。月のある時分(の面白いこと)は言うまでもない。闇夜の時分でもやはり、蛍がたくさん入り乱れて飛んでいる(景色は面白い)。また、ただ一つ二つなど、かすかに光って飛んで行くのも面白い。雨などの降る(夜)も面白い。
 秋は夕暮れ(がよい)。夕日が赤くさして、山の端(は)すれすれに落ちかかった頃、烏がねぐらに帰ろうとして、三羽四羽、また二羽三羽という様に並んで、急いで飛んで行くのさえも、しみじみとした趣(おもむき)がある。まして、雁などの列をつくったのが、(空高く)たいそう小さく見えるのは、まことに面白い。日がすっかり沈んでしまってから、風の音や虫の声などが聞えてくるのは、これまた、改めて言うまでもなく(趣の深いものだ)。
 冬は早朝(に限る)。雪の降っている(朝の面白いこと)は言うまでもなく、霜がたいそう白い《朝》も、また雪や霜がなくてもたいそう寒い朝に火などを急いでおこして、炭火を持って(御殿の廊下などを)運んで行く情景も、いかにも冬らしくて良いものだ。(しかし)昼になって、寒さがだんだんとゆるんでゆくと、丸火鉢の火も(かまう人がなくなり)、白い灰の方が多くなって感心しない。

【解説】1001年頃成立。「最初の随筆文学にして最大の傑作」と評価され、鎌倉時代初期の『方丈記』(滅び行く平安王朝文化をしのぶ消極的無常観が中心概念です)、鎌倉時代末期の『徒然草』(来たるべき室町時代のエネルギーを感じさせる積極的無常観が中心概念です)と合わせて、「三大随筆」とされます。『源氏物語』の中心概念がしみじみとした情趣である「もののあはれ」とすれば、『枕草子』の中心概念は理知的・分析的な「をかし」であるとされます。実際、清少納言の教養は大したもので、「書(ふみ)は文集、文選、(新賦、史記、五帝本紀、願文、表、)博士の申文(まうしぶみ)」(199段)と言うように、『白氏文集』(「詩魔」と自称し、民衆に分かりやすい表現を心がけた唐の白居易〔白楽天〕の詩文集)や『文選』(六世紀、南朝梁の昭明太子の編集)などに代表される漢詩文の素養を豊かに持っており、それを宮廷生活の中で縦横無尽に駆使して、打てば響くような応答をしていたようです。
 例えば、中宮定子(ていし)の前で女房達が雑談していた時、中宮が「少納言よ、香炉峰(こうろほう)の雪、いかならむ」と尋ねると、清少納言はすかさず簾(すだれ)を巻き上げたというエピソードが記されています。これは『白氏文集』の中の七言律詩「香炉峰の下、新たに山居を卜(ぼく)し、草堂初めて成り、偶ゝ(たまたま)東壁に題す」の中の「遺愛寺の鐘は枕を欹(そばだ)てて聴き、香炉峰の雪は簾を撥(かか)げて看(み)る」という一句を踏まえています。
あるいは、中宮(まだ19歳です)の話として、第62代村上天皇の時代に宣耀殿(せんようでん)の女御という人が、父である藤原師尹(もろただ、定子の曽祖父・師輔〔もろすけ〕の兄弟)の指示で『古今和歌集』二十巻の歌の全部暗記することを学問にせよと言われ、それを知った村上天皇がテストしても少しも間違えることがなかったというエピソード(これは『大鏡』にも取り上げられています)が語られ、それを聞いた第66代一条天皇(まだ15歳)も感心して、「自分は三、四巻だって全部暗唱することはできないだろう」と言ったとか。女房達は「昔は(女御様などはもちろん)身分の低い者なんかでも皆、風流だったのですね。この頃はこんな奥ゆかしい話を耳にすることなどは、まるでありませんね」などと言い合っていますが、恐るべし平安宮廷サロンの教養水準であると言えましょう。

【関連】
①「王朝社会のさまざまを、作者の目をとおしてとらえ、思うままに軽妙な筆致で描きあげたもので、自然も人も物も、その姿がいきいきと表現され、そこにはさながら美しい絵巻が展開されているようである。…岡崎義恵博士は、平安時代は日本芸術における絵画性の確立した時代であるが、その中でも『枕草子』は絵画性を豊富に盛った作品であるといわれ、さらに清少納言は、とくに色彩をもってこの絵を文芸の中に描く天才であった。おそらく日本といわず世界中での天才であったとさえのべておられる。」(伊原昭『平安朝の文学と色彩』)

②「政治的区分によれば、我が国には、古代、奈良、平安、鎌倉、室町、江戸、近代というような時代が、縦に列(なら)んでいる。しかし、文化の質というものを考えれば、この各時代はそれぞれ、等価だというようなものではない。私の観るところでは、日本の文化とは平安文化であり、それ以前の時代はそれを準備し、それ以後の時代はそれの様ざまの変形である。
たとえば、桂離宮と日光東照宮というように、同時代であっても極端に対立している二つの建築物の両方に、私は王朝美学の二つの方向への変貌を発見する。桂は平安末期以来の一途に、冷えさびて行った方向の到達点であろうし、東照宮は戦国末期の新しい民族的エネルギーによる、王朝の新しいルネッサンスの輝かしい成果である。その現れは、桂においては老熟しきった末の枯れた雅(みやび)やかさであり、東照宮においては子供らしい華やかさであろうとも、いずれも王朝文明というものの、ある要素の展開であることには間違いはない。
だから、私たちは王朝を学ぶことによって、日本そのものを学ぶことになる。王朝以後の各時代は、いずれも王朝を復活させることによって、新しい文明を創りだした。文明というものが連続であるが故に、それは当然である。我が王朝文明は、フランスの歴史において十七世紀古典主義の文明の占めている位置に酷似していると言えるだろう。
話を文学だけに限っても、日本の文学史の脊骨(せぼね)が勅撰集の流れであることは明瞭であるし、散文芸術においても『源氏物語』と『枕草子』との対立が、伝統となって現代にまで繋(つな)がっている。たとえば私小説的モラリストの系譜とフィクションによるロマネスクの系譜とが、微妙に交錯しているのが、今日の日本小説の姿であるが、前者の先祖は『枕草子』であろうし、後者の淵源は『源氏物語』にあると考えても、不自然ではないのである。」(中村真一郎『源氏物語の世界』)

③「その『枕草子』こそ、彼女(清少納言)の心の様子がよく見えて、たいそう興味深く思われます。あれほど興味深くも、趣深くも、すばらしくも、立派である事どもを残らず書き記した中に、皇后定子の立派で栄華の盛りにあって、天皇のご寵愛を一身に集めていらっしゃったことばかりを、恐ろしいほどまざまざと書き出して、父関白がお亡くなりになり、兄内大臣が流されなどなさったあたりの関白家の衰えぶりは、おくびにも出さないほどのすばらしい心遣いを見せた人が、しっかりした縁者などのもなかったのでしょうか、乳母の子であった者に従って、遠い田舎に下って行って住んだのですが、襖(あお)というものを干しに外に出ようとして、『昔の宮中の人々の直衣(のうし)姿が忘れられない』と独り言を言っているのを誰かが見ましたところ、粗末な着物を着て、つぎはぎだらけの布をかぶり物にしておりましたのが、たいそう哀れでした。本当にどんなにか昔のことが恋しかったことでしょう。」(『無名草子』)


8、『和泉式部日記』

【例文】夢よりもはかなき世の中を、嘆きわびつつ明かし暮らすほどに、四月十余日(よひ)にもなりぬれば、木(こ)の下くらがりもてゆく。築土(ついひぢ)の上の草の青やかなるも、人はことに目もとどめぬを、あはれとながむるほどに、近き透垣(すいがい)のもとに人のけはひすれば、たれならむと思ふほどに、故宮(こみや)にさぶらひし小舎人童(こどねりわらは)なりけり。

【訳文】夢よりもさらにはかない(亡き宮さまとの)間柄を嘆き、思い沈みながら明かし暮らすうちに、あっけなく(月日は過ぎ)て四月十日過ぎになってしまったので、木の下はだんだんに暗さを増してゆく。(庭の))はずれの方を眺めると、築土(ついじ)の上の草が青々としているのも、格別人は目もとめないのを、しみじみとした思いでじっと見つめていると、すぐそばの透垣(すいがい)のところに人の気配がするので、「誰なのだろうか」と思っていると、(やがてその人が)姿をあらわしたのを見ると、(それは)亡き宮さまにお仕えしていた小舎人童(とねりわらわ)なのであった。

【解説】1007年頃成立。女流歌人である和泉式部は、夫のある身でありながら、第63代冷泉天皇の第三皇子・為親(ためたか)親王に愛されましたが、それも親王が26歳の若さで亡くなるまでのわずかな間であり、この日記は亡き為親親王の一周忌を迎えようとする1003年4月10日余りの頃、為親親王の思い出にふけっている所から始まります。ここに出てくる童は為親親王の弟宮・敦道(あつみち)親王(冷泉天皇第四皇子)が賜わった橘の花を持参して、久しぶりに和泉式部のご機嫌伺いに訪れたのですが、これがきっかけでこの日記のもう一人の主人公たる敦道親王(和泉式部の生涯を通しての最大の恋人)との和歌の贈答が始まり、気丈で多感な和泉式部は再び恋に落ちていくわけです。本日記には和歌がふんだんに詠み込まれ、歌物語風の自伝的物語であるため、『和泉式部物語』とも呼ばれています。また、いわゆる「和泉式部伝説」と呼ばれるものが全国に残っているのも不思議なことです。これは紫式部や清少納言でも見られないことで、かろうじて似通うのが小野小町ぐらいでしょうか。
 ちなみにこの冒頭文は『白氏文集(はくしもんじゅう)』十八「野行」の中の「浮生、夢よりも短し」を踏まえたものとされ、同様に起筆に白居易の詩を引いた平安時代のかな文学として、他にも『源氏物語』『狭衣(さごろも)物語』などが挙げられます。さらに「草の青やかなる」という表現も、『文選(もんぜん)』の影響があると見られています。「文集・文選」の教養は決して清少納言の専売特許だったわけではなく、平安貴族にとっては必須の教養だったようですね。
 ところで、和泉式部の娘である小式部内侍(こしきぶのないし)にも有名なエピソードが残っています(『十訓抄〔じっきんしょう〕』)。母の和泉式部が夫の藤原保昌(やすまさ)に伴われて丹後国に下向していた頃、都にいた小式部内侍は歌人として歌合に召されますが、藤原定頼(百人一首にもその歌が選ばれています)が宮中の局(つぼね)を訪れて、「歌はどうなさいましたか。代作してもらうために、丹後に人を遣わしましたか。文(ふみ)を持った使者は帰って来ませんか。さぞやご心配でしょうね」と戯れると、小式部内侍は定頼の直衣(のうし)の袖を押さえて引き留め、即座に次のように詠みました。
「大江山(おほえやま)いく野の道の遠(とほ)ければまだふみもみず天(あま)の橋立(はしだて)」
(大江山を越え、生野〔いくの〕を通って行く道は遠いので、まだ天の橋立の地は踏んでみたことがありませんし、まだ母からの文〔ふみ〕も見ていません。「いく野」は丹波国桑田郡〔京都府福知山市〕の生野で、これに「行く」を掛け、「踏み」に「文」を掛け、「踏み」は「橋」の縁語ともなっています。この歌も百人一首の中に選ばれていますが、定頼の歌の4つ前に置かれています。)
 母のいる丹後国への道筋に当たる「大江山」「生野」「天の橋立」を順次に詠み込んで距離感を暗示させ、さらに掛詞・縁語といった表現技巧を駆使して仕立て上げた歌を、当意即妙に詠んだわけで、さすがの定頼もすぐには返歌を詠むことができなくて、押さえられた袖を振り払ってほうほうのていで逃げています(『俊頼髄脳〔とりよりずいのう〕』『袋草子』)。ちなみに和歌を詠みかけられたら、和歌を返すのが礼儀ですね。これを返歌と言います。これは和歌の居合い抜きのようなもので、一瞬のうちに教養と才気の火花が飛び散りますから、武士同士のやりとりなどにも見られます(前九年の役の時〔1062年〕、衣川の館に自ら火を放って敗走した安部貞任〔さだとう〕を追った源義家が、馬上から「衣のたてはほころびにけり」と下の句を詠み上げると、貞任はすかさず「年を経し糸の乱れのくるしさに」と上の句をつなげ、感心した義家が貞任を見逃したというエピソードが伝えられています)。

【関連】
①「和泉式部は、詠んだ歌数の点などでは、本当に女でこれほど多い人は滅多にいないことでしょう。気立てやその行動などはあまり奥ゆかしくなく、これほどすぐれた歌どもを詠み出すであろうなどとはとても思われませんが、しかるべき前世からの因縁のようです。現世だけの結果でこうなるとは思われません。そうしたたくさんの歌の中でも、藤原保昌に忘れられ、貴船(きふね)神社に百夜詣でをして、
 もの思へば沢の蛍も我が身よりあくがれ出づる魂(たま)かとぞ見る
(もの思いをすると、沢に飛んでいる蛍も、私の身からさまよい出た魂ではないかと思われることです。)
と詠んでいるのなどは、本当にしみじみとした思いにとらわれます。
 奥山にたぎりて落つる滝つ瀬に玉散るばかりものな思ひそ
(奥山にわきかえって落ちる激流に、玉が散るように、魂が砕け散るほどもの思いをなさるな。)
と貴船明神のご返歌があったとかいうのは、たいそうすばらしいことです。
 また、娘の小式部内侍が亡くなった後、上東門院から下賜(かし)されたお召し物に、「小式部内侍」と書いた札が付けてあるのを見て、
 もろともに苔(こけ)の下には朽(く)ちずして埋(うづ)もれぬ名を見るぞ悲しき
(娘と一緒にあの世に行かず、生きながらえて、なおこの世に残っている娘の名前を見るのは悲しいことです。)
と詠んで上東門院(紫式部も仕えた中宮彰子)に差し上げたとかいうのも、
 とめ置きて誰をあはれと思ふらむ子はまさるらむ子はまさりけり
(私や子供達をこの世に残して、娘は誰をあわれと思っているのでしょう。もちろん、子供なんでしょうね。そう、私も子供はやはり最もいとおしかった…。)
と詠んだのも、たいそうしみじみと思われます。
 また、孫の何とかという僧都(そうづ)のもとへ、
 親の親と思はましかば訪(と)ひてまし我が子の子にはあらぬなりけり
(もしもお前が私のことを親の親だと思っているのだったら、きっと訪ねてくれたことでしょう。訪ねてくれないところを見ると、私の子供の子供ではなかったのでしょう。)
と詠んで差し上げたのも、しみじみと思われます。
 書写(しょしゃ)山の性空上人(しょうくうしょうにん)のもとへ、
 暗きより暗き道にぞ入りぬべき遥かに照らせ山の端(は)の月
(暗い闇の世界から闇の世界へ、私はさまよったまま入り込んでしまいそうです。上人様、仏の教えで私の行く道をお導き下さい。)
と詠んでやったところ、上人は返歌はしないで、袈裟(けさ)を贈られたのでした。そして、和泉式部はそれを着て亡くなったのだそうです。そのせいでしょうか、和泉式部は本来なら罪深いはずの人、それがあの世で助かったなどと聞きますのは、どんなことよりもうらやましいことです。」(『無名草子』)

②「小式部内侍こそ、誰よりもたいそう結構な人です。こうした清少納言のような例(晩年が悲惨だったこと)を聞くにつけても、短命だったことまですばらしく思われます。上東門院のようなあれほどすぐれた主君に特別に思われてご寵愛いただき、死後までも主君がお召し物などを下さったとかいうことは、宮仕えをした元々の気持ちとしてはこれ以上のものはないだろうと思うのです。幸せまで本当に理想的だったということです。多くの男達が彼女に夢中になったとか、それに対して妬ましいほど見事に身を処して大二条殿教通に深く愛され、尊い僧や子供を生み残して亡くなったとかいうことが、すばらしく結構なことです。
 歌詠みとしての評判は母の和泉式部には劣っているようですが、病重く危篤状態になって死にそうに思われた時に、
 いかにせむいくべき方(かた)も思ほえず親に先立つ道を知らねば
(どうしたらいいのでしょう。死に臨んでどう行ったらいいのか、行くべき方向も分かりません。親に先立つ道なんて、私は知りませんので。)
と詠んだところ、その時の病気はたちまちにして治ってしまったとか。そういうことで、この和歌の道がどれほどすぐれているかは分かってしまいます。また、定頼(さだより)中納言に
 大江山いく野の道の遠ければまだふみも見ず天(あま)の橋立(はしだて)
(大江山を越え、生野を通って行く道が遠いので、母の住む丹後の国のあの天の橋立はまだ踏んでみたこともありません。もちろん、文〔ふみ〕もまだ見ておりません。)
と詠みかけたということなども、その場に応じての歌としてはたいそう見事なものだと推量されます。」(『無名草子』)


9、『源氏物語』

【例文】いづれの御時(おほんとき)か、女御(にょうご)更衣あまたさぶらひたまひけるなかに、いとやむごとなき際(きは)にはあらぬが、すぐれて時めきたまふありけり。

【訳文】何天皇の御代(みよ)であったろうか、女御や更衣が大勢、帝(みかど)にお仕え申しあげていらっしゃった中に、特に高貴な家柄の出ではないお方で、(他の方々より)格別に帝のご寵愛を受けて栄えていらっしゃるお方があった。

【解説】1008年頃成立。先行の作り物語や歌物語などの影響を受けながら、五十四帖(400字詰め原稿用紙なら2600枚)から成る完成度の非常に高い作品となっており、後世の文学や芸能に与えた影響は計り知れないものがあります。実際、叙情的で流麗な文体、ふんだんに詠み込まれる和歌、写実的に描写される人間心理の機微、宮廷を舞台に光源氏と多数の女性達との恋愛模様や栄耀栄華への道を描くプロット(話の筋、登場人物は何と400名以上です)など、群を抜いた成果を収めていることは誰も否定できないでしょう。外国でも多く翻訳されており、一時は外国企業の日本駐在員に対して「日本文化を理解するためにはこれを読め」と言われていたようです(そのうち、実は日本人でもそんなにこれを読んでいないことに気づいたようですが)。江戸時代の国学者・本居宣長(もとおりのりなが)が、『源氏物語』の本質はしみじみと心にしみとおる情念、哀歓である「もののあはれ」にあると喝破して、これが日本文学の代表的理念を表す言葉となりました。
『源氏物語』の構成は白居易の「長恨歌(ちょうごんか)」から暗示を受けたとされ、この冒頭文も「いづれの御時か」は「漢皇(当時の玄宗皇帝を避けて「漢皇」とした点が類似)色を重んじて傾国を思う」、「女御更衣あまたさぶらひたまひけるなかに、いとやむごとなき際にはあらぬが」は「後宮の佳麗(かれい)三千人」、「すぐれて時めきたまふありけり」は「一朝選ばれて君王の側(かたはら)に在り」をそれぞれ受けているとされます。
 この『源氏物語』執筆のエピソードとしては、次のように伝えられています。
「今は昔、紫式部は歌人の優れた者として上東門院彰子にお仕えしていたが、春頃、大斎院(村上天皇第十皇女である選子内親王)より、「退屈しておりますが、何か適当な物語がございましょうか」とお尋ねになったので、上東門院は御草子などをお取り出しになさって、「どれを差し上げたらよかろうか」などと言われてお選びになった。紫式部は「皆見慣れておりますので、新しく物語を作って差し上げなさいませ」と申した。そこで、院が「それではそなたが作りなさい」と仰せになったので、源氏物語を作って差し上げたとのことだ。」(『古本説話集』「伊勢大輔歌事〔いせのたいふがうたのこと〕 第九」)
「それにしても、この『源氏物語』を作り出したことは、どう考えても現世においてだけではなく、前世からの因縁にもよろうかと珍しく思われます。本当に仏に祈願した、その効き目だろうかと思われます。この物語より後の物語は、考えてみるとたいそう簡単なはずです。『源氏物語』を一つの知識として作ったら、『源氏物語』より勝(まさ)ったものを作り出す人もきっとあることでしょう。それがわずかに『宇津保物語』『竹取物語』『住吉物語』(鎌倉時代の『住吉物語』は『落窪物語』を模した継子いじめの物語ですが、その名称は『源氏物語』『枕草子』にも見えていることから、平安時代中期にあった物語の改作と見られています。ここではもちろん原作の方を指しています)などぐらいを物語として見ていた程度で、あれほど傑作に作り上げたのは、普通の人間の仕業とも思われないことです。」(『無名草子』)

【関連】
①「『源氏物語』の多くの巻々の中で、どれがすぐれて心に染みてすばらしく思われますか、
と言うと、
 『桐壺(きりつぼ)』以上の巻がございましょうか。「いづれの御時にか」と始めたそこの所から、光源氏元服のあたりまで、文章の調子、話の内容をはじめ、しみじみと悲しいことはこの巻に籠っていますよ。『帚木(ははきぎ)』の雨夜(あまよ)の品定めの部分は、たいそう見どころが覆いようです。『夕顔』はただひたすら同情心がそそられる巻のようです。『紅葉賀(もみじのが)』『花宴(はなのえん)』はそれぞれに優美で興味深く、何とも言えぬ巻々でしょう。『葵(あおい)』はたいそうしみじみと興味の持たれる巻です。『賢木(さかき)』は六条御息所(ろくじょうのみやすどころ)の伊勢へのご出発のあたりもあでやかで素敵です。桐壺の院がお亡くなりになって後、藤壺(ふじつぼ)の宮の出家なさるあたりは深く心に染みて思われます。『須磨(すま)』はしみじみと素晴らしい巻です。光源氏が京を後になされるあたりの事どもや、旅先でのお暮らしぶりのほどなど、大そう心に染みることです。『明石(あかし)』は須磨の浦から明石の浦へと浦伝いをなさるあたり。また、明石の浦を離れて京へ戻るあたり。…(と、結局、全巻ほめちぎるという記述が続き、さらに作中女性の品評から作中男性の品評まで延々と続きます)」(『無名草子』)

②「小説とはどういうものかという芸術学上の定義はむずかしいのですが、ごく常識的にいえば、それは普通の人間、われわれと同じような人間の世界を描いた散文芸術である、といっていいかと思います。
ところが、日本でも西洋でも、どこの国でも文学のもっとも古いかたちは、伝承物語あるいは神話であって、小説ではありません。神話というのは、名前のとおり普通の人間を超えた者―神とか英雄とかを扱う文学で、もう少し現代的ないい方をすれば、そういう神や英雄を媒体にして国家、あるいは民族を描く文学だといえるでしょう。そういう大きなものの象徴として人間が描かれるわけですから、ギリシア神話のばあいであれ、日本の神話のばあいであれ、そこに出てくる主人公は、普通の人間の心理構造とか感情とか性格といったものを持っていません。われわれから見ると、彼らは思いがけない残酷なことをやってみたり、想像もつかない大らかな感情を持っていたりして、それがまた神話の魅力にもなるわけです。日本のばあいもむろんそうなので、『古事記』や『日本書紀』などに現われる物語は、世界的な標準から見ていわゆる神話であるといっていいでしょう。
しかしながら、日本できわめて特徴的なのは、そういう神話からあまり時をへだてない早い段階で、すでに普通の人間のこまごまとした感情、あるいは微妙な心理関係を主題にした文学が生まれたということです。その代表的な作品が源氏物語であって、たしかに『源氏物語』はその意味で、世界最初の小説であるといっても過言ではないと思われます。
この『源氏物語』は、実は私たちがあまりよく読んでいない作品で、世界的に名を知られているほどには日本人が親しんでいるとはいいにくいのですけれども、しかしその帖々をひもといてみると、私たちが意外の目を見はるような並みはずれた感情とか、あるいは理解を絶するような行動は、どこにも見あたりません。むしろ読みようによっては、あの美しい文体のかげに、あまりにもドメスティックなというか、ひどくちまちました人間関係が描かれているのに、奇妙な感じさえ受けるほどです。
ここには早くも、日本の文学のひとつの顕著な特色として、人間くささという性質がはっきりあらわれているように思われます。このばあいの人間とは、くりかえすようですが、われわれと同じような生活感情を持った普通の人間という意味で、しかもその人間はつねにもうひとりの人間と世俗的な関わりの中に生きています。物語のどの章をとっても、そこにはたとえば男女の恋愛だとか、それにまつわる嫉妬だとか、あるいは社会的な栄達や、そこから脱落した人間の心理というふうなものが、事こまかに描かれているわけです。」(山崎正和『室町記』)

③「ドナルド・キーン氏(アメリカの代表的日本学者)に従って、「小説とは散文で架空のことを扱った一〇〇ページ以上の作品」というふうに定義すれば、これこそ世界の最初の小説である。イギリスのウェーレーがこれを英訳したとき(一九二三年)、欧米の読者たちは、その規模の大きさとと、そこに描かれた、それまでには夢にも見たことのない洗練された世界に圧倒されたのである。
そして、『ドン・キホーテ』や『デカメロン』や『ガルガンチュアとパンタグリュエル』や『トム・ジョーンズ』などと比較してみたわけだが、源氏のほうはそれより数百年古いのである。何でも古くからあるシナでも、小説が出てくるのは元の末から明にかけてであるから、これよりざっと五〇〇年遅い。
欧米でも女子が小説を書くのはアフラ・ベーン(一六四〇~一六八九、『オルーノウコウ』などの作者。英国人)を採りあげても約六五〇年も遅く、もっと小説家として価値のあるジェーン・オーステン(一七七五-一八一七。『高慢と偏見』、『エマ』などの作者。英国人)を採りあげるならば、約八〇〇年遅いのである。ジェーン・オーステンより八〇〇年も前に、彼女より大規模で、彼女より洗練された世界を小説にした日本女性がいたことを、普通の欧米人はなかなか信じようとしない。
例外的にキーン氏のような人は、源氏の会話は洗練の度が高いゆえに、ヘンリー・ジェームス(『鳩の翼』、『象牙の塔』、『黄金の杯』などの作者)の小説の会話よりもむずかしく、現代の小説家では、マルセル・プルーストの『失われし時を求めて』に一番似ているのではないかということを指摘する。そして同じキーン氏が平安朝を「世界史上、最高の文明」と言っているのは、わが意を得ている。
紫式部が源氏を書いたのは、単にフィクションを書いただけではない。この物語の中で、紫式部は光源氏を通じて、フィクションというものが、『日本書紀』よりも忠実に、神代以来の人間の生き方を示している、と言わせているのである。そして、そういう空想で作り上げた物語の実用価値も、ひじょうに大きいと言っている。 われわれは実用価値といえば勧善懲悪(かんぜんちょうあく)を思い出すのだが、紫式部が言っているのは、そんな実用価値の話ではない。彼女が言うのは、小説によって人間性というものがよくわかるから、価値があるのだということである。西欧の近代の文学論が、さも大発見したように言い出したことを、彼女はそれより九〇〇年も前に言っているのである。
もし『源氏物語』しかなかったら、大天才の作品というだけのことで特異現象と言えるであろう。しかし、源氏は富士山であって、裾野(すその)が広大なのである。清少納言の『枕草子』は、女性が書いたエッセイでは、やはり最古のものであろうし、そのエスプリは今日でも光を失わない。
そのほか『伊勢物語』など、ほかの物語の類(たぐい)はいっぱいあるし、紫式部も和泉式部なども日記を残している。女性の日記というのも、やはり日本の平安朝が最初であろう。
そしてこのほか、もちろん和歌がある。『古今和歌集』(九〇五年)は最初の勅撰集であるが、皇室が率先して文学のアンソロジー(詞華集)を世代が変わるごとに作っていくという手本を示したのは、たしかにキーン氏が言うごとく、高い文明である。」(渡部昇一『日本史から見た日本人・古代編 「日本らしさ」の源流』)

④「桓武(かんむ)天皇は平安京に都をさだめるや、たちまち延暦(えんりゃく)三年、少しの例外を除いて、常備軍を全廃してしまう。日本は、七八四年に、すでに戦争を放棄したのであった。
それから五百年、侵略戦争であると自衛戦争であるとを問わず、こと日本に関するかぎり、国際紛争解決の手段として戦力が用いられたことは一度もなかった。一二七四年、文永十一年の元寇(げんこう)は、誰が見ても立派な自衛戦争だが、五百年間というもの、この種の自衛戦争すらまったくおこなっていないのである。なんとも徹底した戦争放棄ではないか。
そのうえ、戦争だけでなく、外交まで放棄してしまった。
当時の外交として最重要なものは対唐外交であるが、延喜(えんぎ)四年、菅原道真の進言によって遣唐使を廃止し、ここに定常的対唐外交は廃止され、それ以来、本格的なものとして復活することは、ついにないのである。
平安古帝国は、通常、国家の機能として最重要視されてきた、戦争、外交という二大機能を全廃してしまった。政治指導者も国民も、それ以来、まったくの戦争音痴、外交音痴になってしまったのである。
外国の場合であれば、プルターク英雄伝を読んでも史記列伝を読んでも、偉い政治指導者の類型はきまっている。要するに、戦争や外交において、大きな業績をあげることだ。この点に関するかぎり、古今東西をつうじてあまり変わらないと言えよう。ただ一つだけ例外がある。それが日本だ。
平安朝時代の日本は、戦争も外交も放棄してしまったので、政治指導者はその分野において業績をあげることはできない。業績をあげるどころか、やるべき仕事もないのである。このことは、史記の、プルタークのと言わずとも、『源氏物語』とトルストイの『戦争と平和』とを読みくらべただけで、一目瞭然たるものだ。
光源氏は帝のれっきとした皇子であり、のちに太政大臣となるほどの政府高官である。しかも時代はといえば道長の摂関政治確立の時代、荘園システムが平安王朝の経済システムを再編しようとしており、政治的に言っても経済的に言っても、歴史の転換期であり、難問は山積していた。それにもかかわらず、光源氏をはじめ、国政の燮理(しょうり、ほどよくととのえること)に当たるべき堂上の人びとに、政治的関心も経済的関心も、まったく見られないのである。まことに驚くべきことだ。
もちろん、これは小説であり、筆者が女性である点を考慮に入れなければならないとはいえ、大河小説としては、まことに異常なことである。とういうよりも、この小説が反映しているところの日本社会が、世界史の常識からみて、想像を絶する異様な社会なのである。
これに比し『戦争と平和』は、同じく大河小説であり、恋愛を主題としながら、そこには政治もあり社会もあり、強大なナポレオンの大陸軍(グランタルメー)に攻められて風前の灯(ともしび)にも似た祖国の運命がある。アンドレーとナターシャとは、光源氏と紫上(むらさきのうえ)とはちがって、真空の宇宙空間で恋愛をたのしんでいたわけではないのである。
このように、平安貴族の思想と行動とは、類例の思い及ばないほど奇妙なものではあったが、話はここでは終わらない。平安王朝が廃止してしまったのは、軍備と外交だけではなかった。国家の機能として、軍事・外交とならんで重要であるところの、法律の維持、これもまた、ないがしろにした。国家の法律である律令(大宝律令、近江令など)は、漸次(ぜんじ)、有名無実なものとなっていったのである。
ここに驚くべきことは、この国法を有名無実化するという過程(プロセス)は、革命勢力によってではなく、権力者自身によって展開された、ということである。たとえば、摂政を常設することなど、律令国家の原則からすればありえないことであったし、関白にいたっては論外である。権力者の手によって、法(律令)はまげられ、法的にありえぬことが一種の恒例となった。…
軍事、外交、法と治安の維持という、国家であればいかなる国家であってもなさなければならない最小の必須要件に、平安王朝はまったく無関心であった。これが日本国家の原型となり、フロイトの言う幼児体験のごとく、永く日本人の行動を規定することになる。
自由放任(レッセ・フェール)時代に言われた〝夜警国家〟とは、軍事、外交、法と治安の維持のみを全責任とし、それ以外には手を出さない国家という意味だが、日本国の本性は、じつは、この夜警国家の正反対なのである。」(小室直樹『アメリカの逆襲 宿命の対決に日本は勝てるか』)


10、『紫式部日記』

【例文】秋のけはひ入りたつままに、土御門殿(つちみかどどの)のありさま、いはむかたなくをかし。池のわたりのこずゑども、遣水(やりみづ)のほとりのくさむら、おのがじし色づきわたりつつ、おほかたの空も艶(えん)なるにもてはやされて、不断の御読経(みどきょう)の声々、あはれまさりけり。やうやう涼しき風のけしきにも、例の絶えせぬ水の音なむ、夜もすがら聞きまがはさる。

【訳文】秋の気配がするにしたがって、藤原道長邸の土御門殿の様子は何とも口で言えないほど趣き深くなってくる。池の周辺の梢や庭への引き水の傍らの草むらなど、それぞれ紅葉し始めるものの、その一方で、空一帯もほのぼのと気持ちをそそるような風情であるのに引き立てられて、絶え間ない安産を祈る御読経の声々は一層情け深く聞こえる。次第に深くなっていく風の気配にも、いつも絶えることのない遣り水の音が、読経の声と入り混じって区別がつかないように聞こえる。

【解説】1010年頃成立。前半は宮廷生活の記録で、後半は消息文(しょうそこぶみ)と呼ばれるもので、特に和泉式部、赤染衛門(あかぞめえもん、『栄花物語』正編の作者とされます。夫の大江匡衡〔まさひら〕は文章博士にして中古三十六歌仙にも選ばれるなど、才気あふれる学者として知られています)、清少納言といったライバルの女房達への人物批評には紫式部の観察眼と共に、その人間性が窺えるところでしょう。

ライバルの女房達
紫式部の人物批評
和泉式部
趣深い手紙のやり取りをし、歌の詠みぶりも見事だが、歌の知識や人の歌に対する批評などを見ると、こちらが気後れするほどの素晴らしい歌人とは思われない。

赤染衛門
特に優れた歌人であるというわけではないが、たいそう味わいがあり、慎みのある歌人である。世間に知られている限りの歌は、こちらが気後れするほどの素晴らしい詠みぶりである。

清少納言
実に高慢ちきな顔をして、偉そうにしている人である。利口ぶって漢学の教養を皆にひけらかしているが、よく見れば、まだ不十分な点が多い。このように他人より抜きん出ようとばかりする人は、ますます全く感心できない軽薄な感じにもなるだろう。

【関連】
①「ある人の夢に、これといった実体がないものであって、薄くぼんやりとした影のようなものが見えたのを、「あなたはどなたですか」と尋ねると、「紫式部です。偽りごとばかり多く作りなして、人の心を惑わせたがために、地獄に堕ちて責め苦を受けることはまことに耐え難いものです。源氏物語の(巻々の)名を詠み込んで、なむあみだ仏ととなえる歌を、巻ごとに人々に詠ませて、私の苦しみを慰め、安楽を願って下さい」と言ったので、「どのように詠んだらいいでしょう」と尋ねたところ、
きりつぼに迷はん闇も晴るばかりなもあみだ仏と常にいはなん
(桐壺の巻を著したために地獄で迷う無明長夜〔むみょうちょうや〕の闇も晴れるように、南無阿弥陀仏と唱えてほしい)
と言ったのだった。」(藤原信実『今物語』~三十六歌仙絵を描いたとも言われる中世説話文学です)

②「羅子(らし、羅貫中〔らかんちゅう〕)は『水滸伝』(中国「四大奇書」の一つ、他に『三国志演義』『西遊記』『金瓶梅』があります)を撰述し、それによって子孫三代にわたって、言葉がしゃべれない子が生まれ、紫媛(しえん、紫式部)は『源氏物語』を著したためにひとたびは地獄に堕ちたが、思うにそれは彼らがありもせぬ空想を書いて世人を惑わせた報いを身に蒙(こうむ)ったにすぎない。そういう見方でその文章を見てみると、それぞれ共に不思議な情景が躍動し、言われざる所やよく言い得た所が絶妙の域に達していて、文勢があるいは低く這うように、あるいは高々と上りつめながら、流れゆく滑らかなこと、読む者の内心を琴の胴に開けられた穴のように共鳴させずにはおかないのだ。そこに描かれた事実を千年も後の我々に、あたかも鏡にかけて見るように眼前に見せてくれると言える。
 ところで、自分も偶然、この太平の世にふさわしい無駄話を持っていて、口から出放題に吐き出してみると、祭りの場で不吉にも雉(きじ)が鳴き出したり、野に竜が戦い合う悪い兆(しら)せのような奇怪なものとなった。自分から進んででたらめだと言う他はない。だから、これをつまみ読みする者も、当然のことながら信用するとは言うはずがないものである。したがって、自分は羅子や紫媛のように世人を惑わせ、子孫に口が裂け、鼻がかける報いを自ら求めてしまうようなことなどはあり得ないのだ。
 明和五年(一七六八)の晩春三月、雨は晴れながら、月は雨を含んでおぼろな夜、書斎の窓辺で編集して本屋に渡す。題して『雨月(うげつ)物語』と名づけた。」(上田秋成『雨月物語』~日本の『聊斎志異(りょうさいしい)』」と呼ばれる怪異小説です)


11、『堤中納言物語』

【例文】蝶めづる姫君の住みたまふかたはらに、按察使(あぜち)の大納言の御むすめ、心にくくなべてならぬさまに、親たちかしづきたまふこと限りなし。
 この姫君ののたまふこと、「人々の、花、蝶やとめづるこそ、はかなくあやしけれ。人は、まことあり、本地たづねたるこそ、心ばへをかしけれ」とて、よろづの虫の、恐ろしげなるを取り集めて、「これが、成らむさまを見む」とて、さまざまなる籠箱(こばこ)どもに入れさせたまふ。中にも「鳥毛虫(かはむし)の、心深きさましたるこそ心にくけれ」とて、明け暮れは、耳はさみをして、手のうらにそへふせて、まぼりたまふ。

【訳文】蝶(ちょう)をかわいがる姫君が住んでいらっしゃる近所に、按察使(あぜち)の大納言の姫君がお住みになっていて、奥ゆかしく至(いた)れり尽(つく)せりに、親達が大切に育てていらっしゃった。この姫君がおっしゃるには、「世の人々が、花よ蝶よともてはやすのは、あさはかでおかしいわ。人というのは真面目な気持ちがあって、物の実体をつきとめることこそ、心ばえがあらわれてよいのです」とあらゆる虫の恐ろしそうなのを採集して、「これが成長するさまを観察しよう」と、さまざまな虫籠(かご)に虫を入れさせなさる。とりわけ、「毛虫が心深いさまをしているのは素晴らしい」と、朝晩額髪(ひたいがみ)を耳ばさみにして、手のひらにのせてじっと見守りなさる。

【解説】1055年頃一部成立。世に「堤中納言」と言えば、藤原兼輔(かねすけ、紫式部の曽祖父。紀貫之とも親交があり、その歌は『古今和歌集』に収録されています)のことですが、この物語と直接の関係はありません。したがって、編者は不明ですが、『新古今和歌集』の編者の一人である藤原定家とする説がなかなか有力です。全体構成は「花桜折る少将」から始まって、10編の短編と1つの断章から成っていますが、中でもこの「虫めづる姫君」は有名で、宮崎駿の『風の谷のナウシカ』の少女ナウシカの原像ともなっていると言われています。ナウシカも菌や植物を城の地下室で栽培し、「物の本体を探求することこそおもしろい」と言っています。この2人の少女は大人達からちょっと変わった困った子だと思われながらも、とても愛されていることが共通していて、生命あるものを愛(め)づる者は自らも愛づる対象となることを教えてくれます。
 「虫めづる姫君」は、当時の女子の風習である眉を抜いたり、お歯黒をつけることなども、うるさい、汚いといって一切しようとせず、親達も世間体も悪いので心配し、注意もしますが、彼女が何やかやと理屈をつけて反対するので、しまいにはあきらめてしまいした。ある時、彼女のうわさを聞いた上達部(かんだちめ、大納言・中納言及び三位以上の殿上人を指します)の御子が何とかしてこの姫君を見たいものだと、子供達と遊んでいる姿をのぞき見します。姫君は櫛(くし)を入れて手入れをしないためか、髪はぼさぼさしていましたが、眉ははっきりと黒く、口元もかわいらしさがあって美しかったようです。もしもこの姫君が世間並みに化粧をしたならば、きっと垢抜けした美しい娘になるだろうと、御子は残念に思い、
「かは虫にまぎるゝまゆの毛の末にあたる許(ばかり)の人はなきかな」
(毛虫と見間違うようなあなたの眉はたいそう毛深い。その毛深い=考え深いあなたの心に、毛の末ほどのわずかでも及ぶ女性は他にはいないでしょう。)
との歌を残して、笑いながら帰って行ったそうです。「その後、どうなるかは次の巻にあるでしょう…」と本篇は終わっていますが、果たして次巻が存在していたのか、それともこれだけで終了したものかどうかは、今日では全く明らかではありません。

【関連】
①「藤原定家が編集したとすると、ここでも、いろいろとおもしろい空想を楽しむことができる。定家は初名を「光季」、後にこれを「季光」と改め、次いで定家とした。一方、定家と並ぶ『源氏物語』の代表的研究家に源光行・親行父子がいる。光行の父は「光遠」で、『尊卑文脈』によると「改、光季」とある。「花桜折る」の中に出てくる「季光」「光季」「光遠」が、ここにも変名・改名としてずらりと並んでいる。定家は名前に興味を引かれて「花桜折る」を取りあげたのか、それとも自分やまわりの名前をこれに書き加えてよろこんでいたのか。  定家は、こんなことを考えたのもかもしれない。――短編を積み重ねて「権中納言」を描いたこの物語は、兼輔に似た所もあるから、架空の兼輔一代記という意味で『堤中納言物語』という題にするのがおもしろうそうだ。業平の一代記は『伊勢物語』だが、あれにも業平とは縁のない「筒井筒」の話などが含まれている。こちらへも兼輔とはあまり縁のない「はいずみ」を加えておこう。これは「筒井筒」の話にもちょっと似ているし、「いづこまで送りはしつと」の歌は異本の『伊勢物語』に見える歌だ。『伊勢物語』とどこか似ていて、しかも違うというのがおもしろい。あちらは短い章段を集めた歌物語だが、『堤中納言物語』の方は短編を集めた一代記だ。一つ一つが短編だから、『源氏物語』五十四帖とも一味違う。しかし、一つ一つの短編は『源氏物語』の一巻一巻に相当するのだから、一冊にはまとめずにおこう。…
 貞永元年(一二三二)一月に、私は七十一歳で前参議から権中納言にかえり咲いた。私の住んでいるのは兼輔と同じ加茂川のほとり、私も「堤中納言」と呼ばれてよい立場だな。その意味でも、この物語を『堤中納言物語』と名づけるのはおもしろい着想だ。そういえば、「花桜折る」には、私の若いころの名前、光季・季光も入っている。〝一体、この『堤中納言物語』は、兼輔のことなのか、定家のことなのか〟と、後の人は首をひねったりするかもしれぬ――」(稲賀敬二『完訳日本の古典27 堤中納言物語 無名草子』)

②「近年和歌の道は特にもてはやされているので、内裏・院の御所・摂関家など、いずれの場でもそれぞれに詠歌の奥底まで極めていらっしゃった。臣下が大勢いらっしゃる中に、治部卿(じぶきょう)(藤原)定家、宮内卿(くないきょう)(藤原)家隆という人がいて、彼らは和歌の伝統が続く家で、和歌の道に名声を得ている人々であるから、この二人に誰も及ばなかった。ある時、摂政殿が、宮内卿家隆を呼び寄せて、「現在、正統的な歌人が多く知られている中で、誰が優れているのか。心に思っていることをありのままに(申せ)」と御下問(ごかもん)になったが、(家隆は)「どなたとも判別し難く存じます」とだけ申し上げて、心に思う所がある様子であるのを、(摂政殿は)「どうなのだ、(申せ)」と強いてお聞きになったところ、(家隆は)懐から畳紙(たとうがみ)を落として、そのまま退出した。(摂政殿がその畳紙を)御覧になったところ、
明けば又秋のなかばも過ぎぬべしかたぶく月の惜しきのみかは
(八月十五日の今宵が明けたら、秋も半ばが過ぎたことになるだろう。今傾く名月だけが惜しいのではない。この秋という時間が過ぎ去るのが惜しいのだ。)
と書いてあった。この歌は治部卿(定家)の歌である。このような御下問があるだろうとはどうして知ろうか、いや知るはずがない。ただ、元々興趣を感じて書き付け、持っていたものであろう。
その後、(摂政殿は)今度は治部卿(定家)を呼び寄せて、先(家隆に聞いた時)のように御下問になったが、これ(定家)も申し上げようがなくて、
かささぎのわたすやいづこ夕霜(ゆふしも)の雲井に白きみねのかけはし
(あの鵲が渡すという橋はどこにあるのか。この黄昏に、山の峰一面に降った雪が、天空に白くかかる橋のように輝くよ。)
と高らかに詠唱して退出した。これは宮内卿(家隆)の歌であった。まことに名手の心とは、このように一致するものなのであろうか。」(『今物語』)

③「西行、俊成、慈円は「うるはしき歌詠み」であり、自分は「智恵の力もて作る歌作り」だというように、定家はいったという。中世の多くの歌論書が伝えているとおり、定家はたしかに、こうした意味のことをいったのであろう。
 一般に、叙情性がゆたかで、心に感じ思うことがそのままことばとなって流露することを本体としている作家態度と、心を研ぎ澄まし、知性の力をより多く借りることによって、美の世界を造型しようとする作家態度と、ふたつの異なる作家態度がありうる。前者は、日本の詩歌の正統的な作家態度と考えられてきたものでもある。そして、そういう正統的な作家態度が崩れっかり、それによってはすぐれた作品が詠みにくくなっていった時期が平安時代末期におとずれている。それは、和歌史における古代の終焉を意味し、中世の胎動を告げるものであった。
 その中世において、独自の生活に徹することによって、正統的な作歌態度を護持し深めたのが西行という歌人であり、異端的な新しい作家態度をきりひらき確立したのが定家であった。
 「歌詠み」と「歌作り」という語には、このことに関する、定家の自覚があらわれている。また、この語から、定家自身、異端の世界に道を求めねばならなかったことに、自負の念をいだきながらも、正統的な作家態度に深い敬意を払っていたことが、うかがわれる。さて、この、「歌詠み」と「歌作り」というふたつの作歌態度は、西行、定家以後、日本の抒情詩の二大潮流を形成することとなる。
 「歌詠み」的態度は、悪くすると平板な作品を生む結果となるが、西行は、内なる精神をつねに掘り下げていきつつ、心深い作品を詠んだのであった。この態度においては、おおよそつねに、対象への随順があり、作者の心底には、自らを超えるものへの敬虔な思いが存在しているといえよう。
 それに対し、「歌作り」的態度においては、作者が頼みとするものはただ自らの「知恵の力」なのであり、何者にも仕えることのないその心は、孤独なはずである。じつは、定家の詩人としての最大の悲劇は、このような、孤独の境涯と、彼の作品が、ほとんどつねに冷たい感触を持ち、拒絶の表情をみせていることとは、無関係ではあるまい。
 若き日の定家は、この孤独に堪え、刻苦して美を作り出したのであったが、前にも触れたように、やがて暗い時代環境のなかで年老いるとともに、刻苦を支える情熱を失い、その孤独に堪えられなくなっていった。そして、そのとき、歌作は、彼の人生を支えるものとしての力を失っていった。このことは、定家が、その中年以後に作家から離れていった根本的な原因であると思われる。また、それは、彼の詩人としての悲劇でもあった。
こういう定家は、その心の深奥において孤独であったばかりでなく、その歌壇的地位の高さにもかかわらず、周囲から真に共感されることも理解されることも乏しかったのであった。」(安田章生『西行と定家』)


 

12、『更級日記』

【例文】あづま路(ぢ)の道のはてよりも、なほ奥つかたに生ひ出でたる人、いかばかりかはあやしかりけむを、いかに思ひはじめけることにか、世の中に物語といふもののあんなるを、いかで見ばやと思ひつつ、つれづれなるひるま、よひゐなどに、姉、継母(ままはは)などやうの人々の、その物語、かの物語、光源氏(ひかるげんじ)のあるやうなど、ところどころ語るを聞くに、いとどゆかしさまされど、わが思ふままに、そらにいかでかおぼえ語らむ。いみじく心もとなきままに、等身に薬師仏(やくしぼとけ)を造りて、手洗ひなどして、人まにみそかに入りつつ、「京にとくあげたまひて、物語の多くさぶらふなる、あるかぎり見せたまへ」と、身をすてて額(ぬか)をつき祈り申すほどに、十三になる年、のぼらむとて、九月三日かどでして、いまたちといふ所にうつる。
 年ごろあそび馴(な)れつる所を、あらはにこほちちらして、立ちさわぎて、日の入りぎはの、いとすごく霧(き)りわたりたるに、車にのるとて、うち見やりたれば、人まには参りつつ額をつきし薬師仏の立ちたまへるを、見すてたてまつる悲しくて、人知れずうち泣かれぬ。

【訳文】東海道の終点よりも、もっと奥へはいった上総(かずさ)の国(今の千葉県)で育った私は、(人が見たら)どんなにか田舎じみて野暮くさかったことであろうに、どうしてそんなことを思い始めたのであろうか、この世に物語というものがあるということだか、(それを)何とかして見たいものだと思い思いして、することがなく、手持無沙汰な昼間とか、夜の団欒の時などに、姉や継母といったような人達が、何の物語、かんの物語、光源氏がどうしたということなど、断片的に話すのを聞くにつけても、いよいよ物語への興(きょう)が深まったが、(姉や継母だって)私が満足するようには、どうして全部覚えていて話してくれましょうか、そんなことはできない。(それで私は)ひどくもどかしいものだから、自分と同じ背丈に薬師仏を作って、手を清めなどして、人が見ていない時を見計らって、こっそり(薬師仏を祭ってある所に)入り入りしては、「私を早く都に上らせて、物語がたくさんあると聞きますが、あるだけ全部見せて下さい。」と一心不乱になって額を床に擦り付けてお祈りしているうちに、私が十三になる年、(私達一家の者が)いよいよ都に上ろうという訳で、九月三日に門出をして、いまたちという所に移ることになった。
数年このかた遊び慣れてきた所を、外から部屋の内部がまる見えになるほど建具(たてぐ)類を片っ端から取り外して、出立(しゅったつ)の用意のためにいろいろ騒ぎ立てて、日の暮れ際の、たいそう寂しく霧が一面に立ちこめている時に、手車に乗ろうとして家の方を見ると、人が見ていない時にはいつもそのお前に参って礼拝した薬師仏が立っていらっしゃるのを、あとにお残しして都に帰ることが悲しくて、心の中で自然に泣けてしまった。

【解説】1059年以後成立。作者は菅原孝標女(すがわらたかすえのむすめ)。題名は作者が夫の死後、寂しい生活をしている頃、ある夜に一人の甥が訪ねて来てくれたうれしさに、「月も出でて闇にくれたる姨捨(をばすて)に何とて今宵(こよひ)尋(たづ)ね来つらむ」と詠んだ歌から来ているとされます。これは『古今和歌集』の「わが心慰めかねつ更級の姨捨山(をばすてやま)に照る月を見て」という歌を踏まえたものですが、これは元々『大和物語』「をばすて山」に出てくるものです。姨捨山は信濃国(長野県)の更級(さらしな)にあり、信濃の国は夫である橘俊通(たちばなとしみち)が国司になって赴任した地でもあるわけです。
『源氏物語』を読みたくて仕方がない少女時代の心情はまさに文学少女のそれで(菅原孝標女は「文学少女の草分け」とも称されます)、最初の巻から一人っきりで一冊一冊引き出しては読む気持ちは「皇后の位だって比べ物にならない」とまで言っているあたりは微笑ましい限りで、現代人にも容易に理解され、共感されるところでしょう。ちなみに彼女は菅原道真直系6代目で、兄も大学頭(だいがくのかみ)・文章博士(もんじょうはかせ)、母方の伯母さんには『蜻蛉日記』の藤原道綱母(みちつなのはは)、継母は『後拾遺集』の作者で、継母の叔父さんは紫式部の娘と結婚していますから、文学的に恵まれた家系と環境であったと言えそうです。
ちなみに『浜松中納言物語』『夜の寝覚(ねざめ)』も菅原高標女の作ではないかと見られています。
「『夜の寝覚』こそ、取り立てて素晴らしい点もなく、また、どこといって結構だと言うべき所もないのですけれど、初めからただ女主人公一人のことを追って、他に心を向けることもなく、しんみりと趣深く、心を込めて作り出したらしい様子が思いやられて、しみじみとした滅多にない作品です。」(『無名草子』)
「『みつの浜松(浜松中納言物語)』こそ、『寝覚(夜の寝覚)』『狭衣(狭衣物語)』ほどの世間の評判はないようですが、言葉遣い、内容をはじめとして、何事も珍しく、情趣深くも感銘深くもあって、全て物語を作るのだったら、こんな風に想を凝らすべきだと思われるほどのものです。何もかも話の趣向が新鮮で、歌などもよく、主人公中納言の心配りや様子などが理想的で、あの『源氏物語』の薫(かおる)大将と同類と言ってもよく、素晴らしいのです。」(『無名草子』)

【関連】
①「こんな風にふさぎ込んでばかりいるのを母は心配し、私を慰めようと物語などをさがして見せて下さるので、なるほど自然と慰められてゆく。紫のゆかりの物語を見て、その続きを読みたくて仕方がないのだが、人に頼み込むことなどもできず、身辺の者誰もがまだ都に住み慣れない頃のことで、見つけることができない。とても待ち遠しく読みたく思われるままに、「この源氏の物語を一の巻から始めて、皆お見せ下さい」と心の中で祈っていた。親が太秦(うづまさ)寺(広隆寺)に参籠なさる時にも(一緒に付いて行って)他の事とてはなく、ただこの事を仏に申し上げて、お寺を出たらすぐにこの物語を皆読んでしまおうと思ったけれでも、見ることができない。とても残念で嘆かずにはいられなかったが、伯母に当たる人が地方から上京している所に(親が)私を行かせたところ、
「たいそう可愛く成長したことねえ」などと感心し、珍しがって、帰りがけに、
「何を差し上げましょうか。実用的な物ではつまらないでしょう。欲しがっておられるという物をあげましょう」と言って、源氏の五十余巻、櫃(ひつ)に入ったままのを丸ごと、さらに在中将(在原業平のことで、『伊勢物語』を指すと思われる)、とほぎみ、せり河、しらら、あさうづ(いずれも現存しない散佚物語)などという物語の数々を袋いっぱいに入れて、それらをいただいて帰る時の気持ちのうれしさといったら何とも素晴らしかった。
今までは飛び飛びにわずかばかり読んでは、話の筋もよく飲み込めないでもどかしく思っていた源氏物語を、第一巻から始めて、誰にも邪魔されず、一人きりで、几帳(きちょう)の中で横になって、次々と取り出しては読むうれしさは皇后様の位も問題ではない。昼は一日中、夜は目の覚めている限り、灯火を近くともして、源氏物語を読むより他のことは何もしなかったので、自然とその文章が暗唱されたりするのをたいそううれしいことだと思っていると、ある夜、夢にたいそうきれいな僧で、黄色の布地の袈裟(けさ)をかけた僧が出て来て、「(物語にばかり熱中していないで)法華経第五巻を早く習え」と言っているように見えたが、(そんな夢のことを)人にも話さず、また習おうとも心がけず、ただ物語のことばかり思い込んで、「私は今は器量が悪いのだよ。しかし、女盛りになったら、きっと顔立ちもこの上なく美しくなり、髪もすばらしく長くなるだろう。(その時は)きっと光源氏の愛した夕顔や、宇治の大将が愛した浮舟の女君のようにきっとなっているだろう」と思っていたが、(今思うと)まずもって何とも頼りなく、あきれかえったことだった。」(『更級日記』17段「源氏の五十余巻」)

②「高僧などでさえ、自分の前世のことを夢に見るのは、とても難しいというのだが、(私など)全くこう頼りなく、しっかりしない気持ちでいるのに、夢に見ることには、清水寺の礼堂に座っていたら、別当(寺の長官で寺務を統括する僧)と思われる人が出て来て、
「そなたは前世にこのお寺の僧だったのだよ。仏師で、仏をたいそうたくさんお造り申し上げた功徳により、前世の素姓より優って(菅原家の)人間として生まれたのだ。このお堂の東においでになる丈六の仏は、そなたが造ったのである。箔(はく)を貼り付ける途中で亡くなってしまったのだよ」
と言う。そこで私が、
「まあ、大変なこと。それでは私があの仏様に箔をお貼り付け申し上げましょう」
と言うと、
「そなたが亡くなってしまったから、他の人が刷くを貼り付け申し上げ、他の人が開眼供養もしてしまった」 と、このように夢に見て後、清水寺に熱心にお参りし、お仕え申し上げたなら、前世でそのお寺で仏に祈念申したとかいう功によって、自然といいこともあったかもしれない。それなのに何ともしようがなく、お参りし、お仕えすることもなくて、そのままになってしまった。」(『更級日記』39段「前世の夢」)


13、『大鏡』

【例文】先(さい)つ頃(ころ)、雲林院(うりんゐん)の菩提講(ほだいこう)にまうでて侍(はべ)りしかば、例の人よりはこよなう年老い、うたてげなる翁(おきな)二人、嫗(おうな)といきあひて、同じ所に居(ゐ)ぬめり。あはれに、同じやうなるもののさまかなと見はべりしに、これらうち笑ひ、見かはしていふやう、「年ごろ、昔の人にたいめして、いかで世の中の見聞くことをも聞こえあはせむ、このただいまの入道殿下の御有様をも申しあはせばやと思ふに、あはれにうれしくも会ひまうしたるかな。今ぞ心やすく黄泉路(よみじ)もまかるべき。おぼしきこといはぬは、げにぞ腹ふくるる心地しける。かかればこそ、昔の人はものいはまほしくなれば、穴を掘りてはいひ入れはべりけめと覚え侍り。かへすがへすうれしくたいめしたるかな。さてもいくつにかなりたまひぬる」といへば、いま一人の翁、「いくつといふこと、さらに覚えはべらず。ただし、おのれは、故太政大臣貞信公(だいじやうのおとどていしんこう)の、蔵人少将(くらうどのせうしやう)と申しし折の小舎人童(こどねりわらは)、大犬丸(おほいぬまろ)ぞかし。ぬしは、その御時の母后(ははきさき)の宮の御方の召使(めしつかひ)、高名(かうみゃう)の大宅世継(おほやけのよつぎ)とぞいひ侍りしかな。されば、ぬしの御年は、おのれにはこよなくまさりたまへらむかし。みづからが小童(こわらは)にてありし時、ぬしは二十五六はかりの男(をのこ)にてこそはいませしか」といふめれば、世継、「しかしか、さ侍りしことなり。さてもぬしの御名はいかにぞや」といふめれば、「太政大臣殿(だいじゃうだいじんどの)にて元服つかまつりし時、『きむぢが姓(さう)はなにぞ』と仰せられしかば、『夏山となむ申す』と申ししを、やがて、繁樹(しげき)となむつけさせたまへりし」などといふに、いとあさましうなりぬ。
 たれも、すこしよろしき者どもは、見おこせ、居寄りなどしけり。年みそぢばかりなる侍(さぶらひ)めきたる者の、せちに近く寄りて、「いで、いと興あることいふ老者(らうざ)たちかな。さらにこそ信ぜられね」といへば、翁二人見かはしてあざ笑ふ。

【訳文】先ごろわたくし(作者)が雲林院の菩提講に参詣(さんけい)いたしました所、普通の人よりは格別に年老い、異様な感じのする爺さん二人と、婆さん(一人)とが来合わせて、同じ場所に座っていました。本当にまあ、(三人とも)そろいもそろって同じような老人達だなあと(思って)見ておりました所、この老人達は互いに笑いながら顔を見合わせて、さて、そのうちの一人(大宅の世継)が言うことには、「(私は)以前からずっと、昔なじみに会って、何とかして世の中の今まで見たり聞いたりしてきたいろいろな出来事をお互いに話し合い申したいものだ、(また)現在の入道殿下(藤原道長)の御有様などもお互いに話し合い申したいものだと思っていました所、実にうれしいことにも、(こうして)お会い申したものですなあ。(もうこれで年頃の願いもかないましたので)今こそ心残りなくあの世へ行くこともできるでしょう。言いたいと思うことを言わずにいるのは、諺(ことわざ)にもあるように、本当に何かが腹の中に溜まっているような、嫌な気持ちがするものですなあ。それですから古人は、何か言いたくなると、穴を掘ってその中に言い入れたのだろうと思われます。(ともあれ)お会い出来たことはくれぐれも嬉(うれ)しいことですなあ。それにしても、(あなたは、一体)いくつにおなりなさいましたか。」と言うと、もう一人の老人が「何歳ということは、一向に覚えておりません。ただし、わたくしは故太政大臣貞信公(藤原忠平)が(まだ)蔵人の少将と申し上げた時分の小舎人童(としてお仕えした)大犬丸ですよ。あなたはその御代(みよ)の帝(みかど)の御母后の御所(ごしょ)の召し使いで、大宅の世継といったあの有名な方でしたなあ。ですから、あなたのお年は、この私よりもずっと上でいらっしゃるでしょうよ。わたくしがまだほんの子供でした時に、あなたはもう二十五、六ぐらいの一人前の男でおいででしたよ。」と言うと、世継は思い出して「そうそう、その通りでした。所で、あなたのお名前は何とおっしゃったでしょうか。」と言うと、「わたしは故太政大臣のお邸(やしき)で元服いたしました時、(貞信公が)お前の姓は何というか。』とおっしゃいましたので、『夏山と申します。』と申し上げると、その名にちなんで繁樹とおつけになりました。」など言うので、(あまりにも古い話なので)すっかり驚いてしまいました。
(参会者の中で)少しは身分もあり教養もある人達は誰もが、(老人達の方に)目を向けたり、近くへいざり寄って来たりしました。(中にも)二十歳(はたち)見当のまだものなれぬ若侍風の者が、ごく近く寄って来て、「いやどうも、たいそう興味深い事をいうご老人達ですなあ。(あなた方のおっしゃっていることは)さっぱり信ぜられませんなあ。」と言うと、老人二人は互いに顔を見合わせて、(お前なんかに分かるもんかという様子で)あざ笑っています。

【解説】1115年以後成立。「大鏡」とは「歴史を明らかに映し出す優れた鏡」という意味で、歴史と物語を融合させた「歴史物語」というジャンルに属します。これは平安時代後期、貴族階級が没落し、物語文学が衰退すると、藤原氏の盛時を憧れ、その反面では摂関政治を批判するという新しい立場に立った文学が生まれてきたことを意味します。
最初に『栄花物語』(「かな文で書かれた最初の歴史物語」、正編は赤染衛門、続編は出羽弁〔でわのべん〕・周防内侍〔すおうのないし〕によると見られています)が登場して、第59代宇多天皇から第73代堀河天皇(~1092年)までの約200年間にわたる貴族社会の歴史を「編年体」(事件の起こった年月日の順に歴史を記録する形式のもので、『春秋左氏伝〔さしでん〕』『資治通鑑〔しじつがん〕』などが代表的です)で物語風に記していますが、藤原道長の栄華を称えることを中心テーマとしていました。ここには「六国史(りっこくし)」(『日本書紀』に始まる6つの正史、いずれも漢文で書かれています)の後を継いで、和文によって新しく国史を記そうとする自負が窺えます。
これに対して、『大鏡』は「紀伝体」(『史記』に始まった内容別に歴史を記述する方式で、帝王の歴史である「本紀」、年表である「表」、法律・暦法・国家儀礼などの「志」、個人の伝記である「列伝」の4項目が標準的内容です。特に本紀と列伝が重要なので、合わせて紀伝体と言います)を採用し、しかもその語り方が今までの物語に全くない「対話体」という独創的な形を作り出しています。そして、同じように道長とその一門の栄華を説きながら、様々な視点から厳しい批判を加えている所に『大鏡』の真骨頂はあると言えるでしょう。叙述対象は第55代文徳天皇から第68代後一条天皇まで(850~1025年)の176年間となっています。
こうした「歴史物語」の伝統は「鏡物(かがみもの)」(「鏡は世の中の姿を映す」の意から「歴史」を指します)として引き継がれ、『今鏡(いまかがみ)』(平安時代末期成立、紀伝体)、『水鏡(みずかがみ)』(鎌倉時代初期成立、編年体)、『増鏡(ますかがみ)』(室町時代前期成立、編年体)がこれに続いて、「四鏡」と呼ばれます(「大今水増〔だいこんすいぞう〕」と覚えます)。

【関連】
①「『源氏物語』を平安女流文学の最高傑作とするならば、『大鏡』は平安男性文学の最高傑作であると、躊躇することなく言えるであろう。『源氏物語』はけっきょく王朝の後宮の世界に渦潮の高鳴る愛欲の経緯を描いたものに外ならない。女性はどのように評価しようと、女性の視座でしか人間の世界を見ることができなかった。そこに『源氏物語』の世界最高の古典としての偉大なる存在ではありながら、ひとつの限界を認めざるを得ないのである。『大鏡』は、男の世界を男が描いている。王朝を生きたトップクラスの政治家たちが政権の座をめざし、あるいは高位高官を狙って、いかに執念を燃やし、いかに手練手管(てれんてくだ)の限りを尽したかの軌跡を、血も滴(したた)るばかりの生鮮な筆で描いているのである。そういう意味で、『大鏡』は、王朝の最高の男性文学であると断言できるとともに、現代の政界・財界・学界を問わず、生きて戦う男性の、その生きざまを示唆するバイブルである、といっても、過言ではないと思う。…
文体的にみても『栄花物語』が平安女流文学の流れを汲むやまとことばの伝統に立つ優雅な女性の文学であるのに対して、『大鏡』は、やまとことばの文学の伝統を生かしつつも、そこに漢文調を加味して、簡潔雄勁(かんけつゆうけい)な表現による新しい男性的文体を創始したものといってよいであろう。」(保坂弘司『大鏡 全現代語訳』)

②「ある年、入道殿下藤原道長公が大井川で船遊びをなされた時に、舟を漢詩の舟、音楽の舟、和歌の舟にお分けになって、それぞれの道に優れている人々をお乗せなさいましたところ、この大納言殿(藤原公任〔きんとう〕、この公任の長男が和泉式部の長女・小式部内侍にやられた定頼です)が参られたので、入道殿下が、「かの大納言は、どの舟にお乗りになるつもりか」と仰せられたので、「和歌の舟に乗りましょう」とおっしゃって、次のようにお詠みになったのだよ。
 をぐら山あらしの風の寒ければもみぢの錦きぬ人ぞなき
(小倉山に吹く山風が寒いので、風に舞い散る紅葉を身に受けて、誰もが錦を着ているように晴れがましく見えることだ。)
 自分から「和歌の舟に」と申し出られた甲斐があって、見事にお詠みになったものです。ところが、ご自身では「漢詩を作る舟に乗ればよかった。そうして、この和歌ぐらいの詩を作っていたら、名声も一段と上がっていただろうに。残念なことをしたなあ。それにしても、道長公が『どの舟にと思うか』と仰せられたので、我ながらつい慢心してしまった」とおっしゃったそうだ。一芸に優れているということさえ難しいことであるのに、このようにどの道にも卓越しておられたというのは、昔にもないことです。」(『大鏡』第2巻「太政大臣頼忠 廉義公」)

③「亡き女院(詮子〔せんし〕、藤原兼家の二女、道長の姉、第64代円融天皇后)の加持祈祷をなさるために、飯室(いいむろ)の権僧正(ごんのそうじょう)が参上なさいましたが、その伴僧(ばんそう)として観相をする者がついてきました。それを女官達が呼んで人相を見てもらいましたが、そのついでに一人が、
「内大臣殿(藤原道隆、兼家の長男、道長の兄)はどんな相でいらっしゃいます」
などと尋ねると、
「実に立派な人相でいらっしゃいます。天下を取る相がおありです。しかし、中宮大夫(ちゅうぐうのだいぶ)殿(道長、兼家の五男)こそ全く素晴らしい相でいらっしゃいます」
と言います。今度は粟田(あわた)殿(道兼、兼家の三男)のことをお問い申すと、
「その方もまた大変立派な人相でいらっしゃいます。大臣になる相がおありです」
と言って、またも、
「ああ、それにしても中宮大夫殿こそ全く素晴らしい相でいらっしゃいます」
と言います。今度は権大納言殿(伊周〔これちか〕、道隆の二男、道長のライバル)のことをお尋ね申すと、
「この方も大変高貴な人相でいらっしゃる。雷(いかづち)の相がおありです」
と申しましたので、
「雷の相とはどんなことかしら」
と尋ねますと、
「一時は大変音高く鳴る―― 一時は権勢を得るが、終わりを全うしないということです。だから、そのお後がどうおなりだろうかと危なっかしくお見受けします。それにひきかえ中宮大夫殿こそ、まことに際限もなくお栄えになる相でいらっしゃいます」
と、他の方のことをお尋ね申す度に、必ずこの入道殿を引き合いに出しておほめ申し上げます。そこで、
「どんなご人相だからというので、こんなにその都度、引き合いに出しておっしゃるんですか」
と言いますと、
「実はこの道では、第一級の人相としては『虎子如度深山峯(こしにょとしんせんぶ)』ということを申していますが、これに少しも違っていらしゃらないので、こう申し上げたわけです。この例えの文句は、虎の子が嶮(けわ)しい山の峰を渡るようだという意味です。道長公のご容貌やお姿は、眼前に生きた毘沙門天王(びしゃもんてんおう)の激しいご威勢を仰ぎ見るようでいらっしゃいます。ご人相がこんなにすばらしいという以上は、どなたよりも勝れていらっしゃるわけです」
と申したといいます。実に素晴らしい観相の名人でしたなあ。この観相が道長公にお当たりにならないことがおありだったでしょうか。いちいち図星ではありませんか。帥殿(そちどの、伊周)が若い頃に内大臣にまですらすらと昇進なさったのを、人相見が「はじめは運勢がよい」とは言ったのでしょう。さっき帥殿を雷と言いましたが、雷は落ちてしまっても再び昇天するのですから、帥殿の場合は雷ではなく、星が地に落ちて隕石(いんせき)となるのに例えるべきですね。隕石こそ落ちたら最後、再び昇ることはありませんもの。」(『大鏡』第5巻 太政大臣道長 上)

④「このように世の中の光明でいらっしゃいます道長公が、一年ばかり逆境が続いて、伊周公の下位で悶々(もんもん)の思いでいらっしゃったのは、まあ、どのように天道様がご照覧になられたからでしょうか。しかし、そういう逆境にありながらも、少しも卑屈になったり、お心をくさらせたりなさったでしょうか。いや、実にしゃんとしたもので、公的な方面での朝廷の政務・儀式だけは、伊周公の下位にある者として身分に応じてふるまわれ、時刻を間違えることなくちゃんとお勤めになられましたが、私的な方面では伊周公にご遠慮申し上げなさることは決してありませんでした。例えば、伊周公が父道隆公の二条邸の南の院で、人々を集めて弓の競射をなさった時に、突然、その場にこの道長公がお出でになられましたので、道隆公は、
「これは思いもかけないこと、いぶかしいことだ」
と驚きなされて、大変鄭重にご機嫌をとっておもてなし申し上げなさいまして、道長公は当時、伊周公より下級の官位でいらっしゃいましたが、競射の順番を先にお立て申し上げて、最初に道長公に射させなさったところ、勝負の結果、伊周公の当たり矢の数が、あと二本だけ道長公にお負けになってしまいました。すると、父の道隆公も、また、お側づきの人々も、
「もう二回だけ、延長戦をおやり下さい」
と言って、決勝を延長戦にもち込みなさいましたので、道長公は不愉快になって来られて、
「それでは延長なさい」
とおっしゃいまして、再びお射なさるにあたって、
「この道長の家門から天皇・后がお立ちになる運勢があるのなら、この矢は的中せよ」
とおっしゃって矢を放ちますと、的中も的中ながら、何と真っ只中に当たったではありませんか、次に伊周公がお射なさったところ、大変気後れがしてお手も震えたせいでしょうか、その矢は的の辺り近くにさえ行かず、とんでもない見当違いの所を射られましたので、見ておられた父の道隆公は顔色も真っ青になってしまいました。代わって、また道長公がお射なさるにあたって、
「この自分が摂政・関白の職につく運命にあるならば、この矢は的中せよ」
とおっしゃって矢を放たれましたところ、先ほどと同じように、的の割れるほど強く的中なされました。こうなっては、道隆公も今まで道長公をちやほやもてなしていらっしゃった興(きょう)も冷め、気まずくなってしまいました。そこで、父の大臣(おとど)道隆公は伊周公に、
「何で射る必要があるか。もう射るな、射るな」
とお止めになって、すっかり座が白けてしまいました。(それで道長公も矢を返して、そのままご退場になりました。これは道長公が左京大夫〔さきょうのだいぶ〕と申し上げていた頃のことです。道長公はこのように弓が大変お上手でした。また、お好きでもいらっしゃったのです。)道長公の予言が今すぐ実現するというわけのものでもありませんが、道長公のご態度やら、おっしゃる言葉やらの強引な調子のために、もう一方の伊周公はつい気後れなさったのでしょう。」(『大鏡』第5巻 太政大臣道長 上)


14、『方丈記』

【例文】ゆく河(かは)の流れは絶えずして、しかも、もとの水にあらず。淀(よど)みに浮(うか)ぶうたかたは、かつ消えかつ結びて、久しくとどまりたる例(ためし)なし。世の中にある人と梄(すみか)と、またかくのごとし。たましきの都のうちに、棟(むね)を並べ、甍(いらか)を争へる、高き、いやしき、人の住ひは、世々をへて尽きせぬものなれど、これをまことかと尋ぬれは、昔ありし家は稀(まれ)なり。或(あるい)は去年(こぞ)焼けて今年作れり。或は大家(おほいへ)亡びて小家(こいへ)となる。住む人もこれに同じ。所も変らず、人も多かれど、いにしへ見し人は、二三十人が中に、わづかにひとりふたりなり。朝(あした)に死に、夕(ゆふべ)に生るるならひ、ただ水の泡にぞ似たりける。しらず、生れ死ぬる人、何方(いづかた)より来たりて、何方へか去る。またしらず、仮の宿り、誰(た)が為(ため)にか心を悩まし、何によりてか目を喜ばしむる。その、主(あるじ)と梄と、無常を争ふさま、いはばあさがほの露に異ならず。或は露落ちて花残れり。残るといへども朝日に枯れぬ。或は花しぼみて露なほ消えず。消えずといへども夕を待つ事なし。

【訳文】遠く行く河の流れは、とぎれることなく続いていて、なおそのうえに、その河の水は、もとの同じ水ではない。その河の水が流れずにとどまっている所に浮かぶ水の泡は、一方では消え、一方では形をなして現れるというありさまで、長い間、同じ状態を続けているという例はない。世の中に存在する人と住居(すまい)とは、やはり同じく、このようなものである。玉を敷いたように美しく、りっぱな都の中で、多くの棟(むね)を並べ、その棟の高さを競争しているかのような、身分の高い人・低い人の住居は、時代時代を経過しながらなくなってしまわないものであるが、その都の中の家々を、なくならないのが本当かと探ってみると、昔あったままの家はきわめて少ないものである。あるものは、去年、火事で焼け、今年造ったものである。あるものは、大きな家が滅んでしまって、その跡が、小さい家となっている。その家々に住む人も、これと同じである。都の中の場所も変わらず、中に住んでいる人も多いけれども、昔逢ったことのある人は、二、三十人のうちに、やっと、一人か二人くらいである。人間というものが、ある者は朝に死ぬかと思うと、ある者は夕方に生まれてくるという、世の常例は、まったく、消えたり、表れたりする水の泡に類似しているのだ。わたしにはわからない、生まれたり死んだりする人は、どちらから来て生まれ、どちらへ死んで去ってゆくのかが。またわからない、無常の世における仮(かり)の住(す)まいというものは、だれのために、心を労して作り、何に基づいて、目に快楽を与えるように飾り立てるのかが。その主人と住居とが、争うように、変遷を続けている様子は、例えてみれば、朝顔の花とその露との関係と同じである。ある時は、露が落ちて、花だけが残っていることもある。残っているにしても、やがて、朝日によって生気を失ってしまうのだ。ある時は、花がしおれて、その花の露はまだ消えないでいることもある。消えないでいるにしても、しばらくの間だけのことで、夕方のくるのを待つこともないのである。

【解説】1212年成立。平安末期の戦乱・動乱、あるいは災害などに末法の世を見て無常を悟り、仏教に救いを求めた人々の中には、俗世を離れることでかえって広く自由に現実を見つめ、優れた文学を生み出した者が多く出ました。歌人の西行(『新古今和歌集』で最も歌が採録されており、柿本人麻呂、山部赤人と共に「歌聖」として高く評価されています)などはその最たる例(鴨長明も西行的生活を思慕し、追随しています)ですが、彼らの文学を「隠者文学」「草庵文学」と呼びます。中世の隠者文学を代表するのが、「三大随筆」のうちの2つである『方丈記』と『徒然草』であるとされます。
 では、中世隠者文学の原点たる西行の歌とエピソードをいくつか見ておきましょう。
「心なき身にもあはれはしられけり鴫(しぎ)立つ沢の秋の夕暮」(寂連の「さびしさはその色としもなかりけりまき立つ山の秋の夕暮」、藤原定家の「見渡せば花ももみぢもなかりけり浦の苫屋〔とまや〕の秋の夕暮」と共に、『新古今和歌集』中の「三夕〔さんせき〕の歌」として知られています。)
「願はくは花の下にて春死なむその如月(きさらぎ)の望月(もちづき)の頃」(『山家〔さんか〕集』)
「西行法師が陸奥(みちのく)の方へ修行の旅をしていた時、『千載集』(第7番目の勅撰集で、後白河上皇の院宣により藤原俊成撰述。ちなみに『新古今和歌集』は第8番目の勅撰集〔ここまでを八代集と呼びます〕で、俊成の子の定家らが撰述しています)が撰進されると聞いて、(その集の様子が)知りたくてわざわざ都に向かったところ、知人にばったり出会った。(西行は)この集のことなどを尋ね聞いて、「私が詠んだ、
鴫たつ沢の秋の夕ぐれ(鴫が飛び立つ沢辺の秋の夕暮れよ)
という歌は入集しましたか」と尋ねたところ、(その知人は)「いいえ、入集していません」と言ったので、「それでは上京して何になろうか」と言って、そのまま(陸奥へ)帰ってしまった。」(『今物語』42「鴫立つ沢」)
 また、上田秋成も『雨月物語』の第一話「白峯(しらみね)」で、讃岐の白峯にある崇徳上皇の御陵を訪れた西行と上皇の亡霊と激しいやり取りをさせていますし、長州の奇兵隊を組織した幕末の志士・高杉晋作も西行を意識して「東行」と号し、「三千世界の烏(からす)を殺し主(ぬし)と朝寝がしてみたい」といった都々逸(どどいつ、民間俗謡)を歌っています。

【関連】
①「中世という時代は、旧(ふる)い王朝の秩序や、生活、思考の一定の型がくずれてしまい、さらばといってこれといった新しい秩序や型が未だ形となってはいないというところから出発している。そしてやがて確固とした中世独特の文化の様式をつくりあげた。・・・
法然、親鸞、道元、一遍、日蓮等の開いたいわゆる鎌倉の新仏教は、今日において一層切実に考えて見るべき内容と形をもっている。能や茶もまたそうである。中世の建築、絵画、書、また庭園、みなそうである。いや、日本独特の文化の非常に大きい部分はいわば中世的といってよい。」(唐木順三『中世から近世へ』)

②「一方では絶望的な貴族世界のほろびゆく姿を、えぐりだすようにきびしく追求しながら、同時にそのような世界に花咲いた貴族文化に、かぎりないなつかしみとあこがれとを持ちつづけたのである。このような矛盾を矛盾として自覚しながら、どうすることもできないところで、『方丈記』はおわっている。」(永積安明『日本文学の古典』)
③「我々は同じ流れに入ると共に、同じ流れに入らず、同じ流れの中にあると共に、同じ流れの中にない。なぜなら、我々は同じ流れに再び入ることができず、流れは絶えず散ってはまた集まり、むしろ同時に流れ来たり、流れ去るからである。」(ヘラクレイトス)


15、『平家物語』

【例文】祇園精舎(ぎをんしゃうじゃ)の鐘の声、諸行無常の響きあり。沙羅双樹(しゃらさうじゅ)の花の色、盛者必衰(じゃうしゃひっすい)の理(ことわり)をあらはす。おごれる人も久しからず、ただ春の夜(よ)の夢のごとし。たけき者もつひにはほろびぬ。ひとえに風の前の塵(ちり)に同じ。遠く異朝をとぶらへば、秦の趙高(てうかう)、漢の王莽(わうまう)、梁の朱异(しゅい)、唐の禄山(ろくさん)、これらはみな旧主先皇(せんくわう)の政(まつりごと)にもしたがはず、楽しみをきはめ、諫(いさ)めをも思ひいれず、天下(てんが)の乱れむことをさとらずして、民間の愁ふるところを知らざりしかば、久しからずして、亡じにし者どもなり。近く本朝をうかがふに、承平(しょうへい)の将門(まさかど)、天慶(てんぎゃう)の純友(すみとも)、康和(かうわ)の義親(ぎしん)、平治の信頼(しんらい)、これらはおごれる心もたけき事も、みなとりどりにこそありしかども、まぢかくは六波羅(ろくはら)の入道前太政大臣(さきのだいじゃうだいじん)平朝臣(たひらのあそん)清盛公と申しし人の有様、伝へ承るこそ心も詞(ことば)も及ばれね。

【訳文】祇園精舎という寺の鐘の音には「諸行無常」(万物は絶えず変化してゆく)という道理を示す響きがあり、沙羅双樹の花の色は、「盛んな者は必ず衰える。」という理法を表している。(この鐘の声や花の色が示す通り)驕りたかぶっている者も、久しくその地位を保つことができない。それはちょうど、(覚めやすい)春の夜の夢のようである。勢いの盛んな者も、結局は滅びてしまう。それは全く、(たちまち吹き飛ばされてしまう)風前の塵のようなものである。遠く中国の例を考えてみると、秦の趙高、漢の王莽、梁の朱异、唐の安禄山といった人々は、皆、元の君主や前の皇帝に統治にも従わず、栄華の限りを尽くし、人の忠言をも深く考えることなく、世の中の乱れることにも気づかず、人民が何に苦しみ嘆いているかということにも無関心だったので、長続きせずに滅びてしまった人達である。また近く我が国の例を見ると、承平年間の平将門、天慶年間の藤原住友、康和年間の源義親、平治の乱における藤原信頼、これらの人々は、その勇猛な心も、驕りたかぶった行いも、皆それぞれ一通りではなかったけれども、最近の例としては、六波羅の入道、すなわち前太政大臣平朝臣清盛公と申し上げた方の驕りを極めた有様は、噂に承る所によると、心に想像することも、言葉でいい表すことも、到底出来るものではない。

【解説】1219年以後成立。中世初期には、度々の戦乱の後に語り伝えられた英雄物語などが記録され、新しく「軍記物語」と呼ばれるものが誕生しています。これは「歴史物語」の流れを汲み、「説話文学」の影響を受けていますが、史実に基づいて合戦を素材とし、貴族と武士との交替の時代を背景として、独自の光芒を放っています。鎌倉時代初期に保元(ほうげん)の乱・平治(へいじ)の乱を題材にした『保元物語』『平治物語』を経て、『平家物語』で軍記物語は完成し、その後、室町時代には『源平盛衰記』や『太平記』などが現われて、能、『御伽草子』、浄瑠璃(じょうるり)、歌舞伎(かぶき)、読本(よみほん)などにもその影響は及んでいます。
 『平家物語』は琵琶(びわ)法師の琵琶の伴奏によって語られ、これを「平曲(へいきょく)」(平家琵琶)と言いますが、漢語、和語、仏教語、俗語などを交えた和漢混交文(かなの和文体に漢語や漢文訓読体、俗語などが交じった文体。『今昔物語』で完成し、中世の軍記物語で最も典型的に用いられました)で流麗明快な文体となっており、「中世を代表する国民的叙事詩」と位置づけられています。冒頭に示された諸行無常・盛者必衰(じょうしゃひっすい)・因果応報の仏教的道理は、日本的感性の中に取り込まれ、今も息づいていると言えるでしょう。

【関連】
①「後鳥羽院の御時(1183~1221年)のことである。信濃前司行長(しなののぜんじゆきなが)は博学の評判が高かったが、楽府(がふ、漢詩の一形式ですが、特に『白氏文集』三・四所収の「新楽府」五十首を指します)の御論議の人数に召されて、その席で「七徳(しちとく)の舞」(『白氏文集』三の「新楽府」冒頭の詩で、唐の宮廷で行われた舞楽の「七徳の舞」に触れ、武の徳目を七種列挙しています)のうちの二つを忘れたので、「五徳(ごとく)の冠者(かじゃ)」というあだ名が付いたのを情けないことに思って、学問を捨てて遁世(とんせい)してしまった。慈鎮(じちん)和尚(慈円、彼の書いた『愚管抄』は北畠親房の『神皇正統記』、新井白石の『読史余論』と共に、「日本の三大史論書」と言われています)が一芸ある者を下僕に至るまで召し抱えて、可愛がっておいでだったので、この信濃入道となった行長も保護しておやりになったのである。 この行長入道は、『平家物語』を作って、生仏(しょうぶつ)という目が見えない人にそれを教えて語らせた。その場所が比叡山だったので、延暦寺のことを特別に書いたのである。九郎判官(くろうほうがん、源義経)のことは詳しく知っていたので、物語に書き込んでいる。しかし、蒲冠者(かばのかんじゃ、源範頼)のことはよく知らなかったのか、多くの事実を書き洩らした。武士のことや武芸のことは、生仏が東国の者だったので、彼が武士に尋ね、聞き得たことを行長入道に書かせた。その生仏の生まれつきの発音を、今の琵琶法師は真似て語っているのである。」(『徒然草』第226段「後鳥羽院の御時」)

②「「平家」は、曖昧(あいまい)な感慨を知らぬとは言うまい。だが、どんな種類の述懐も、行きついて、空しくなる所は一つだ。無常な人間と常住の自然とのはっきりした出会いに行きつく。これを「平家」ほど、大きな、鋭い形で現わした文学は後にも先にもあるまい。これは「平家」によって守られた整然たる秩序だったとさえ言えよう。また其処(そこ)に、日本人なら誰でも身体で知っていた、深い安堵(あんど)があると言えよう。それこそまさしく聞くものを、新しい生活に誘う「平家」の力だったのではあるまいか。「平家」の命の長さの秘密は、その辺りにあるのではあるまいか。」(小林秀雄『考へるヒント』)

③「もちろん『平家物語』は、平家一族が興隆し、やがて西海(さいかい)に沈むまでの平家史である。どこを採っても美しいのだが、特に没落にさしかかってからの美しさは、文字通り落日の美である。一ノ谷、屋島、壇の浦の緒合戦は、義経の登場もあって、ひとしお華麗であって、絵巻物になる。ところで勝ったほうの源氏には、これに匹敵する物語があるであろうか。
源氏は源氏でも『源氏物語』は、紫式部が書いた平安貴族の生活を種にしたロマンであって、源氏と平家にはまったく関係がない。
『源平盛衰記(げんぺいせいすいき)』もあるが、これは『平家物語』をさまざまな資料や記録で増補したものであって、『平家物語』の異本の一つと言っても差支えないのである。したがって、内容も『平家物語』とほぼ同じであり、『源平盛衰記』とは言うけれども、源氏の興隆は書いてあっても、源氏の衰亡については触れるところがない。内容に即していえば、これは『平家盛衰記』なのである。
平家があれほど美しく亡びたのに、源氏の亡び方には、まったく絵巻物的な美しさがない。そこには陰惨な権力闘争と粛清があるのみである。
建武の中興(一三三四年)まで鎌倉幕府の将軍は九代あるのだが、たいていの人は、将軍は三代の実朝(さねとも)で終わったぐらいに思っている。まことに将軍の影が薄いのである。私はここに、清盛と頼朝の性格の差を見るような気がするのだ。」(渡部昇一『日本史から見た日本人・鎌倉編 「日本型」行動原理の確立』)


16、『十六夜日記』

【例文】昔、かべの中より求め出でたりけむ書(ふみ)の名をば、今の世の人の子は、夢ばかりも、身の上のこととは知らざりけりな。水茎(みづくき)の岡の葛葉(くずは)、かへすがへすも書きおく跡たしかなれども、かひなきものは親のいさめなりけり。また、賢王の人をすて給はぬ政(まつりごと)にももれ、忠臣の世を思ふなさけにも捨てらるるものは、数ならぬ身ひとつなりけりと思ひ知りなば、また、さてしもあらで、なほこのうれへこそ、やるかたな悲しけれ。
 さらに思ひつづくれば、やまと歌の道は、ただ、まこと少なく、あだなるすさみばかりと思ふ人もやあらむ。日の本の国に、天の岩戸ひらけし時より、四方(よも)の神たちの神楽(かぐら)の言葉をはじめて、世を治め、物をやはらぐるなかだちとなりにけるとぞ、この道の聖(ひじり)たちは記しおかれたりける。
 さてもまた、集を選ぶ人はためし多かれども、ふたたび勅をうけて、代々(よよ)に聞えあげたる家は、たぐひなほありがたくやありけむ。その跡にしもたづさはりて、三人(みたり)のをのこ子ども、ももちの歌のふるほぐどもを、いかる縁(え)にかありけむ、あづかりもたることあれど、「道を助けよ。子をはぐくめ。後の世をとへ」とて、深き契(ちぎ)りを結びおかれし細川の流れも、故なくせきとどめられしかば、跡とふ法(のり)のともし火も、道を守り家を助けむ親子の命も、もろともに消えをあらそふ年月を経て、あやふく心ぼそきながら、何として、つれなく今日までながらふらむ。惜しからぬ身ひとつは、やすく思ひ捨つれども、子を思ふ心の闇は、なほ忍びがたく、道をかへりみる恨みは、やらむかたなくて、さてもなほ、東(あづま)の亀の鑑(かがみ)にうつさば、くもらぬ影もやあらはるると、せめて思ひあまりて、よろづのはばかりを忘れ、身をえうなきものになしはてて、ゆくりもなく、いさよふ月にさそはれ出でなむとぞ、思ひなりぬる。
 さりとて文屋康秀(ぶんやのやすひで)がさそふにもあらず、住むべき国もとむるにもあらず。頃はみ冬たつ初めの空なれば、降りみ降らずみ、時雨もたえず、嵐にきほふ木の葉さへ、涙とともに乱れ散りつつ、事にふれて心細悲しけれど、人やりならぬ。道なれば、行き憂(う)しとても、とどまるべきにもあらで、何となく急ぎ立ちぬ。

【訳文】昔、壁の中から探し出したという書物(『考経』)の名を、現代の人の子は、全然まあ、わが身に関係したこととは知らなかったのだ。亡夫が遺子らにあてて、繰り返し書き残した筆の跡はたしかなのだけれど、思えば、甲斐のないものは親のいさめなのだった。また、賢王が有為(ゆうい)の人を無視なさらぬ善政にさえ漏れ、忠臣が世を重んずる真情にさえ捨てられるというのは、数にも入らぬ我が身ひとつの拙(つたな)さ故だったと悟ってしまえばともかく、またそうとばかりもゆかずに、やはりこの悩みこそはやり場もなく、悲しいことではある。
 さらに思い続けると、和歌の道はただ真情が少なく、浅はかな戯ればかりと思う人もあるかもしれない。そもそも和歌は、日本の国に天の岩戸が開かれて以来、四方の神々の神楽の言葉を始めとして、世を治め、人々の間を平和にする媒介者になったのだと、この道の大家達は書物に記し置かれている。
 それにしても、和歌の集を選び集める人は例が多いけれど、一人で二回も勅命を受けて代々に撰進した家(『新古今和歌集』『新勅撰和歌集』の藤原定家と『続後撰〔しょくごせん〕和歌集』『続古今和歌集』の藤原為家の父子)はやはり例がないと言ってよいだろう。その跡を真っ直ぐ受け継いで、三人の男の子達が数多くの歌書や詠草(えいそう)類を、どんな深い縁によるのか、預かり持ってきたのだけれど、亡夫(為家)が私に「歌道を振興せよ、子女を養育せよ、我が後世(ごせ)を弔え」といって、深い約束の下に遺産とされた細川の庄を理由なく(異腹の長兄為氏に)横領されてしまったので、亡夫の法要も思うようにできず、歌道を守り、家を興す我ら親子の生活も、不安な年月を過ごして、危うく心細い中にどうしてこうもさりげなく、今日まで生きながらえて来られたのだろう。どうなろうと惜しくもない我が身一つは簡単に諦めもするけれど、子を思う親心としてはやはり耐えられないし、歌道に対する心配はどうにも晴らしようがなくて、そうとならばやはり、鎌倉幕府に訴えて裁判をしてもらったなら、理非曲直も明らかになりはしないかと思いつめた挙句、そう決心して万事の遠慮を忘れ、我が身はすでに無用のものと諦めて、図らずもいさよう月(「いさよふ」は「ためらってなかなか進まない」の意で、「十六夜〔いざよい〕の月」に重ねられています)に誘われて、旅に出ようと思うようになってしまった。
 そうかといって、小野小町を文屋康秀(ふんやのやすひで)が誘ったように、誰かが誘うわけでもなく、在原業平のように東国に住むべき国を探すためでもない。時期は冬になり始めの十月の空なので、降ったり降らなかったり、時雨も絶えないし、荒い風に競う木の葉までも乱れ散っては、私の涙と同じ気がして、一事が万事、心細く悲しいけれど、人に頼める旅ではないので、行きづらいとはいっても留まるわけにもいかず、訳もなく準備に励んだ。

【解説】1280年成立。夫藤原為家(ためいえ)が後妻である阿仏尼(あぶつに)の子・為相(ためすけ)に譲った細川の庄(しょう)を、先妻の子・為氏が和歌所(わかどころ)の所領として譲らないので、阿仏尼が訴訟のために鎌倉に下った際の道中及び鎌倉滞在日記です。鎌倉時代には旅日記(紀行)が流行しますが、これは政治の中心が京都と鎌倉とに分かれ、その往来が激しくなったためです。代表的な紀行文としては、男性のものとして『海道記(かいどうき)』『東関(とうかん)紀行』、女性のものとしてこの『十六夜日記』が挙げられます。
 ちなみにこの事件をきっかけに歌道は、為氏の二条家、為教(ためのり)の京極家、為相の冷泉(れいぜい)家の三家に分裂します。二条家は伝統和歌の流れを汲み、『菟玖波集』(連歌発生期から室町期までの連歌を集大成)の二条良基(よしもと)や『新撰菟玖波集』の宗祇(そうぎ、「古今伝授」の相伝者でもあります)などもこの流れにあります。京極家は新風・清新の歌風であり、冷泉家からは今川了俊(足利義満時代の九州探題で、室町時代を代表する文化人の一人でした)や心敬(しんけい、連歌論『ささめごと』で知られています)などが出ています。
 また、阿仏尼は歌論書として『夜の鶴』も著していますが、初心者向けの和歌指南書として次のような内容を記しています。これらは現代の作歌論としても十分通ずるところでしょう。
「歌の道を得た人の書物を読むべきこと」
「題の心を会得すべきこと」
「題の心を古典・故事によそえて詠むこと」
「歌を案ずるには下の句(七七の句)より上の句(第二句→初句五文字)に及ぶべきこと」
「本歌取りの仕方に名人と凡人の区別が格別に見えること」
「初心者が古語を好んで詠んではならないこと」
「当代歌人の句をむやみに真似てはならないこと」
「歌には時代的変化(流行)と共に不易なるものがあること」
「歌道も仏道も共通していること」
「歌は情を先とすべきこと」
「歌における作りごとは詠み方によること」
「歌題への寄せ方を工夫すること」
「主観的な表現をむやみにしないこと」
「『古今集』の歌を暗記して本歌にもするのがよいこと」

【関連】
①「侍従為相(ためすけ)の君のもとから、今回五十首の歌を詠みましたといって、清書もろくろくしないまま送ってよこされたが、歌も大変うまくなったものだ。五十首のうち、十八首に点をつけたが、それもおかしなことで、親の欲目というものだろう。その中に、
心のみへだてずとても旅ごろも山路かさなるをちのしら雲
(旅に出た人と心だけは隔てないとしても、身は幾重の山のはるか彼方の白雲のように遠くなってしまった。) とある歌を見ると、旅先にある母の私を思って詠まれたに違いないと、つくづく思いやられてあわれなので、その歌のわきに小さい文字で返歌を書き添えてやる。
恋ひしのぶ心やたぐふ朝夕にゆきてはかへるをちのしら雲
(朝夕に行っては帰る遠い空の白雲は、あなたを恋い思う私の心にたとえられるかしら。)
また、同じく旅の題で、
かりそめの草の枕の夜(よ)な夜なをおもひやるにも袖ぞ露けき
(かりそめの旅に出た人の寂しい夜々を思いやるにつけても、私の袖は涙で濡れてしまう。)
とある所にも、また返歌を書き加えた。
秋ふかき草の枕にわれぞなくふりすててこし鈴虫のねを
(秋深い草むらに鈴虫が鳴いているが、子どもを振り捨てて旅に出た私こそ泣く外はない。)
また、この五十首の歌の奥の余白に批評の言葉を書き添える。大体の歌の詠み方などを記し付けて、その奥に亡き人々の歌を掲げ、そして最後に、
これを見ばいかばかりかと思ひつる人にかはりてねこそなかるれ
(亡き父上がこの五十首を見たら、どんなに喜ぶことかと思いましたが、その人に代わって私は声を立てて泣かずにいられません。)」(『十六夜日記』「をちのしら雲」)

②「また、予期もしない事柄で、時も移さず詠み出した歌への返事とか、折り返し詠み出す歌は、現在、たった今、言いたいことを形よく続けましたならば、どんな風情にもまして結構なことであります。小式部内侍(こしきぶのないし)が定頼(さだより)中納言を引き止めて、「まだふみもみず天の橋立」と申したことや、周防内侍(すおうのないし)が忠家大納言と「かひなくたたむ名こそ惜しけれ」と詠み交わした機敏さ(月の明るい夜、人々が物語がしていた時、「枕があればよいのに」といった周防内侍に対して、手枕の腕を貸そうとした藤原忠家〔阿仏尼の亡夫・為家はその5代目に当る〕に対して、「春の夜〔よ〕の夢ばかりなる手枕〔たまくら〕にかひなく立たむ名こそ惜しけれ」と即座に返したことを指します。ちなみに忠家も直ちに「契りありて春の夜深き手枕をいかがかひなき夢になすべき」〔縁あって手枕を貸すので、絶対にこれきりにしませんよ〕と応酬しています)などは、凡人の才覚によって、歌道に熟練した位が表われたのでありますから、昔今の区別を申す必要もございません。私など、今はこうした谷の朽ち木同然の身になってしまいましても、そうした優雅な人々さえおりますならば、何で咄嗟(とっさ)に歌を詠んでお相手をすることもなくて済ませましょうかと思われて、その当時の人々がうらやましく思われてなりません。」(『夜の鶴』~初心者向けの指南書でありながら、最後の最後についつい、このような「歌を詠む楽しさ、おもしろさは即詠にある」という作歌に熟練した上でないと不可能な論が飛び出し、思いは我が身に集中して、「ああ、私の周囲にもそのような優雅な人がいたならば」と羨望のため息をついてそのまま筆を置くという、阿仏尼の息づかいがそのまま伝わるような結末になっています。)


17、『徒然草』

【例文】つれづれなるままに、日ぐらし硯(すずり)にむかひて、心にうつりゆくよしなしごとを、そこはかとなく書きつくれば、あやしうこそものぐるほしけれ。

【訳文】することもなく退屈で心寂しいのにまかせて、一日中、硯に向かって、次から次へと心に浮かんでは消えて行くくだらないことを、とりとめもなく書きつけてみると、(自分ながら)実に変で、気ちがいじみている様な気がする。

【解説】1331年成立。作者は吉田兼好(和歌を藤原為氏の長子・二条為世に学び、「和歌四天王」の一人と称されました。天皇側近に奉仕して「有職故実〔ゆうそくこじつ〕」の知識も得ています)。儒教、仏教、道教のいずれにも通じた知識人・教養人が、人生体験や学問から得たものをベースに、無常観を根底に置きつつ処世訓、人生論、美意識など、多方面にわたるテーマを論じていて、含蓄ある随筆となっています。例えば、「一芸を極めた者は諸芸に通じる」といった観点などは、有名な能の書『花伝書(風姿花伝)』(観阿弥口述、世阿弥筆記・編集。芸術論としてだけでなく、教育論・人生論としても高く評価されています)にも通じるものでしょう。

【関連】
①「『徒然草』の内容は複雑多面で、『方丈記』のように一本道ではない。複雑な人生そのもののように、多角多面である。しかもそこにじっとりとたたえた内省的な深みが懐かしい。論理的には矛盾があり、撞着(どうちゃく)があるが、それを何とかしてりくつでわり切ろうとするのは『徒然草』を真に観賞する所以(ゆえん)ではない。感覚が鋭く感情がゆたかならば、人生に対する理解も自然ふかく、かたよらない洞察を示すのである。・・・そうしたきめのこまかい人生観照こそ・・・モンテーニュの『エッセイ』に比せられるような、厚味と幅をもった人生批評家たらしめたのである。」(吉田精一『随筆入門』)

②「ある人が弓を射ることを習う場合に、二本の矢を手に持って的に向かった。すると、その師匠が「初歩の人は二本の矢を持ってはいけない。後の矢を頼みにして、初めの矢をおろそかにする心が起こる。射る度にただもう、この矢で失敗してもまだ次の矢で当てることができようなどという心を持たないで、この一本の矢で成否を決めようと思え」と言う。(このことを考えてみるに)たった二本の矢で、しかも師匠の前で射るのに、その一本をおろそかにしようなどと誰が思おうか(誰もそんなことを思いはしない)。しかし、緩んだ心は自分ではそれを意識しなくても(ふと起こるものであって)、師匠はそれを見抜いているのである。この弓についての戒めは(弓の場合だけにとどまらず)全ての場合に当てはまるだろう。様々な道を学ぶ人は、夕方にはまた明朝があることを思い、朝になればまた、その日の夕方があることを思って、(今はいい加減にしておいても)後でもう一度丁寧に学ぼうと次回を当てにする。(このように一朝とか一晩とかいうかなり長い時間でさえ、自分の緩んだ心に気がつかないものであるから、)ましてわずか一瞬間の中に緩んだ心の起こっていることに気がつく者がいるだろうか(誰も気がつかないであろう)。(一体、人間というものは、物事をしようとするに当って)たった今の一瞬間から始めて実行するということが、何とまあ難しいことよ。」(『徒然草』第92段)

③「木登りの名人と評判されていた男が、人を指図して高い木に登らせて枝を切らせた時に、(高い所にいて)たいそう危なっかしく見えていた時には何も言わないで、下りる時に軒の高さぐらいの所になってから、「やり損なうな。用心して下りろよ」と言葉をかけましたので、(私がそばから)「もうこれぐらいの高さになったからには、飛び降りたって下りることは出来るだろう。どうして(今頃になって)そんなことを言うのか」と申しました。すると、その男は「さあ、そこでございます。高くて目がくらくらし、枝が折れそうで危ない間は、本人自身が恐れて用心していますから、(私からは)注意をしてやりません。過失というものは必ず、もう安心だと思う所になってからしでかすものです」と答えた。(木登りなんかという)賎しい、身分の低い者ではあるが、(この言葉は)聖人の教訓に一致している。蹴鞠(けまり)の場合も同様で、蹴りにくいところをうまく蹴った後、もう安心だと思うと、必ず蹴り損なって鞠が落ちるものだと(その道の人々が)言っているとか言います。」(『徒然草』第109段)

④「双六(すごろく)の名人と(世間の人が)言った人に、その(勝つ)方法を尋ねましたところ、「勝とうと思って打たないのがよい。負けまいと思って打つのがよいのだ。どの手が早く負けてしまうだろうかと考えて、その手を使わないで、たとえ一目(いちもく)でも遅く負けるだろうと思われる手に従うのがよい」と言う。(これは)その芸道(の道理)をよく知っている教訓であって、一身の行いを正しくし、一国を治め、保っていく方法もまたこの通りである。」(『徒然草』第110段)


18、『奥の細道』

【例文】月日は百代(はくたい)の過客にして、行きかふ年もまた旅人なり。舟の上に生涯を浮かべ、馬の口とらへて老いを迎ふる者は、日々旅にして旅をすみかとす。古人も多く旅に死せるあり。予もいづれの年よりか、片雲の風に誘はれて、漂泊の思ひやまず、海浜にさすらへ、去年(こぞ)の秋、江上の破屋に蜘蛛(くも)の古巣を払ひて、やや年も暮れ、春立てる霞(かすみ)の空に、白河(しらかは)の関越えんと、そぞろ神の物につきて心を狂はせ、道祖神の招きにあひて、取るもの手につかず、ももひきの破れをつづり、笠の緒つけ替へて、三里に炙(きう)すうるより、松島の月まづ心にかかりて、住める方は人に譲り、杉風(さんぷう)が別墅(べっしょ)に移るに、
 草の戸も住み替はる代ぞ雛(ひな)の家
表八句を庵(いほり)の柱に掛け置く。
 弥生(やよひ)も末の七日、あけぼのの空朧々(ろうろう)として、月は有明にて光をさまれるものから、富士の峰かすかに見えて、上野・谷中(やなか)の花の梢(こずゑ)、またいつかはと心細し。むつまじきかぎりは宵より集ひて、舟に乗りて送る。千住(せんぢゅ)といふ所にて舟をあがれば、前途三千里の思ひ胸にふさがりて、幻のちまたに離別の涙をそそぐ。
 行く春や鳥啼(な)き魚の目は涙
これを矢立てのはじめとして、行く道なほ進まず。人々は途中に立ち並びて、うしろ影の見ゆるまではと見送るなるべし。

【訳文】月日は永遠に旅を続けて行く旅人であり、毎年来ては去り、去っては来る年も同じく旅人である。舟の上で波に浮かんで一生を送る船頭や、馬の轡(くつわ)を取って街道で老年を迎える馬子(まご)などは、毎日旅に身を置いていて、旅そのものを自分の住処(すみか)としている。風雅を愛した昔の人々の中にも、数多く旅中に死んだ人がいる。私もいつの年からか、ちぎれ雲が風に吹かれて大空を漂うのを見るにつけ、旅に出てさまよい歩きたいという願望がしきりに起こり、海辺の地方をあちらこちら放浪し、去年の秋、隅田川のほとりのあばら家に帰り、蜘蛛の古巣を払いのけて住んでいるうちに、しだいに年も暮れて新春を迎えると、春霞の立ちこめている空を見るにつけ、今度は白河の関を越えて遠い陸奥(みちのく)まで旅をしようと心が落ち着かず、そぞろ神が自分の中にある詩的精神に乗り移って、心が狂ったようになり、また道祖神が旅に出て来いと招いているような気がして、何事も落ち着いてはできず、股引(ももひき)の破れをつくろい、笠の緒(お)を新しく付けかえ、三里に灸(きゅう)をすえるなど、旅の支度にとりかかるとすぐに、松島の月のことが何より第一に心配になるといった有様で、これまで住んでいた草庵は人に譲り渡し、杉風の別宅に移り住むに際して、
 世捨人として一人で住んでいたこの草庵にも、住人の変わるべき時節がやって来た。折から雛祭(ひなまつり)の頃であるので、自分の住んでいた頃とは異なり、雛を飾った家になることであろう。
という一句を詠み、この句を発句として表八句を作り、草庵の柱に懸けて置いた。
 三月もおしつまった二十七日、夜明け方の空はおぼろにかすんで、折から月は有明月で光は薄らいではいるものの、遠くには富士の峰がかすかに見え、近くには上野・谷中の森が望まれるが、あの桜の花の梢(こずえ)をいつの日にふたたびながめることができるだろうかと、心細い気がする。親しい人々だけは、前の晩から集まって、舟に一緒に乗って今日の門出を見送ってくれる。千住という所で舟から上がると、いよいよこれから遠い異郷へ三千里もの長い旅に行くのだなあという感慨が胸いっぱいに広がり、この世は幻のようにはかないものだと承知はしながらも、こうして別れ道に立つと、やはり別れを惜しんで涙を流すのであった。
 今や春が過ぎ行こうとしていて、本当に名残り惜しいことであるよ。行く春との別れを惜しんで、鳥は悲しげに鳴き、魚の目は涙で曇っていることだ。
この句を旅日記の書き始めとして、旅路の第一歩を踏み出したのだが、後ろ髪を引かれる思いがして、道はいっこうにはかどらない。人々は道中(みちなか)に立ち並んでいるが、我々の後ろ姿が見えている間は見送ろうと、見送ってくれているのであろう。

【解説】1694年成立。作者は松尾芭蕉で「俳聖」と称されます。上代の歌謡、中古の和歌、中世の連歌の流れを受けて、近世では俳諧が誕生しますが、特に芭蕉が確立した俳諧のスタイルを「蕉風」と言います。これは『野ざらし紀行』『笈(おい)の小文(こぶみ)』(『笈の小文』の紀行文論の中で、芭蕉は紀貫之の『土佐日記』、鴨長明の〔と当時は考えられていた〕『東関紀行』『海道記』、阿仏尼の『十六夜日記』を先行紀行文の手本と考えていたことを述べています)などの旅の中で深化され、さらに『奥の細道』の旅で第二の転換期を迎えたとされます。この旅の後に「不易流行(ふえきりゅうこう)」の説(「不変」の「不易」と「変化」の「流行」があり、両者は「風雅の誠」によって統一される)が説かれ、さらに『猿蓑(さるみの)』(「俳諧七部集」のうち最高峰と称され、「俳諧の古今集」と呼ばれます)で蕉風の根本精神とされる「さび」「しをり」の理念が樹立されて、蕉風芸術が完成したと言われています。さらにその後、『炭俵(すみだわら)』では「軽み」へと新しい展開を示しています。

蕉風の特質
内容
さび(根本精神)
静寂の中にひたり、それを超えて、閑雅(かんが)・枯淡(こたん)にまで洗練していく芸術上の美。「わび」同様、自然と一体となった境地で、必ずしも閑寂の句に限らず、華麗・濃艶を詠んでも表現される。
しをり(句の姿)
対象に対する作者の繊細な感情が、余情となってにじみ出る姿。
軽み
「さび」の境地がさらに高められ、対象をさらりと表現しようとする詩情。作者が自然の風物や身の回りの対象に入り込み、その本質に触れて、そのまま句に表われること。
細み(句の心)
作者の繊細・鋭敏な観照の深さによって具現された詩情。

  また、松尾芭蕉が活躍した時代は、「上方文学期」と呼ばれ、元禄年間(1688~1704年)に隆盛を極めたので、当時の文学を「元禄文学」とも言います。代表的文学者は「浮世草子」の井原西鶴(いはらさいかく)、「浄瑠璃(じょうるり)」の近松門左衛門、俳諧の芭蕉です。これに対して、文化・文政期(1804~1829年)は「江戸文学期」と呼ばれ、「読本」で『雨月物語』(上田秋成)や『南総里見八犬伝』(滝沢馬琴)、「滑稽本」で『東海道中膝栗毛』(十返舎一九)などが現われています。
では、芭蕉の俳諧をいくつか見てみましょう。
「山路(やまぢ)来て何やらゆかしすみれ草」(『野ざらし紀行』)
「秋深き隣は何をする人ぞ」(『笈〔おい〕日記』)
「物いへば唇寒し秋の風」(『蕉翁句集』)
「ふる池や蛙(かはづ)飛込む水のおと」(『春の日』)
「夏草や兵(つはもの)どもが夢の跡」(『奥の細道』平泉~奥州藤原氏三代の栄華の跡を見て、「国破れて山河あり、城春にして草青みたり」という杜甫の詩を口ずさんでいます。)
「蚤(のみ)虱(しらみ)馬の尿(しと)する枕もと」(『奥の細道』尿前〔しとまえ〕の関)
「閑(しずか)さや岩にしみ入(いる)蝉(せみ)の声」(『奥の細道』立石寺〔りっしゃくじ、山寺〕)
「五月雨(さみだれ)をあつめて早し最上川」(『奥の細道』最上川)
「荒海や佐渡に横たふ天河(あまのがは)」(『奥の細道』越後路)
「むざんやな甲(かぶと)の下のきりぎりす」(『奥の細道』小松~謡曲『実盛』でも歌われる斎藤実盛が、白髪染めの頭にかぶって奮戦したという兜を見て、昔時をしのんでいます。)
「旅に病(やん)で夢は枯野(かれの)をかけ廻る」(在世中最後の句)
 芭蕉の弟子には、向井去来(むかいきょらい、『猿蓑』を編集)、榎本其角(えのもときかく、弟子筋にやがて与謝蕪村〔よさぶそん〕が現われます)を筆頭に、「蕉門十哲」と呼ばれる人々がいました。芭蕉以後の俳人として見逃せないのは、やはり与謝蕪村と小林一茶〔いっさ〕でしょう
「春の海ひねもすのたりのたりかな」(与謝野蕪村)
「菜の花や月は東に日は西に」(与謝野蕪村)
「さみだれや大河を前に家二軒」(与謝野蕪村)
「やれ打つなはえが手をする足をする」(小林一茶)
「目出度(めでた)さもちう位なりおらが春」(小林一茶)
「雀(すずめ)の子そこのけそこのけお馬が通る」(小林一茶)
「我と来て遊べや親のない雀」(小林一茶)
「やせ蛙(がへる)負けるな一茶これにあり」(小林一茶)
「名月を取ってくれろと泣く子かな」(小林一茶)

【関連】
①「芭蕉はもっぱら「わび」「さび」の詩境を求めたが、それはただ「かれ枝に烏(からす)とまりたるや秋の暮」といった情景に尽きるのではなかった。彼が探求した「寂(さ)び」とは、弟子の去来が語っているように、その背後に華やかなイメージをひそかに暗示する、そのような情感だった。
『去来抄』にいう。
――野明(やめい)曰(いはく)、句のさびはいかなるものにや。去来曰(いはく)、さびは句の色也。閑寂なる句をいふにあらず。たとへば老人の甲冑(かっちう)を帯し、戦場にはたらき、錦繡(きんしう)をかざり御宴に侍(はべ)りても老の姿有るがごとし。賑(にぎ)やかなる句にも、静(しづか)なる句にもあるもの也。今一句をあぐ。
花守(はなもり)や白き頭(かしら)をつき合(あは)せ
先師(芭蕉)曰く、寂色(さびいろ)よく顕(あら)はれ、悦び候と也。
ここで説かれているのは、派手な錦繡(きんしゅう)で身を飾って宴席に侍っても、いや、そうであればあるほど、老いの姿のわびしさは、いっそう滲(にじ)み出てくる、ということである。だから、爛漫(らんまん)たる花の下で、花守の老人が白髪の頭を寄せ合っている情景こそ「寂色がまことによくあらわれている」と芭蕉は言ったのだ。」(森本哲郎『月は東に 蕪村の夢 漱石の幻』)

②「私が『奥の細道』の芭蕉の足跡を尋ねて歩いたのは、まだ敗戦の余燼(よじん)がくすぶっている昭和二十年代の中ごろから後半にかけてである。芭蕉の供をした曽良(そら)の旅日記が戦争中に世に出たが、これを元にして旅の事実を確かめることはまだ十分なされていなかったので、旅日記を頼りにして芭蕉の足跡を実地に見たいと考えた。その結果、旅の事実と『奥の細道』の記述の間に、かなり大きな違いのあるらしいことがわかり、当然その問題についていくつかの論文を書いた。私以外にも、『奥の細道』の虚構の問題として、たくさんの論文が書かれた。
しかし、だんだん考えているうちに、この問題を虚構として扱うだけでなく、もっと根本的に考えるべきであることに気がついた。
旅の事実を事実どおりに書くのが旅行記だが、芭蕉は旅行記を書こうとはしていない。始めから旅行記を書くことなど問題外にしている。旅行記を書くのなら、旅が終わったあとすぐ旅の記憶の鮮やかなうちに書くべきである。ところが『奥の細道』が書かれたのは、旅のあと三、四年もたってからである。旅行記を書くのなら、芭蕉の供をして旅日記を付けていた曽良に書かせてもよかったはずである。「何月何日。朝のうち雨降る。雨中を出立す。昼ごろ雨上がる。何々の宿(しゅく)より一里ばかり、何々といふ名勝の松あり。やがて何々川を渡る。川幅何十間ばかり。岸にて休む」などという旅日記なら曽良のほうが適している。
芭蕉は自分でなければ書けないことを書こうとした。旅の事実を借りて、自分の書きたいことを書こうとした。芭蕉が書きたかったのは何であろうか。芭蕉が胸の中にずっと温めていた風雅の理想図であろう。こんなふうに旅に出て、初めて見る土地、知る人もいない土地を自由に歩き回り、昔から文学にちなみのある歌枕(うたまくら)や名所旧跡を尋ねて古人を偲(しの)んだり、美しい山や海の風光の美に心を浸らせたり、由緒ある神社仏閣に詣(もう)でたり、また思いがけない風雅の人や志のある人に偶会しながら、旅の折々の感動を俳句に詠んだら、どんなによいだろう、それこそが真の風雅であると自分にも言い聞かせ、人にもわかってもらおうと、『奥の細道』を書いたのではないか。
だから旅の主人公は芭蕉だけれども、『奥の細道』の主人公は実在の芭蕉そのままではない。風雅の実践者として願わしい自画像である。実像ではなく、こうもあったらよいだろうなあ、ありたいものだという理想像である。事実としての旅も、風雅の理想図にふさわしいように取捨選択され、改変されている。
風雅の理想図にしては、楽しいことばかりでなく「前途三千里のおもひ胸にふさがりて、幻のちまたに離別の泪(なみだ)をそゝく」とか「持病さへおこりて消え入るばかりになん。…道路に死なん是(こ)れ天の命なりと」とか、離別の悲しみや旅の艱難(かんなん)などが織りこまれているのを不審とする人もあるかもしれない。およそ旅の風雅は旅愁を旨とするもので、既に中世の昔から旅に出て和歌や連歌を詠むときは、まだ旅に出て二、三日しかたっていなくても、都を遠く離れたさびしい心になり、故郷が慕われると作るのが、旅の本意であった。
旅は苦しく、わびしく、さびしいものとして詠むのが日本の旅の美学である。芭蕉が日本文学の伝統に従って旅の艱難を描き、旅のあわれを基調にして『奥の細道』を書いたのは、それが文学の典型だったからである。「思ひかけずかかる所(石巻)にも来(きた)れるかなと宿からんとすれど、更に宿かす人なし。漸(やうやう)まどしき小家に一夜をあかして、明くれば又しらぬ道まよひ行く」のが、風雅の旅の理想図である。
それは曽良の旅日記に見られる旅の事実と大きく違っていて、石巻で宿泊に難渋した形跡はないが、事実のとおりに書いては、旅の風雅の本意にかなわず、理想図にならない。
芭蕉が平生憧れていて、しかし実生活ではかなわなかった風雅の理想図を『奥の細道』は書いているのだと思って読むと、芭蕉の心がわかってきて、感動の抑えがたいものがある。芭蕉が『奥の細道』を書いたのは、「人生五十年」とされていた当時の五十歳のころで、その翌年には没している。老いの衰えを自覚し、死がようやく迫ってきたことを感じながら、生涯かかって築き上げてきた胸中の風雅敵世界を、こんな形で書いて見せたのだと思うと、読みながら時に本を伏せて芭蕉の心境に思いを遣(や)らずにはいられないのである。」(井本農一「虚構のもつ意味」による)

③「十月十二日(陰暦)に死んだ芭蕉の忌日(きじつ)を、時雨忌という。ちょうど時雨が降る季節だからでもあるが、芭蕉と時雨とにたいへん似つかわしいものを感じたからでもあった。
芭蕉一派の俳諧の最高頂は、『猿蓑(さるみの)』という撰集を出したころであった。編者は芭蕉門の去来(きょらい)と凡兆(ぼんちょう)とであるが、芭蕉が後ろだてとなって、たいへん力を入れた集なのである。
この集の巻頭には、時雨を詠んだ俳句が十何句ずらりと並んでいて、巻頭は例の、
初時雨猿も小蓑を欲しげなり  芭蕉
の句である。「猿蓑は新風の始め、時雨はこの集の美目(びもく)」と去来は言っているが、なかでこの句は、『猿蓑』という集の名の由来を示すものであった。
なぜ芭蕉が、時雨という季題にあんなにも愛着を示したのか。その理由をさぐってみると、けっきょく時雨という言葉が、長い歳月のあいだに担わされてきた意味やニュアンスの重さに帰するのである。
九月、十月ごろの時雨の雨は、黄葉を色づかせ、また散らす雨として、万葉集にもたびたび詠まれている。青垣山にかこまれた大和盆地には、山を越えて時雨がたびたび訪れてくる。
時雨とは本来、急にぱらぱらと少時間降ることで、北風が強く吹いて、連峰の山々に当って降雨をもたらした残りの水蒸気が、風に送られて山越えしてくるときに見られる現象である。秋の終りから冬の初めにかけて、いちばん多い。降る範囲は非常に狭く、また盆地に多く、ことに京都のような地形のところにしばしば見られる。時雨は京都の名物と言ってもよく、虚子はわざわざ時雨をたずねて京都へ行き、「時雨をたづねて」という写生文を書いている。洛北大原の寂光院のあたりでいわゆる北山時雨に降られて、喜んだりしているのである。
だから、都が奈良から京都へ移ると、それは京都の歌よみたちには、非常になじみの深い季節現象になった。そして彼等は、繰り返し時雨の情趣を歌に作ってきたのだった。『堀河百首』や『夫木(ふぼく)抄』には、時雨は冬の部に分類されている。
神無月(かんなづき)降りみ降らずみ定めなき時雨ぞ冬のはじめなりける  読み人知らず(後撰集) この歌が、時雨の本情をよく詠み取った名歌として喧伝(けんでん)された。「降りみ降らずみ定めなき」と詠み取ったことから、時雨と言えば、人生の定めなさ、はかなさをあわせて感じとるようになってきた。一首の歌が、感じ方の伝統をつくり、季感を固定させる感じを持ってくるのだ。
音にさへ袂(たもと)をぬらす時雨かな真木の板屋の夜半の寝覚に 源定信(みなもとのさだのぶ)(千載〔せんざい〕集)
べつに名歌として挙げたのではないが、こういうのが、時雨の情趣の定石を踏んだ歌なのである。時雨の音を聞きとめるだけで、袖(そで)や袂を濡らすような哀愁を感じ取っている。また、時雨と言えば音を聞かせることが常套(じょうとう)となって、やたらに「板屋の軒」とか「槇(まき)の板屋」とかに、時雨の音を聞かせたのである。」(山本健吉『ことばの歳時記』)