史料に見る日本と世界の交流

第1章 縄文時代(前1万年~前3世紀)の日本と世界
第2章 弥生時代(前3世紀~3世紀)の日本と世界
第3章 古墳時代(3世紀後半~7世紀)の日本と世界
第4章 奈良時代(8世紀)の日本と世界
第5章 平安時代(8~12世紀)の日本と世界
第6章 鎌倉時代(12~14世紀)の日本と世界
第7章 室町時代(14~15世紀)の日本と世界
第8章 戦国時代(15~16世紀)の日本と世界
第9章 江戸時代(17~19世紀)の日本と世界
第10章 明治時代(19~20世紀初頭)の日本と世界
第11章 戦前時代(20世紀前半)の日本と世界
第12章 戦後時代(20世紀後半~)の日本と世界


第1章 縄文時代(前1万年~前3世紀)の日本と世界

①「周の時、天下太平、越裳(えっしょう、現在のベトナム)白雉(はくち、食べると吉を招き、凶を除くことができる縁起物とされました)を献じ、倭人鬯草(ちょうそう、黒きびで造った神酒に浸す香草で、やはり縁起物とされました)を貢す。」(『論衡〔ろんこう〕』第八巻儒増篇)

②「成王(周王朝第2代天子、紀元前1115~1079年)の時、越常(えっしょう)、雉(きじ)を献じ、倭人、暢(ちょう)を貢す。」(『論衡』第十九巻恢国〔かいこく〕篇)

 縄文倭人が周王朝に貢献したという驚くべき記事です。著者は後漢代の王充(27~永元年間〔89~104年〕)で、『漢書』を書いた班固(32~92年)の先輩に当たります。この記事は後漢代の「合理主義」に基づいて書かれており、「縁起物」である「ベトナムの白雉」も「倭人の鬯草」も「凶を除く能(あた)わず」、周王朝のシンボルであった「鼎(かなえ)」についても「福を致す能わず」として、効き目が無かった(実際には周王朝は滅んでしまった)としています。逆に言えば、「この本の読者(後漢の読書階級、インテリ層)の間では、倭人の鬯草貢献は周王朝の史実として疑われていない」ということを示しています。
 ちなみにこの「縄文倭人の周王朝貢献」は箕氏朝鮮の箕氏(きし)を通じてなされたと見られています。殷王朝最後の天子紂王(ちゅうおう)は暴君で、王族の親戚にして宰相であった箕氏のいさめも聞かず、とうとう周王朝初代天子となる武王によって滅ぼされましたが、武王は箕氏を朝鮮に封じます(東夷の鎮撫が目的です)が、「臣」とはしなかったとされます。これは殷の名家にして民衆に人望の高かった箕氏に対して礼を尽くしたものと見られますが、その後、成王の代に箕氏は自ら「革命」後の周の天子に直接拝謁しており、恐らくこの時に東夷の諸族は箕氏に貢献物を託したと考えられ、倭人の鬯草もその中の1つとしてあったのではないかということです。

③「蓋(がい)国(平壌を中心とした朝鮮半島北半の国)は鉅燕(きょえん、「鉅」は「巨」に同じで、戦国七雄の1つである燕は北京を中心に鴨緑江北辺まで延びていたとされます)の南、倭の北に在り、倭は燕に属す。」(『山海経』海内北経)

 これによれば、「蓋国」は「海を隔てて倭と相対している」といった感じではなく、「陸上で接している」という感じなので、朝鮮半島南端に倭人の国があったことが分かります。
参考文献:『邪馬一国への道標』(古田武彦、角川文庫)、『中国の古典名著総解説 中国4000年・知恵と話題の書・集大成!』(自由国民社)


第2章 弥生時代(紀元前3世紀~紀元3世紀)

①「(始皇帝28年、紀元前219年)既に斉(戦国七雄の1つ、斉国。現在の山東省)人、徐市(じょふつ、徐福)」らは上書して言うには、「海の上に三神山があり、名を蓬莱(ほうらい)、方丈、瀛州(えいしゅう)と言い、仙人が住んでいるという。心身を清めて、童男、童女と三神山へ行くことを請い願う」と。そこで徐市を遣わし、童男女数千人を発たせ、海に出て仙人を求めさせた。」(『史記』六巻 秦始皇帝本紀第六)

②「(始皇帝37年、紀元前210年)海に連なり、北、琅邪(ろうや、現青島〔チンタオ〕市の西南方)に至る。神仙の術を持つ徐市らはここから海を行き、神薬を求めたが、数年経っても得られず、出費を多かった。罰を怖れ、詐って報告した。「蓬莱の薬を手に入れることはできますが、大鮫がいて苦しめられています。だから行き着くことができません。どうか弓の名手を付け、鮫を見たら連発できる弓で射止めることをお認め下さい」と。」(『史記』六巻 秦始皇帝本紀第六)

③「(紀元前124年、漢の高祖の孫である淮南〔わいなん〕王劉安を臣の伍被〔ごひ〕が諌める)徐福は海に出て不老不死の薬を求めさせましたが、帰って偽りの報告をしました。
「私は海の上で大神に出会いました。神は言いました。『汝は西の皇帝の使者か』と。私は答えました。『そうです』と。『汝は何を求めるか』と訊ねたので、『お願いしたいのは延命長寿の薬です』と答えました。神は言いました。『汝の秦王の礼物は足らないので、薬を見ることはできても手に入れることはできない』と。ついで、東南の蓬莱山に私を連れて行きました。霊芝で造られた宮殿を見ました。使者がいて、銅色で竜の形をしており、光が上り、天を照らしていました。そこで私は再び神を拝み、問いかけました。『何を献上すればよろしいのですか』と。海神は答えました。『育ちのいい少年少女にいろいろの道具、技術を献上すれば、神薬を得ることができよう』と。」
始皇帝は大いに喜び、童男女三千人に五穀の種やいろいろの道具、技術者を与えて、東方に行かせました。徐福は平野の水が豊かな地に着き、王となって帰りませんでした。」(『史記』百十八巻 淮南衡山〔わいなんこうざん〕列伝第五十八)

④「(淮南王への伍被の言葉)徐福を海に出し、仙薬を求めさせました。珍宝や童男女三千人、五穀の種、百工(道具、技術者)をつけて行かせました。徐福は平原、大沢を得て、王となって帰りませんでした。」(『漢書』四十五巻 蒯〔かい〕伍江息夫伝第十五)

⑤「(230年、春正月)孫権は将軍衛温(えいおん)、諸葛直(しょかつちょく)ら将兵万人を遣わし、海に出て夷洲及び亶洲(たんしゅう)を求めさせた。亶洲は海の中にあり、長老は伝えて言う。
「秦始皇帝は神仙の術を持つ徐福に童男童女数千人を連れ、海に出て、蓬莱の神山と仙薬を求めさせたが、この島に留まって帰らなかった。代々、続いて数万家もあり、そこの人民は時に会稽に来て取り引きをする。」
その住んでいる所は果てしなく遠く、将軍らはついに亶洲には行き着くことができなかった。が、夷洲には行くことができ、数千人が帰ってきた。」(『三国志』呉志二巻 呉主権)

有名な「徐福伝説」です。徐福が来たという説話は日本中にあります。三千人の集団であれば、「徐福集団」の中のいくつかのグループが各地に至ったということは当然あり得るでしょう。「海の上の三神山」「山東半島から見て東南」「平原、大沢の地」「会稽(江南)に近い方に夷洲(中国の定説では台湾)、それより遠い所に亶洲、蓬莱山はさらに別な場所」「亶洲に徐福の子孫が数万家、時に会稽へ出て取り引きをする」といった記述が手がかりですね。さらに中国側に本州が島だという認識(これは「津軽海峡の認識」という命題に置き換えられます)が現われるのが『新唐書』(11世紀)であること、『漢書』に「(燕地)楽浪海中の倭人、百余国」「(呉地)会稽海外の東鯷(とうてい)人、二十余国」がそれぞれ定期的に朝貢してくるとあること、『三国志』魏志倭人伝に「邪馬壱国七万余戸、投馬国五万余戸、奴国二万余戸」とあること、『隋書』に出てくるのも俀国(たいこく、地理的記述としては「阿蘇山有り」と出てきます)伝と琉球国伝の2つだけであること、などをふまえると、夷洲は台湾、亶洲は琉球諸島、蓬莱山(恐らく阿蘇山)は九州島と見ることができるかもしれません。

⑥「(燕地、燕は戦国七雄の1つで、中国東北部から朝鮮半島北部を支配した国です)東夷、天性従順、西南北と異なる。孔子は中国で道が行われていないのを悼み、海に浮かんで九夷と共に住もうとした。もっともだ。
そう、楽浪(紀元前108年に漢の武帝が置いた「漢四郡」のうちの1つで、今の平壌付近を中心としていた)の海中に倭人が住み、分かれて百余国をつくり、定期的に朝貢してくるという。…
(呉地、長江河口付近を占めた国です)会稽(かいけい)の海外に東鯷(とうてい)人が住み、分かれて二十余国をつくり、定期的に朝貢してくるという。」(『漢書』二十八巻下 地理志第八下)
 『漢書』は1世紀の成立ですが、当時、日本列島から定期的に朝貢していた(つまり、それなりの政治システム、社会制度を有していた)のは「楽浪海中」(朝鮮半島の向こう、玄界灘を越えた海の中)の「倭人」と「会稽海外」(東海の向こう)の「東鯷人」のみだったとしています。さらに7世紀に成立した『隋書』では「俀国伝」と「琉球国伝」の2つのみ、わざわざ伝が立てられているので、この「倭人」は「九州島人」、「東鯷人」は「琉球諸島人」と見るのが妥当かもしれません。

⑦「瓠公(ここう、新羅初代朴赫居世〔ぼくかくきょせい〕王の側近)はその族姓が詳(つまび)らかではない。元は倭人であって、はじめは瓠(ひさご)を腰に付けて海を渡ってきたのである。たから、瓠公と言った。」(『三国史記』新羅本紀第一巻 始祖赫居世居西干三十八年、紀元前二十年、二月条)

⑧「昔脱解(せきだっかい、新羅第4代王、在位57~80年)は元は多婆那(たばな)国(『三国遺事』では「竜城国」)の生まれであった。その国は倭国の東北一千里にあった。」(『三国史記』新羅本紀第一巻 脱解尼師今即位前紀)

 何と新羅の初代王の側近中の側近(西方の大国馬韓に派遣され、外交交渉を行っています)も、第4代王も倭人ないし、日本列島人(「東北一千里」は短里で70数キロメートルに相当します)であるというのですから驚きですね。これを朝鮮半島における正史で述べているわけですから、信頼できるといってよいでしょう(「倭人の侵略記事」などはそれこそ無数に載っています。ただし、「新羅史」は大義名分上、「伽耶史」を取り込んで、最古の系譜に仕立てている可能性があるので、記載年代には史料批判上、問題があります)。

⑨「建武中元二年(57年)、倭奴国が貢物を献じ、朝賀してきた。使者は自分のことを大夫と称していた。倭の最南端である。光武帝は印綬を賜わった。安帝の永初元年(107年)、倭国王帥升(すいしょう)等は生口百六十人を献じ、皇帝の拝謁を申し出た。」(『後漢書』八十五巻 東夷列伝)

 これは有名な「志賀島(しかのしま、博多湾岸)の金印」にまつわる記事です。この金印のレプリカが福岡市立博物館にありますので、行く機会があったら、是非、訪ねてみましょう。そこには「漢委奴國王」の5文字が刻まれており、伝統的に「漢の委(わ)の奴(な)の國王」と読まれてきましたが、こうした「三段読み」は中国史書の表記上のルールにはそぐわないものです。「史料批判」を普通に適用すれば、「漢の委奴(いど)國王」となるところでしょう。ちなみに「金印」は「夷蛮(東夷・西戎〔せいじゅう〕・南蛮・北狄〔ほくてき〕)の首長」にそうそう簡単に与えられるものではありません。出土例は東にこの「志賀島の金印」、西にもう1つあるだけで、この2例しか確認されていないのです。後漢初代皇帝の光武帝から見て、当時の博多湾岸には東夷の中枢たる「政治勢力」(委奴国)があり、それを漢を中心とした世界秩序の中に組み込んだということですね。

⑩「倭人は帯方(たいほう)郡(現ソウル付近)の東南、大海の中に住み、国や邑(むら)をつくっている。もと百余国から成り、漢の時代に朝貢してくる者がいたが、今、通訳を連れた使者がやって来る国は三十国である。
郡から倭に至るには海岸に沿って海上を行き、韓国(朝鮮半島南半部、ここは元々馬韓・弁韓・辰韓の「三韓」の地でした。やがて馬韓から「百済」が、弁韓から「伽耶」が、辰韓から「新羅」が誕生していきます。北半部は元々「朝鮮」の地です)を通るのに、あるいは南にあるいは東に行き、倭の北岸狗邪(こや)韓国(朝鮮半島南岸部、いわゆる「伽耶」の地です。後に日本側地名として「任那〔みまな〕」の名で呼ばれる所です)に到る。七千余里(約500キロメートル)ほどである。はじめて海を渡ること千余里(約70キロメートル)で対海国(対馬)に至る。・・・また南へ海を渡ること千余里、瀚海(かんかい)と名づけている。一大国(壱岐)に至る。・・・また海を渡ること千余里で末盧(まつろ)国(唐津近辺)に至る。・・・東南陸行五百里(30数キロメートル)で伊都国(福岡県旧糸島郡)に到る。東南、奴国に至るのに百里(約7キロメートル)、・・・東行不弥(ふみ)国に至ること百里。・・・南、投馬国に至こと、水行二十日。・・・南、邪馬壹国に至る、女王の都する所、水行十日、陸行一月。・・・郡より女王国に至る、万二千余里(800数十キロメートル)。・・・倭への道里を図ると、まさに会稽東治(とうち)の東に在る。」(『三国志』魏志倭人伝)

有名な「魏志倭人伝」の記事ですが、この原文にある通り、「邪馬台国」という表記は出て来ません。実はこの表記が出て来るのは5世紀の『後漢書』からで、3世紀の『三国志』の時点では「邪馬壹国」が正しい表記です(中華書局標点本にはっきり出ています)。ちなみによく『魏志倭人伝』という本があるかのように書かれていますが、そんなものは存在していません。『三国志』(我々がよく知っている三国志の物語は明代に羅漢中が書いた『三国志演義』です)に魏志・呉志・蜀志(「志」は「史」に他なりません)の3つがあり、その「魏志」の中に「東夷伝」があり、その「東夷伝」の最後を飾っているのが「倭人伝」なのです。したがって、「史料批判」の基本を適用するならば、「魏志倭人伝」だけを頼りに想像たくましく推理するのではなく、中国正史の表記上のルール、『三国志』の表記上のルール、「魏志」の表記上のルール、「東夷伝」の表記上のルールをそれぞれ確認した上で、「魏志倭人伝」を分析しなければならないのですが、いわゆる「学説」「定説」「通説」と呼ばれるものでもこうした手続きを経ていないものがほとんどです(アマチュア歴史家がいわゆる「邪馬台国論争」に参戦して、それこそ「邪馬台国~説」が「百花繚乱」状態となっているのは、こうした方法論的理由があります)。実は東大の学者を中心とする「邪馬台国九州説」も、京大の学者を中心とする「邪馬台国近畿説」も、方法論的にはけっこうムチャクチャな論法を使っているんですね、これが。

⑪「男子は大人、小人とも顔や身体に入墨をしている。昔から倭人の使者が中国を訪れると、皆、周代の大夫を自称する。大昔の夏王朝の帝少康(しょうこう)の子は南の会稽に任ぜられた時、民に断髪文身(入墨)をさせ、蛟竜(こうりゅう、みずち)の害を避けるようにさせたものである。今、倭の水人は好んで潜って魚や蛤(はまぐり)を捉える。そのために入墨して大魚や水禽に嫌わせてきたが、次第に飾りになってきた。・・・その風俗は乱れず、男子は皆冠を着けず、木綿で頭を巻き、衣服は横に長い布を結んで束ね、おおむね縫い付けない。婦人は髪を下げるか、まげ結びにして、衣服は単衣(ひとえ)のようにつくり、衣の中央に穴を開け、頭を通して着ている。・・・風俗の共通するものは中国南端の儋耳(たんじ、広東省)、朱崖(しゅがい、海南島)と同じである。
 倭の地は温暖で、冬でも生野菜を食べ、みな裸足で暮らす。家屋を作り、父母兄弟は寝る所を別にしている。身体に朱や丹を塗るが、中国人の使う白粉のようなものである。飲食に高坏(たかつき)を使い、手で食べる。・・・人の集まりや立ち居振る舞いに父子、男女の区別はなく、性来、酒好きである。・・・婦人は淫らではなく、嫉妬もしない。盗みも無く、訴訟も少ない。倭人が法を犯した場合、罪の軽い者はその妻子を没収し、重い者はその一族を滅ぼす。各人の身分の尊卑には各々差別と序列があって、それぞれ十分に服従している。」(『三国志』魏志倭人伝)

三世紀倭人の風俗ですね。「同時代史料」なので、かなり信用できます。倭人は呉の地、会稽当たりと関係が深く、江南地方と風俗が似通っていることに注意しておきましょう。『晋書』四夷伝にも「(倭人は)自分達は呉の太伯(たいはく)の後裔だと言っている」と出て来ます。太伯とは周の太王の長子ですが、太王が末子季歴(きれき)の子昌(しょう、後に孔子にその聖徳を慕われた周の文王です)を愛していることを知って、自らは南方の呉の地へ行き、「文身断髪」して天子の身となれないことを示したという故事が知られています。つまり、「文身断髪」(今風に言えば「タトゥー」と「スキンヘッド」ですかね)は呉地の風習で、それはさらに古く夏王朝中興の祖とされる少康の子が会稽王に封ぜられて以来の風習で、それが時代がずっと下って3世紀の倭人の風習として今なお伝えられているというわけです。

⑫「女王国以北には特に一大率(いちだいそつ)を置き、諸国を検察させているので、諸国は畏(おそ)れ憚(はばか)っている。常に伊都国に置かれ、中国の州長官のような役人である。王が洛陽や帯方郡、諸韓国に使者を送ったり、郡から倭国に使者を送って来る時、全て港で点検を受け、文書や贈り物を間違いなく女王の元に届けるようにする。・・・景初二年(238年)六月、倭の女王は難升米(なんしょうまい)等を遣わして帯方郡に行かせ、魏の天子に拝謁して貢物を献上したいと申し出た。郡太守劉夏(りゅうか)は部下の役人に同行させ、倭使を魏都に送り届けた。その年の十二月、明帝(魏の第二代皇帝)は証書で倭の女王に伝えて言った。
『親魏倭王に制詔(みことのり)する。・・・汝の居る所ははるか彼方であるが、使いを送り、貢物を献じてきたのは汝の忠孝心の表われであり、我は汝を深くいとおしむものである。ここに汝を親魏倭王とし、金印紫綬を与えたい。包装し、帯方郡守に託し、授けることにする。倭人らをよく治め、我に忠誠を示し、従うように努めよ。汝の使者難升米、牛利(ぎゅうり)は長い道を苦労したので、ここに難升米を率善中郎将(年2千石の役人)とし、牛利を率善校尉(こうい、天子の宮城を護衛する役人)とし、銀印青綬を与え、引見して労(ねぎら)い、賜物を渡し、還したい。・・・』」(『三国志』魏志倭人伝)

  これはまさに卑弥呼の「外交革命」を示しています。伝統的に「呉」の地と関係が深かった倭国が、華北の魏を宗主国に選び、「親魏倭王」に封ぜられたのですから、卑弥呼は当時の東アジア国際情勢をかなり的確につかんでおり、なおかつ機を見るに敏な決断力・行動力があったことがよく分かりますね。これは次のような諸記事によっても裏づけされます。

⑬「宣帝(179~251年)が公孫氏を平定すると、その女王は使いを遣わして帯方郡に来て朝見し、その後、朝貢は絶えることがなかった。文帝が魏の宰相時代にも、また何回も朝貢してきた。秦始年間(265~274年)の初めに使者を遣わし、重ねて朝貢した。」(『晋書』九十七巻四夷伝)

⑭「倭の女王卑弥呼、使いを遣わし来聘す。」(『三国史記』新羅本紀第二巻 阿達羅尼師今二十年〔173年〕、五月)
 つまり、卑弥呼の情報戦略は「朝鮮半島」を舞台にして繰り広げられていたということですね。こうした「遣新羅使」「遣帯方郡使」「遣魏使」を軸にした外交戦略は、今日的にも評価の対象となることでしょう。

参考文献:『中国正史の古代日本記録』(いき一郎編訳、葦書房)、『真説「徐福伝説」 謎に包まれた「日本人の祖先」の実像』(羽田武栄・広岡純、三五館)、『「邪馬台国」はなかった』(古田武彦、朝日文庫)、『倭人伝を徹底して読む』(古田武彦、大阪書籍)、『三国史記倭人伝 他六篇 朝鮮正史日本伝1』(佐伯有清編訳、岩波文庫)


第3章 古墳時代(3世紀後半~7世紀)の日本と世界

①「泰和四年(369年)五月十六日の丙午正陽に、百たび鍛えた鉄の七支刀を造った。進んでは百たびの戦いを避け、恭しい侯王(が帯びるの)にふさわしい。先の世からこのかた、まだこのような刀はない。百済王の世子貴須は特別に倭王旨のために造って、後の世に伝え示すものである。」(石上〔いそのかみ〕神宮所蔵の七支刀銘文)

 「侯王」とは中国の天子の下にある諸王に対して用いられる用語で、百済王も倭王もどちらも東晋の天子の下にあって対等な「侯王」なのですが、その百済王が倭王と好(よしみ)と通じようとして、この独特な七支刀を贈与したということです。後に白村江(はくすきのえ)の戦(663年)で、百済の残党を助けるために倭国がわざわざ援軍を派遣し、悲惨な敗北を喫していますが、こうした百済と倭国の蜜月関係には実に長い伝統があったわけです。

②「百済と新羅とは、もとこれは(高句麗の)属民であって、もとから朝貢していたのである。しかるに倭は、辛卯の年(391年)にやって来た(そのため、百済、新羅は高句麗側から見て属民らしい態度を取らなくなった)。これに対して、好太王は海を渡って(渡海作戦による奇襲攻撃~この先例として3世紀、魏の明帝による遼東半島の公孫氏征討作戦があり、『三国志』公孫伝に出て来ます)、百済、・・・新羅を破り、臣民とした。・・・
九年(399年)己亥、百済は(高句麗との)誓いに背き、倭と和を通じた。・・・
(広開土)王は平壌に巡下した。そこで新羅は使者を遣わし、王に申し上げて、「倭人は新羅の国境に充ちあふれ、城や池を打ち破り、(百済の)奴客を民としてしまいました。王に帰属し、仰せを承りたいと願っております」と言った。・・・
十年(400年)庚子、歩騎五万を派遣し、前進させて新羅を救援させた。男居城より新羅城に至るまで、倭はその中に充ちあふれていた。・・・官軍がまさにやって来ると、倭賊は退却した。・・・倭は充ちあふれ、倭は潰滅した。・・・
十四年(404年)甲辰、倭は不法にも帯方の界に侵入した。・・・倭寇は潰滅し、斬り殺した者は数え切れなかった。」(高句麗好太王〔広開土王〕碑文)

これは高句麗好太王の功績を記したものなので、高句麗にとって都合の悪い記事は当然カットされていますが、倭軍が朝鮮半島南半部に進出し、軍事的緊張がかもし出されていることがよく窺えます。

③「倭は高驪(こうり、高句麗)の東南大海の中にあり、王は代々、中国に貢物を納めてきた。高祖(南朝劉宋初代の武帝)は永初二年(421年)に詔して言った。「倭の讃は万里の彼方から貢物を納めてきた。遠くにあって忠誠を尽すことは宜しく顕彰すべきであり、爵号を与えるべきである」と。太祖(文帝)の元嘉二年(425年)、讃はまた司馬(しば、将軍、都督の属官)曹達(そうだつ)を遣わし、上表文を奉り、土産品を献上した。 讃が死んで、弟の珍が王となり、使者を遣わし、朝貢してきた。自ら使持節(しじせつ、軍政の役人で州長官を兼ねた)、都督(ととく)、倭・百済・新羅・任那・秦韓・慕韓六国諸軍事、安東大将軍倭国王と称していた。上表文を出して正式に認めてほしいと求めたので、安東将軍倭国王とした。同時に珍は倭隋(ずい)等十三人に平西、征虜(せいりょ)、冠軍(かんぐん)、輔国(ほこく)の将軍号(軍府を開くことができる)を授けるように求めたので、詔して同じく認めた。
(元嘉)二十年(443年)、倭国王済が使いを遣わし、貢物を送ってきたので、同じく安東将軍倭国王とした。(元嘉)二十八年(451年)、使持節、都督、倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事とし、安東将軍は前のままとした。同じく済の願い出た二十三人を軍、郡(長官)に任命した。
済が死んで、後継者の子興が使者を送り、朝貢してきた。世祖(孝武帝)は大明六年(462年)、詔して言った。「倭の世子興は歴代の王の忠誠心を受け継ぎ、外海に倭が王朝の垣となり、天子の徳を稟(う)け、境の地を治め、心を込めて朝貢を納めてきた。新たに辺土の守りを受け継いだので、爵号を授け、安東将軍倭国王としよう」と。
興が死んで弟の武が王となり、自ら使持節、都督、倭・百済・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓七国諸軍事、安東大将軍倭国王と称した。順帝の昇明二年(478年)、使者を遣わし、上表文を寄せた。
「中国の冊封国である我が国ははるか遠くにあり、外夷に対する垣となってきた。・・・歴代の倭王は定期的に中国に貢献してきた。・・・しかしながら高句麗は無道で百済を征服しようとし、掠奪し尽して止まない。私が使者を送る度に押しとどめられ、これまでの朝貢という美風を失ってしまった。・・・私の亡父済は高句麗が天子への道を塞いでいるのを怒り、武装した兵百万で正義の声を上げて大挙して出撃しようとしたが、にわかに父と兄を失い、まさに成ろうとしていた功を消え失せてしまった。私は服喪の部屋にこもり、兵を動かせず、そのため、いまだに手をこまねいて高句麗に勝てないでいる。・・・もし、皇帝の徳を受けてこの強敵を撃ち砕き、困難を打ち払うならば、私は歴代の功を受け継ぎたい。私(ひそか)に自ら開府儀同三司(かいふぎどうさんし)を仮称し、その他の者に各々皆仮授させた。このようにして忠節に励んでいる。」
詔して、武を使持節、都督、倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事、安東大将軍倭国王に任命した。」(『宋書』九十七巻 倭国伝)

 有名な「倭の五王(讃・珍・済・興・武)」の記事です。注目されるのは、中国大陸が南北朝時代に突入し、倭国は一貫して南朝冊封体制に自らを位置づけようとしたこと、徹底的な「授号」(倭国側からすれば「受号」)外交を行なったことの2点でしょう。特に倭国の執拗な「授号」要求の中に、朝鮮半島南半分に相当する「百済・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓」への「軍事権」の承認があったことは重要です。これは倭国の最大のターゲットが高句麗にあったからで、北方の大国高句麗と南方の大国倭国との対立が浮かび上がってきます。これをストレートに高句麗側から記述したものが、「高句麗好太王(広開土王)碑文」です。
 いずれにせよ、中国南朝側はこの執拗な要求には手を焼いたようで、何とかこれをかわしていますが、最後には百済を外してこれを承認しています。百済を外さざるを得なかったのは、すでに高句麗、百済に対してはむしろ倭国よりも上位の「授号」がなされており、南朝中心の冊封体制での位置づけがなされていたからです。逆に新羅に関してこれを認めていることは見逃せないところですね。7世紀に唐と組んで百済・高句麗を打ち破り、朝鮮半島を統一した新羅ですが、5世紀の時点ではまだ倭国の軍事的影響下にあったということです。
 さらに倭王武が「開府儀同三司」(府=官省を開く権限を持ち、儀礼上、三司=太尉・司徒・司空と同じと認める)を自称したことも目を引きます。『宋書』百官志によれば、官名関係は全部で「九品」に分かれており、倭王武は「使持節」「都督」「安東大将軍」に任ぜられていますから、「第二品」に属します。ところが、彼は勝手に「第一品」の「太尉(たいい)・司徒(しと)・司空(しくう)」に準ずる位置を自称したわけです。これは「(大明七年、463年、七月)征東大将軍、高麗王高璉(こうれん)、車騎大将軍、開府儀同三司に進号す」(『宋書』孝武帝紀)とあるように、高句麗王がすでに授号されていたことが動機となったのでしょう。ところで、その後の7世紀にとうとう「日出づる処の天子」という自称まで飛び出してくるのですが、その前に臣下としての最高位である「太宰(たいさい、宰相)」を通過しなければなりません。この「太宰」が開く「府」のことを「太宰府」と言いますが、日本列島でこの地名が残るのは1箇所だけで、恐らくこの地で倭国王は「太宰」を自称したのだと思われます。ちなみに太宰府には「内裏趾」「紫宸殿(ししんでん)」という地名が残っており、その西南の基山の上にある基肄城(きいじょう)跡には「北帝門」という地名すら残っています。そもそも「九州」という言葉自体が、「州が九つに分かれている」という意味ではなくて、「中国の伝説の聖天子、禹が天下を九つに分けて統治した」ことに由来しており、元々「天子の下の直接統治領域」を指しているのです。はァ~って感じですね。

④「梁が興り、また情報が増えた国があった。扶桑国はこれまで聞いたことがなかった。普通年間(520~527年)、ある僧がその国が来たと称し、中国に着いたが、その言うことはその地を十分に知り尽くしたものだったので、ここに記録する。・・・
倭は自ら呉の太伯の後裔と称している。風俗には入墨がある。帯方郡を去ること一万二千余里で、およそ会稽の東にあり、はるか遠くに離れている。・・・
文身国は倭国の東北七千余里の所にある。・・・土地の風俗は歓楽的で、物は豊かで安い。旅をする者も食糧を持って行くことはない。・・・
大漢国は文身国の東五千余里にある。武器がなく、戦争をしない。風俗は皆文身国と同じだが、言語は違っている。・・・
扶桑国とは、南斉の永元元年(499年)、その国の僧慧深(えしん)が荊州(けいしゅう)に来て話して言った。 「扶桑国は大漢国(これはせりふ中の言葉なので、先述の地の文に出てきた大漢国と同じとは限りません)の東二万余里の所にある。土地は中国の東にあり、扶桑の木が多いので、国名にしている。・・・その習俗に元々仏教はなかったが、宋の大明二年(458年)、罽賓(けいひん)国(西域のカシミール、またはその西のガンダーラに当たるとされます)の僧五人が来て、経典、仏像を伝え、教えを広めて出家させたので、やがてその習俗も変わった。」
慧深はまた言った。
「扶桑の東、千余里に女国がある。容貌は端正で、色は非常に白く、身体に毛が生えていて、髪は地に届く。・・・」」(『梁書』五十四巻 列伝第四十八)

   「謎の史書」とされる『梁書』の記述です。里数を比定しづらいところですが、日本列島において、西から「倭国→文身国→大漢国」「扶桑国→女国」といった順番で国が並んでいたようです。ここで驚くべきは、扶桑国に458年に西域仏教が伝わったという証言でしょう。『日本書紀』の記録では、欽明天皇の時(552年)に百済仏教が伝わったとされ、諸寺伝では538年にやはり百済仏教が「初伝」したと伝えています。ところが、例えば九州の雷山(らいざん)にはもっと古い年代で、インド仏教が渡来したという伝説が伝わっていますから、どうなっとんじゃいといったところですね。実は「仏教伝来」というテーマは、分かっているようで意外に分かっていないテーマなのです。

⑤「流求国は海島の中にあり、福建省建安郡の東に当たり、水行五日で着く。土地には山の洞穴が多い。王の姓は歓斯(かんし)、氏名は渇刺兜(かっしと)だが、その由来は分からず、国は代々続いている。土人は王を呼んで可老羊(かろうよう)、妻を多抜荼(たばと)と言う。居所を波羅檀洞(はらだんどう)と言い、塹柵を三重にし、流水を用い、棘(いばら)の樹を藩(へい)としている。・・・
風俗に文字はなく、月の満ち欠けを望み見て時節を紀(しる)し、草の枯れたり、青くなるのを見て年歳とする。人は深目、長鼻ですこぶる西方の胡人に似ている。・・・男子は髭鬢(しびん、ひげ)を抜き、身体で毛のある所は全て除去する。婦人は墨で手に入墨をし、虫や蛇の文様を入れる。・・・王に酒を上(たてまつ)る者もまた王の名を呼び、銜杯(がんぱい、口に含む)して共に飲むというのも全く突厥(とっけつ、中央アジアのトルコ系遊牧民族)に似ている。歌い出し、足踏みして、1人が歌えば皆が和し、音はきわめて哀怨(あいえん)に響く(琉球音階のことで、インドネシアのガムラン音楽と琉球地方のみに伝わる独特の5音階とされます)。・・・
大業三年(607年)、煬帝(ようだい、隋の第二代皇帝)は羽騎尉(うきい)の朱寛(しゅかん)に海に浮かんで異俗を訪ねさせたが、海師(航海技術に熟練した人)の何蛮(かばん)がこのことを告げたので、何蛮と共に行かせ、流求国に着いた。言葉が通じなかったので、一人を掠(とら)えて帰った。
明年(608年)、煬帝は再び朱寛に流求国を慰撫させようとしたが、流求国は従わなかった。朱寛はその布や甲(よろい)を取って帰った。時に俀国(たいこく)使が来朝していて、これを見て言った。「これは夷邪久(いやく)国(屋久島)人の使っているものだ」と。
煬帝は武賁(ぶふん)郎将陳稜(ちんりょう)と朝請大夫張鎮州(ちょうちんしゅう)を遣わし、兵を率いて義安(広東省潮州)より海に浮かんで流求を求めさせた。高華嶼(こうかしょ、台湾)に至り、また東行して二日、くへき嶼(久米島)に至り、さらに一日で流求に着いた。初め、陳稜は南方諸国人を率いていて、その中の崑崙(こんろん)人が流求の言語をよく解したので、遣わして流求を慰諭したが従わず、拒み逆らった。陳稜は攻撃し、その都に進み、しばしば戦い、ことごとく破ってその宮室を焼き尽くし、男女数千人を虜(とりこ)にし、戦利品として持ち帰った。これより往来は絶えた。」(『隋書』八十一巻 琉球国伝)

⑥「俀国(たいこく)は百済、新羅の東南、水陸三千里の所にあり、大海の中で山の多い島に起居している。… 隋代に入って、開皇二十年(600年)、俀王の姓は阿毎(あま、天)、字(あざな)は多利思比孤(たりしほこ)、号を阿輩鷄弥(あはきみ)という者が使者を遣わし、朝廷に詣(いた)った。…王の妻は鷄弥(きみ)と称し、後宮には侍女が六、七百人いる。太子を名づけて利歌弥多弗利(りかみたふつり)と言う。…
内官に十二等があり、一を大徳、次を小徳、次を大仁、小仁、大義、小義、大礼、小礼、大智、小智、大信、小信と言う。それぞれに定数はない。…軍隊はあるが、征戦(出征、攻戦)はしない。…この国のしきたりでは、殺人、強盗、姦通は皆死罪となり、盗人には盗んだ物を計って贖わせ、財のない場合は身体を没収して奴婢にする。…楽器には五絃、琴、笛がある。…昔は文字がなく、ただ木を刻み、縄を結んでしるしとした。仏法を敬うようになり、百済で仏教経典を求めて初めて漢字を知った。…性格は素直で雅風がある。女が多く、男が少ない。婚姻は同姓は不婚とし、男女が好き合えば結婚する。…婦人は貞淑で嫉妬しない。…
阿蘇山がある。その石が突如噴火によって天に高く上がろうとする時、習わしとしては異変とし、祈禱の祭りを行なう。…新羅も百済も俀を大国とし、珍物が多い国として共に敬仰し、常に使者を往来させている。
大業三年(607年)、その王多利思比孤は使者を遣わし、朝貢してきた。使者は言った。
「海西の菩薩天子が重ねて仏法を興隆されていると聞いたので、使者を送り、朝拝させ、合わせて沙門(しゃもん、僧侶)数十人を来させ、仏法を学ばせたい」と。
その国書は記していた。
「日出づる処の天子、書を日没する処の天子に致す。恙(つつが)なきや、云々」と。
煬帝はこれを見て悦ばず、鴻臚卿(こうろけい、夷蛮外交の担当長官)に、「夷蛮の国書は無礼だ。二度と奏聞させるな」と命じた。」(『隋書』八十一巻 俀国伝)

 あまりにも有名な「日出づる処の天子」の国書を隋の煬帝に送った「遣隋使」の記事ですね。これは「俀国伝」に出てくるもので、俀王は多利思比孤で男性ですから、推古天皇ではありません。また、「王」ですから、天皇の甥にして摂政であった聖徳太子とも違います。さらに『日本書紀』推古紀に「遣隋使」派遣記事は出てきません。使者を送った相手の国はいずれも「唐」となっているのです。是非、自分でも確認してみましょう。また、『日本書紀』に出ている「冠位十二階」は「大徳・小徳・大仁・小仁・大礼・小礼・大信・小信・大義・小義・大智・小智」となっていて、一見似ているようですが、こちらは陰陽五行の理論で言う「相生(そうじょう)の原理」(仁=木、礼=火、信=土、義=金、智=水で、「木生火」「火生土」「土生金」「金生水」「水生木」と位置づけられます)から成っているのに対し、俀国の「内官の十二等」は「相剋(そうこく)の原理」(「金剋木」「火剋金」「水剋火」「土剋水」「木剋土」と位置づけられます)から成っていて、全く別物です。また、俀国の五絃琴(玄界灘の沖ノ島でも出土しています)に対して、正倉院に収められているのは六絃琴です。
元々、中国南朝の冊封体制の中で自らを位置づけてきた「東夷」の倭国は、北朝出身の隋が天下統一して「天子」を名乗った時、同じ夷蛮である「北狄」の王が「天子」を名乗るなら、「東夷」の王である自分が「天子」を名乗って何が悪い、という自負心があったものと思われます。

参考文献:『中国正史の古代日本記録』(いき一郎編訳、葦書房)、『三国史記倭人伝 他六篇 朝鮮正史日本伝1』(佐伯有清編訳、岩波文庫)、『失われた九州王朝』(古田武彦、朝日文庫)、『邪馬一国への道標』(古田武彦、角川文庫)


第4章 奈良時代(8世紀)の日本と世界

①「倭国は古の倭奴国(志賀島の金印を授けられた委奴国)である。京師(長安)を去ること一万四千里、新羅東南大海の中にある。山の多い島に生活し、領域は歩いて東西五ヵ月、南北三ヵ月行という。歴代、中国と通交してきた。…四面に小島五十余国があり、全て倭国に従属している。王の姓は阿毎(あま)氏で、一大率を置いて諸国を検察したので、皆怖れ従ってきた。官位を設けて十二等がある。…この地には女が多く、男が少ない。文字は十分に使われ、風俗は仏教を信じている。…二十二年(六四八年)になって、また新羅に附託して上表文を奉り、唐と通交するようになった。」(『旧唐書』百九十九巻上「倭国伝」)

②「日本国は倭国の別種である。その国が日の昇る所にあるので日本と名づけた。あるいは、倭国は自らその名の美しくないことを嫌い、日本と改めたという。あるいは、日本はもと小国で、倭国の地を併せたという。…  長安三年(703年)、その国の大臣朝臣(あそん)真人(まひと、粟田真人のこと)が来て、貢物を献上した。朝臣麻痺とは中国の戸部尚書(民部省長官)に当たり、…好んで経書や史書を読み、文をつづることを理解し、容姿は温雅だった。則天武后は真人を麟徳殿(りんとくでん)でもてなし、司膳卿(しぜんきょう、膳を司る官)を授け、本国に帰した。
 開元(713~741年)の初め、また遣使来朝した。…使者の一人、朝臣仲満(なかまろ、阿倍仲麻呂)は中国の風を慕って滞在し、帰国しなかった。姓名を改めて朝衡(ちょうこう)とし、左補闕(さほけつ)、儀王友(ぎおうゆう)などを歴任した。朝衡は長安に五十年も留まり、故国に帰らせようとしたが、留まって帰らなかった。」(『旧唐書』百九十九巻上「日本国伝」)

 「倭国」と「日本国」を初めて明確に書き分けて区別したのが『旧唐書(くとうじょ)』です。朝鮮半島の正史である『三国史記』にも「(文武王十年〔670年〕、十二月)倭国、更(あらた)めて日本と号す。自ら言う。日出づる所に近し。以(ゆえ)に名を為すと」(新羅本紀)という「倭国更号」記事が出ています。伝統的に中国と通交してきた倭国は九州を拠点とし、いわゆる大和朝廷が日本国で、後者が前者を併合して覇権が移ったのは、「白村江(はくすきのえ)の戦」(663年、唐・新羅連合VS百済・倭国)の戦後処理によるということです。戦前、「日本は1度も外敵に占領されたことはない、いざとなったら元寇の時のように神風が吹く」といった「神風信仰」「神州不滅の思想」があり、その結果、敗戦後、米軍によって初めて軍事占領されたと思っていますが、実ははるか昔に1度だけ本格的な軍事占領を受けています。それが「白村江の戦」後の唐軍による九州=倭国(筑紫)に対する軍事占領でした。これは百済鎮将劉仁願(りゅうじんがん)による使節郭務悰(かくむそう)の筑紫派遣(2千人以上の軍団が送り込まれています)によるもので、『日本書紀』天智紀に出て来ます。

③「崔載華の「日本の聘使に贈る」に同ず
憐れむ 君の異域より周に朝すること遠きを
積水 天に連なって 何(いづ)れの処(ところ)にか通ずる
遙かに指(さ)す 来たること初日の外従(よ)りすと
始めて知る 更に扶桑の東有ることを」(劉長卿)
(私は深い感動を覚える。あなたが別世界のように遠い所から、わが国に朝貢してきたことに。
海の水が天にまで連なっているが、あの水はどこの陸地に通じているのやら。
あなたははるかに指し示した。私はあのさしのぼる朝日の外側から来たのです、と。
今初めて私は知った。扶桑よりさらに東の地があったということを。)

④「秘書晁監(ちょうかん)の日本国に還(かえ)るを送る
積水 極(きわ)む可(べ)からず
安(いずく)んぞ滄海(そうかい)の東を知らんや
九州 何(いず)れの処(ところ)か遠き
万里 空(くう)に乗ずるが若(ごと)し
国に向(むか)っては惟(た)だ日を看(み)
帰帆(きはん)は但(た)だ風に信(まか)すのみ
鰲身(ごうしん) 天に映じて黒く
魚眼(ぎょがん) 波を射て紅(くれない)なり
郷樹(きょうじゅ)は扶桑の外
主人は孤島の中(うち)
別離 方(まさ)に域を異(こと)にせば」(王維)
(海は果てしもなく、広々とした広がり、
その青海原の東のことなど、知るべくもない。
中国の外にある九つの世界のうち、どこが一番遠いかと言えば、それは他ならぬ君の故国。
そこまでの万里の船路は、虚空を泳いで行くようなものであろう。
日出づる国へ帰られることゆえ、ただ太陽の出る方角ばかりを見つめ、
帰り行く船の帆は、風の吹くに任せるだけ。
その途中、大きな海亀の胴体が空を背景に黒々とその姿を映すことであろう。
また、大魚の目玉が波を射て、紅色に輝くことであろう。
君の故郷の木々は扶桑のはるか彼方に生え、
あるじなる君は孤島の中に住む身となろう。
かくて、今ここで君とお別れして、全く別世界の人となれば、
どのようにして便りを通じましょうか。)

⑤「晁卿衡(ちょうけいこう)を哭(こく)す
日本の晁卿(ちょうけい) 帝都を辞し
征帆(せいはん)一片(いっぺん) 蓬壺(ほうこ)を遶(めぐ)る
明月(めいげつ)帰らず 碧海(へきかい)に沈み
白雲(はくうん)愁色(しゅうしょく) 蒼梧(そうご)に満つ」(李白)
(わが友、日本の晁衡どのは、都長安に別れを告げ、
一艘の帆かけ船に乗って、遠く東方の海上にある蓬莱の島を巡り去った。
清らかな月のような晁衡どのは、深い海に沈んで帰らぬ人となった。
白い雲が憂いを帯びて、蒼梧の山に広がっている。)

 これらはいずれも日本の遣唐使として中国に渡り、50年以上も唐王朝に仕えて秘書監(宮中の図書を司る秘書省の長官)にまで昇りつめた阿倍仲麻呂(697~770年。中国名は朝衡、晁衡〔ちょうこう〕)との出会いと別れ、その死を伝え聞いた嘆き(実際は誤伝)をうたったものです。唐代第一級の詩人達がかくも詩を寄せるということは大変なことですね。まぎれもなく仲麻呂は当時の日本を代表するエースであり、玄宗皇帝もなかなか手放すことができなかった(仲麻呂が入唐後35年経ち、56歳になった時、ようやく帰国許可を出しました)一級の人材だったということでしょう。彼の詠んだ「天の原ふりさけ見れば春日なる三笠の山に出でし月かも」という和歌は有名で、百人一首にも入っているほどですが、それを漢詩に訳したものが西安の興慶公園に記念碑となって刻まれています。
「望郷詩
首(こうべ)を翹(あ)げて東天を望み
神(こころ)は馳(は)す 奈良の辺(あたり)
三笠 山頂の上
想うに又(ま)た皎月(こうげつ)円(まどか)ならん」(朝衡)
 また、「扶桑」は中国で伝統的に認識されてきた所「日出づる処」(九州・筑紫・倭国)で、「扶桑より東」は新たに中国で認識されてきた所(近畿・大和・日本国)と見てよいでしょう。

⑥「釈道昭(どうしょう)は俗姓船(ふな)氏、河内国丹北郡の人である。元興寺(がんごうじ)に住み、戒行の誉れがあった。白雉(はくち)四年(653年)五月勅命を受け、遣唐使小山長丹(おやまのながに)に従って海を渡った。時に志を同じくする僧侶は道厳(どうごん)他十三名、長安に至り、三蔵玄奘(げんじょう)にまみえた。この年は唐の高宗(第3代皇帝李治)の永徽(えいき)四年(653年)に当たる。三蔵法師が門弟達に言った。
「この道昭は衆人を済度(さいど)すべき器量を備えている。諸君は外域(日本)の僧侶だからといって、彼を侮ってはいかん。」
三蔵法師は熱心に道昭を教導し、さらに彼に告げて言った。
「わしが印度に旅した時、途中で食物が尽きてしまったことがあった。どこにも人家は見当たらず、今にも死にそうになった時、ふと一人の沙門(僧侶)が立ち現われ、梨をわしにくれた。わしはこれを喰らい、気力回復して、ようやく天竺(てんじく)にたどり着くことができたのだ。あの時の沙門こそ、君の前世の姿なのです。だから、わしは君を大切に思っているのだ。」
ある日、三蔵法師が語って言った。
「経論は巻数多く、たとえ読了したとしても、労のみ多くして、功は少ない。わしは禅宗を体得したが、その旨意(おもむき)は微妙である。君はこの法理を会得(えとく)し、東の方、日本に伝えなさい。」
道昭は師の言に従い、欣然(きんぜん)としてこれを習い修め、すみやかに会得した。」(『元亨釈書』一巻「元興寺道昭」)

⑦「日本国の天平五年(733年)、沙門栄叡(ようえい)や普照(ふしょう)らは遣唐大使丹墀真人広成(たじひのまひとひろなり)に付き従って唐へ行き、留学した。この年は唐では開元二十一年に当たる。・・・栄叡・普照は唐の国に留学して十年も経ったので、遣唐使が来るのを待たずに早く帰国したいと思った。・・・その時、(鑑真)大和上は揚州の大明寺に滞在して、多くの僧に戒律を講義していた。栄叡と普照は大明寺へ行って大和上の足下に頂礼し、詳しく本意を述べて、
「仏法は東へ東へと流れて日本国にまで伝わりました。しかし、日本には仏法はあっても、それを伝える人がおりません。本国には昔、聖徳太子という方がおられて、『二百年の後、この聖教は日本に興隆するであろう』とおっしゃいました。今がこの運に当たる時です。和上が東方に来られて教化なさるよう、お願いいたします」 と申し上げた。大和上は答えて言った。
「昔、南岳におられた慧思(えし)禅師(天台大師の師)が亡くなられた後、日本の王子として生まれ、仏法を興隆し、衆生を済度されたと聞いております。また、日本国の長屋王は仏法を崇敬して、千領の袈裟を作り、この国の大徳や多くの僧に施されました。その袈裟のふちに四つの句が刺繍してありました。『山川は地域を異にするも、風や月は天を同じくす。多くの仏子に寄す、共に縁(えにし)を結び来たれ』と。このようなことから考えると、本当に仏法が興隆する縁のある国である。今、自分と法を同じくしている人達の中で、誰かこの遠くからの要請に応じて日本国に向かい、法を伝えようとする者がいるか。」
その時、人々は黙っていて、一人として答える者はいなかった。しばらくしてから祥彦(しょうげん)という僧が進み出て、
「あの国ははなはだ遠いのです。生きて行き着くのは困難です。大海は無限に広がり、百人のうち一人として行き着く者がいません。同じ生まれるにしても、人間に生まれるのは難しい。まして、同じ人間でも中国に生まれるのはなお難しいのです。進んで修行してもまだ不十分で、悟りを得ることはできておりません。だから、僧達は黙っているのです。」
と言った。すると、和上が言った。
「このことは仏法のためのことなのである。どうして身命が惜しいことがあろうか。皆が行かないならば、自分が行くだけのことだ。」
そこで祥彦が、「もし和上がいらっしゃるのならば、祥彦もまた従って参りましょう」と言った。ここに・・・二十一名の僧がいて、心を同じくして和上に従って行くことを願った。」(『唐大和上東征伝』)

奈良時代以降、日本文化は圧倒的な盛唐文化の影響下にありました。仏教もその中の1つです。最先端の知識は常に大陸・半島からやって来るものでした。それが、やがて平安時代に入って遣唐使が廃止され、文化流入がストップすると、今度はこれまでの蓄積を発酵させ、かなを始めとする独自の文化を花開かせるに至りました。仏教もやがて日本教の一派になっていったとされます。
参考文献:『中国正史の古代日本記録』(いき一郎編訳、葦書房)、『三国史記倭人伝 他六篇 朝鮮正史日本伝1』(佐伯有清編訳、岩波文庫)、『シンポジウム 邪馬壹国から九州王朝へ』(古田武彦編、新泉社)、『NHK漢詩紀行』(石川忠久監修、NHK取材グループ編)、『原本現代訳<62> 元亨釈書』(虎関師錬原著、今浜通隆訳、教育社)、『日本の名著2 聖徳太子』(中村元責任編集、中央公論社)


第5章 平安時代(8~12世紀)の日本と世界

①「日本の使の還るを送る
・・・絶国 将(まさ)に外無からんとするに
扶桑 更に東有り・・・」(徐凝:元和年中〔806~820年〕には活躍していたようです)
(果ての国で、そこより東はもうないかと思っていたが、
扶桑にはまだ東の地があって、あなたはそこへ帰るのだ。)

②「日本国の僧敬龍の帰るを送る
扶桑は已(すで)に渺茫(べうぼう)の中に在るに
家は扶桑の東の更に東に在り
此(ここ)より去って師と誰か共に到らん
一船の明月 一帆の風」(韋荘:836~910年)
(扶桑はすでに果てしない水の、おぼろな遠方にあるのに、
あなたが帰る家はその扶桑の東のさらに東にある。・・・)

これらを見ると、日本列島に対して、「扶桑」(九州)→「扶桑の東」(大和・日本国)→「扶桑の東のさらに東」(東国)といった存在認識が中国側に出てきたようです。

③「王尊師に贈る
先生自ら説く 瀛洲(えいしゅう)の路(みち)
多くは清松白石の間に在り
海岸 夜中 常に日を見る
仙宮深き処(ところ) 卻(かへ)って山無し・・・」(姚合:775~855年)
(中国の東方の海の沖はるかに、中国よりも六時間早く太陽が昇り、また沈む場所があるとして、中国で真夜中の時にそこでは日影が見えると詠んでいます。)

④「僧の日本に帰るを送る
四極 二儀を共にすと云ふと雖(いへど)も
晦明(くわいめい) 前後 即ち知ること難(かた)し
西方は尚(な)ほ星辰の下(もと)に在るに
東域は已(すで)に寅卯の時を過ぐ
大海の浪中に国界を分かち
扶桑の樹底は是(こ)れ天涯(がい)
満帆 若(も)し帰風の便有りとも
岸に到るは猶(な)ほ須(すべか)らく歳を隔てて期すべし」(方干:809~873?年)
(西方の中国ではまだ星空、東方のそこでは夜明けを過ぎているとし、六時間の時差が窺えます。)

⑤「僧の日本国に帰るを送る
滄溟(そうめい) 故国を分かち 渺渺(べうべう)として杯を泛(う)かべて帰る
天尽きて終(つひ)に到るを期せん 人生 此の別れ 稀(まれ)なり
風無きも亦(ま)た駭浪(がいらう) 未だ午ならざるに已(すで)に斜暉(しゃき)
帛(きぬ)を繋(つな)ぐに何ぞ雁を須(もち)ひん 金烏(う) 日日に飛べり」(呉融:850~903?年)
(中国時間の午〔ひる〕前にそこではもう西日で、6時間の時差が示されています。)

 これら姚合・方干・呉融らはいずれも揚子江下流にゆかりのある人で、恐らく現地の船乗り達から、「東海の沖に中国より6時間ばかり早く夜が明けたり、日が暮れたりする所がある」という情報を得ていたものと思われます。

⑥「(哀荘王三年〔802年〕)冬十二月、均貞(昭聖王の従弟)に大阿飡(だいあさん)を授け、仮の王子と為し、以て倭国に人質にしようとした。均貞はこれを辞退した。・・・
(哀荘王四年〔803年〕)秋七月、日本国と聘(へい)を交わし、好(よしみ)を結んだ。・・・
(哀荘王五年〔804年〕)夏五月、日本国、使いを遣わして黄金三百両を進物とした。」(『三国史記』新羅本紀)

⑦「天聖四年(北宋第四代仁宗、1026年)十二月、明州(浙江省、今の寧波)が言うには、「日本国の太宰府が人を遣わして方物を貢した。しかも本国の表文を持っていない」と。詔してこれを却(しりぞ)けた。その後もまた、まだ朝貢を通じることができず、南方の商人の中に、時にその物貨を伝えて中国に至る者があった。」(『宋史』日本伝)

 これを見ると、平安時代に入ってもなお、「倭国」と「日本国」が区別されており、九州筑紫の太宰府は一種特別な存在であったということですね。
⑧「日本は古の倭奴(国)である。唐の京師(都長安)からは一万四千里、ちょうど新羅の東南(に位置している)。海中に島があって、そこで生活している。・・・その王、姓は阿毎(あま)氏、自ら言う。初めの主を天御中主(あめのみなかぬし)と言い、彦瀲(ひこなぎさ)に至るまで大体三十二世である。皆、『尊(みこと)』を号とし、筑紫城に居住していた。彦瀲の子である神武が立ち、そうして『天皇』を号とし、遷(うつ)って大和州を治めるようになった。・・・
(子天智立つ。)明年、使者が蝦夷(えみし)人と共に(唐へ)入朝した。蝦夷人もまた、海中の島に居住している。(蝦夷の)使者の鬚(ひげ)は四尺ほどもあった。箭(や)を首にさしはさんでいる。人をして瓠(ひさご)を載せて数十歩離れて立たせ、(瓠を)射て当たらないということがなかった。」(『新唐書』日本伝)

⑨「(雍煕元年、北宋第二代皇帝太宗、984年)日本国の僧奝然(ちょうねん、東大寺僧、藤原氏)がその徒五、六人と海上より来て、銅器十余事と本国の『職員令』『王年代紀』を各々一巻献じた。・・・その風土を問うと、ただ書いて対(こた)えて言うには、「国中に五経の書及び仏教経典、『白居易集』七十巻があり、皆中国から得たものである。…国の東境は海島に接し、(そこは)夷人の居る所で、身面に皆毛がある。東の奥洲は黄金を産し、西の別島は白銀を出だし、以て貢賦としている。・・・」と。」(『宋史』日本伝)

 平安時代の日本にとって「蝦夷」の存在は悩みのタネだったようですが、この「蝦夷」が東アジアの国際的認識の視野に入ってきたのが、これらの史書に出てくる記録です。もうここには、日本の正史として『日本書紀』(720年完成)を定めた後の歴史観が反映されています。ここで北海道も津軽海峡も初めて認識されています。また、ここに出てくる「黄金産出」記事が「黄金の国ジパング」伝説を生み(実際、奥州藤原氏が宋に莫大な砂金を送り、「千僧供〔せんぞうく〕」を行なっています)、元を訪れたマルコ=ポーロを惹きつけたものと思われます。

⑩「勅を奉じ内宴に陪(はべ)る詩 一首
海国(かいこく)来朝 遠き方自(よ)りし
百年一酔 天裳(てんしょう)に謁(まみ)ゆ
日宮(にっきゅう)座外(ざがい) 何の見る攸(ところ、所)ぞ
五色の雲飛び 万歳に光る」(王孝廉)

 王孝廉は「海東の盛国」とうたわれた渤海(ぼっかい、高句麗の後裔)を代表する第一級の文化人で、814年に渤海使として来日した際、この詩を詠んでいます。実は王孝廉は遣唐使として唐に派遣されていたこともあり、その際に空海と知己となっています。この来日の際、空海は都を留守にして高野山にいたため、王孝廉は早速、高野山の空海宛に書簡と詩文を送り、空海もその喜びを述べると共に「使者の来るのが遅かったので、王孝廉の帰るまでに京に上れないことを残念に思う」という返事を送っています(『弘法大師年譜』『高野雑筆集』)。
日本が遣唐使、遣新羅使を送り続けていたことはよく知られていますが、実は遣新羅使(新羅使と合わせると72回)までには及ばないものの、遣唐使(14回)以上に回数を重ねていて、渤海使と合わせれば49回にも及ぶ活発な外交交流を行なっていることが分かっています。後の江戸時代の朝鮮通信使もそうですが、盛んに漢詩の応酬がされ、筆談で会話が交わされ、才を競い合い、知的真剣勝負の火花を散らして少しでも先進文化を吸収しようと、接待する日本側文化人も必死でした。そこで何と言っても接待役に嘱望されたのはエース菅原道真です。彼なら対等以上にやりとりするだろうと思われたのです。当時、中国を中心とした漢字・漢文・漢詩文化圏が完全に成立していたことがよく分かりますね。
あるいは908年に大使として来日した裴璆(はいきゅう、彼の父裴頲〔はいてい〕も2度にわたって大使として来日し、菅原道真の接待を受けた文人ですが、我が子裴璆のことを「我家の千里駒〔せんりのこま〕有り」と自慢していたと言いますから、これまた渤海を代表するエースと言えましょう)が最も感動したのは、一番年の若い接待役であった大江朝綱(おおえのあさつな)の文才に対してであったとされます。その裴璆が12年後に再び来日した際、早速、迎えの存問使(ぞんもんし)らに「江相公(朝綱のこと)は三公(日本では太政大臣、左右大臣を指します)の位に昇りしや」と尋ねたところ、存問使が「未だし」と答えたので、裴璆は「日本国は賢材(けんざい)を用いる国に非ざるを知る」と嘆いたと言います(『江談抄』『古今著聞集』)。当時は藤原北家による摂関政治が固められつつあり、裴璆が最初に出会った時の朝綱は若干22歳の青年で、12年後でもまだ34歳であったので、無理といえば無理だったのですが。

参考文献:『シンポジウム 邪馬壹国から九州王朝へ』(古田武彦編、新泉社)、『東アジア民族史2 正史東夷伝』(井上秀雄他訳注、平凡社)、『邪馬一国への道標』(古田武彦、角川文庫)、『失われた九州王朝』(古田武彦、朝日文庫)、『三国史記倭人伝 他六篇 朝鮮正史日本伝1』(佐伯有清編訳、岩波文庫)、『中国正史日本伝(2) 旧唐書倭国日本伝・宋史日本伝・元史日本伝』(石原道博編訳、岩波文庫)、『渤海国の謎 知られざる東アジアの古代王国』(上田雄、講談社現代新書)、『別冊宝島39 朝鮮・韓国を知る本』(JICC出版局)


第6章 鎌倉時代(12~14世紀)の日本と世界

①「語録を見て、何の用ぞ。」
「古人の行李(あんり、行い)を知らん。」
「何の用ぞ。」
「郷里に帰りて人を化せん。」
「何の用ぞ。」
「利生(りしょう、衆生を利益すること)のためなり。」
「畢竟(ひっきょう)して(とどのつまり)何の用ぞ。」(『正法眼蔵随聞記』)

 鎌倉時代は新仏教が一斉に花開き、一種の「宗教改革」が起きましたが、中でも最も中国的な「禅宗」は渡宋した栄西(えいさい)と道元によって広められました。栄西の臨済禅は「公案」を用いる「超論理」の禅ですが、道元の曹洞禅は「只管打坐(しかんたざ)」(ひたすら座禅する)に徹した「非論理」の禅だと言えます。上の会話は、天童山に入って一心に語録を読んでいた道元に対して、西川(せいせん)から来た禅僧が詰問した有名なやり取りです。道元はウンともスンと言えなくなって行き詰まり、ついに「只管打坐」から「身心脱落(しんじんだつらく)」に至る悟りを得たのでした。
 やがて、中国からも多くの禅僧がやって来て、日本の禅風を大いに盛り上げました。例えば、南宋から無学祖元(円覚寺開山)、蘭渓道隆(建長寺開山)が、元から一山一寧(元々フビライが日本の視察のために説得して送り込もうとした人物ですが、徳望高く、建長寺・円覚寺・浄智寺に歴住させられています)が、明からは隠元隆琦(萬福寺開山)らが来ています。
②「天の慈しみを受けている大蒙古国皇帝(フビライ)が、書を日本国王に奉ずる。朕(ちん)が惟(おも)うに、昔から小国の君主も国境を接していれば、音信を交し合って、友好関係を作るように務めてきた。・・・高麗は朕の東方の属国である。日本は高麗に近接し、開国以来、時には中国に使者を派遣しているのに、朕の時代になって一人の使者もよこしていない。・・・これからは互いに訪問し合って友好を結び、親睦を深めようではないか。・・・兵を用いようとは一体誰が望もうか。王はこのことをよく考えてほしい。
至元三年(1266年)八月 日」(「蒙古国牒状」~東大寺尊勝院文書、『元史』日本伝)

 イスラムも破り、ヨーロッパの心臓部に迫り、ロシアにも「タタールのくびき」を負わせて、史上空前の大帝国を築き上げたモンゴルも、どうしても征服し切れなかった国が3つあったとされます。高麗、日本、ベトナムです。この三国はモンゴルと国境を接していながら、ついにその支配も免れたわけです(高麗は朝廷が屈服しましたが、民間義兵である三別抄の抵抗により、ついに元軍は撤退しました)。

参考文献:『名僧列伝(一) 明恵・道元・夢窓・一休・沢庵』(紀野一義、講談社学術文庫)、『Books Esoterica3 禅の本 無と空の境地に遊ぶ悟りの世界』(学研)、『原本現代訳<62> 元亨釈書』(虎関師錬原著、今浜通隆訳、教育社)、『中国正史日本伝(2) 旧唐書倭国日本伝・宋史日本伝・元史日本伝』(石原道博編訳、岩波文庫)、『時代をとらえる 新日本史資料集』(瀬野精一郎・宮地正人監修、桐原書店)


第7章 室町時代(14~15世紀)の日本と世界

①「大明書・・・朕、大位を嗣(つ)ぎてより、四夷(しい)の君長(くんちょう)朝献する者十百を以て計(かぞ)う。苟(いやしく)も大義に戻(もと)るに非ざれば、皆礼を以てこれを撫(な)で柔(やすん)ぜんことを思う。ここに汝、日本国王源道義(室町幕府第3代将軍足利義満)、心、王室に存(あ)り。君を愛するの誠を懐(いだ)き、波濤(はとう)を踰越(ゆえつ)し、使を遣わして来朝す。逋流(ほりゅう)の人を帰し、…朕、甚(はなは)だ嘉(よみ)す。…今、使者道彝(どうい)・一如(いちにょ)を遣わし、大統暦を班示し、正朔(せいさく)を奉ぜしめ、錦綺(きんき)二十匹を賜ふ。至らば領すべきなり。」(明国書~『善隣国宝記』)

 「武家の棟梁」というカリスマ性から見れば、平清盛よりも源頼朝が、足利義満よりも足利尊氏の方がはるかに上だったでしょう。しかし、貨幣・貿易に目を配ったマクロ的な経済センスでは、後者より前者の方がはるかに優れていたことは否定できない事実です。平清盛は貨幣経済が進行しているのに日本の貨幣がなかなか流通しないと見るや、それなら貨幣そのものを輸入すればいいと大胆に考え、宋銭を輸入して日宋貿易を開始しました。これは鎌倉時代には建長寺船(建長寺修造の資金を得るため、鎌倉幕府が1325年に元に派遣)、南北朝時代に天竜寺船(足利尊氏が夢窓疎石の勧めで後醍醐天皇の冥福を祈るために天竜寺を創建しようとし、その造営費調達のために1342年に元に派遣)を派遣したのがせいぜいで、正式な外交関係も無く、私的な商船の往来があるにすぎなかったのと対照的であると言えます。
 同様に足利義満も明が倭寇に悩んでいるのにつけ込み、丁重な姿勢で国交再開を申し出、自ら朝貢外交を展開しましたが、「名」はともかく、「実」は莫大なものがありました。中国皇帝は朝貢国のわずかな貢物に対して莫大な賜物と明銭を与え、貿易商品に対しても貢物に付帯した貨物という扱いで関税は課せられず、運搬費、滞在費、帰国費用などは全て明側の負担となるのです。その上、中国の生糸は日本で20倍、日本の銅は中国で4~5倍で取引された(『大乗院寺社雑事記』)と言いますから、日本はこの輸出入で大体80~100倍の利益を得たと考えられています。これはちょっとおいしすぎてやめられませんね。「士」の精神の持ち主なら「名」を取る所でしょうが、当時の日本のトップ自身が「実」を取る「商」の精神の持ち主だったということです。

②「日本の俗、女は男に倍す。故に路店に至り淫風大いに行わる。遊女、路に行く人を見れば、則ち路を遮って宿を請い、以て衣を牽くに至る。店に入らばその銭を受け、則ち白昼といえどもまた従う。」(宋希璟『老松堂日本行録』「日本奇事」)
 宋希璟(そうきけい、1376~1446年)は李氏朝鮮の答礼使として1420年に来日した人物です。当時、高麗朝も李氏朝鮮朝も倭寇に悩み抜いており、倭寇禁圧依頼使節が日本にたびたび派遣されています。宋希璟はそうしたやり取りの中で、日本から派遣された国王使が帰国する際に同行して日本へ渡ったわけですが、当時の日本の政治、外交事情、宗教、風俗などをかなり正確に書き留めており、その優れた日本観察記である『老松堂日本行録』がその後の李朝政府の対日外交政策を方向づけたとも言われています。
 それによれば、街道に遊女がおり、男色が流行していることを報告しています。ある意味では中国以上に儒教を徹底化させた「東方礼儀の国」李氏朝鮮ですから、眉をひそめる光景であったに違いありません。しかしながらその一方で、日本の二毛作・三毛作に驚き、乞食が米ではなくて銭を欲しがることに驚いています。これは日本において貨幣経済が乞食にまで浸透していたことをしめしており、王朝創建後、250年は貨幣経済が定着しなかった李氏朝鮮と対照的な状況を的確に把握しています(貨幣経済の浸透は社会を根本から変えるので、歴史の重要なテーマとなっています)。
 その後、1429年に使節として来日した朴瑞生も、日本人の「風呂好き」に注目したりしていますが、やはり金さえあれば何も持たずに旅行ができることに驚いています。つまり、金を払えば泊まれる宿屋、金を払えば乗せてくれる馬、金を払えば渡れる橋や渡し舟などが整備されていたということであり、日本の「銭」の効用は衝撃的だったようです(こうしてみると日本で為替や手形などの金融技術が発達し、江戸時代には世界で始めて米の「先物取引」が行われたというのも、それまでに伝統的蓄積があったからだということがよく分かります)。

③「人は喜びて茶をすする。路傍に茶店を置きて茶を売る。行人(こうじん)、銭一文を投じて一椀を飲む。…男女と無く皆其の国字を習う。(国字はかたかんなと号す。凡そ四十七字なり。)唯僧徒は経書を読み、漢字を知る。」(申叔舟『海東諸国紀』)
 申叔舟(1417~1475年)は足利将軍職継承に対する慶弔の通信使として、1443年に来日しています。彼の記した『海東諸国紀』によれば、栄西以来、中国からもたらされた「飲茶」の風習が広まっていること、国字教育が普及していることなどが窺えます。彼は「不読の書なし」と言われ、帰国後に世宗大王の「訓民正音」(ハングル、朝鮮の国字)制定に参加し、多大な業績を上げて「保社功臣」という称号を受けたほどの人物ですが、日本での見聞がその後の足跡に大きく影響したように思われます。
参考文献:『時代をとらえる 新日本史資料集』(瀬野精一郎・宮地正人監修、桐原書店)、『誰でも知りたい 朝鮮人の日本人観 総解説』(琴秉洞・高柳俊男監修、自由国民社)、『日本人とは何か(上)』(山本七平、PHP文庫)、『海東諸国紀』(申叔舟著、田中健夫訳注、岩波文庫)


第8章 戦国時代(15~16世紀)の日本と世界

①「私達が今までの接触によって知り得た限りでは、この国民は私が接した民族の中では一番傑出している。」(フランシスコ・ザビエル~一五四九年に鹿児島に入り、そこからゴアのイエズス会士へ送った書簡)

 16世紀中頃以後に来日したイエズス会宣教師達の日本人評としては、「我らが今まで交わった人々の中で最も優れた民族」といったものが一般的で、否定的な見方も当然ありましたが、それについてはイエズス会は「キリストの祝福を受けたことのなかった民族に完全を求めるのは、まず無理である」と結論を下したようです。彼らの伝道は功を奏し、イエズス会の報告によれば、「1605年にキリスト教徒の数が175万人に達し、日本全人口の十分の一を占めた。」という大盛況ぶりです。ちなみにザビエル(1506~1552年、スペインのイエズス会士)が特に高く評価したのは次の3点でした。
(1)日本には政治的・社会的に高度な制度を持っていること。彼は何度もその手紙の中で政治的秩序、社会の各階級の制度について述べています。
(2)すぐれた学問があること。彼は足利学校、比叡山・高野山などの「大学」はパリ大学をはじめヨーロッパの一流大学にも匹敵すると書いています。
(3)日本人は男女を問わず、ほとんど皆読み書きができること。これは当時のヨーロッパ諸国では庶民階級のほとんどが読み書きできない状態であったことを考えると、驚異的だったようです。
 ザビエルはこうした認識に基づいて、次のような三つのプランを立てたとされます。
(1)まず京都へ行って全国の支配者である「王」と宮廷の人々に会って伝道し、「上から下へ」の浸透を図ること。これは戦国時代という「王なき」空位時代にあって失敗し、方針を変えて有力な地方領主へ働きかけることとしています。
(2)日本の有名な「大学」へ行き、ヨーロッパの大学と連携させ、互いに学者を交換教授のような形で交流させること。
(3)宗教文学や教理の翻訳、紹介をすること。識字率が高い日本では、確かに文書伝道は有効であったと考えられます。

②「都(京都)こそは日本においてヨーロッパのローマに当たり、科学・見識・文明はさらに高尚である。…信仰のことはともかく、我らは明らかに彼らより劣っている。私は日本語を解し始めてから、かくも世界的に聡明で明敏な人々はいないと考えるに至った。」(1577年9月20日付、オルガンティノの手紙)
 オルガンティノ(1530~1609年)はポルトガルのイエズス会宣教師で、1570年に来日しています。織田信長の信任を得て、京都に教会を、安土にセミナリオ(神学校)を開設し、日本人からも「ウルガン伴天連(ばてれん)」と呼ばれて親しまれた人物です。実は欧米人の日本人に対する評価は両極端に分かれており、このオルガンティノと正反対なのが1570年に新布教長として来日したカブラルでした。彼の結論は「日本人は傲慢で貪欲で偽善的できわめて自尊心が高い」ので、「ヨーロッパ人に劣ると思わせるように高圧的態度で臨むべき」だと考え、教会内でも日本人を差別し、日本の風俗を嘲笑し、日本語は用いようとも覚えようともせず、自らは完全に洋式の生活を続け、日本人を司祭にすることにも絶対に反対であったと言います。彼は貿易や軍事的便宜を図ることでキリシタン大名を政治的に利用しようともしており、これに危機感を抱いたのがザビエルの後継者ヴァリニャーノ(1539~1606年)でした。
 ヴァリニャーノはカブラルをマカオに転出させ、各地にセミナリヨを設立し、日本人司祭を養成しようとしたのみならず、全日制の初等学校をも充実させようとしました。これはザビエルの遺志を継いだ初代布教長トーレス以来、着々と設立されており、ヴァリニャーノの手紙(1583年12月17日付)によれば、西日本だけで約200校あり、さらにキリシタンのための小学校から大学(今日のミッション・スクールの先駆ですね)まで作り上げる計画であったと言います。

③「日本人は如何に貧しくとも傲慢・尊大で怒りやすく勇敢である。彼らの激情は上から力で抑えると勢いが無くなってしまうが、相手が弱いとなるとむやみに強くなる。
彼らははなはだ恩知らずで、恩を受けてもすぐにそれを忘れてしまい、さらに多くを期待する。残忍・非情かつ貪欲・吝嗇(りんしょく)な者が多い。その行動は全て陰険で、独断的で誠実さに欠け、極端に走りやすく、そして変わりやすい。この国では他のどの天体よりも月が最大の支配力を持っているに違いない(占星術では月が感情を支配すると考えられていました)。
外出する時は大小の二刀を身に付け、あたかも世の中に他の人がいないものの如く、傲然たる態度で歩く。しかし、誰か自分より身分の高い者に出会うと、この威勢は全く一変してへりくだった態度になり、たとえそれがうわべだけの見せかけにせよ、実に鮮やかなる変化を見せる。」(ベルナルディーノ・デ・アビラ・ヒロン『日本王国記』~1594年にフィリピンから来日したスペイン人貿易商が、20年以上の滞日経験を通してまとめたものです)

 宣教師の視点と商人の視点の違い(当然、多く接した日本人の層も違っていたことでしょう)というのもまたおもしろいものですね。

④「賊兵が退いた。その時、賊は三道を蹂躙した。その通過する所では、皆、家屋を焼き払い、人民を殺戮し、およそ我が国の人を捕えれば、ことごとくその鼻をそいで威を示した。
…倭は最も奸悪巧猾で、戦いに際しても、どれ一つとして詐りの手段に出ないということがなかった。壬辰年のことを考えてみると、都城(ソウル)攻撃では巧みであったが、平壌の戦いは拙(つたな)かったと言えよう。我が国は泰平(二)百年、民衆が戦争を知らなかったところに、突然、賊兵の侵入を聞いて慌てふためいて動転し、遠くのものも近くのものも、風に靡(なび)くが如く等しく魂を奪われてしまった。倭は破竹の勢いに乗って、十日ばかりの間に素早く都城に至った。…これは兵家に言う善謀であって、賊の巧みな計略であった。…こうして賊は自ら常勝の威力を恃(たの)んで後事を顧みず、諸道に散開して狂暴の限りを尽くした。…  倭奴は攻戦に習熟し、武器が鋭利である。昔は鳥銃が無かったが、今はこれを持ち、…(その効果は)弓矢に数倍する。我々がもし、平原広野で遭遇して、両陣相対して兵法通りに交戦したならば、これに敵対するのは極めて困難であろう。」(柳成竜『懲毖録』)

 外交の基本は「隣国関係」にありますが、日本の隣国である韓国・北朝鮮には根強い「反日感情」があり、その原点とも言えるのが「秀吉による朝鮮半島侵略」です。すでに1590年に来日し、約7ヵ月間滞在した通信使一行が秀吉の「アジア侵略」の意図(その最終目的は「征明」にあり、李氏朝鮮に対してその先導を要求しています)に触れていますが、正使黄允吉(こういんきち)は「必ず兵禍あらん」と報告し、副使金誠一は「臣は即ちかくの如き情形を見ず」と報告しており、秀吉についても黄允吉が「その目光、爍々(しゃくしゃく)、これ胆智の人に似たり」と述べたのに対し、金誠一は「その目、鼠の如く畏るるに足らざるなり」と答え、評価が真っ二つに分かれたため、防衛力整備が遅れるという事態を招きました。
 かくして秀吉は1592年に15万余人の大軍を派遣して、ソウルを陥落させ、平壌も占領しています(朝鮮半島側ではこれを「壬辰倭乱」と呼びます)。このため、日本滞在時に「功業の盛んなるを目覩し、実に欣賀の情あり」(『海槎録』「玄蘇に答える書」)と述べ、日本に対して好意的であった金誠一ですら義兵闘争へと向かわせ、「誓死報国」の道に至らせるのです。やがて、李舜臣(りしゅんしん)将軍率いる朝鮮水軍の活躍や義兵の抵抗、明の援軍により、戦局が不利となったため、休戦となります。このため、通信使として黄慎が派遣され、その往来、各地での応接、交渉経緯などが『日本往還記』などによって知られますが、それによると、日本側通辞(通訳)が関白(秀吉)が人心を失ったこと、「日本大小の人、皆、怨み骨髄に入る」ほど彼を怨んでいること、全羅道再侵の企てがあることなどの情報を得ており、彼が朝鮮国王の元へ送った部下の軍官趙徳秀も、その報告の中で日本人の厭戦気分に触れ、「凡そ日本の人、児童、走卒と雖ども、皆、兵革に困しみ、関白を怨まざるはなく、而して(加藤)清正を咎(とが)む」と答えています。
 やがて、1597年に秀吉は2度目の朝鮮侵略を敢行し、14万余人の兵を送り込みますが、最初から苦戦を強いられ、翌年に秀吉が病死すると撤兵しました。こうした一連の秀吉の侵略によって朝鮮半島に与えた被害は絶大(江戸時代に朝鮮通信使として来日した申維翰〔しんいかん〕は「秀吉は我が国の通天の讐〔かたき〕であり」「我が国の臣民たる者、誰が、その肉を切り刻みて食わんと思わぬ者がいようか」とまで述べています)で、その反省から当時政府の要職にあってこの問題に対処した柳成竜が、体験した事実を冷静に記録したものが『懲毖録』です。この傷跡の今なお深いことを知る日本人が少ないことは、両国関係においてマイナス以外の何物でもありません。

⑤「二十四日、務安県の一海島――落島という――に着いた。(そこには)賊船が数千艘も海港に充満し、紅白の旗が日に照り輝いていた。(賊船には)我が国の男女が大半相雑(あいまじ)り、(船の)両側には屍(しかばね)が乱暴にも山のように積まれていた。哭声は天に徹り、海潮も嗚咽(おえつ)するかのようであった。…  稚(おさな)い竜と妾の娘愛生は水際(みぎわ)に打ち捨てられた。(やがて)満潮につれて浮き上がり、泣き叫ぶ声が耳に痛々しかったが、それもしばらくして途絶えてしまった。…
 仲兄(姜濬)の子可憐は年八歳になるが、飢え渇いて塩水を飲み、嘔(は)いたり下したりして病気になってしまった。賊が(その子を)抱えて水中に投げ込んだ。(可憐の)父を呼ぶ声がいつまでも絶えなかった。(ああ!)子供よ、父すらも頼りにはできないのだ。…
 秀吉がわが国を再侵した時、諸将に命令を下し、「人はそれぞれ両耳があるが、鼻は一つである」と言って、兵士に命じて、我が国の全ての人の鼻をそがせて首級に代え、倭京に送り届けさせた。(それが)積もって一つの丘陵ほどになった。これを大仏寺(京都市法広寺)の前に埋めたところ、ほとんど愛宕山の中腹の高さに及んだ。」(姜沆『看羊録』)

 姜沆(きょうこう)は朝鮮朱子学の大家李退渓(りたいけい、「小朱子」と呼ばれ、李氏朝鮮が中国以上の儒教国家となる理論的背景となりました)の流れを汲む学者で、彼から朝鮮朱子学を学んだ藤原惺窩(せいか)の弟子林羅山が家康に用いられるに及んで、朱子学が江戸幕府の官学となるわけです(つまり、日本朱子学は朝鮮朱子学の直系なのです)。いわば姜沆は日本の「国師」と言ってもいい存在なのですが、その彼が来日したのは秀吉の侵略時に捕虜になったからでした(1597年)。やがて、1600年に帰国し、日本の国情を報告していますが、それらが『看羊録』にまとめられたのです。そこには次のような記録も出て来ます。 「その風俗はひどく鬼神を信じ、神に事(つか)えることは父母に事えるようであります。生前、人の尊信を受けていた者は、死ねば必ず人々に祀られます。」
「(四国の長浜から大洲への連行途中)余りにも飢え疲れていたので、…六歳の娘は自分で歩くことができず、妻と妻の母が代わる代わる負(おぶ)って行った。負ってある川を渡る時など、水中に倒れてしまったまま、力がないものだから、起き上がることもできなかった。岸にいた一倭人が(この有様を見て)涙をこぼしながら助け出してくれ、…稷糠(しょくこう)とお茶で我が一家をもてなしてくれた。倭奴の中にも、その心ばえがこのような人もいる。彼らが死を好(よ)しとし、殺すを喜ぶというのも、特に法令が彼らを駆り立て(てそうさせ)るのである。」

参考文献:『日本人とは何か(下)』(山本七平、PHP文庫)、『支倉常長 慶長遣欧使節の悲劇』(大泉光一、中公新書)、『誰でも知りたい 朝鮮人の日本人観 総解説』(琴秉洞・高柳俊男監修、自由国民社)、『江戸時代の朝鮮通信使』(李進煕、講談社学術文庫)


第9章 江戸時代(17~19世紀)の日本と世界

①「(日本における)この偶像崇拝主義は、ローマ、トレド、セビリアにおける私達のキリスト教のように、非情に深く根を張っています。それで野蛮人(家康)及びその他の者は私達の布教活動を見て嘲笑し、私達を狂人と考えています。私達を指して、次のように言っているそうです。『もしそちらの宗教(キリスト教)が浸透しているローマやスペインへ行って、12人から24人くらいの日本人が日本の宗教を紹介しようとしたら、我々を判断力の足りない者として嘲笑しないだろうか。我々が彼らをこういう風に(愚かな者と)考えるのは当然のことである。』」(1604年12月23日付、フランシスコ会ディエゴ・ベルメーオが京都からフィリピン諸島総督に宛てた書簡)

②「ポルトガルのイエズス会士はこの都市(京都)に壮大なアカデミーを持っている。ここには数人の日本人のイエズス会員がいる。日本語で印刷した新約聖書(恐らく『ドチリイナ・キリシタン』のようなキリスト教の教義を記した何らかの図書と考えられる)を持っている。このアカデミーでは多数の児童を教育し、これにローマ・カトリック教の初歩を教えている。この都市にはキリスト教徒の日本人が5、6千人いるという。」(1613年にイギリス王ジェームズ一世の国書を持って来日したジョン・セーリスの日記)

 信長の比叡山焼き討ち(1571年)、石山本願寺との全面対決(1570~1580年)、秀吉のキリシタン禁止令(1587年)、家康の禁教令(1612年~)に至るまで、これをヨーロッパ的な「宗教戦争」と見る限り、「何を禁止したのか、いつ禁止したのか、よく分からない」とよく指摘されます。それも道理で、あの信長でさえ、天台宗や一向宗(浄土真宗)の信仰を禁止していませんし、キリスト教禁止令が出た後でも宣教師達はバンバン伝道して、成果が上がっているからです(キリシタン大名もいましたよ)。実は彼らが最も課題としたのは、室町時代から戦国時代を特色付けるとも言える「一揆」を克服することで、百年にわたる「自治」(中央からすれば無政府状態)を実現した「一向一揆」の苦い経験から、家康も「キリシタン一揆」を勃発することを極度に警戒していたとされます。
 これは現代中国が「共産主義」であるにも関わらず、「社会主義初級段階論」を打ち出して「資本主義」を導入する一方で、「国家の分裂」につながるような動きを極度に警戒し、民主化運動が天安門事件を引き起こすと、直ちに戦車を繰り出してデモを踏み潰すことも辞さなかったことと軌を一にすると言ってよいでしょう。中国の場合、植民地時代に分割され、国土をズタズタにされた苦い経験があるため、「統一」を損なうような動きには特に過敏に反応するのです。

③「日本人は生来、高慢な性格で、自分達は世界で最も優れていると思い込んでおり、この上さらに領土拡大への関心は無いと言っている。確かに日本は周辺諸国の暹羅(シャム)、柬埔塞(カンボジア)、ボルネオ、琉球、台湾その他と通商しており、日本の船はこれらの国々に航海しているが、今日まで戦争をしてこれらの国々を占領しようとしたことは無かった。」(1613年に伊達政宗が派遣した支倉常長ら慶長遣欧使節に同行したフランシスコ会宣教師ソテロの報告)

④「イエズス会の宣教師及びポルトガル人が日本に入国してから80年を経た。その間、キリスト教はしばしば迫害を受けたが、日本の大名は貿易の魅力に惹かれて、宣教師を完全に放逐することが遂にできなかった。この貿易に対する魅力が無かったら、キリスト教は全て日本から追放されていたであろう。イエズス会以外の私達フランシスコ会宣教師が日本にいられるのは、マニラと日本との貿易があったためである。皇帝(家康)がフランシスコ会の宣教師などに特権を与えるのは、その仲介によってメキシコと通商を開きたいためなのだ。
皇帝(家康)は、その部下でキリシタン大名の有馬の王(有馬晴信)と皇帝側近(本多上野介正純)の下役(岡本大八)の重大な犯罪(1612年、肥前のキリシタン大名有馬晴信が、鍋島領南部にあった諫早と藤津の旧領地を取り戻す計画を実現するため、本多上野介正純の家臣でキリシタンの岡本大八に賄賂を贈ったことが発覚し、晴信は流刑に、大八は生きながら火刑に処せられた事件)が明るみになった時、一時、キリスト教を禁止しようとしたが、私(ソテロ)が覚書を提出し、スペイン国王との通商条約のことを想い起こさせたために、これを思い止まったのである。
また、今回、使節を派遣した奥州の王(伊達政宗)は、日本の王達の中で最も強力な力を持っている1人であり、その子女は皇帝の子と結婚し、皇帝の信頼が最も厚く、その領土は日本国中最大にして、600年以来これを所有している。彼(政宗)の希望は、メキシコまでフランシスコ会の宣教師を派遣することである。そうしてもらえばメキシコまで使者を遣わし、彼らを奥州に迎えて布教の便宜を図ると言っている。また、スペインの航海士及び水夫を雇って、日本とメキシコ間を日本の商品を積んで運航し、これをメキシコで売って航海の費用に代え、余裕があればメキシコの産物を購入するということである。
彼(政宗)は日本国内で勢力を持っており、また、勇武で知られ、多くの人々は彼が将来の皇帝になることを認めている。彼がもし皇帝になれば、数年以内に全国でキリスト教の信仰が復帰することは明らかである。」(ソテロの報告~スペインのインディアス顧問会議が支倉常長一行の目的に対して疑惑を抱いていたため、ソテロは野心満々に説得をしていますが、勇み足になってしまっていることは否めません。これにはソテロのホラ吹きな性格も影響しているでしょう。)

⑤「日本の一地方の王が、信仰の道にはまだ日が浅いのに布教に熱心で、使節を送ってきたのは結構なことである。この上は神の御慈悲にすがり、伊達政宗が一日も早く洗礼を受けるように望む。」(伊達政宗の書状に対するローマ教皇パウロ5世の返事)

⑥「当地(メキシコ)で得た最近の報告によると、皇帝(家康)はキリシタンを迫害するが、奥州国王伊達政宗は依然、これを保護している。
政宗は我らを出迎えるため、1隻の船を当地に派遣した。大使(支倉常長)はフィリピン総督に、その赴任のためにこの船の使用を承諾する旨を申し出た。私はスペイン本国から宣教師を連れて来ることができなかったが、当地の管区長からとりあえず政宗の希望を満足させるため、2人の宣教師を伴う許可を得た。
ただ今、日本において、皇帝が服従させることができない王は、政宗と薩摩の島津である。右両人のうち、政宗は最も優勢である。政宗は日本のキリスト教徒が30万を越え、彼らがその君に忠実なことを知っているが故に、自分の家臣をキリシタンにして、自分も信者となる。帝国内のキリスト教徒が彼を旗頭とすれば、これを率いて皇帝を攻め、長く帝国を自分の領土にすることができると思っている。政宗はこのことを自分の利益のためにしようとしていることは勿論であるが、これはまた日本におけるキリスト教の利益であることは言うまでもない。
彼はスペイン国王陛下と交易を結ぼうと希望しており、そのためにオランダ人やその他の異教徒は敵であると公言した。それ故に陛下が聖教のために彼を援助することは、どの観点から見ても適当と思われると信じる…」(1618年2月3日付、ソテロがメキシコ市からマドリードにあるインディアス顧問会議議長に宛てた書簡。ソテロの強気のホラはまだまだ続いています。)

 ソテロは西日本中心に教線を張ったイエズス会に対抗して、東日本を中心にフランシスコ会の基盤を作り、自分がその頂点に立とうとしていたとされます。一方、「生まれてくるのが20年遅かった」と言われる「奥州王」伊達政宗はスペインの無敵艦隊(アルマダ)を江戸湾に入港させるべく交渉して、最後の天下取りの可能性を探ったわけですが、情報戦では「天下人」徳川家康の方が一枚上手でした。彼はイギリス人ウィリアム・アダムス(三浦按針)を外交・貿易の顧問とし、すでにアルマダ戦争(1588年)でスペインの無敵艦隊はイギリス艦隊に破れ、海上権はイギリスに移ったことを知っていていたのです。ちなみにアダムスは次のような書簡を送っています。
「大君(徳川家康)は私を非常に厚遇し、イギリスの貴族にも比すべき地位を賜り、8、90名の農民を従僕として給せられた。大君がこのような貴い地位を外国人に与えたのは、私が最初である。
 私がこのように大君の信用を得たので、前に私を敵視していたポルトガル人・スペイン人らの驚きは大変なもので、いずれも媚(こび)を呈(てい)し、友として交わろうと望んでいる。私は怨みを棄て、彼らのために尽力している。」

⑦「俘虜中の姜沆は姿勢を崩さず、朝鮮の衣冠を変えず、静かに一室に処して、ただ書物を読み、字を綴るを事として、未だかつて倭人と相対して自分から口を開くことがない。また、東萊城を守って小西行長軍に殺された宋象賢の妾は、節を守って屈せず、死を以て自ら誓う。倭人、貴(とうと)んでこれに敬意を払い、為に一室を築き、我国の捕虜となった女人をして護衛をさせた。また、惟政(四溟堂大師、朝鮮半島に進軍した加藤清正を陣中に四回も訪ねて談判し、日本軍の動静を探ったことで知られています。戦後は対馬に派遣され、さらに家康の接見を受けて国交回復の意志を聞き、講和条件をまとめて、その後の善隣外交の道を開きました)が使者としてやって来て、節を全うして帰るに及ぶや、遠近、宣伝して美事をなすと称した。これによって見ると、日本の国は専ら勇武を尚び、人倫は知らないが、節義の事を見るに至っては、すなわち感嘆してこれを称せざるはなし。また、天理本然の性を見るべきのみ。」(慶暹〔けいせん〕『慶七松槎録』)

 第1次朝鮮使節団の副使として来日した慶暹の日本紀行日記です。彼は日本の切腹や武闘風習に驚き(李氏朝鮮は宋と同じく文官優先主義でした)、日本人が姓を簡単に変えること(李氏朝鮮では中国と同じく、女性が結婚しても姓を変えず、それぞれの宗族における秩序は絶対的で、「族譜」と呼ばれる何十代にもさかのぼる家系図帳を作って、歴史的アイデンティティを強固に培っていました)、天皇の血族結婚(李氏朝鮮や中国では「同姓不婚の原則」があります)は奇異なものとして感じたようです。
 そもそも江戸時代は「鎖国時代」と言われますが、完全鎖国ではなく、限定鎖国であり、オランダとの公貿易、明・清との私貿易関係があり、李氏朝鮮とは正式な国交関係を樹立して、使節往来を重ねていたのです。この朝鮮通信使(正確には第4次以降の使節を「通信使」と呼び、将軍の代替わりに来日する「慶賀使」でした)の日本紀行記は貴重な歴史の証言ともなっています。例えば、第2次使節団の正使呉楸灘(ごしゅうだん)は『東槎上日録』、従事官李石門は『扶桑録』を、第3次使節団の副使姜弘重(きょうこうじゅう)は『東槎録』を、第4次朝鮮通信使の正使任絖(じんこう)は『丙子日本日記』、副使金東溟は『海槎録』、従事官黄漫浪は『東槎録』を、第11次朝鮮通信使の正使趙済谷は『海槎日記』を著わしており、日本人の好戦性(わずか数歳の子供でも短剣を帯び、その残忍毒虐の性は豹狼、蛇蝮と異なる所が無いとしています)、男女の別が無く風俗が乱れていること(その禽性・獣行は醜にして聞くに忍びずとし、混浴して恥としないことに驚いています)、かな文字はハングルに似ていること(かなは弘法大師が発明したとしています)、朝鮮の書籍が多く印刷発行され、中国の書籍はきわめて値段が高いこと(日本人は昔から読書好きだったようですね)などを紹介しています。また、1682年の第7次あたりから詩文の応酬が盛時を迎えたようです。日本を代表する外交官で、「誠信外交」を展開した雨森芳洲(あめのもりほうしゅう、1668~1755年、木下順庵門下で対馬に派遣され、朝鮮の方言まで解し、その風俗、慣習、歴史にも精通していたとされます)は、第9次朝鮮通信使を迎えた際、製述官(詩文の応接者であり、使者一行の文人代表の立場)申惟翰(しんいかん、1681~?年)に対して、次のように述べています。
「日本人の学んで文をなす者は、貴国とは大いに異なって、力を用いてはなはだ勤むるが、その成就はきわめて困難である。公は今ここ(対馬)より江戸に行かれるが、沿路で引接する多くの詩文は、必ず皆朴拙にして笑うべき言であろう。しかし、彼らとしては千辛万苦、やっと得ることのでき詞である。どうか唾棄(だき)されることなく、優容としてこれを奨詡(しょうく)して下されば幸甚である。」(申惟翰『海游録』)
 実際、申惟翰は墨を磨るのも追いつかないほど、来訪する文人の応接(同行の役人が制止して入り得ない者もいたそうです)に追われ、食事もできず、明け方になっても寝られず、紙は雲の如く積まれ、筆は林の如く集まって、しばらくして無くなるとまた進めてきて、自分でもいくばくの詩篇を作ったか分からないほどであったと言います。

⑧「(8代将軍徳川吉宗は)人となりが精悍にして俊哲、今年三十五歳である。気性が買い魁傑にして、かつ局量あり、武を好んで文を喜ばず、倹を崇んで華美を斥ける。常に曰く、「日本人は必ず朝鮮の詩文を慕う。しかし、風気がそれぞれ異なり、学んでも能くし得ざるからには、自ら日本の文をなすに如かず」と。…
 国書を伝えて後、余は出て来てから雨森に言った。「貴国の大君は、倹素にして飾り気がなく、はなはだ君人としての度量がある。その治平が期して待たれる」と。」
「兵制は最も精強である。…こうして軍卒は、平素からの訓練によってそれが習性となり、事に遇えば蛟(みずち)の如く奔り、猪の如くに突っ込み、賊を見れば、燈火に飛び入る蛾の如く、轍(わだち)にぶつかる螗(なつぜみ)の如くになる。…これ野蛮の習性とはいえ、しかし養兵の術を得たものと言うべきであろう。」
「医学は日本で最も崇尚(すうしょう)するものである。天皇、関白をはじめ、各州太守(藩主)は皆医官数人を置いて、廩料(りんりょう)を与えること、はなはだ厚い。故に医者は皆富む。」
「大坂の書籍の盛んなること、実に天下の壮観である。我が国の諸賢の文集のうち、人の尊尚(そんしょう)する所は『退渓集』に如(し)くはない。すなわち家でこれを誦し、戸でこれを講ずる。諸生輩(せいはい)との筆談でも、その問う項目は、必ず『退渓集』中の語をもって第一義となす。質問も「陶山書院(李退渓の開いた学校)の地は何郡に属するか」、「先生の後孫は今幾人あり、何官をなすか」、「先生は生前、何を嗜好(しこう)されたか」などなど、その言う所ははなはだ多く、記し尽くすことはできない。」(申惟翰『海游録』)

 恐らく申惟翰は歴代朝鮮通信使中、最高の文人であったと言ってもよいかと思われますが、その分、彼の日本見聞の情報確度はきわめて高いものと言うことができるでしょう。彼によれば、一行に同行した小童が19名おり、彼らが「童子対舞」を披露したとのことですが、これが岡山県牛窓町に今日まで伝わっている「唐子(からこ)踊り」のルーツとなっているのです。
⑨「これこそ閉じたまま鍵を失くした玉手箱だ。これこそ財力と武力と陰謀とを駆使して、これまで手なづけようと各国が覗って来たが、成功しなかった国である。これこそ巧みに文明の申出を避け、自己の知力と法規によって敢て生きようとして来た人類の大集団であり、外国人の友好と宗教と通商とを頑強に排撃し、この国を教化しようとする我々の意図を嘲笑し、自己の蟻塚の勝手気ままな国内法を、自然法にも、民法にも、その他あらゆるヨーロッパ流の正と不正に対立させている国である。」(イワン・A・ゴンチャロフ『日本渡航記』)

 これは1852~1854年までプチャーチン提督の秘書という立場で幕末日本を訪問したゴンチャロフ(1812~1891年、彼が書いた『断崖』という作品は二葉亭四迷の『浮雲』のモデルになったとされます)の体験談『フリゲート艦パラーダ号』の一部『日本渡航記』(1858年刊)です。いよいよヨーロッパ列強の目に東洋の島国が魅力的に映ってきたようです。「我々でなければアメリカ人が、またアメリカ人でなければ誰かその後に続く者が、いずれ近いうちに日本の血管に健康な液汁を注ぐ運命にあるのだ」という意気込みを持ってやって来たロシア使節ですが、日本側の応対は「役人達は奉行に聞かねばならぬと言い、奉行は江戸の将軍に伺い、将軍はミヤコの天子ミカドに奉問する」と言って、回答引き延ばし戦術を取るといったものでした(イギリス公使パークスの片腕として来日したアーネスト・サトウも、幕末日本にいた外国人は「日本人と不正直な取引者は同意義である」と確信していたと報告しています)。これには業を煮やしたようですが、日本の風景については「どこを見ても一場の絶景であり、一幅の絵である」としてこれをほめちぎり、日本人については「相当に開けており、応対も気楽で気持ちが良く、またあの独特の教養は極めて注目すべきものがある」「頑迷固陋な見込みの無い国民ではない。かえって物の分かった、分別のある国民で、必要と認めたら他人の意見もうまく取り入れる国民である」と評価しています。
 彼は中国に関しても、上海などでの「命令的で、粗暴で、冷たい軽蔑的な」イギリス人の態度に触れながら、「イギリス人と中国人とどちらがどちらを文明開化しているか分かりません。かえって中国人の方が、あの謙譲と気弱さと商売上手でもってイギリス人を開化しているのでしょうか」と述べており、さらに丁寧に手入れの行き届いた田畑・茅屋・庭園があり、平和な人間関係を保っている琉球諸島に高い評価を与えていることにも窺えるように、比較的冷静に客観的な観察をしていたことが分かります。ちなみに1859年にイギリス初代駐日総領事(後に特命全権公使)として来日したR・オールコック(1809~1897年)も関心を持って日本の風俗習慣を研究していますが、1863年に刊行した『大君の都』の中で「日本は本質的に逆説と変則の国だ」と述べています。

⑩「日本人は実に驚くべき国民です。蘭学に依って、アメリカの大学卒を凌(しの)ぐほどの学力を身につけています。蘭学は日本人にとって大いなる祝福であったと言えます。」(ヘボン、「Spirit of Mission」誌上に掲載された記事)

ヘボン(1815~1911年)はヘボン式ローマ字の発明者として知られ、聖書の日本語訳に携わり、明治学院創設者の一人に数えられている人物です。彼は「私はフランス人よりドイツ人が好き、そしてそれよりも日本人の方がずっとよろしい」と言うほどの親日家で、長年にわたる日本語研究の結果、「日本語は中国語より数段高級な言語だ」とまで述べています。

参考文献:『支倉常長 慶長遣欧使節の悲劇』(大泉光一、中公新書)、『日本人とは何か(下)』(山本七平、PHP文庫)、『誰でも知りたい 朝鮮人の日本人観 総解説』(琴秉洞・高柳俊男監修、自由国民社)、『江戸時代の朝鮮通信使』(李進煕、講談社学術文庫)、『外国人による日本論の名著 ゴンチャロフからパンゲまで』(佐伯彰一・芳賀徹編、中公新書)、『ヘボンの生涯と日本語』(望月洋子、新潮選書)


第10章 明治時代(19~20世紀初頭)の日本と世界

①「ヨーロッパの君主が、その国家と国民に対して占める地位に比べて、恐らく日本の天皇の地位を簡単に定義すれば、次のように言えるかもしれない。すなわち、天皇は単なる人格を表わすというよりも、むしろある観念の人格化されたものを表わすと。したがって、日本の天皇はドイツの「ヴィルヘルム」とかイギリスの「エドワード」とかいうよりも、むしろ「ゲルマニア」とか「ブリタニア」というのに近い。」(エルウィン・ベルツ『日記』)

 1871年に行なわれた廃藩置県を見て、イギリスの駐日公使パークスは「日本の天皇は神である」と歎じて言いました。ヨーロッパにおいてこんなことを行なうとすれば、何十年、あるいは100年以上の血なまぐさい戦争の後に初めて可能であろうものを、一片の勅令によって一気に断行してしまうとは、ということです。この摩訶不思議な、700年ぶりに政治の表舞台に出て来た「天皇」と、その側近たる元老を中心に進められてきた日本の近代化について、宮内省侍医を務めたドイツ人医師ベルツ(1849~1913年)が貴重な報告をしています。それによれば、「天皇睦仁は、その長期にわたる治世中、絶えず有能な相談相手を側近に持つという、まれな幸運に恵まれた」としていますが、そうした元老(彼らは明治維新以来、国家体制を自らの手で作り上げてきたという歴史的現実に基づいて政治的影響力を行使する、「超法規的存在」でありました)の1人として、ベルツも親しくしていた伊藤博文を挙げることができるでしょう。
伊藤はプロシア流の強大な君主大権を中心に明治憲法を構築しましたが、その草案審議の冒頭で「日本には人心を統一すべき宗教が無く、これに代わる存在は皇室あるのみであるから、天皇を国家の機軸として天皇大権をなるべく損ねないように憲法を起草した」(まさしく「天皇」に「キリスト教的神」の役割を負わせたということです)旨を述べていますが、逐条審議に入ると「天皇は国の元首であるからこそ統治権を総攬するのであり、しかもそれはあくまで憲法の範囲内で行なうものであって、決して濫用すべきではない」ことを力説しており、「立憲政治の本質は君主権の制限にある」という観点を強く主張しています。どう見ても、伊藤は「天皇機関説」の立場に立っており、憲法を作った彼が生きていれば、軍部が美濃部達吉を糾弾した「天皇機関説問題」は起きなかっただろうと言われています。
 ところで、ベルツは明治憲法発布直前の状況について、次のように記しています。
「(明治22年、1889年、2月9日、東京)東京全市は、11日の憲法発布を控えて、その準備のため、言語に絶した騒ぎを演じている。到るところ、奉祝門、照明(イルミネーション)、行列の計画。だが、滑稽なことには誰も憲法の内容をご存知ないのだ。」

②「他国が数世紀もかかって成し遂げたことを、日本は一世代の間に作り上げねばならなかったという事実は、日本が自由主義的な制度というような贅沢品に、時間をかける余裕を持たなかったことを意味する。・・・その速度の故に、これらの重大な変革は民主主義的代議制度を通じる人民大衆の手によってではなく、少数の専制官僚の手によって達成されたのである。・・・専制的・保護的方法は明治の指導者にとって、日本を植民地的国家の列に堕させないための唯一可能な方法であった。」(ハーバート・ノーマン『日本における近代国家の成立』)

 ノーマン(1909~1957年)はカナダ人で、本書の中で近代日本が他国に侵略されず、むしろ列強の仲間入りを急速に始めて、世界に例のない発展ぶりを示した秘密を、政治、経済、文化など各方面から分析しています。ルース・ベネディクトの『菊と刀』と並んで、「日本学の礎石」と位置づけられています。
ちなみに元イギリス情報部員であるリチャード・ディーコンなどは1860年代末以後、日本が陸海軍、行政、教育、産業と日本人の生活のほぼ全ての面での情報収集活動に力を注いでいたことに注目し、「おそらく世界史上、国を挙げてこれほどまでに徹底した、広い基盤を持つ情報収集組織を作り上げた例は見当たらない」(『日本の情報機関』)として、ゼロから出発して海外情報組織を作り上げたその能力を重視しています。あるいはイエズス会に入り、上智大学理事長まで務めたヨゼフ・ピタウは、「日本のめざましい発展の秘訣は何か」と聞かれるたびに、ためらわずに「教育です」と答えています(『ニッポンと日本人』)。

③「日本は日本の風習を余り信用していない。日本は余りにも急いで、その力と幸を生み出してきたいろいろな風俗、習慣、制度、思想さえも一掃しようとしている。日本は恐らく自分達のものを見直す時が来るだろう。私は日本のためにそう願っている。」(エミール・E・ギメ『東京日光散策』)

④「日本にはそれら自然の美、芸術の美が豊富にある。そして、スイスのような国を見れば、容易に利益を得ることが想像できる。…優しさと美しさの帝国である日本は、地球上のあらゆる国の人々の平穏な出会いの地となり得るであろうし、世界の庭となるのに良い立場にあるのである。」(フェリックス・レガメ『日本素描紀行』)

 ギメ(1836~1918年)は1876年に画家レガメ(1844~1907年)と共に宗教事情視察の目的で来日したフランス人で、1880年に『東京日光散策』を刊行しています。また、同じフランス人であるレガメは、1899年に日本の美術教育視察のために再来日し、3ヵ月滞在した後に帰国して、1903年に『日本素描紀行』を刊行しています。芸術家の目から見た「伝統日本から近代日本への移行期」という観点から、貴重な証言になっています。こうした系譜は、例えばラフカディオ・ハーン(1850~1904年、日本名小泉八雲)などにも見ることができるでしょう。
 あるいはフェノロサ(1853~1908年)に到っては、正倉院の第一印象は「アジア大陸の規模で蘇った第2のローマ」であり、聖徳太子は「日本のコンスタンティノス大帝」、恵心僧都源信は「日本のフラ・アンジェリコ」、世阿弥は「日本のシェークスピア」、葛飾北斎は「日本のディケンズ」と激賞しており、運慶と湛慶はドナテルロとミケランジェロに、足利義満と義政はコシモ・ド・メディチとロレンツォ・ド・メディチに比しているのです。彼にとって日本は「東洋のギリシャ」として映ったようですね。
 ピーター・ミルワードなども東京の中にロンドンを見、ロンドンの中に東京を見つけています。
「皇居に当たるのはバッキンガム宮殿である。霞ヶ関はウェストミンスターで、国会議事堂は上下両院、多くの官庁がホワイト・ホールの代わりになっている。・・・日比谷公園はハイド・パークの小型版、数寄屋橋のあのネオンの輝きはピカデリー・サーカス、銀座は言うまでもなくオックスフォード街、そして、日本橋、あるいは広重時代の日本橋はロンドン・ブリッジということになろうか。」(『イギリス人と日本人』)

⑤「薩摩の乱(西南戦争)の政治的結果として、さらにもう1つ大事なことがある。戦勝後、政治指導者達は乱を起こした地方に対して何の報復措置も取らなかった。政治指導者達は物分りのいい鷹揚な方針を取り、元来は有能で進歩的な人間の多い薩摩人を大勢政治に参加させたのである。」(ジョージ・サンソム『西欧世界と日本』)

 サンソム(1883~1965年)はイギリスの日本研究家として著名な人物ですが、「日本の柔構造」に対してこのように実に鋭い指摘を行なっています。西南戦争の流血は戊辰戦争を上回り、近代日本建設途上での最大の内乱でしたが、いったん内乱が鎮定されると、死刑に処せられたのはわずか22人に過ぎず、懲役刑に処せられた者は2500人近くいましたが、そのうち90%以上は3年以下の刑であり、4万人以上が免罪となっているのです。これに対して、その6年前(1871年)に起きたパリ・コミューン事件では、フランス政府軍に捕らえられたコミューン派市民はほとんどその場で銃殺され、10日余りで約3万人が殺されたのみならす、戦後は約4万人が軍事裁判にかけられて370人余りが死刑、8000人近くが流刑・要塞禁固・強制労働の刑を受け、多数の獄死者を出しているのです(その80年前のフランス革命でのジャコバン政権による恐怖政治はそれ以上でした)。
 これだけでも日本とフランスの「逆賊」に対する取り扱いが対照的であることが分かりますが、さらに1898年には何と上野公園に西郷隆盛の銅像が完成し(今もありますね)、800余人のそうそうたる政治家・軍人・外国公使らが集い、時の政府を代表する内閣総理大臣山県有朋が祝詞を述べているのです。山県は陸軍卿として西南戦争で西郷軍討伐の指揮を取った人物であり、その西郷が打倒しようとした政府によって、首都東京の玄関口に「逆賊の首魁」の銅像が建てられたわけですから、これはソ連時代のモスクワ中心部にトロツキーの銅像が建設され、その宿敵スターリンが除幕式で祝詞を読んだようなものです。これに当時日本にいた外国人も驚きを隠せず、東大で教えていたウィリアム・グリフィスなども次のような感想をもらしています。
「欧州諸国では主権者に叛いた者は斬首した上、四肢を切断するのが習慣であった。日本では、明治大帝が西南の役における多数の謀叛人を赦された上に、その首領たる西郷の銅像を上野に建てることを許された。それには我々外国人驚いた。」
 実際、「逆賊」「謀叛人」すら後に赦して政府高官に取り立て、「野に遺賢なからしむ」方策を取るケースは近代日本では枚挙にいとまがなく、榎本武揚、勝海舟、陸奥宗光も皆そうであり、会津藩白虎隊の生き残りである山川健次郎が東京帝国大学総長となったのもその一例です。旧幕臣も自由民権派も民党勢力もどしどし政府に人材登用されており、あの悪名高き治安維持法ですら、死刑の規定があるにもかかわらず、実際には決して適用されず、その話を聞いたナチス・ドイツのゲシュタポ長官であったヒムラーには信じられなかったようです。日本で初めて本格的な化学テロが行なわれた「サリン事件」でも、結局、破防法適用が見送られたのは、こうした「日本の柔構造」の感覚から来たのかもしれません(これほどの事件に適用されないなら、一体どんなケースを想定しているんでしょうね?)。

⑥「精神面においては、我々とは全く対蹠的であるように見える。…彼らの世界は我々の世界を壮大に、喜劇的に引っくり返したものだからである。…逆さに話し、逆さに書き、逆さに読むのは序の口である。転倒は単なる表現形式はおろか、思想の内容にまで及ぶ。…濡れた傘を乾かすのに先ではなく柄を下にして立てることから、マッチをつけるのに手前にではなく外向きに擦る点に到るまで、…我々と同じ事をしながら動きは正反対なのである。」
「まず第一に、日本語は好ましくも代名詞を欠いている。あの厭わしい「私(I)」は、その不在こそ目立つという次第であり、あの不愉快、反感をそそる「あなた(you)」もまた、全く押さえ込まれている。また、差し出がましい「彼(he)」の方も、こんなよそ者、第三者なんてお呼びではないといった具合なのだ。」(パーシヴァル・ローエル『極東の魂』)

 1883年に外交官として来日し、10年間滞在したローエル(1855~1916年)による比較文化論、比較言語論です。1888年に発刊されました。ちなみにローエルはこの「違い」に対して好意的でしたが、同じ頃に発刊されたピエール・ロチ(1850~1923年)の『秋の日本』(1889年刊行)では、「あらゆるものが奇妙で対照的なこの日本は、何という国だろう」といった「違い」に対する疲れ、嘆息が漏れています。
また、1890年に刊行された『日本事物誌』は日本に暮らすこと38年に及び、古語を交えて見事な日本語を話したバジル・H・チェンバレン(1850~1935年)の作品ですが、「西欧至上主義」の立場から日本の文学、美術、音楽、建築、どれを取ってもヨーロッパと比べて小さく、幅・深さ・大きさに欠けると結論づけています。チェンバレンは多くの日本人門下生を育て、学者としても尊敬されていて、温和な親日家というイメージが濃厚ですが、その彼が、当時、軍事的にも急速に国際社会に台頭してきた新興勢力日本に対して、「文化的にはほとんど見るべき所を持たない」とする判定を加えたことに西欧諸国は溜飲を下げたようです。『日本事物誌』がその後、版を重ね、独訳、仏訳も出されて、広く西欧で読まれていった背景には、日本の急激な近代化の成功が西欧列強の全く予期せぬものだったことが窺えます(近代日本は一八九四年に日清戦争に勝ってアジア・ナンバーワンとなり、1904年の日露戦争にも勝って列強の一角に食い込んでいます)。

⑦「墓場から甦って、大砲と爆弾の音を響かせ、陸に海に軍隊を動かし、政治上の要求を掲げ、自らも世界も不敗を信じていた国(中国)を打ち破り、人々の心を茫然自失させて、ほとんど信じ難いまでの勝利を収め、生きとし生けるものに衝撃を与えることとなった、この民族とは一体何者なのか。…如何にして世界は、かくも高揚した力を、つまり7つの海とあまたの国々とを震撼させずにはおかぬ一大勢力、全世界を照らし出す昇る太陽を、目の当たりにすることになったのか。今や誰もが驚きと讃嘆の念を持って、この民族についての問いかけを行なっているのである。」(ムスタファー・カーミル『昇る太陽』)

 カーミル(1874~1908年、フランス留学中にピエール・ロチと兄弟のように深い関わりを持っています)はエジプトの民族主義的政治指導者で、『昇る太陽』は1904年の刊です。日本の近代化の成功は今なおアラブ世界に好感を持って見られていますが(非キリスト教国でありながら、キリスト教国に匹敵ないしそれを上回る経済的成功を遂げた)、この『昇る太陽』が以後のアラブにおける日本認識を規定する基本的作品となったとされます。
 実に日露戦争後に日本は一躍アジア諸国から注目され、世界からも一目置かれるようになったのも事実です。ベルツもインドから来たカプルタラの大王(マハ・ラージャ)に「何が故にアジアにおいて唯一日本のみが、このように独立自主であるか」との質問を繰り返し受け、次のように答えています。
「日本人は(千年以上にわたり築き上げられた、栄誉ある武門の流れをくむ点は別としても)割拠主義のインド人とは大いに異なり、顕著な国民相互の連帯感を持つのであって、しかも国民全体がそうなのである。この国民には、国家の危急存亡の時をわきまえる顕著な天性がある。そしてそんな場合には、匹夫といえども、自己並びに一家のあらゆる欲望を我慢することができるのである。
これに加えてはなはだ重要なのは、自覚を持って新日本を建設した、一部の有力な政治家の極めて達観的な政策である。彼らはひとたび旧日本の開化手段をもって西洋諸国と相競うことの不可能を悟るや、あらゆる西洋の成果を、理解が早くて吸収力のある国民に組織的かつ合理的に吹き込み始めた。もちろん、なお若干の他の原因が加わるのであるが、自分はこれらをついでに述べておいた。」

⑧「ある朝、全世界は日本が一夜のうちに旧弊の壁を突き破り、勝ち名乗りを上げて現われた時に、驚きの目を向けたのである。それは信じられないほど短い間に行なわれたことなので、新しい建物が立てられたのではなく、着物を着替えたかのように思えた。…これによって、残りのアジアは勇気づけられた。生命と力が私達の中にあるということが我々には分かった。後はただ死んだ殻だけを取り除けばいいのである。」(ラビンドラナート・タゴール『ナショナリズム』)
 タゴールはアジアで最初にノーベル文学賞を受賞した人物で、これは日露戦争後の日本について述べた部分です。やはり、日清・日露戦争が世界に与えた衝撃は並々ならぬものがあったようです。ちなみにベルツも、坂本竜馬が皇后の夢に出て来て、「私は坂本竜馬と申す者でございます。今度の戦(日露戦争)は勝利でございますから、ご安心遊ばされますよう、お知らせも申しあげるため参上いたしました。この坂本竜馬めの申し上げることに嘘、偽りはございません」と述べ、この話が国民を元気付けたことを妻ハナから聞いたこととして伝えており、さらに次のように感慨を述べています。
「かくてまたもや世界歴史の1ページが――それも、現在ではほとんど見透しのつかない広大な影響を有する1ページが――完結されたのである。今や日本は陸に、海に、一等国として認められた。我々が東アジアにおいて、徐々にではあるが、間断なく発展するのを見たその現象が、今や近世史の完全な新作として、世界の注視の的となっている。――アジアは世界の舞台に登場した。そして、このアジアはヨーロッパ諸国の政策に、従って我々の祖国(ドイツ)にもまた共通の重大な影響を及ぼし得るのであり、また及ぼすはずだ。ヨーロッパだけの政策は、もはや存在しない。世界政策があるのみだ。東アジアの出来事はもはや局部的な意義を持つものではなく、今日では我々にとって極度に重要な関心事である。」
しかしまた、タゴールは日本に対して次のような警告を発することも忘れていません。
「日本にとって危険なことは、西洋の外面的な特徴を模倣することではなくて、西洋のナショナリズムの原動力を自らのものと受け入れてしまうことである。日本社会の理想はすでに政治の手にかかって打ち負かされている徴候を示している。日本の現代史の入り口には、科学からとられた「適者生存」という標語が大きな字で書かれているのを見ることができる。その標語の意味は、言い換えれば「自らを助けよ、そしてそれが他人に如何なる代償を払わせるかは気にするな」ということである。」

⑨「日本が露国と開戦した時、その宣戦布告書に東洋平和の維持、韓国の独立を謳いながら、今日に至るもそのような信義は守られず、かえって韓国を侵略し、5ヵ条の条約、7ヵ条の条約を結んだ後、政権を掌握し、皇帝を廃位し、軍隊を解散し、鉄道、鉱山、森林、河川など皆収奪してしまった。さらにまた官衙の各庁や、民間の邸宅を兵站の必要と称して奪居し、肥沃な田や昔からの墳墓を軍用地と称してこれを抜掘している。その禍いは生きている者だけでなく、先祖にまで及んでいる。その国民たる者、子孫たる者で、誰がその怒りを忍び、辱めに耐え得る者があるだろうか。しがたって、2千万の民族が一斉に憤起し、国内全体で義兵が各地で蜂起している。ところが彼の強賊どもは、かえってこれを暴徒と見なして兵を出動させて討伐し、極めて悲惨な殺戮をしている。ここ一両年の間、韓国人の被害者は10万余に及んでいる。国土を掠奪し、生霊を辱める者が暴徒なのか、自ら自国を守り、外敵から防禦する者が暴徒なのか。…日本の対韓国の政略がこのように残虐である根本をなすものは、全ていわゆる日本の大政治家、老賊である伊藤博文の暴行であって、韓民族2000万が日本の保護を受け、現在、太平無事で日増しに進むことを願うと偽り、上は天皇を欺き、外は列強を欺き、その耳目を掩(おお)て、みだりに自ら奸策を弄して非道の限りを尽くしている。…
 わが韓民族がもしこの賊(伊藤)を処罰しなければ、韓国は必ず滅亡し、東洋はまさに滅びるであろう。」(安重根『獄中記』)

 日本は「文明開化」による「近代化」に成功し、外交では不平等条約を改正して西欧列強と対等の立場に立つことを望み、さらに「富国強兵」「殖産興業」を図り、産業革命を推進しましたが、それらは基本的に日清戦争、日露戦争という2つの戦争を契機に実現されました。しかし、「東洋の中での西洋化」と共に「東洋に対しての西洋化」も進み、日本が「琉球(1872年琉球藩設置、1879年沖縄県設置~琉球処分)→台湾(1871年日清修好条規、1874年台湾出兵、1894年日清戦争~下関条約で台湾割譲)→朝鮮半島(1875年江華島事件、1876年日朝修好条規、1895年閔妃虐殺、1905年日露戦争~ポーツマス条約で韓国に対する日本の指導・監督権承認、同年の桂・タフト協定及び第2次日英同盟でもアメリカ・イギリスに日本の韓国保護国化を承認させ、第2次日韓協約で韓国の外交権を奪うと共に、ソウルに統監府を置いて伊藤博文が初代統監となっています、1907年第3次日韓協約~韓国の内政権も収め、韓国の軍隊を解散させています、1909年愛国義士安重根によってハルビン駅で伊藤博文が暗殺、1910年日韓併合)→満州(1931年柳条湖事件→満州事変、1932年満州国建国)→中国大陸(1915年対華二十一ヵ条要求、1937年盧溝橋事件→日中戦争)」という進出・侵略・植民地化を推進していったことも紛れも無い事実です。
 こうした日本の残した傷跡が最も深かったのが、歴史上初めてその国名が地図上から消えた韓国でした。韓国の2大愛国者と言えば李舜臣将軍と安重根義士ですが、いずれも反日闘争を行なった人物であることはその反日感情の根深さを物語ると言ってもよいでしょう。ちなみに獄中の安重根の立派な態度に打たれた日本人も少なからずおり、彼に揮毫を頼んだり、師と仰ぐ人も出るほどでした。
 ベルツもまた、次のように述べています。
「日本人の決して忘れてならないのは、日本人がその黄色人種の指導者たらんと願っていることであり、東アジアにおけるその盟主たるの地位が、多数日本人の念頭を離れぬことである。」
「日本は不可解な失策をやった。真実、東アジアの民族の盟主たるの地位を目指していたのであれば、まず温情により、清・韓両国を自己の味方につけ、その信頼を固めなければならなかった。支配するのではなく、「指導」すべきだった。」

参考文献:『ベルツの日記(上・下)』(トク・ベルツ編、岩波文庫)、『天皇恐るべし 誰も考えなかった日本の不思議』(小室直樹、ネスコ)、『外国人による日本論の名著 ゴンチャロフからパンゲまで』(佐伯彰一・芳賀徹編、中公新書)、『「明治」をつくった男たち 歴史が明かした指導者の条件』(鳥海靖、PHP文庫)、『誰でも知りたい 朝鮮人の日本人観 総解説』(琴秉洞・高柳俊男監修、自由国民社)、『世界の日本人観総解説 各国の“好意と憎悪”の眼が日本を見ている!』(自由国民社)


第11章 戦前時代(20世紀前半)の日本と世界

①「堤岩里の惨殺
どんなに叫んで見ても、
かれらの放った火は
今になっても消せやしない。
教会に集まった、
二十八名の兄弟を、
生き返らせやしない。
倭軍中尉が指揮する、
悪魔のごり押しが、子羊のような民を
教会堂に追い込み、
乱射し、殺害した。
理由も簡単であった。
われらの国をわれらが愛するからと、
自分の国を愛するからと。
殺された兄弟が、
堤岩里のあの方たちだけならば。
私は死んでも、この幼子だけでも生かしてと、
死の窓の隙間から差し出す、
天真らんまんな幼な子の、
無心の目をねらい、引き金を引く
奴等の手。
母性愛の最後の哀願するら聞こえぬ、
聞く耳を持たぬ
狂った悪魔、聞く耳を持たぬ悪魔。
どんな声で叫んで見ても、
罪過は、罪過、
傷は、傷、
洗い落とせやしない。
倭族がどういうものかを、
かれらの血でそまった額と、
突き出た顴骨(かんこつ)と、
眉間についている真黒い、ぬけめない目が
どういうものかを、
われらは知っている。
堤岩里を燃やした火が、
堤岩里を燃やしただけではないので。
おそらく 今、
われらは気位の高い、
独立の国の民として、
明るい笑顔で、かれらに
対することができるのは、
狭量をたしなめる、
寛大と誇りと、
明日の燦然(さんぜん)と輝く未来が
われらを照らしているからだ。
どんなに叫んで見ても、
かれらの放った、堤岩里の火は、
今になっても、かれらは
消せやしない。
殺されたわれらの兄弟が
生き返りはしない。
(悔い改めることは、かれらの徳、
われらの問題ではない。)
そうは言うものの、
自主の国の民として、
明るい笑顔で、かれらに
対することができるのは、
過ぎにし日より 来るべき日が尊く、
昨日より明日が大切であるから、
過去を心に刻むより
明日の夢をふくらませ、
祖国の山河に、
あふれるように流れる、
今日の太陽の光が明るいからだ。」
(堤岩教会殉国者遺品展示館にある詩)

 1919年、日本が韓国を植民地支配してからちょうど十年後、全国的な「三・一独立運動」が起きました。これはやはり同年に起きたガンジー非暴力・不服従の独立運動にも通じるもので、当時、2000万人の人口の10分の1に当たる200万人が参加したと言われます。その直後に起きたのが「堤岩教会虐殺事件」で、独立運動の指導者が出たという理由で、わずか30戸の堤岩里(里は村のことです)に日本の警察と憲兵がやって来て、21人の村人を教会に押し込め、生きたまま焼き殺したのです。窓から救いを求めて差し出された幼児も、教会の庭で慟哭していた女性も虐殺され、堤岩里は「イエスを信じて滅びた村」(反日独立運動の指導者は多くキリスト教徒でした)と呼ばれました。やがて、戦後に当時の生き残りであった田同禮ハルモニ(おばあさん)を訪ねた日本の牧師が3日3晩に泣いて謝り続け、やっと教会再建の費用を出すことを受け入れてくれたと言います。観光地でもない堤岩里を訪れる日本人は限られていますが、韓国人で堤岩里の名前を知らない人はいません。その後、日本の植民地政策は創始改名、韓国語の禁止と日本語強制、神社参拝強といった「皇国臣民化政策」となり、さらに戦時下にあっては強制連行と強制労働、従軍慰安婦動員にまで至りますが、そうした植民地政策の原点にあるのが「堤岩教会虐殺事件」であると言えるでしょう。田ハルモニは亡くなるまで毎日2時になると教会で祈りを捧げたと言いますが、それはちょうど虐殺のあった時間だということです。

②「ヨーロッパ人はアメリカ大陸に渡って、数十万の土人を惨殺した。私はいつも思うのだが、あのような残酷な行為は純粋な戦士にできることではない。彼らが武器を持った商人や徒刑者の類だったからこそできたことなのだ。日本封建時代のいわゆる「町人根性」にしても、陰柔の裏側に残酷の一面も持っている。…現代の日本の実業家で、明治の新教育以前に育った80歳クラスの老人連から、試みに、武士階級の渋沢(栄一)と町人出身の大倉(喜八郎)を選んで比較してみよう。前者は誠実な君子、後者は狡猾なブローカー。前者は高尚、後者は卑俗。一方は修養を口にし、他方は利益一点張りである。この両極端の性格が、武士と町人の差異をくっきりと浮かび出させている。」(戴季陶『日本論』)

 戴季陶(たいきとう、1890~1949年)は若干15歳にしての日本留学以来、総計8年以上の日本滞在の経験を持ち、日本語で演説をさせれば日本人よりうまいと言われた人物で、孫文の秘書・通訳として多くの要人に接し、『日本論』を1928年に発表しています。彼によれば、「現代日本の上流階級、中流階級の気質は、「町人根性」の骨格に「武士道」の衣を着せた以外の何物でもない」とし、「生死を軽んじ、信義を重んずるのが武士の性格であり、信義を軽んじ、金銭を重んずるのが商人の性格であった。前者は回教的神秘道徳、後者はユダヤ的現金主義である」と大胆に規定しています。あるいは、「日本民族は一般に、中国人に比べて美的情緒が優美かつ豊富である」とし、「日本人の尚武は天下周知」だが、それは日本社会に行き渡る「平和と互助の習性」と補い合って初めて成立しているものであり、「弱者を愛護するという武士の道徳は、徳に男女間において顕著である」と日本の美点を指摘していますが、それらの美点が昭和初期の日本からすでに姿を消そうとしていることを強調したりしているのです。
 同じように周作人(1885~1967年、魯迅の弟)なども次のように述べています。
「日本人がすぐれて美を愛することは、文学芸術からも衣食住の形式からも等しく見てとれる。しかるに中国に対する行動に於ては、彼らは何故あれほどの醜悪さを示すことができるのか。」(「日本管窺」)

③「日本は矛盾と極端、英知と愚鈍の国であり、その適例は海軍会議に窺える。海軍問題の権威や新聞が、日本は比率以下の海軍では自国の海岸線を適切に防衛できぬと声高に言い張っている一方、新聞や一般市民は時同じくして記事や演説や会談で、帝国海軍は今や米国海軍より強大にして、一旦戦争となればいとも簡単に米国を打破できる、と勇ましく誇っている。…
 日本人の心理過程と結論に達する方法は、我々とは本質的に違う。日本人と付き合えば付き合うほど、一層、それを痛感する。…日本人は西洋の服・言語・習慣を採り入れたのだから、自分達と同じように考えるに違いない、と西洋人は信じるが、これ以上重大な誤りはあり得ない。東西間の条約の公約が常に誤って解釈され、論争を引き起こす原因の1つがここにある。」(ジョゼフ・C・グルー『日記』)

 これは『滞日十年』として知られるグルー(1880~1965年)の日記ですが、「1932~42年駐日アメリカ大使であったジョゼフ・C・グルーの日記・私文書・公文書に基づく当時の記録」という副題に見られるように、米国民及び連合国により正確で焦点のあった日本観を提示するためにまとめられたもので、豊富な外交経験と日本に関する知識を買われたグルーは後に国務長官代理として対日占領計画決定の上で大きな働きをしています。

参考文献:『三・一独立運動と堤岩里事件』(小笠原亮一・姜信範・飯沼二郎・李仁夏・池明観・土肥昭夫・澤正彦・飯島信、日本基督教団出版局)、『外国人による日本論の名著 ゴンチャロフからパンゲまで』(佐伯彰一・芳賀徹編、中公新書)


第12章 戦後時代(20世紀後半~)の日本と世界

①「日本とイギリスとの違いは、日本では社会構造の違いから「義理関係」がイギリスよりも一層しばしば現われ、個人の物質的福祉にとってもより大きいな重要性を持っていること、かかる関係の中で要求される行為も一層はっきりと形式化させられていること、そして「汝の隣人を愛せよ」とか「本心を語れ」とか「真理や正義を追求せよ」といった「普遍主義的な」責務よりも、かような「義理行為」を行う責務の方に、日本人の価値尺度ではより高い位置が与えられていることにある。」(ロナルド・P・ドーア『都市の日本人』)

 いわゆる「日本論」「日本社会分析」ではルース・ベネディクトの『菊と刀―日本文化の型』が有名ですが(同様にドイツを分析してみせたのがエーリッヒ・フロムの『自由からの逃走』であり、アメリカ自体を分析してみせたのがリースマンの『孤独な群集』です)、1度も日本の地に足を踏み入れることもなく、まことしやかに「日本文化の型」(例えば、日本人は「恥を基調とする文化」に属しており、西洋の「罪の文化」と対照的で、「彼はただ他人がどういう判断を下すか、その他人の判断を基準にして自己の方針を定める」といった考察を展開しています)を論じたことに対して批判的であったのがイギリス人社会学者ドーアです。ドーアは「時代を超えて存続し、あらゆる地域、あらゆる階級にしみわたっている、同質的な日本文化ないしは日本文化の型」などといったものは存在しない、とベネディクトを批判し、彼女がこれこそすぐれて日本的なものだと『菊と刀』で主張した「義理」の観念についても、分析的にみれば外国人であるイギリス人にとって不思議な要素は何もないと反論しています。
 ドーアは「日本人らしさ」というものを簡単に断定しようとはせず、「義理」についても、日本にあってイギリスなどの諸外国にはないものと特殊視するのではなく、その発現の頻度、形式化の度合、他の価値との相対的関係が独特であるに過ぎないと説明し、いわゆる「日本らしさ」を神秘化するようなことをしていません。つまり、日本社会の特殊性は、他の社会でそれぞれ特殊であるのと同じ意味での特殊性であり、説明不可能というようなものではないというのです。これはちょっとおもしろい日本理解ですね。

②「日本人が編み出した集団生活上の伝統と知恵とは、日本人の性格を、うわべを見る限りは人当たりがよく、温和なものに作り上げることに寄与した。彼らと比べた際には、欧米人は感情を平気で表に出すという点で、いささか荒っぽく、予測不能で人間として練れていないように見える。…
確かにヒエラルキーは当然のこととみなされ、地位は確かに重要である。だが、階級意識は弱く、具体的な階級差はまことに少ない。ほとんど重要な側面において、日本はすこぶる平等な社会である。多くの点で、アメリカと肩を並べるばかりか、大部分の西欧社会よりもはるかに平等である。」(エドウィン・O・ライシャワー『ザ・ジャパニーズ』)

 ライシャワーはハーバード大学卒業後、日本、中国、フランスに留学し、円仁の『入唐求法記』の研究で学位を取ったアメリカきっての日本学者です。『ザ・ジャパニーズ』は一九七七年の刊行以来、ロング・ベストセラーとなっており、その根幹には次のような主張があるとされます。
「今や世界は深刻な問題に直面している。大きな潜在力を持っている日本であるだけに、問題解決への寄与を最大限にすべく努力しなければならない。このためには、日本は具体的な問題についての言語的な伝達能力を増進すると共に、自他との間により強い相互信頼と協力の精神を培っていくことが必要とされよう。・・・それは国連への熱意や、日本人がかねてから抱いてきた建前としての「国際主義」で片が付くものではない。やはり、彼らは隔絶感、違和感を超え、あえて厳しいことを言うなら、人類の仲間に加わる心構えをもっとはっきりさせる必要がある。世界と自分とを一体視し、その一員であるという自覚を深めていかなければならない。」

③「この空間の充実は、日本の文学や絵画に見られるものと同じである。心と心の真の対話に見られる「沈黙」である。我々欧米人は、明確な意識を持った個人として頭から頭へのコミュニケーションをすることに慣れている。これは感情を抑えて、意見の交換をするための条件だとみなされているからだ。日本人は決して抑圧されたり、固定化されたりすることのない、腹から腹の交流をするのだ。彼らは相互に論証し合うということをしない。なぜなら、大切なことは個人としてそれぞれが自分の意見を主張することではなく、相互に感覚的に理解し合い、相手を受け入れることだからである。内面からの光は、いわゆる主義主張よりも重みを持っているのだ。」(ロレンツ・ストゥッキ『心の社会・日本』)

 ストゥッキはスイス人で、本書の執筆目的は「日本に、今日の世界で唯一の非欧米的現代社会のあり方、我々欧米人がもう1つの可能性として学べ得るあり方を発見・提示」することにあるとし、「日本人の心情や生活のあり方をこれほど明確に、しかも読みやすく描き出した本は、ドイツ語圏では他に類を見ない」と数多くの新聞、ラジオの論評に取り上げられています。その中で、例えばあるスイス人が次のように語ったことを紹介しています。
「いつ果てるかもしれない会議の時間、しかもこの会議というのが漠然としたおしゃべりの続きに過ぎず、肝心の問題の周りを堂々巡りするだけ、そろいもそろって指導力の無い連中ばかりだ。これで会社がうまくゆくはずがない。こう我々は考えていたのです。ところが実際にこれをやってみると、何だか魔術みたいに何となくうまくいくんですね。そのくせ、我々のうちの誰かが西欧で学んだ経営学の通りに子会社を指揮してやってゆこうとすると、何1つ成功しないのです。」

④「個人的に言えば、私は今の日本人を好きだし、平均的な日本人も好きである。・・・特に若い人達は、世界で最も好感の持てる人達だと思う。欠点と言えば、彼らが戦争中の犯罪行為に対して見事なくらい無知で、日本がアジアの隣人達に恐ろしい苦痛を負わせてから三十年しか経っていないのに、過去を気にかけている様子がないことである。・・・日本の文部省は、それら一連の歴史上の事実を若者達に教えようとしない――何たることだ?・・・そんな連中が日本の行政内で高い地位を占めている現状では、世界の国々、とりわけ東南アジア諸国が、戦後三十年の日本を経済的には大人(たいじん)とは見なしても、人道的には小人(しょうじん)であると考えていることに、何ら不思議はないのである。」(B・レンガー『不思議な不思議なニッポン人』)

 レンガーとは「日本外国特派員協会」に加盟する複数の外国人記者の複合名です。知日派であることは言うまでもなく、妻帯者は全員日本人女性と結婚しており、その日本理解は相当なものであると言えますが、その彼らがこうした苦言を呈していることは心して聞くべきでしょう。

⑤「その文化、伝統、必要からして、日本の農民、職人は、西欧に資本主義制度と工業社会をもたらした、あのプロテスタントの倫理を想起させるような資質を持っている。勤勉で、消費を繰り延べても、まず貯蓄や投資を喜んでする能力である。」(米商務省報告『揺らぐ日本株式会社』)

 カリフォルニア州ほどの広さしかない国土で、天然資源はほとんどないといった地理的条件にもかかわらず、敗戦後の焼け野原からあっという間に西欧諸国を追い抜き、アメリカに次ぐ資本主義圏ナンバー・ツーに駆け上った日本の「高度経済成長」は注目の的となりました。米商務省報告では、その第一の秘密として、このようなプロテスタンティズムに共通する日本人の性格を挙げていますが、その最たる秘密は「政府と企業との内部協調関係」にあるとして、これを「日本株式会社」と名づけています。実際には国民総支出中の政府の比重は少ないのですが、日本では政府が経済に関与する部分が大きいというのは、「行政指導」の役割を重視した見方で、ここから「官民一体の日本株式会社」という考え方が出てきたわけです。これは「護送船団方式」とも呼ばれますし(当然、「アンフェアー・ジャパン」といったニュアンスがありますね)、日本ほど成功した「社会主義」の国はないとまで言われるほどでした(日本では戦争直後から「経済計画」を作っており、これは社会主義国の経済計画とは異なって、強制力は無く、政府の各省の長期計画の基準を与えること、民間の経済活動の参考とすることなどを役割としていましたが、西欧先進諸国で政府が経済計画を作っていたのは日本の他にフランスがあるだけでした)。また、日米半導体戦争が起きた時、「アメリカ製は日本製に比べて5倍から10倍も故障する」と半導体ユーザーであるヒューレット・パッカード社のアンダーソンが発言した時(これは「アンダーソンの爆弾」と呼ばれました)、日本に対する非難はピタリと止んだことも記憶に留めておくべきでしょう。

参考文献:『外国人による日本論の名著 ゴンチャロフからパンゲまで』(佐伯彰一・芳賀徹編、中公新書)、『世界の日本人観総解説 各国の“好意と憎悪”の眼が日本を見ている!』(自由国民社)、『日本経済の基礎知識』(金森久雄、中央経済社)