歴史探究「パックス・モンゴリカ」


~「モンゴル」が近世ヨーロッパ・ロシア・イスラーム・中国を生み出した~


(1)元朝は中国史上の暗黒時代という「大誤解」

①「中華思想」こそが歴史を歪曲させる元凶である

②元朝において儒教は保護され、国力と文化は興隆した

③中国史上最大の名君は「唐の太宗」よりも「元のクビライ」か「清の康熙帝」


(2)「モンゴル帝国」によって真の意味で「世界史」が成立した

①「モンゴル帝国史」の困難さは「中国系史料」と「ペルシア系史料」の統合にある

②「歴史の父」ヘロドトスも「東洋のヘロドトス」司馬遷も「世界史の父」たり得ない

③「モンゴル帝国」の出現で東洋と西洋は連結され、ユーラシア大陸は1つになった


(3)「草原の軍事力」+「中国の経済力」+「ムスリムの商業力」

①中国・イスラーム・ロシア・ヨーロッパを制覇した脅威的なモンゴルの軍事力・機動力

②西方世界を圧倒する「中国の生産力・技術力・経済力・文化的成熟」

③世界中にネットワークを張り巡らした「ムスリム商人の力量」


(4)「陸上帝国」と「海上帝国」を統合する「世界連邦」の誕生

①多民族・多宗教・多文化を包含する「世界帝国」の出現

②大都は「陸上帝国」と「海上帝国」を統合する「世界連邦」の首都

③チンギス・カンの伝統とクビライの構想が「パックス・モンゴリカ」をもたらした


(5)驚くべき重商主義財政と自由経済のシステム

①流通経済機構の整備と「ユーラシア世界通商圏」の創出

②商業利潤に立脚した地方・国家財政と「多国籍企業・総合商社」を活用した通商産業政策

③国際通貨「銀」を補完した共通通貨「紙幣」「塩」、対日主要輸出品となった「銅銭」


(6)「モンゴルの遺産」を受け継いだ近世社会が「近代」の母体

①ロシアもヨーロッパも「モンゴル」抜きに語ることが出来ない

②ティムール帝国、オスマン・トルコ帝国、サファヴィー朝ペルシア、ムガル帝国への発展

③中国・高麗・日本・東南アジア・チベットに残されたモンゴルの刻印


(7)参考文献




(1)元朝は中国史上の暗黒時代という「大誤解」

「中華思想」こそが歴史を歪曲させる元凶 である

 ここ20~30年でモンゴル帝国時代に対する歴史的評価が180度変わりましたが、以前は「元朝は中国史上の暗黒時代」という認識がまかり通っておりました。これは1つには「中華思想」に基づく、南宋末期の忠臣文天祥に対する礼賛が元朝の評価を曇らせたからだとも言えます。


文天祥(ぶんてんしょう、12361282)~中国南宋末期の軍人政治家です。滅亡へと向かう宋の臣下として戦い、宋が滅びた後はに捕らえられ、何度も元に仕えるようにと勧誘されますが、忠節を守るために断って刑死し、「南宋の三忠臣」「亡宋の三傑」の1人として称えられています。

 獄中で宋の残党軍への降伏文書を書くことを求められますが、「死なない人間はいない。忠誠を尽くして歴史を照らしているのだ」という内容の『過零丁洋』の詩を送って断っています。宋が完全に滅んだ後も、その才能を惜しんだクビライより何度も勧誘を受けており、この時に文天祥は有名な『正気の歌』(せいきのうた)を詠んでいます。

南(南宋の方角)に向かって拝して刑を受けた文天祥ですが、クビライは文天祥のことを「真の男子なり」と評し、刑場跡には後に「文丞相祠」と言う祠が建てられたと言います。文天祥は忠臣の鑑として後世に称えられ、『正気の歌』は多くの人に読み継がれました。日本でも江戸時代中期の浅見絅斎が『靖献遺言』に評伝を載せ、幕末の志士達に愛唱され、藤田東湖吉田松陰日露戦争時の広瀬武夫などはそれぞれ自作の『正気の歌』を作っているのです。


「中華思想」中国(中華)が世界の中心であり、その文化、思想が最も価値のあるものとし、漢民族以外の異民族を「化外の民」として見下す選民思想の一種で、「華夷思想」とも言ます。しかし、中国史上大きな発展期とも言うべき周・秦は元々西方の周辺民族であした。周は現在の陝西省を拠点とし、元々戎(じゅうてき)であったのが中原の影響を受けて開化されたと見られており、秦も後に穆公西戎の覇となることから考えて、西戎そのものではないかと考えられています。さらに、隋・唐も北朝系鮮卑族で、隋の初代文帝楊堅の妻は北周の重臣で鮮卑族の名門である独弧信の第四女であり、唐の初代高祖李淵の母は独弧信の第九女でした。したがって、煬帝と李淵は母が姉妹ということになります。また、『隋書』によれば、文帝の父楊忠は「普六茹」(ふろくじょ)という鮮卑族の姓を賜ったとあり、唐の李氏も西魏八柱国の家柄で、楊氏と同じように「大野」という鮮卑姓を賜っているのです。元も蒙古民族、清も満州民族ですから、周辺民族・異民族王朝の時にこそ中国は「イノヴェーション」(創造的破壊)に成功してきたと言ってもいいかもしれません。


【中華思想に基づく異民族への蔑称】

(1)東夷(とうい)=倭、朝鮮など。

(2)西戎(せいじゅう)

(3)北狄(ほくてき)=匈奴、鮮卑、契丹、蒙古など。

(4)南蛮(なんばん)


「小中華思想」「中華思想」から派生して、日本朝鮮阮朝ヴェトナムなど、中国の王朝以外の儒教文化圏(中華文明圏)の内で比較的技術・文明が発達していた国で起こった「文明の担い手である」という自負の思想です。元来、これらの国々では儒教の影響を受けて、自らを文明の担い手と考える風潮が少なからず存在しましたが、モンゴル民族元朝に続いて、漢民族ながら農民出身の朱元璋が建国した明朝が成立すると、漢民族(中国)が「中華文明の継承者」であるという儒教伝統の主張に疑問が持たれ始めました。さらに朱子学大義名分論正統論が紹介されて影響力を強める一方、17世紀中期に女真満州)族の清朝が明朝に代わって中国支配を確立させると、周辺諸国では公然と自民族こそが「中華文明の継承者」であると唱える学説が盛んになり始めたのです。


「西欧中心史観」~これまでの日本の世界史教育において、「四大文明の発生からいきなりギリシア、ローマへ、そして中世ヨーロッパの封建制に対する分析の後はイタリア・ルネッサンスへ飛び、大航海時代・産業革命を通って近代西洋に行き着く」という「近代西欧への偏向」が批判されています。そもそも、「歴史は封建社会から資本主義へ進歩するものだ」という歴史観自体、マルクスも「はっきりと西ヨーロッパ諸国に限定されている」と言明している通り、理論ではなく、西ヨーロッパの史的事実でしかないのです。

「たとえば、高校世界史教科書の市場の三三パーセントのシェアを誇る『詳説世界史』(山川出版社)は、目次を見ればすぐわかるように、ヨーロッパ中心史観を貫徹している。『要説世界史』(山川出版社)に至っては、『世界史イコール、ヨーロッパ史・プラス・アルファ』という時代錯誤とも言うべきヨーロッパ中心史観を死守している。他の教科書はこの二冊より『公平』ではあるが、依然としてヨーロッパの比重があまりにも大である。」(謝世輝『これでいいのか世界史教科書』)

「近世は、中世の延長線上に位置し、依然としてアジアの時代、とくにイスラムの時代であった。大航海は世界史上の重要なできごとではあったが、ヨーロッパの影響力は相対的にまだ小さく、世界史を二分する分水嶺には値しない。世界の一体化は、中世のイスラムによる広範な一体化をステップとし、近世に至って、その速度が徐々に速くなった。」(謝世輝『これでいいのか世界史教科書』)

「日本で教えられている『世界史』というのは、次々と覇権が移ろう地中海世界の各王朝の栄枯盛衰を記述した『西洋史』と、ひたすら時の王権を正当化するために書かれた『中国史=東洋史』という、全く異質な2つの「歴史」を無理やりくっつけたもの。どちらも、地中海や中国が世界の全てだという前提で書かれているので、くっつけるには無理があり、『世界史』なのに日本をきちんと位置づけることが出来ていない。そんな破綻した『世界史』ではなく、本当に世界が相互関係を持つようになったのはモンゴルがユーラシア大陸の大半を征服して1つの世界にしてからであるからである。モンゴルを起点とする『世界史』を新たに構想すべきである。今の中国もロシアもインドもイランもトルコも実はモンゴル帝国の中で国家の原形が作られた。紙幣の制度化に初めて成功したのもモンゴル人。モンゴルが実はある時期の世界の中心であり、中国や西欧はその辺境に過ぎなかったのである。」(岡田英弘『世界史の誕生』)



元朝において儒教は保護され、国力と文化は興隆した

 さらに元朝の評価を下げたのは、何と言っても「九儒十丐」(きゅうじゅじゅっかい)という言葉でしょう。元代の鄭思肖(ていししょう、鄭所南、宋の遺臣)の『心史』(しんし)にモンゴル支配下の中国における社会的地位のランク付けが出ており、それによると、「一官、二吏、三僧、四道、五医、六工、七猟、八民、九儒、十丐」であるとされ、「丐」は乞食を指すので、儒者が如何に冷遇されていたかという証拠とされてきました。しかしながら、これはあくまでモンゴル帝国初期の一時的現象と見るべきで、第5代クビライ(世祖、1260~1294)に始まる元朝においては、特に第7代カイシャン(武宗、1307~1311)以降、儒教は明確に保護されているのです。同様に元朝は「モンゴル第一主義」を取り、民族的身分制を採用したと信じられていますが、これについても見直しがされつつあります。

「モンゴル時代に『モンゴル』とされた人びとのなかには、実は漢族もかなりいたのである。歴史の教科書では、モンゴル治下の中華地域では、モンゴル、色目、漢人(北中国の人びと)、南人(江南の人びと)という四段階の身分制が厳重にしかれたなどと記述されるが、本当は、そんな枠や身分制度は、ほとんど限りなく薄く、かすかだった。七〇年ちかくまえ、ある元代研究者がいいだした単純な謬説(びゅうせつ)が踏襲され、訂正されないままに、イメージだけがひとり歩きして、誤解が誤解を呼んで、どんどん拡大再生産されているにすぎない。」(杉山正明『大モンゴルの時代』)

 また、科挙の中断などの点をあげて、しばしば元は儒教を排斥したと言われますが、漢文化に初めて理解を示したとされる第5代クビライよりはるか以前の第2代オゴデイの時代より、モンゴル帝国は孔子孟子の子孫の保護、曲阜の孔子廟の再建などを行うなど、宗教としての儒教はむしろ保護の対象とされていたことは注意されるべきです。そして、歴代カーンは即位すると、儒教と中国文化の保護をうたう詔勅を発し、その碑刻を建てるのが習わしだったのです。

 なお、朱子学が儒教の「正学」として認められるのは、元代の科挙復活で朱子の解釈・集註が採用されたからです。実に東アジア世界では朱子学は儒教の中の「正学」としての位置を占めていくのですが、それはまさに元代に淵源するのです。逆に元朝が科挙を復活させ、朱子学を採用しなければ、宋代にはむしろ迫害されていた朱子学が「正学」にはなり得なかったと言うべきでしょう。

「カイシャンは、クビライと同様、軍事力をもって第七代のモンゴル大カアンとなった。その直後に、かれは、この『詔(みことのり)』を発し、儒教の保護を宣言した。それは、中国文化を尊重する意思表示でもあった。

 しかも、このとき注目されるのが、その詔を刻した石碑が、中国全土の路・府・州・県にいっせいにたてられたことである。そのいくつかは、いまも各地に現存する。そのもっともすぐれた最大の石碑が、この曲阜孔廟の碑なのである。

 その後の歴代モンゴル皇帝は、即位すると、カイシャンにならって儒教と中国文化の保護をうたう詔を発し、その碑刻をたてるのがならわしとなった。曲阜とその周辺には、孔子廟だけではなく、そうした記念碑が数多くのこっている。

 孔子の弟子の顔回(がんかい)をまつる顔子(がんし)廟には、境内での乱暴・狼藉(ろうぜき)を禁じる現地当局者のペルシア語による『そえがき』を追刻した碑文さえ、ある。ペルシア語はモンゴル時代、ユーラシアの東西でもっともよく通用する『国際語』(リンガ・フランカ)であった。

 曲阜の孔子廟という、とりわけ特別なところに立つパスパ文字の儒教保護碑は、頭抜(ずぬ)けて特別な存在といっていい。その意味で、まさにモンゴル時代を象徴するモニュメントである。」(杉山正明『大モンゴルの時代』)



中国史上最大の名君は「唐の太宗」よりも「元のクビライ」か「清の康熙帝」

 唐の第2代皇帝である太宗李世民は唐王朝の基礎を固める善政を行い、「中国史上最高の名君」と称えられています。太宗の治世は「貞観の治」と呼ばれ、太宗と臣下達の問答が『貞観政要』としてまとめられ、後世「帝王学のテキスト」として広く読まれるようになったことは有名です。太宗は唐の国力を背景に突厥を崩壊させ、西北方の遊牧諸部族が唐朝の支配下に入ることとなったため、族長達は長安に集まり、太宗に「天可汗」の称号を奉じていますが、「天可汗」という称号は北方遊牧民族の君主である「可汗」より更に上位の君主を意味するので、ここに唐の皇帝は中華の天子であると共に、北方民族の首長としての地位も得ることとなったのです。

 しかしながら、第5代カーンにして元朝を創始したクビライはさらに上を行き、チンギスが結集させた「草原の軍事力」を支配の根源として保持しつつ、「中華の経済力」を管理し、「ムスリムの商業力」を再編成して、遊牧と農耕の世界を融合し、「モンゴル世界連邦」を創設しています。東西ウルスの融和により、モンゴル帝国は大カーンを頂点とする緩やかな連合として結びつき、いわゆるシルクロード交易の活況ぶりは空前となり、この状況を指して「パックス・モンゴリカ」(モンゴルの平和)と呼ばれることがあります。元の首都大都は全モンゴル帝国の政治・経済のセンターとなり、マルコ=ポーロなど数多くの西方の旅行者が訪れ、その繁栄はヨーロッパにまで伝えられました。江南の港湾都市では海上貿易が隆盛し、文永・弘安の役以来公的な国交が途絶していた日本からも、私的な貿易船や留学僧の渡来は続き、活発な交流が続いたことが明らかになっています。

「モンゴル帝国は『大カアンのウルス』であるクビライの帝国を中心に、その他のウルスがとりまく二重構造となった。それぞれの一族ウルスが帝国といってもいい規模をもっていたから、宗主国のクビライ帝国以下、いくつかの帝国グループ全体が、モンゴル世界連邦を構成したと見てもいい。クビライは、新時代の世界連邦の中心にふさわしい新国家をつくろうとした。

 では、あたらしい国家をつくろうとするクビライのまえに、その範となるような国家や政権が、歴史上にあったのだろうか。それなりに、世界規模で適応できるような前例が、はたしてあったのだろうか。

 クビライは、即位後、それまでよりもいっそう熱心に、ブレインや政治顧問を人種をとわずに召しかかえた。あらゆる『文明圏』についても対応できるよう、あらゆる国家・地域からのブレインたちをひととおりそろえるようつとめた。

 だから、クビライが、過去に興亡した国家や帝国のパターンについて、情報や判断材料をととのえることは、さほどむつかしくはなかったはずである。・・・

 クビライは、そのときまでの古今東西の知見をよりあつめ、あれこれと検討することができる環境にあったとみていい。モンゴルとは、そういう『世界性』のある政権である。そして、モンゴル時代とは、そういう時代であった。

 しかし、クビライにとって、けっきょくのところ、そのままのかたちでは、国家理念の範とできる先例はなかったのではなかろうか。・・・

 クビライには、そのままのかたちで範とするような先例は、ほとんどなかったといってよいだろう。かれは、さまざまな事例やパターンを参考にし、その有益な部分はとりこみながらも、根本においては、自分とブレインたちによって、あたらしいなにかを創造しなければならなかった。それは、人類史上、最大の規模における創造なのであった。」(杉山正明『クビライの挑戦 モンゴル海上帝国への道』)

 ちなみに、清朝第4代皇帝である康熙帝もなかなかの人物で、「中国歴代最高の名君」と称えられています。西学にも造詣が深かった康熙帝は清代学術を興隆させ、中国伝統文化を集大成して、「中国文化」を「中国文化」たらしめました。

 康熙帝は、ピョートル1率いるロシア帝国に対して1689ネルチンスク条約を結んでいますが、後の19世紀に受け入れさせられる一連の不平等条約と異なり、この条約は両国が対等の立場として結ばれたものであり、伝統的な「中華思想」(中国は唯一の国家であり、中国と対等な国家の存在を認めず、国境など存在しない)の原則を揺るがす内容であったことは注目されます。これには側近にいたイエズス会宣教師フェルビースト(南懐仁)の助言があったと言われ、条約締結の際にもイエズス会士が交渉を助けました。康熙帝は内政にも熱心で、人頭税を土地税に組み込んで一本化する地丁銀制などを実施する一方、減税を度々行いながら財政は富み、人口は急増しました。また、文化的にも大規模な編纂事業を行う一方、自ら儒学者から熱心に教えを受けて、血を吐くまで読書を止めなかったと言われています。かくして康煕・雍正・乾隆の3皇帝の時代(1662~1795年)が清の全盛期となっており、康熙帝の末年(18世紀初期)に約1億5千万人だった人口は、乾隆帝の末期に3億1千万人余りになっていて、百年足らずで人口が倍増したため、中国人の一部は東南アジアへ移動して華僑となったとされます。

「康熙帝は孔子の著書を大半、暗記されておられますし、シナ人が聖書と仰いでいる原典も、あらかた暗誦されておられます。・・・康熙帝は弁舌にも漢詩にもきわめて熟達されておられます。そして、漢語または韃靼文(だったんぶん)で書かれた文章には如何なる文章にも立派な判断を下されます。皇帝は韃靼語でも、漢語でも、優美な文章をお書きになり、如何なる在朝の王侯によりも巧みに両語を話されます。一言すれば皇帝の熟達されない漢文学上のジャンルは一つもないのであります。それ故、皇帝はシナの名著名籍を残らず文庫に備えつけるために苦心されました。・・・

 康熙帝が出精されたのはシナの学問ばかりではありません。この皇帝は、生来、何でも良い物には興味をお持ちですから、西欧の科学について多少の知識をお持ちになるや否や、この科学研究に対して多大な熱情を披瀝されました。・・・皇帝は他の定務を果たされてから、残余の時間をことごとく数学の研究に捧げられ、またこの研究をもって無上の楽しみとなされたほどで、二年間も続けて一心不乱に数学の研究に精進されました。フェルビースト師はこの二年間、主要な天文器械や数学器械の使用法と、幾何学や静力学や天文学の最も珍しい、最もたやすい内容とを御説明申し上げました。そのために最も理解し易い内容に関して、特に教科書を編纂いたしたのでありました。またその頃の話でありますが、皇帝は西洋音楽の原理を学びたいと思ぼされ、そのためにペレイラ師をお用いになりました。その時、ペレイラ師は音楽教科書を漢語で編纂し、シナの工人を指揮して色々な楽器を製作させられました。その楽器によって、二、三の曲譜を演奏することさえ御教授申し上げたのであります。・・・皇帝はかねてから西欧の全科学をシナに移植して、国内到る所に流通させようという計画を立てておられましたから、これらの御進講草案を公刊して、まずこの計画の実施を図ろうと考えられたのであります。その後、皇帝は手ずから幾何学原理を第三王子に教えていらっしゃいました。・・・

 康熙帝は幾何学を研究された後で、哲学をも研究したいと考えられました。そのために、またしても私ども二人に対して韃靼語で御進講草案を作れと仰せつけられました。・・・康熙帝を西欧科学の研究に引き入れたと同じ好学心が、わがキリスト教の研究に対しても、この皇帝を誘導いたしたのであります。西洋科学御進講の名義を利用して、皇帝はフェルビースト師と雑談されました時、同師の口からキリスト教の初等知識を汲み出されたのでありました。宣教師達がキリスト教に関する数種の書類を特に起稿して、畏れながら陛下に奉呈いたしましたから、皇帝はこれらの書類をお読みになっておりました。皇帝は高名な耶蘇会士マッテオ・リッチの名著(『天主実義』)に対して、特別の敬意を示されて、この書を六カ月余り、御手許に差し置かれました。それのみならず、私どもは機会あれば極力、この機会を利用してキリスト教の要理をお話し申し上げたのであります。そして、耶蘇会所属の宣教師が宮中で自由に布教することをお許しになりました。キリスト教の格言からこの宗教を判断し、かつこの宗教が今までシナに弘通した発展ぶりから見ると、今後、この外来宗教がシナ第一の宗教たるを疑わず、と仰せられた御言葉を再三、仄聞いたしたのであります。皇帝はシナの古い古い数種の迷信から既に覚醒していらっしゃるように見受けられます。」(ブーヴェ『康熙帝伝』)




(2)「モンゴル帝国」によって真の意味で「世界史」が成立した

「モンゴル帝国史」の困難さは「中国系史料」と「ペルシア系史料」の統合にある

 モンゴル帝国史がなかなか正当に評価されなかった理由として、それが真の「世界史」であるがゆえに史料が東西にわたり、それらを総合的に扱える専門家がいなかったということも大きいと言えます。モンゴル帝国史研究の基礎となる文献は、漢文・ペルシア語の2大史料群の他、20数カ国語に及び、研究論文も10数カ国語にわたるため、全てに通暁した専門家はおらず、かろうじて「東方史料群」の専門家、「西方史料群」の専門家がいるのみでした。

 例えば、中国王朝について書かれた歴史書正史)として『元史』があり、中世モンゴル歴史書として『元朝秘史』(「モンゴル秘史」)などがありますが、イル・ハン朝(フレグ・ウルス)には初代フレグの時代に『世界征服者の歴史』、第2代アバカの時代に『諸史の秩序』が編纂されています。特に『諸史の歴史』では第1部でアダムから始めてイスラエルの預言者の歴史を置き、第2部で古代ペルシアの王統史、第3部でムハンマド及びカリフ史を扱って、第4部をサッファール朝から始まるイランの諸王朝史に当てて、その最後にモンゴル史を置くという構成を取っており、これは「イラン・イスラーム世界普遍史」と位置づけられ、モンゴルをイランの正当な統治者として捉え、モンゴルの統治時代をイラン・イスラーム世界史の中に組み込む、最初の作品であったされます。

 さらにフレグ・ウルス第7代ハンのガザンの命令で宰相ラシード=アッディーンが編纂した「モンゴル帝国の正史」『集史』に至って、人類史上、最大の歴史書と称されています。「モンゴル史」の大部分はガザン自らが口述し、追加編纂された世界諸族史の部分はフレグ・ウルスの首都タブリーズ郊外に造営された学術街「ラシード区」に世界各地から学者・知識人を集め、膨大な書籍・情報を収集して作られ、1310年に完成しています。『集史』は、ペルシア語の史書とはいうものの、実に数多くのモンゴル語、トルコ語の用語にあふれ、さらには漢語、チベット語、サンスクリット、ラテン語などに由来する単語さえも使われているのです。


『集史』~ダンテの『神曲』と同時代の歴史書で、「モンゴル正史」にして、14世紀初めに至るまでのユーラシア諸地域についての総合史となっています。ちなみに『集史』の中の「中国(ヒタイ)史」には「通史」(歴史を最初から最後まで総述する試み)への志向が見受けられますが、従来の中国史書においては司馬遷の『史記』(司馬遷自身の同時代史たる前漢の武帝までの歴史を総述したもの)と北宋の司馬光による『資治通鑑』ぐらいしかなく、後は班固の『漢書』以降、ほとんど王朝ごとの「断代史」であったことに注意しなければなりません。ラシードの『集史』が現われた後、東方では中国正史として『宋史』『遼史』『金史』の3つの正史が一挙に編纂され、ここから司馬光の『資治通鑑』の後を総述する金履祥(きんりしょう)の『通鑑前編』に付する陳経(ちんけい)の『通鑑続編』(『通鑑前編』『通鑑続編』を合わせれば、人祖盤古から南宋の最後までを総述したことになります)、宇宙開闢からモンゴル時代までを仏教史として述べた『仏祖歴代通載』、曾先之(そうせんし)の『十八史略』(盤古から南宋消滅までの中国通史)などが矢継ぎ早に現われるのです。ちなみに盤古が天地を開いてから歴史が始まるという「天地創造」説話もモンゴル時代に発生したと言います。


『五族譜』~主に『集史』の「世界緒族史」の部分に対応し、特にその中の4つの部分を抜き出して、本篇に当たる「モンゴル史」の部分と合わせる形で支配者達の系譜として仕立てられており、その構成は次のようになっています。

(1)『旧約聖書』の世界から、イーサー(イエス)を経て、アラブ・イスラーム出現に至るまでのユダヤ史。

(2)最後の預言者とされるムハンマドから、様々なイスラーム王朝を経て、1258年にモンゴルに滅ぼされたアッバース朝最後の第37代カリフ、ムスタースィムに至るまでのイスラーム史。

(3)伝説のモンゴル王ドブン=メルゲンから始まり、光(ヌール)に感じて身籠ったアラン=ゴアを経て、世界帝国の創業者チンギス=カンを起点に一気に世界の支配者となった全モンゴル王族の系譜。

(4)ローマ皇帝・神聖ローマ皇帝とローマ教皇を二頭立てに並列した、モンゴル時代までのフランク史。

(5)伝説の人祖盤古(ばんこ)から始まる、中国(ヒタイ)史の歴代統治者の系譜。



「歴史の父」ヘロドトスも「東洋のヘロドトス」司馬遷も「世界史の父」たり得ない

 古代ギリシアの歴史家ヘロドトスはペルシア戦争後、諸国を遍歴して『歴史』(全九巻)を著わし、「歴史の父」とも呼ばれます。ちなみに「エジプトはナイルのたまもの」と言う言葉はヘロドトスが『歴史』に書いていることで有名になりましたが、元はヘシオドスの言葉です。『歴史』の記述はギリシアはもちろん、ペルシアエジプトに関する事物まで及び、ヘロドトス自身が実際に見聞きしたことが集められており、ギリシア人の立場から『歴史』を物語的叙述で著わしたのですが、この点、後に現れるアテナイの歴史家トゥキディデスが著した実証的な『戦史』と対照的です。『歴史』はヨーロッパで最も古い歴史書の1つであり、後世まで読みつがれた他、中世ビザンティン時代のギリシア人達もヘロドトスに倣った形式で歴史書を書いています。

 また、中国前漢時代の歴史家司馬遷も全130巻という大著『史記』の著者として東洋最高の歴史家の一人に数えられ、「東洋のヘロドトス」とも呼ばれています。司馬遷が『史記』において確立した記述方式は「紀伝体」と呼ばれ、皇帝ごとの「本紀」と諸臣を記述した「列伝」、および年表などの諸表や文化史の記述、諸侯の事績などから成ります。『史記』が中国で最初の正史となるのですが、後の中国の正史は全て基本的にこのパターンを踏襲しています。

 しかしながら、真に世界史の名に値する最初の歴史書は、ヘロドトスの『歴史』でも司馬遷の『史記』でもなく、モンゴル帝国イル・ハン朝の宰相ラシード=アッディーンの『集史』なのです。『集史』は「モンゴル帝国の正史」であると同時に、モンゴルに連結された「世界」の歴史を集大成した、歴史上初の「総合的史書」です。


ラシード・ッディーン~第7代目のフレグ・ウルス君主となったガザンはイスラームに改宗し、国家の根本改造と行政改革に乗り出しますが、その改革を進めるヴァズィール(宰相)として指名したのがユダヤ人であったとも言われるラシード=アッディーンでした。彼が模範としたセルジューク朝のニザーム=アル=ムルクと並び、イランの2大政治家と称されています。

 ラシードは『集史』の編纂に当たり、当地の学者だけでなく、中国やカシュミールなどからの仏僧の他、キリスト教徒、ユダヤ人の学者等もスタッフに加えています。かくして人祖アダムに始まるヘブライの預言者達と古代ユダヤの歴史、古代ペルシアの王朝史、預言者ムハンマドに始まるカリフ達の歴史、及びモンゴルが滅ぼしたホラズム・シャー朝やイスマイール教団に至るまでのイスラーム諸王朝の歴史、伝説のオグズ=ハンに始まるトルコ族の歴史、やはり伝説の人祖「盤古」に始まり、南宋最後の少帝に至る中国諸王朝の歴史、さらには、「フランク」という名のヨーロッパの歴史が作られました。また、釈迦と仏教の歴史を含むインド史も作られています。ここにガザンの「モンゴル史」を中核に、様々な「世界」の諸地域の歴史をより集めた一大史書が出現したわけですが、それはモンゴルを中心とする「世界」をもはや当然の前提にし、そこに至る「世界の歴史」を史上初めて体系化しようとするものでした。この歴史書は「諸史を集めたもの」の意味で、『ジャーミー・アッタヴァーリーフ』、すなわち『集史』と名づけられました。



「モンゴル帝国」の出現で東洋と西洋は連結され、ユーラシア大陸は1つになった

モンゴル高原 遊牧民を統合したチンギス=カンが創設した遊牧国家を「イェケ・モンゴル・ウルス」(「大モンゴル国」)と言いますが、チンギスとその後継者達はモンゴルから領土を大きく拡大し、西は東ヨーロッパアナトリア(現在のトルコ)、シリア、南はアフガニスタンチベットビルマ、東は中国朝鮮半島まで、ユーラシア大陸の大部分にまたがる史上最大の帝国「モンゴル帝国」を創り上げ、当時の世界の全人口の約半数が支配下となりました。全部1つの国なので、理論上、戦争は無くなり(内乱、内戦となるわけです)、これを「モンゴルの平和」(パックス・モンゴリカ)、あるいは「タタールの平和」(パックス・タタリカ)と言います。やがて、モンゴル帝国は東アジアの元(大元ウルス)、中央アジアのチャガタイ・ハン国(チャガタイ・ウルス)、キプチャク草原のキプチャク・ハン国(ジョチ・ウルス)、西アジアのイル・ハン朝(フレグ・ウルス)の4大政権からなり、元を統べる大カーンを盟主とする緩やかな連合国家に再編されました。この大連合は14世紀にゆるやかに解体に向かいますが、モンゴル帝国の支配した地域では、チンギス=カンの血を引かないものでなければハーンになることはできないという「チンギス統原理」(Chingisid principle)が長く残ることになり、チンギス=カンの末裔を称する王家達は実に20世紀に至るまで中央ユーラシアの各地に君臨し続けることになります。例えば、東ヨーロッパのクリミア半島では1783まで、中央アジアのホラズムでは1804まで、インド亜大陸では1857まで、王家がチンギス=カンの血を引くことを誇りとするモンゴル帝国の継承政権(クリミア・ハン国ヒヴァ・ハン国シャイバーン朝ムガル帝国)が存在しました。また、かつてのジョチ・ウルス東部に広がった遊牧民カザフの間では、ソビエト連邦が誕生する20世紀初頭までチンギス=カンの末裔が指導者層として社会の各方面で活躍しています。ちなみに、2004オクスフォード大学遺伝学研究チームの報告によると、チンギス=カンが最も遺伝子を遺した人物とし、その数はアジア・ヨーロッパを中心に1,600万人いるとされます。

 ところで、モンゴル帝国は東西交易路の安全を確保するために駅伝制「ジャムチ」を整備し、モンゴル政府発行の通行許可証が「牌子」(はいず)を持っていれば街道沿いにある宿駅で宿泊したり、馬を交換したりと便宜を受けながら旅をすることが出来ました。このように交易路の安全はモンゴルによって守られていたため、ムスリム商人と呼ばれるイスラーム教徒の商人達が特に活躍するとともに、ローマ教皇インノケンティウス4世から派遣されたプラノ=カルピニや、フランス王ルイ9世が派遣したルブルックなどのように、外交使節もモンゴル高原にやって来ています。例えば、カルピニなどは旅の途中のオアシスの町やカラコルムでたくさんヨーロッパ人に会っていますが、旅行記などを残さない職人や女達がかなりユーラシア大陸を大移動していたようです。また、ネストリウス派キリスト教が西アジアから中央アジアにかけて拡がっていて、モンゴル王族の女性達にも信者がおり、カーンの妻の中にもいました。クビライの時代にもローマ教皇からモンテ=コルヴィノという宣教師が派遣されていますが、彼は大都で30年間も布教しているのです。

 モンゴル時代の旅行者で一番有名なのはヴェネツィア商人マルコ=ポーロですが、若くて賢かったのでクビライに気に入られ、元の役人として中国各地で17年間働いています。イタリアに帰ってから、戦争で捕虜になって牢屋に入れられてしまうのですが、同室の囚人マルコ=ポーロの話を書き留め、『東方見聞録』(『世界の記述』)を著します。この本はヨーロッパで広く読まれ、アジアに関する関心が高まり、特に「黄金の国ジパング」(これが英語のジャパンの語源となりました)では金がザクザク採れるので、宮殿は柱も屋根も金でできている、などと書いてあるため、これが後にコロンブスが大航海を計画するきっかけの1つになったことは有名です。
 

「ユーラシア規模とはいえ、世界というものが、想像や空想をまじえたものでなく、文字どおり、現実の世界として認識されはじめるのは、モンゴル時代からである。それは、まずモンゴルという武力の拡大としておこった。しかしそれによって、国境・国家・政権の壁は、大きく取りはずされた。

 ついでモンゴルは、海をも視野におさめる。陸海を巻きこんだユーラシア大交流圏が、ゆるやかだが、出現する。人・もの・文化が交錯しながら往来した。刺激や伝播は、一方通行でなく、いった先で新しい形やものを生み、ふたたび戻ってさらに新しいなにかを伝え、生みだした。じつは、伝播や影響というものは、すべからく『往復切符』であるのは自然のあり方なのだろう。資本主義ないしはその走りも、このころよりユーラシアと北アフリカの全域に、うすい皮膜となって、あらわれだすのかもしれない。」(杉山正明『大モンゴルの時代』)




(3)「草原の軍事力」+「中国の経済力」+「ムスリムの商業力」

中国・イスラーム・ロシア・ヨーロッパを制覇した脅威的なモンゴルの軍事力・機動力

 チンギス=カンは「千戸制」という軍団組織を作り上げましたが、戸制のシステムによって集められた兵士達は全て軽騎兵であり、1人が5、6頭の馬を連れて従軍し、機動力が抜群でした。また、千戸制は軍制だけでなく、日常の行政組織でもありました。かくして、「モンゴル軍」は草原を制覇したのみならず、南方中国を完全制圧し、ヨーロッパが十字軍を繰り出しても勝てなかったイスラーム勢力の中心たるアッバース朝を滅亡させ、ロシアを200年に及ぶ「タタールのくびき」の下に置きました。第2代オゴデイの死によるバトゥのハンガリー旋回と第4代モンケの死によるフレグのシリア旋回が無ければ、ヨーロッパも制圧されたものと思われます。

 モンゴル軍の遠征における組織だった軍事行動を支えるためには、敵情の綿密な分析に基づく綿密な作戦計画の策定が必要であり、モンゴルは遠征に先立ってあらかじめ情報を収集していました。実戦においても先鋒隊がさらに前方に斥候や哨戒部隊を進めて敵襲に備えるなど、きわめて情報収集に力が入れられています。また、中央アジア遠征ではあらかじめモンゴルに帰服していた中央アジア出身のムスリム商人、ヨーロッパ遠征では母国を追われて東方に亡命したイングランド貴族が斥候に加わり、情報提供や案内役を務めていたことが分かっています。

 初期のモンゴル軍は抵抗した都市を徹底的に破壊して、その住民を殺戮し尽くした恐怖の軍隊でしたが、その残虐さを強調することで宣伝効果を狙ったとされます。実際、中央アジアではこの時代のオアシス都市としてはありえない数十万人の住民が殺害されたと伝えられているように、このような言い伝えには誇張もあったでしょう。実は恐怖のモンゴル軍のイメージは、戦わずして敵を降伏させるために使われたモンゴルの情報戦術の1つ(脅し=ブラフ)だったのではないかとも言われているのです。

「『集史』に見られるウルスの用法をしらべると、やはり『国(くに)』にちかい意味で使われている。ただし、農耕地域における国家や、西欧型をモデルとする近現代の国家とはちがい、土地や領域の側面での意味合いは限りなく希薄で、あくまで人間集団にウェイトがおかれている。つまり、固定された国家ではなく、人間のかたまりが移動すれば、『国(ウルス)』も移動してしまう類の国家としてである。その意味では、はなはだ可動性にとむ、融通無碍(ゆうずうむげ)な国家であった。

 超広域の巨大帝国に発展するもとの『モンゴル・ウルス』とは、そういう集団概念なのであった。人のかたまりをもとに、可変性と移動性を本質とする『ウルス』という国家意識――。これこそ、モンゴルの驚異の拡大の鍵である。」(杉山正明『世界の歴史9 大モンゴルの時代』)



西方世界を圧倒する「中国の生産力・技術力・経済力 ・文化的成熟」

 元の国土の内側でもっとも生産性に富んでいたのは、南宋を滅ぼして手に入れた江南でした。江南は、元よりはるか以前の時代から中国全体の経済を支えるようになっていましたが、華北を金に奪われた南宋がこの地を中心として150年間続いたことで開発は更に進み、江南と華北の経済格差はますます広がっていたのです。「蘇湖熟すれば天下足る」「蘇常熟すれば天下足る」という南宋で生まれた言葉は、江南の富が如何に大きかったかを示しています。この言葉は、蘇州湖州常州(湖州・常州は江蘇省太湖の西と南のこと)の作物が実ってくれれば他の地域が不作だったとしても心配は無いという意味です。実際、モンゴルが江南を併合する前の1271と併合した後の1285では、その歳入の額が20倍に跳ね上がったという数字が出ています。さらに、江南には、元の国家収入の屋台骨を支える明礬などの専売制の生産の大半が集中しており、専売制は江南の富を国家が吸い上げるために重要な制度でした。元では遠隔地交易が活性化し、国庫に入る商税の総額は非常に莫大なものとなりましたが、元において歳入の8割とも言われる最も大きな部分を占めたのは塩の専売制だったのです。

 ところで、クビライは『農桑輯要』という官撰の農書も刊行していますが、国家の政策として同書が編纂されたということは、元の内政が商業一辺倒であったわけではなく、国家的規模での勧農政策が推進された事を物語っています。さらに、クビライは海に面した現在の天津から大都まで80kmほどの運河を穿ち、大都の中に港を造って、江南の穀物がはるか北の大都へと流入するようにしています。

「五日目にザイトン(泉州)という非常にりっぱな大都市に着く。ここは海港で、インドの船はみな高価な商品、貴重な宝石類、大きいりっぱな真珠を満載してここへ入港する。また、マンジ(中国)の諸地方の商人たちもこの港に集まってくる。・・・さて、大汗(クビライ)はこの都会と港から実に莫大な税収を得ているが、これはインドから来る船はすべて10パーセント、すなわち彼らが持ってくる全ての商品、宝石、真珠の価格の10分の1を納めることになっているからである。・・・こうして、税と船賃とで商人は載んできたものの半分は差し出さねばならぬことになる。しかも残りの半分でも大変な利益があがるので、もっと沢山商品を持って、もう一度来ようと考える。これを見ても、大汗がこの都会から取りたてている税収がどんなに莫大なものであるか、容易に信じられるはずである。」(マルコ・ポーロ『世界の記述』)
 



世界中にネットワークを張り巡らした「ムスリム商人の力量」

 元代にイスラーム・ネットワークがもたらした影響は大きく、元は南宋の拠点であった襄陽の攻略にあたり、イラン出身の技術者を招聘してマンジャニーク(中国名は「回回砲」)と呼ばれる西洋式の投石機を作ったり、イラン出身のジャマールッディーンにより暦法と天体観測器が持ち込まれ、1271にそれを基とした「回回司天台」と呼ばれる天文台が作られています。運河の建設や水利工事も手がけていたクビライ側近の中国人学者郭守敬は、この観測結果を元に新しい暦「授時暦」を作り、この暦は明の滅亡まで使用され、江戸時代の「貞享暦」の元になっています。

 また、元代の陶磁器は中国史上最高と呼ばれる宋代の陶磁器を受け継いでいますが、青花と呼ばれる染付に使われているコバルト顔料は西方からの輸入品で、「回回青」と呼ばれており、東西交流の進んだ元代の特性をよく示しています。元代の青花は中国各地の元代遺跡の考古学調査で発掘される上、中国から海外に輸出される国際商品として使われていたと考えられ、遠くトルコイスタンブルオスマン帝国の宮廷トプカプ宮殿や、イランアルダビールサファヴィー朝の祖廟サフィー廟に大規模なコレクションがあります。この他にも西アジアには中国から絵画の技法が伝わって、細密画(ミニアチュール)が発達していきます。

「では、イスラーム世界がこのように繁栄し、広範に浸透した理由は何か。一つは、平等を基本精神とし、非ムスリムとも融合政策をとったこと、もう一つは、官僚機構と軍事力を整備し、中央集権的に行政を安定させたことである。

 後者の一環としての、経済・国家システムの一例を紹介しよう。すでに八世紀末のアッバース朝において、官僚と軍人に対し、毎月一定の貨幣による俸給が支払われていたのである。つまり月給システムだ。

 このことは、当時のアラビアで貨幣経済が十分に機能していたことを意味する。貨幣は前七世紀のリュディア(今日のトルコ半島)に最初に出現したという説が強い。また前五世紀には、すでにギリシア、ペルシア、インド、中国などで貨幣が使用されていた。だが、それは限られた一部で使用されていたにすぎない。紀元後八世紀になっても、アラビアを中心とするイスラーム社会以外では、どこでも貨幣ですべてをまかなうところまで経済が発達していなかったのである。繁栄を誇った八世紀の大唐帝国においても、例外ではない。アッバース朝を支えていた多数の軍人と官僚を、月給というシステムによって雇用していたことは、商業の隆盛による経済力の強化という背景もさることながら、それをシステマティックに管理する政府の財政政策ならびに行政能力が、当時の世界では格段に発達していたことを意味する。」(謝世輝『これでいいのか世界史教科書』)

「財務官僚の管理する国家予算の最大の支出項目は、軍人の給与に他ならなかった。アッバース朝とは、月給をもらう職業軍人よりなる常備軍を備えた国家なのである。貴族や封建騎士ではなく、官僚と常備軍にささえられた国家とは、近代のヨーロッパが理想とした国家であり、それは一九世紀になってやっと実現する。アッバース朝はそのような国家を八世紀には実現していたことになる。」(佐藤次高・鈴木董編『都市の文明・イスラーム』)




(4)「陸上帝国」と「海上帝国」を統合する「世界連邦」の誕生

多民族・多宗教・多文化を包含する「世界帝国」の出現

 元来シャーマニズムを信仰してきたモンゴルは、初代チンギス=カンの時代より多宗教の共存を許し、いずれも1つの天神(テングリ)を祀るものとして保護してきました。これは一種の「エキュメニズム」(教派一致・宗教一致を目指す超教派・超宗教運動)と見てもよいでしょう。

 中国の宗教で最初にモンゴルの保護を勝ち取ったのは金の治下で生まれた全真教を始めとする道教教団で、南宋の併合が進むと、後漢五斗米道の系譜を引く正一教が江南道教の統括者の地位を与えられて、保護が拡大されています。

 仏教では初めに保護を獲得したのは禅宗で、遼の王族の子孫で代々金に仕え、モンゴル帝国が成立すると、初代チンギスと2代オゴデイに仕えた耶律楚材(やりつそざい)など、宮廷に仕える在家信者を通じてモンゴルの信任を受けますが、やがてチベット仏教が勢力を拡大し、モンゴル貴族の間にチベット仏教が大いに広まっています。

 また、国際交易の隆盛にともなって海と陸の両方からイスラーム教が流入し、泉州などの沿岸部や雲南省などの内陸に大規模なムスリム共同体がありました。

 もう1つの大宗教はキリスト教で、モンゴル高原のいくつかの部族で信仰されていたネストリウス派のキリスト教は元代でも依然として信者が多く、またローマ教皇の派遣した宣教師が大都に常設の教会を開いて布教を行っていたのです。

「彼ら自身はヤサと呼んでいる神の掟がある。第一は、汝ら相互に愛しあうべし、第二は、姦淫を為すべからず。(第三、以下は)盗むべからず。虚言をなすべからず。他人を欺くべからず。老人と貧者を敬わざるべからず。彼らの中にこれを犯すものあらば、極刑に処せらるべし。天使はこれを告げると、彼らの頭目が彼らがチンギス・ハンあるいは呼ぶところのカハンと名づけた。天使は、多くの国々と地方(支配地)を限りなく無限に増すことを彼らに命じた。」(アルメニア人歴史家グリゴル=アクネルツィ)

「またこのようにも言われている。この君候(チンギス・ハン)は高い山の上に行った。そこで世界の主たるイエス・キリストが彼の前に現れ、彼に正義、正しい信仰、清浄、公正、嘘と盗みと(その他の)あらゆる悪徳とに対する恐れを与え、そして言った。『もし汝がこの教条を守れば、私は汝の種族に全地上を与える。行って、汝に可能なあらゆる国々を従えよ』。」(14世紀にグルジアで記された年代記『モンゴル人侵入史』)



大都は「陸上帝国」と「海上帝国」を統合する「世界連邦」の首都

 大都(だいと)はモンゴル帝国元朝)のクビライ=カンが現在の北京の地に造営した都市で、純然たる計画都市として設計され、南には宮殿と官庁街、北には市場が置かれる「面朝后市」など、中華帝国の帝都の理想形を模して作られました。こうした都城構成は、歴代中華王朝では一度も作られたことがなく、異邦人であるモンゴルが史上初めて実現させたものです。大都は内陸の都市としては驚くべきことに、積水潭と呼ばれる都市内港を持つよう設計されており、現在の天津にあたる通州から閘門式の運河(通恵河)が開削され、城内の積水潭に繋げられたため、江南地方からの物資も水運により結ばれるようになりました。このため、陸上輸送された時代に比べて物資の輸送量は飛躍的に増大し、海のシルクロードを通してさまざまな国際商品が大都にもたらされ、国際商業都市として空前の繁栄を極めたのです。大都には西方の旅行者・商人も多く訪れ、その繁栄ぶりは、イブン=バットゥータマルコ=ポーロなどの旅行記でヨーロッパにまで伝わりました。モンケ時代には城内のムスリム住民は3,000戸であったことが記録に残っており、ムスリム官僚をはじめとして、モンゴル帝国初期から中央アジアからのムスリム系の住民達が多く集中して居住していたようです。

 江南の拠点である南京を首都とした出発した代において、第3代永楽帝が即位すると、大都は対モンゴル政策の拠点として再び重視され、大都の3分の2程度の規模で北京が建設され、明の首都となっています。

「クビライ出現以後、モンゴル帝国は、大小の権力が複合する一種の『世界連邦』になっていったと考えられる。

この『世界連邦』は、全体としては、ただひとりの大カアンの権威がおおい、その下にあるそれぞれの権力体や国家組織も、モンゴル・ウルスを縮小したような共通の構造でつらぬかれていた。・・・

かれがなそうとしたのは、直接には、まったく新しいタイプのモンゴル帝国の建設であった。それは、かれ自身によって、『大元大モンゴル国』(ダイ・オン・イェケ・モンゴル・ウルス)、略して『大元ウルス』と名づけられた。だがじつは、それをつきぬけて、クビライは世界を見つめていた気配が濃密に漂う。

あたらしい世界の創生――。それこそが、クビライとかれをとりまく多人種のブレーンたちが目指したものではなかったか。・・・

クビライがつくった大元ウルスの最大の特徴は、それまでのユーラシア世界史で展開した国家・社会のパターンの主要なものを、すべて総合したところにある。クビライは創造者ではあるが、それ以上に総合者であった。

大元ウルスは、中央ユーラシアの草原とオアシスの世界を中心に展開されてきた遊牧国家の伝統にくわえ、それに対峙するかたちで定住農耕世界を基盤にいとなまれてきた国家のシステム、とくに中華地域に形成されてきた中華帝国の体系を大きく取り込んだうえで、両者を合体・融合させたものであった。しかも、それにとどまらず、国家構想のはじめから海への視野をはっきりと持ち、南宋国の接収後は、海洋世界にも一気に進出して海上交易を国家主導で組織化し、本式の『海の帝国』の側面も濃厚に帯びることとなった。

陸の世界における遊牧と農耕、くわえて海へのまなざし――この三つは、それまでの人類の歴史の大流をなすものであった。人類史におけるおもな舞台と、いとなみの主要なかたちといってもいい。その三つをことごとく引きうけるものとして、大元ウルスは構想されたのである。」(杉山正明)



チンギス・カンの伝統とクビライの構想が「パックス・モンゴリカ」をもたらした

 モンゴル系もしくはトルコ系の匈奴はモンゴル高原を中核地域にして、強大な遊牧国家を300年以上の長期間にわたって保持しており、匈奴と南北に対峙した漢王朝がその後の中華帝国の基本型を作ったように、匈奴帝国で確立したパターン、システムが以後の遊牧帝国(モンゴル系柔然、トルコ系突厥、トルコ系ウイグル、モンゴル系契丹)の枠組みを決定しました。それは国家全体が東西に左翼(東方)・中央・右翼(西方)の3大部分に分かれること、社会組織としては十人隊・百人隊・千人隊・万人隊という十進法体系の軍事組織に編成されたこと、君主は各部分の長達の子弟を集め、人間組織の面でも国家全体のつなぎ手となること、などです。チンギス=カンのモンゴル・ウルスはこの後継者であり、1206年のウルス結成の後、対金戦争に旅立つまでの5年間は、こうしたマニュアル通りの国家システム作りと内政整備に充てられました。

 また、唐の滅亡後、五代十国の乱を収束して契丹人が建てた「最初の華夷帝国」(フェアバンクス)が遼であり、大遼帝国は10世紀から12世紀初頭まで中華本土の北宋王朝を圧倒して、アジア東方の覇者でした。遼は遊牧国家でありながら、旧渤海国の満州(マンチュリア)、華北の「燕雲十六州」(「燕」は現在の北京地区、「雲」は大同地区)をも領有し、遊牧と農耕の両世界を支配する術を身に付けたのです。12世紀初頭に契丹帝国は満州に興った女真族の金帝国によって吸収されましたが、契丹王族の一人である耶律大石(やりつたいせき)はモンゴル高原の遊牧民を率いて中央アジアへ赴き、サマルカンド周辺に第2次契丹帝国「西遼」(カラキタイ)を建設しました。西遼は東西トルキスタンを押さえて繁栄し、ロシアやイランなどに中国文化を伝える役目を果たしていますが、ロシア語で「中国」を「キタイ」と呼ぶのはここに由来します。このイメージは契丹の実体以上の規模と強大さを持っていたとされますが、これはかつての匈奴帝国を初めとする遊牧帝国の場合には見られなかった現象です。この契丹帝国の300年にわたる知恵と経験が、それを支えた契丹族の武将・行政官の子孫達と共にそっくり新興モンゴルに投入された時、かつてない統制された国家と軍事力が出現したのであり、こうした契丹族のブレーン達こそ、チンギス=カンとモンゴルを導くプランナーにして、参謀であったのです。

「それにしても、モンゴル・ウルスは、まったく出来合いの国家であった。にもかかわらず、誕生まもないときから、まことに内政・外交ともに、周到きわまりない手配りで、わずかな乱れもみせることもなく、すべてが整然と、おしすすめられている。

 多言語でしるされる数多くの原典史料をつきあわせ、そこから割りだされる確実な国家・政権としての行動を考えると、おそるべき用意周到さが目につく。計算ずくの布石・展開に、おもわずうならざるをえないことも、しばしばである。国家として子供時代がないのである。はじめから、大人になってしまっている。」

 ちなみにジャック=ウェザーフォード『パックス・モンゴリカ』によれば、モンゴル帝国で実践されたのは、「信教の自由」「自由貿易」「法の絶対性」「外交特権の確立」「政教分離」「紙幣の使用」「国際法の制定」「情報網の整備」などであり、「近代世界のモデルはここにあった」としています。岡田英弘が週刊東洋経済に書いた『パックス・モンゴリカ』の書評においても、「現在の欧米が主導する世界で普遍とされている制度――民主主義、資本主義、宗教と政治の分離、印刷、紙幣、軍隊、連邦制など――は、全てモンゴル帝国に起源があるという。これらについては、評者もおおむね同意見である」として、高く評価しています。こうしたモンゴル帝国に対する評価は一致・共有されてつつあると言ってもよいでしょう。




(5)驚くべき重商主義財政と自由経済のシステム

流通経済機構の整備と「ユーラシア世界通商圏」の創出

 モンゴル帝国は、先行する遊牧国家と同様に、商業ルートを抑えて国際商業を管理し、経済を活性化させて支配者に利益を上げることを目指す重商主義的な政策を採りました。内陸の国や港湾国家は一般に、通過する財貨に関税をかけて国際交易の利益を吸い上げようとしますが、モンゴル帝国は商品の最終売却地でのみ商品価格の30分の1の売却税をかけるように税制を改めました。遊牧民は生活において交易活動が欠かせないため、モンゴル高原には古くからウイグル人やムスリムの商人が入り込んでいましたが、モンゴル帝国の支配者層は彼らを統治下に入れると、「オルトク」と呼ばれる共同事業に出資して利益を得ています。占領地の税務行政がの取り立てに特化したのも、国際通貨である銀を獲得して国際商業への投資に振り向けるためでした。モンゴル帝国の征服がもたらした駅伝制「ジャムチ」の整備とユーラシア大陸全域を覆う平和も国際商業の振興に役立っており、モンゴル帝国の拡大とともにユーラシアを横断する使節、商人、旅行者の数も増加し、プラノ=カルピニモンテ=コルヴィノマルコ=ポーロイブン=バットゥータなどの著名な旅行家達が現われるのです。

 モンゴル帝国の再編とともに、ユーラシア大陸全域を覆う平和の時代が訪れ、陸路と海路には様々な人々が自由に行き交う時代が生まれました。モンゴルは関税を撤廃して商業を振興したので国際交易が隆盛し、モンゴルに征服されなかった日本や東南アジア、インド、エジプト、ヨーロッパまでもが海路を通じて交易のネットワークに取り込まれました。実に「パクス・モンゴリカ」「パクス・タタリカ」は「ユーラシア世界通商圏」が成立・繁栄した時代に他ならないのです。



商業利潤に立脚した地方・国家財政と「多国籍企業・総合商社」を活用した通商産業政策

 中央アジアのウイグル人チベット人、及びその西方に住むテュルク系イラン系ムスリム(イスラーム教徒)定住民達など、元朝治下における西域中央アジア西アジア)諸国出身者は「色目人」(しきもくじん)と呼ばれ、色目人達はモンゴルに帰服したのが金や南宋の人々よりも早かったため、漢人・南人よりも相対的に高い地位を与えられ、モンゴルに準じる支配者階級として活躍する者が多く輩出されました。彼らは仏教イスラーム教に基づいた高度な文化を持ち、また元の支配制度は彼等に原住地の文化・社会・習俗を保つことを保証したので、中国社会に対しても異質者として容易に同化されることがなく、入っていくことができたのです。 

 色目人の商人達は、多国籍企業・総合商社に近い「オルトク」と呼ばれる共同事業制度を通じてモンゴル人達から資金を集め、国際商業に投資して莫大な利益を得ていました。また、商業を通じて信任を受けた商人は、民族の出自関係よりも能力を重視したモンゴルによってしばしば財務官僚として登用されています。元朝の後期になると、色目人の中からも中国文化に親しんだ者が現われるようになり、科挙を受験する者も少なからず出ています。現代中国で「回族」と呼ばれる人々の中には、こうして漢文化をある程度受け入れ、言語と容貌において漢民族と同化した元代ムスリムの子孫とされる人々が数多く含まれているのです。

「クビライ新国家を特徴づけるものとして、軍事から経済への旋回も、挙げなければならない。軍事国家モンゴルという立場から見れば、軍事をささえる経済基盤の充実ということになるが、じつは、もっと踏み込んで、経済コントロールをもって統治の手段としたことにこそ、『クビライ・システム』の眼目がある。大都の造営、そしてその大都を中心とする陸海の交通運輸体系の整備などは、経済重視の通商国家というクビライ構想を実現させるための前提であったといえるかもしれない。・・・

 ただし、クビライが通商振興・物流促進のにない手として、このオルトク商人を国家庇護のもとでより大型に育成・再編していったときには、もはやそうした原義をはなれ、さらには『組合』の域さえこえて、ほとんど『会社』にちかいものとして把握されていた。巨大なムスリム商業資本を中核に、ウイグル商人たちをもとりこんだものが、クビライ以後のモンゴル時代におけるオルトクという名の商業組織であった。・・・

 ただし、ここでもっとも肝心なことは、そうした純然たる銀世界になるまえ、すでにモンゴルが、いったん銀を基本とする通貨状態をユーラシア規模でつくっていたということである。モンゴル時代に用意された状況があればこそ、十六世紀後半に世界はいっきょに銀をうけ入れるのである。

 銀本位制への道は、モンゴルによってひらかれた。このことは、認めざるを得ないのである。・・・

 世界とモンゴル帝国を支えたクビライが長逝した一二九四年、すなわち十三世紀のおわりころより、ユーラシアと北アフリカは、ゆるやかに一体化し、世界の各地は、どこも不思議なほどかつてはない経済の繁栄と文化の活況を迎える。安定化したモンゴルのもとで、アフロ・ユーラシアは人類史上でおそらくはじめて、空前の規模で平和共存の時代となった。国境の壁が、事実上は消えうせ、人間の視野と活動の範囲は、豁然(かつぜん)とひらけた。」(杉山正明)



国際通貨「銀」を補完した共通通貨「紙幣」「塩」、対日主要輸出品となった「銅銭」

 北宋から数えれば300年を超す古い王朝である南宋を倒し、当時のユーラシア世界で最も経済力・産業力に富む江南という豊かな社会を手に入れたクビライは、各種の占領政策と共に通貨問題についても慎重に議論を重ねた末、銅銭を国家公認の正式貨幣としては扱わないことに決定しました。元々、日本は北宋時代より銅銭を大量入手し、南宋時代に至っては日本の商船がやって来てはあまりにも大量の銅銭を買い込むので、南宋国内が銅銭不足に追い込まれ、南宋政府は幾度も銅銭売却を禁じるほどでしたが、ここへ来て、突然銅銭のフリー・マーケット状態が出現したため、銅銭は最も有力な対日貿易輸出品となるのです。従来、「日宋貿易」に比べて「日元貿易」は低調で、ほとんど行われなかったかの如く見られて来ましたが、日本や海で多数発見されている宋銭はむしろ元代に大量に運ばれたものと見ていいのです。

 そもそも銅銭不足により、北宋代には「交子」、南宋代には「会子と呼ばれる紙幣が流通していましたが、モンゴル帝国も第2代オゴデイ=カーンの時代には既に金や南宋で使われていた紙幣を取り入れ、帝国内で使用する事が出来る「交鈔」(こうしょう)と呼ばれる紙幣を流通させていました。ちなみに会子など旧来の紙幣は、発行されてから通貨としての価値が無効になるまでの期間が限定されており、紙幣はあくまで補助通貨でしかなかったのですが、モンゴルは初めて通貨としての紙幣を本格的に流通させたのです。交鈔はとの兌換(交換)が保証されており、包銀の支払いも交鈔で行うことができるようにして、紙幣の流通を押し進めるのです。絶えず紙幣の増刷が行われたために紙幣価値の下落は避けられませんでしたが、元では塩の専売制を紙幣価値の安定に寄与させてこれを解決しています。すなわち、生活必需品である塩は専売制によって政府によって独占販売されますが、政府は紙幣を正貨としているため、紙幣でなければ塩を購入することはできません。これは紙幣は政府によって塩との交換が保証されているということであり、絶対量の増加がほとんど起こらない金銀に対し、消費財である塩は常に生産され続けるので、塩の販売という形で紙幣の塩への「兌換」をいくら行っても、政府の兌換準備額は減少しないのです。こうして、専売制とそれによる政府の莫大な歳入額を保証として紙幣の信用は保たれ、金銀への兌換準備が不足しても紙幣価値の下落は進みにくい構造が保たれました。

 さらに中国では、政府の製塩所で生産された塩を民間の商人が購入するには、「塩引」(えんいん)と呼ばれる政府の販売する引換券が必要とされましたが、塩引は塩と交換されることが保証されているために、紙幣の代用に使うことができました。元はこれを発展させ、宋では銭貨によって販売されていた塩引を、銀・交鈔によって販売したのです。このようにして、塩引は国際通貨である銀と交換される価値を獲得し、しかも一枚の額面額が高いために、商業の高額決済に便利な高額通貨ともなったわけです。

かくして、塩との交換で保証された交鈔・塩引を銀に等しい通貨として流通させることによって銀の絶対量の不足を補いつつ、塩引の代金と商税を銀単位で徴収したことにより、元の中央政府、皇帝の手元には、中国全土から多量の銀が集められました。




(6)「モンゴルの遺産」を受け継いだ近世社会が「近代」の母体

ロシアもヨーロッパも「モンゴル」抜きに語ることが出来ない

 ルーシ(ロシア)の地にすさまじい破壊の嵐をもたらしたバトゥの侵攻で、ここから「タタールのくびき」時代が幕を開けるのですが、これは「タタールのくびき」と言うより、むしろ「タタールによる安定」といった方が適切であると見られています。モンゴルは侵攻当初は徹底的な破壊を行いますが、いったん支配下に入ればもう味方と考え、反乱等の如何ともし難い場合を除き、弾圧政策や同化政策は全く採っていないのです。むしろ、モンゴル侵入以前のルーシの歴史で流された血を考えると、断然モンゴル時代の方が安定して平和と言えるでしょう

 したがって、このモンゴル統治は、ロシア最初の統一王朝がスウェーデンからやって来たリューリクによって開かれたことがいみじくも示すごとく、ロシアは外国人もしくは国内少数民族が統治したほうがうまくいく、という例の1つだとも指摘されているのです。ドイツ人の血の方が濃いツァーリが統治し続けたロマノフ王朝、少数民族出身者あるいはその影響のきわめて濃い人物の書記長・政治局員が続いたソ連時代を考えると、これはロシア史のセオリーといっても過言ではないと言うのです。多民族国家はえてしてこのようなものであり、例えば同じくユーラシアの多民族国家オスマン・トルコ帝国などでも、ほとんどトルコ人の血が混じらないスルタンがトルコを治め、デウシルメ制度でキリスト教徒の子息を徴用し、イスラーム教に改宗した彼らのうち、賢い者は宮廷に上がって、後に大臣となり、そうでない者はイェニチェリ部隊に編入されてトルコ陸軍の中心となっていきました。つまり、オスマン・トルコは国名はトルコと言いながら、実は支配階級はほとんど非トルコ人、という国家だったのです。つまり、能力ある者はどんな民族であろうが登用し、共同体の統治に当たらせるのは多民族国家の優れた特徴なのです。
 アドリア海に達したバトゥは、1242年にモンゴル帝国の第2代オゴデイ=カーンの死を聞くと、全軍に作戦停止を命じ、ロシア以西の領土を放棄してオゴタイの長男グユクらをクリルタイへ向かわせました。しかし、バトゥ自身は、チンギス=カンの長男である自分の父親ジュチが生前約束されていた「モンゴル鉄騎の蹂躙しうる限りの西の土地」、つまりポーロヴェッツ(キプチャック)人の地にバトゥ自身の、ひいてはジュチ一門の支配権を確立するため、ロシアに留まることになります。
 キプチャック汗国はジュチの子達が治めるウルス(モンゴル語で「自らに隷属する民と封土」のことです)の連合国といった風であり、後にイスラーム教を国教とし、ここに史上「タタールのくびき」と言われる時代が到来して、このキプチャック汗国の支配は約220年の長きに渡ることになりました。やがて、第3代のベルケ=カンの時代にルーシ全土のモンゴル支配が完成し、ロシア諸公はその地位を認めてもらうため、あるいは土地問題のその他もろもろの紛糾の決裁を仰ぐために、はるばるカラコルム(現モンゴル共和国の首都ウランバートル付近)のカーンの元へ伺候し、ヤルルィクと呼ばれる特許状を下賜されることにより、公の地位を認められることとなったのです。広大なモンゴル帝国が決定的に5つのカン国(キプチャック汗国、イル汗国、チャガタイ汗国、オゴタイ汗国、元)に分裂してからは、キプチャック汗国の首都サライのカンの元に伺候すればよいこととなりますが、この伝統は1462年にモスクワ大公国大公イヴァン3世が、周辺の汗国の許可を取らずにモスクワ大公に即位するまで続きます。

 すなわち、近世ロシアはモンゴル帝国を母体として誕生してきたわけです。同様にルネサンスも、その始まりはモンゴルによる世界規模の交流とゆるやかな一体化への動きの中で起きたのであり、近世ヨーロッパもモンゴル帝国を母体として誕生したと言っても過言ではないのです。

「十六世紀なかば、イヴァン四世(雷帝)による恐怖政治と強引な勢力拡大によって、事実上、ロシア帝国が出現する。その直接の契機と画期は、ジョチ・ウルスの中核地帯であったヴォルガ水系の掌握にあった。つまり、ロシア帝国はモンゴルのなかから生まれた。たちまちにして、シベリアの広大な大地を東に陸進し、地図上の見かけだけなら、大版図を獲得する。それも、モンゴルの影響圏を東にたどっただけのことである。・・・

 西洋史の影響の濃いロシア史は、モンゴルの翳(かげ)に触れることを忌避し、つとめてロシアの自発性とリトアニアやポーランドとのかかわりを強調する。それは、ロシア・ソ連時代の文献や記録、さらにはそれにもとづく研究が、そういう方向性をもってしるされたからである。

 しかし、純客観にいって、ロシア帝国がモンゴルのなかから出現したことは、なんといおうが、厳然たる歴史事実で、これを否定することは誰もできない。そもそも、モンゴル支配を前提にしなければ、ロシア帝国の東方への意欲は説明しがたい。つまり、モンゴルという要素がなければ、ロシアは、あのように巨大にはならなかっただろう。」(杉山正明)



ティムール帝国、オスマン・トルコ帝国、サファヴィー朝ペルシア、ムガル帝国への発展

 カーン位を巡る対立と抗争とペストの大流行をはじめとする疫病と天災の続発により、モンゴル帝国は急速に分裂していきました。元も1351に起こった紅巾の乱によって経済の中心地であった江南を失い、1368、ついに紅巾党の首領の1人であった朱元璋の立てたによって中国を追われています。

 しかしながら、モンゴルを倒して漢民族王朝を復興したとされる明においても、その国制はおおむね元制の踏襲であり、例えば軍制の衛所制が元の千戸所・万戸府制の継続であることは明らかです。同じ頃、中央アジアから西アジアに至る大帝国を築き上げたティムールは、先祖がチンギス=カンに仕えた部将に遡るバルラス部の貴族出身であり、その軍隊は全く西チャガタイ・ハン国のものを継承していたのみならず、彼自身やその後継者は国家の君主を名乗らずに、名目上はチャガタイ家のハンの「キュレゲン」(女婿)を称しました。そして、チンギス=カンの名とその血統はその後も長らく神聖な存在であり続けるのです(「チンギス統原理」)。モンゴル帝国の故地モンゴリアでは、15世紀の終わりに即位したクビライの末裔ダヤン=ハーンの子孫達が諸部族の領主として君臨し、17世紀には満州人がダヤン=ハーンの末裔チャハル部から元の玉璽を譲り受け、大元の権威を継承して満州・モンゴル・中国の君主となる手続きを取り、新たにモンゴルの最高支配者となりました。現在のモンゴル国内モンゴルの国境や社会組織は清代のものを継承しており、モンゴル帝国の影響は今も間接的に残っていると言えます。

ティムール帝国~イル・ハン国もチャガタイ・ハン国も14世紀には衰退して在地勢力が各地で自立し始めますが、再びこの地域を統一し、イラクから中央アジアにまたがる大帝国となったのがティムール帝国(1370年~1500年)です。建国者はティムール(?~1405年)で、元々はチャガタイ・ハン国の武将でしたが、やがて自立して、サマルカンドを都に大帝国を建設しました。中央アジアのトルコ民族の間では今でも人気のある英雄の1人です。

 ティムールは「モンゴル帝国」の復活を目指しており、積極的な領土拡大の原動力はここにあったと見られています。1402年にはイスラーム東西両雄の決戦「アンカラの戦い」で新興勢力オスマン朝と激突していますが、オスマン朝は大打撃を受け、一時は滅亡寸前にまで追い込まれるので、その強さが窺えます。ただし、オスマン朝はこの後、復活してやがて古代ローマ帝国にも劣らないような大帝国を作り上げ、最終的には20世紀まで存続する王朝になります。さらに東方では中国遠征、明の討伐に出発しますが、ティムールの死亡により、この遠征は途中で中止になりました。おそらく明と直接対決になったらならば、ティムールが勝ったであろうと見られています。


オスマン・トルコ~バヤジット1世(1389年~1402年)の時には、ニコポリスの戦い(1396年)で北方のハンガリー王ジギスムントと戦って勝利し、バルカン半島で足固めをしたオスマン朝は次に東のアナトリア地方で領土を拡大しようとしますが、モンゴル帝国の復活を夢見るティムールは中央アジアを統一して、イラン・メソポタミアを領土に加え、アナトリア地方にまで進撃して来ました。オスマン朝がティムールを迎え撃ったのが「アンカラの戦い」(1402年)ですが、結果はティムールの勝利で、オスマン朝はいったん滅亡します。その後、再興・復活したオスマン朝はすぐに「アンカラの戦い」以前の領土を回復し、さらに領土を広げ始めました。
 そして、1453年にメフメト2世は23歳の若さでコンスタンティノープルを陥落させ、ビザンツ帝国を滅ぼしました。

 セリム1世(1512年~20年)の時には西に進出して、イランにあったサファヴィー朝を圧迫した後、さらにエジプトに入り、ここにあったマムルーク朝を滅ぼしています(1517年)。モンゴル軍の西進を食い止めたことで知られるマムルーク朝は、モンゴルの攻撃で滅亡したアッバース朝のカリフを保護し、セリム1世はマムルーク朝を滅ぼした時にカリフの子孫を見つけ、その「カリフ」という地位を譲り受けたとされますが、「世俗の王」「皇帝」という意味の称号である「スルタン」と全イスラーム信者の指導者としての称号である「カリフ」両方を兼ね備えたオスマンの皇帝を、「スルタン=カリフ」と19世紀頃から呼ぶようになります。このセリム1世の段階で、オスマン朝はアジア、ヨーロッパ、アフリカの三大陸に領土を持つ大帝国に発展していますが、これはローマ帝国以来の領土の広さなのです。
 さらに領土を拡大してオスマン朝の最盛期となったのが、スレイマン1世(位1520~66)の時で、1526年にモハーチの戦いでハンガリーを破って属国とし、さらにドイツ、神聖ローマ帝国に侵入し、神聖ローマ皇帝カール5世の領地であるオーストリアの都ウィーンを包囲しています。この第1次ウィーン包囲(1529)以降、オスマン朝はヨーロッパの国際関係に大きな影響力を持つようになります。1538年にはプレヴェザの海戦でスペイン・ヴェネツィア連合軍を破り、東地中海の制海権を確立し、さらにチュニジア、アルジェリアなどアフリカ北岸、イラクを併合して、地中海を取り囲む大領土となりました。


サファヴィー朝ペルシア~オスマン帝国とほぼ同時期に、イランに栄えていた王朝がサファヴィー朝(1501~1736)で、ティムール帝国が崩壊した後のイランに建国しています。建国者イスマイール1世は第4代正統カリフ、アリーの息子フサインと、ササン朝最後の君主ヤズデギルド3世の娘シャハル=バーヌーの血を引くという伝説を持っており、イスラーム教創始者とペルシア王家という、イスラーム教徒のペルシア人にとってこれ以上の高貴な血筋はないと言えます。イスラームの中でもシーア派を国教としており、西の大国オスマン朝がスンナ派なので、これと対抗するという意味もありました。また、皇帝の称号にはイランの伝統的な王号「シャー」という呼称を使っていましたので、イスラーム教国ではありつつもイランの民族国家という意識もあったということです。最盛期の皇帝がアッバース1世(位1588~1629)で、オスマン朝からイランの一部とアゼルバイジャン地方を奪還して領土を拡大し、ホルムズ海峡に要塞を築いていたポルトガル人を追放し、新たに首都イスファハーンを造営しています。


ムガル帝国~オスマン朝、サファヴィー朝と同時期に、インドでもイスラームの大国ができました。これが、ムガル帝国(1526~1858)です。「ムガル」という国名はモンゴルがなまったものです。建国者バーブル(位1526~30)はティムールの子孫で、ティムール帝国、さらにはモンゴル帝国の復活を夢見ていたのです。元々中央アジアの都市サマルカンドを本拠地にしてフェルガナ地方を支配していましたが、ウズベク人の南下で本拠地を追われてしまったので、1526年、デリーを本拠地にしていたロディー朝をパーニパットの戦いで破り、これ以後、本拠地をデリーに移して、インドの王朝として発展するのです。インドに建国したバーブルですが、本心はサマルカンドで建国したかったと言います。

 第3代皇帝アクバル(1556~1605)は50年間位にあって、まだ不安定だったムガル帝国をインドの大帝国に発展させ、現在のアフガニスタンから北インドにかけて統一しました。アクバルは柔軟な発想の持ち主で、最終的にはイスラームでもヒンドゥーでもない新しい宗教を創って、インドを統合しようと考えていたようです。アクバルはさらに積極的に北部インドの有力部族であるラージプート族の諸侯と婚姻関係を結び、ムガル帝国の最盛期を現出しました。

「一七世紀になると、イスラム圏が最高潮の繁栄を迎え、それに対して、西欧は文字どおり暗黒期であった。すなわち、オスマン・トルコの時代は一七世紀まで続き、サファヴィー朝(イラン)の繁栄は一七世紀前期に絶頂に達した。また、当時のムガール帝国(インド)は、一七世紀半ばに最大・最強の国になっていた。いっぽう西欧においては、イギリスの資本主義の進展やルイ一四世の一時的な繁栄はあったものの、世界史的にみて、その影響力は微々たるものであった。」(謝世輝『これでいいのか世界史教科書』)

中国・高麗・日本・東南アジア・チベットに残されたモンゴルの刻印

朝鮮半島にあった高麗国がモンゴルに服属するのが1259年です。高麗政府は江華島に逃げ込んで抵抗を続けていましたが、最終的にモンゴルの属国となりました。高麗王はモンゴルのお姫様を妃に迎え、王室にモンゴルの血が入り込むようにさえなるのです。ところが、政府がモンゴルに降伏しても軍隊は納得せず、半島の南西海岸を転々としながらモンゴル軍に抵抗を続けており、この高麗軍を三別抄(さんべつしょう)軍と言います。この三別抄軍が最後につぶされたのが1273年で、ようやく朝鮮半島を平定できたモンゴルは、その翌年に第1回目の日本遠征を実行するのです。

元は鎌倉時代の日本に2回攻めてきており(元寇)。1回目が1274年で文永の役と言い、2回目が1281年で弘安の役と言います。これに先立ち、フビライは1271年と1273年に趙良弼(ちょうりょうひつ)という女真族出身の政治家を外交使節として日本に派遣していますが、当時元は南宋攻略の真っ最中で、日本を含んだ対南宋包囲網形成というのが第1回遠征の目的でした。しかし、この遠征は失敗に終わり、その後の1279年に南宋は滅ぼされると、その2年後に第2回日本遠征となります。実は南宋を滅ぼした後、元は旧南宋軍の処理に困ったようで、南宋は元との戦争で大軍を抱えており、南宋が滅んでもその兵士達は大勢残っていたので、彼等に仕事を与えるための日本遠征だったと言うのです。したがって、フビライにとって第2回遠征は成功すればさらに領土・版図が広がるものの、負けて大軍が海の藻屑となってもそれはそれで厄介払いが出来たわけです。実際、第2回の遠征軍の兵士達は船の中に鋤、鍬等の農具を持ち込んでおり、彼等は日本を征服した後はそのまま故郷には帰らず、日本に住み着いて農業をするつもりでいたと言います。

元寇が2回も続けて失敗した原因についても、「神風」(台風)が吹いたと一般には言われていますが、当時の京都の公家の日記などを見てもそんな様子はなく、失敗の原因は元軍の構成にあるようです。例えば、第1回遠征軍の主力は高麗人であり、高麗の三別抄軍はその前の年までモンゴル軍と戦っていたわけで、遠征軍の中身がとてもしっくりいっているとは考えにくいでしょう。しかも、水軍の経験のないモンゴル人が司令官です。第2回になると旧南宋の軍人も大勢混じり、彼等は遠征軍とは言いながら棄民に近いので、士気が高かったとは思えないのです。モンゴルに服属したばかりの諸民族の混成軍が朝鮮半島、中国大陸別々の所から出発して対馬沖で合流し、しかも陸上生活と違って船ですから、各軍団の司令官同士の意志疎通や連絡もうまくいかなかったと想像されます。一言で言えば、元寇のモンゴル軍は烏合の衆ということになります。しかも、水軍に不慣れであり、遠征軍の乗った船が第2回では4400隻とされますが、その多くは突貫工事で高麗の船大工に造らせたもので、急造の粗悪船が多かったとされます。だから、記録にも残らないようなちょっとした風でも船が大きい被害を受けたり、司令官達が混乱したりしたのではないかというわけです。ちなみにクビライは1287年にはビルマ遠征とヴェトナム遠征、1292年にはジャワ遠征を行っていますが、全て失敗しています。

しかし、アジア各地に大きな影響を及ぼしたことは確かであり、日本は元寇を撃退することはできましたが、鎌倉幕府はそれを機に弱体化に向かい、南北朝の戦乱期に入り、倭寇の活動が始まります。東南アジアではベトナム人、タイ人、ビルマ人などの民族的自覚が始まり、ベトナムの字喃やタイ文字などの文字が生まれ、タイのスコータイ朝やジャワ島のマジャパヒト朝などの新しい勢力が登場することとなります。さらに東南アジア海域と南アジア海域を結ぶ海上交通の活発化によって、イスラーム教が東南アジア地域に及んできたことも見逃せない事実です。また、クビライはチベット仏教の僧パスパを国師として仏教を管理させ、モンゴル語を表記する文字としてチベット文字をもとにパスパ文字を制定させるなど、モンゴル独自の文化政策を進めており、チベットとモンゴルは特別な関係を構築することになりました。




(7)参考文献

1、『世界の歴史9 大モンゴルの時代』(杉山正明・北川誠一、中央公論社)

2、『クビライの挑戦 モンゴル海上帝国への道』(杉山正明、朝日新聞社)

3、『大モンゴルの世界 陸と海の巨大帝国』(杉山正明、角川選書)

4『モンゴル帝国の歴史』(ディウヴィッド・モーガン、角川選書)

5、『モンゴルVS西欧VSイスラム 13世紀の世界大戦』(伊藤敏樹、講談社選書メチエ)

6、『草原の国モンゴル』(D・マイダル、新潮選書)

7、『チムール シルクロードの王者』(川崎淳之助、朝日選書)

8、『東方見聞録1・2』(マルコ・ポーロ、東洋文庫)

9、『モンゴル帝国史(1)~(6)』(ドーソン、東洋文庫)

10、『モンゴルの西征 ペルシア知識人の悲劇』(勝藤猛、創元新書)

11、『モンゴル帝国の興亡(上)(下)』(杉山正明、講談社現代新書)

12、新書東洋史⑧ 中央アジアの歴史』(間野英二、講談社現代新書)

13、『元朝秘史』(小澤重男、岩波新書)

14、『モンゴル帝国の興亡』(岡田英弘、ちくま新書)

15、『マルコ=ポーロ 東西を結んだ歴史の証人』(佐口透、清水新書)

16、『中国哲学史』(狩野直喜、岩波書店)

17、『世界宗教史叢書10 儒教史』(戸川芳郎・蜂屋邦夫・溝口雄三、山川出版社)

18、『アジア超帝国の興亡と謎 草原と砂漠を制した騎馬帝国の興亡史』(佐治芳彦、日本文芸社)

19、『中国の歴史(四)』(陳舜臣、講談社文庫)

20、『興亡の世界史05 シルクロードと唐帝国』(森安孝夫、講談社)

21、『マルコ・ポーロ 東方見聞録』(青木富太郎訳、現代教養文庫)

22、『康熙帝伝』(ブーヴェ、東洋文庫)

23、『イエズス会士中国書簡集』(矢沢利彦編訳、東洋文庫)

24、『中国思想のフランス西漸』(後藤末雄、東洋文庫)

25、『これでいいのか世界史教科書 人類の転換期に問う』(謝世輝、光文社)

26、『康熙帝伝』(ブーヴェ、平凡社)